ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

21 クラッシュ人気が爆発!

2009年06月22日 14時00分13秒 | ROSSY's HISTORY
  昭和59年8月25日、後楽園ホール…この日は、クラッシュにとって本格的な開戦記念日になったのだ。試合前にはビクター音楽産業から発売されたデビュー曲「炎の聖書」の発表会がリング上であった。何度も書いたことがあるが、ビクターのプロデューサーは現エイベックス取締役の飯田久彦氏で、昭和30年代にはロカビリー歌手としてアイドル的な人気を誇示していた。飯田氏はピンクレディーを育てたことで、プロデュ―サーとしても名を馳せてきた。そして振り付けは、これまたピンクレディーの踊りで有名な土居はじめ氏(故人)。この黄金コンビでクラッシュを歌手としても、アイドルも売り出したのだ。レコーディングの際、飯田氏にこんな事を助言された。「タレントのマネジャーは、生理日まで把握していなくてはならないんだ。声の調子がそれだけで、変わってくるのだから…」と。芸能関係の奥深さを知ったのだった…
 歌手としての顔も持つことになったクラッシュ・ギャルズは、ジャンボ堀&大森ゆかりに3度目の挑戦で、ついにWWWA世界タッグ王座を奪取することに成功した。3本勝負の決勝ラウンド、千種のジャーマン・スープレックス・ホールドが大森に決まった瞬間、場内は劈くばかりの狂喜乱舞となった。新時代のスター誕生の瞬間である。この数日前にファンのツアーでマニラに行ってきたばかりのクラッシュは体調を壊し、体はボロボロだった。まだ人気がブレーク寸前だった時期のファンツアーは、さして人数も集まらなかったが、クラッシュは仕事としてやり遂げてきた。
  このタイトル奪取で、クラッシュの人気は爆発したし、仕事もイッキに増えていった。連日の取材攻勢、私はよほど問題がない限り、取材の申し入れを全て受けることにした。アイドル誌だけでも、月刊明星、月刊平凡、セブンティーン、ポップティーン、ボム、あとは月刊誌が3~4誌。毎月、必ずレギュラーで取材をこなしていった。それ以外でも、新聞や一般誌もあったから時間を割くのだけでも大変。プロレス専門誌は試合会場で、取材を済ませてもらうしかない。その意味では随分と偉そうだったが、クラッシュはプロレスの専門誌も大切にしていたから、時間は一層なくなった。この時代のプロレス専門誌といっても、週刊プロレス、週刊ゴング、デラックス・プロレス、ビッグレスラー、エキサイティング・プロレス、週刊ファイトも女子プロレス特集号を出していたし、東京スポーツもザ・プロレスなる週刊のカラー号を出していたから、活気があったし交通整理だけでも一仕事。
専門誌は、勝手に記事を作ってくれるから比較的楽でもあった。
  少し前まで、専門誌ですら載らない対象だった女子プロレスが、こんなにも取材で大慌てになる。私の理想とした状況だ。それでも一般紙の記者の中には、「どちらが飛鳥さんで、どちらが千種さんですか?」なんて聞いてくるピント外れの者もいた。驕っている訳ではないが、「取材を申し込んできているんだったら、それ位は勉強して来い!」そう叫びたかった。初めての取材の場合、いつも同じ質問が多い。ならばマニュアルを作り、同じ答えを連呼してればいい…そうも思い始めていたものだ。


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