ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

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NO9 起死回生の日米対抗戦

2009年04月06日 18時16分53秒 | ROSSY's HISTORY
  突然、営業部に配属されたが、正直言って肉体労働は苦手だった。当時は野外興行が多く、椅子だけでも平気で1500~2000脚は並べなくてはならない。二十代前半の若さがあるとはいえ、これは重労働。毎日毎日、現場に行かされては、椅子並べ、もぎり…時には、「朝から宣伝カーを流せ…」と言われ、早朝の6時から街の中を走ったものだ。また時には前夜から宣伝カーの中で寝込み、泊まり代を浮かせたりもした。私自身は運転が得意ではないため、車を電信柱にぶつけたり、擦ったりもした。とにかく現場で、汗を流しながら働くのは性に合わなかったのだ。約4カ月が過ぎたあたりだろうか、私だけ元の鞘に収まることになった。それは、選手のTV出演や取材の窓口が存在しないため、私は自ら事務所にUターンしていったのだ。
  営業部は、相沢、宮本の両名が対立していた。同年代だけに、主導権争いに躍起になっていたのだ。1979年秋、全女は大きな勝負に出た。アメリカから世界王者のファビュラス・ムーラを始め、世界タッグ王者のビッキー・ウイリアムス&ジョイス・グレーブル、ジュディ・マーチン、レイ・ラニ・カイ、ウイニー・バークレーらを招聘し、「日米対抗リーグ戦」を開催。ムーラはこの時点で50歳を越えており、まさに伝説の女帝そのものだった。外国人選手をこれだけ招聘することは、全女にとっても初めてのことだった。
  私は昭和49年から50年にかけて、国際プロレス女子部が、シリーズ毎にアメリカから2選手招聘していたから、ムーラ、ウイリアムス、グレーブル、ラニ・カイの存在は知っていた。ムーラは故人となったが晩年は80歳を越えても、メイ・ヤングと共にWWEで時折その勇姿を覗かしていた。この時の来日では、エキシビジョンを含む2試合のみに出場。最終戦の川崎球場では、日米対抗リーグ戦の優勝決定戦と、ムーラ対ナンシー久美のNWA世界選手権試合が組まれた。ムーラは首を絞めたり、髪の毛をつかんだり、噛みついたりといった前時代的なファイトに終始し、ナンシーの持ち味はまったく出ていなかった。
  ムーラのチャンピオンベルトは、団体の認定ではなく、ムーラ個人の管理によるムーラ自身によるベルト。でも、この時代はNWAもWWFもAWAも、女子プロレスの世界王者というのは、ムーラの事を指していたのだ。だから、NWA地区ではNWAの世界王者を名乗り、WWF地区ではWWFの世界王者を名乗っていたのだった。WWEの全世界規模とは違い、70年代から80年代にかけては、各テリトリーが独立したプロモーションを作り、それぞれが地区の王者を認定し、その上部組織としてNWAやAWAが存在した。すなわちムーラの立ち位置は特別だった。ムーラのベルトには、真ん中に顔写真が入るフレーム部分があった。そういえば、ひと昔前のWWWAシングル&タッグにも顔写真の入るスペースがあった…
  川崎球場での興行なんて、FMWみたいだが、全女は遥か昔から実現させていたのだ。とはいっても、ファースト・ベースの近くにリングを設置し、セカンド・ベース付近が最後列に設定されていたから、球場を借りた野外試合のようでもあったのだ。この「日米対抗リーグ戦」は、大方の予想を裏切り失敗しイッキに借金が嵩んでいった。(つづく)

▲ゴールデン・ペアのナンシー&富士美と。

▲怪しい魔女といった雰囲気の女帝ムーラ。

▲当時の世界タッグ王者だったビッキー・ウイリアムス。
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