1970年代後半に青春時代を過ごした方ならひょっとして、「白冰冰(バイ・ビンビン)」という名前にご記憶があるのではないでしょうか。
白冰冰(上の写真)は、一言で言うなら、台湾の国民的エンターテナー。本業は歌手で、リリースしたアルバムは数知れず、ディナーショーでは女王的存在です。
それ以外にも、幾つものテレビやラジオ番組を掛け持ちし、各地のイベントにもひっぱりだこ。
豪快でノリノリの話しっぷりでお茶の間に大人気の白氷氷は、特に家庭用品などのCMやイメージキャラクターにもよく起用されていて、彼女を目耳にしない日はないというくらいの、大スターです。
1955年、台湾北部の基隆に生まれた白冰冰は、子供の頃から抜群の歌唱力で知られ、10代半ばで芸能界入りを果たしました。パブのステージや地方興行から始め、1973年には、あるオーディションをきっかけに、活路を求め日本に渡りました。
当時日本では、台湾出身の欧陽菲菲(オーヤンフィーフィー)が大ブレイク中で、翌年74年には、あのテレサ・テンが日本デビューするなど、台湾から日本の芸能界への進出が盛んでした。
白冰冰は、日本で仕事を通じて知り合った漫画界の大家・梶原一騎と結婚し、芸能界を引退しますが、破天荒な梶原氏との結婚生活は長続きせず、逃げるように台湾に帰り、その直後の1980年に、梶原氏との間にできた娘を出産しました。
歌うことしか知らなかった、という白冰冰は、娘と二人で生きていくために再び芸能活動を始めましたが、台湾で売れる前に日本に渡り、日本でブレイクするのを待たず引退してしまった白冰冰にとって、20代後半に差し掛かり母となってからの再チャレンジは、簡単ではありませんでした。
「日本での結婚生活には何一ついい想い出がない」と振り返る白冰冰ですが、彼女の再起を助けたのは、短いながらも日本の芸能界で学んだ最新のノウハウでした。
80年代にはまだまだ発展途上だった台湾のエンターテイメント産業の中で、白冰冰が日本の経験から取り入れた、バックダンサーを使っての舞台演出などは次第に注目されるようになりました。
また、彼女が台湾の芸能界で不動の地位を築くきっかけとなったのは、当時台湾でも絶大な人気を誇っていた日本の大スター、小林旭の台湾公演を取り仕切った事でした。
白冰冰のショーはいつも明るく愉快
1997年には、最愛の娘が誘拐され殺害されるという耐え難い不幸に襲われ、この事件は日本でも大きく報道されました。
白冰冰は現在まで再婚しておらず、娘を失ってからは、その悲しみを埋めるように更に仕事だけに励むようになりました。また、凶悪事件の被害者の遺族として、死刑制度の問題にも強い関心を寄せています。
想像を絶する苦しみを抱えている白冰冰ですが、普段お茶の間で目にする彼女は、マシンガントークでうるさすぎるくらいの、陽気なかわいい「おばちゃん」です。
苦しみを表に出さず、どんな時も明るく前向きに人と接しようとする白冰冰は、まさに台湾を代表する女性のように思えます。
今でも流暢な日本語を話す白冰冰、いつかまた、日本で活躍して欲しいと思います。(華)
4/13の「台湾ソフトパワー」では、白冰冰のナマ声や、リリースされた日本語歌曲、中国語歌曲などをご紹介しています。
↓4/13の日付からどうぞ!
聞こえるぞ!
RTIも進化したなぁ~
ネット放送が聴ける番組を、英語版と同じ様に色分けしてください。
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曜日別番組表からはニュースしか聴けません。
ブログで、
紹介されている各番組を聴くことが出来ないので、とても不便です。
何につけ、
中途半端でリスナーアンフレンドリーで呆れています。
言葉は普通話ですが日本語字幕が出ます。
ついでに、
韓国のテレビドラマも放送されています。
小島の直通電話: 080-8834-0017 アドレス gm.devil.j45@gmail.co.jp