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心のおもむくままの人生、”オール・ザット・ジャズ”

2013-10-21 23:00:13 | 映画
1979年のボブ・フォッシー監督”オール・ザット・ジャズ”は、先日読んでいた筒井康隆『敵』の主人公が落涙しながら見入る映画として取り上げられていた。
その主人公の愛視聴する映画のもう一つに『ダウンタウン物語』があり、自分のその映画がとても好きな縁つながりで”オール・ザット・ジャズ”を観てみる気になったのだ。

俳優・振り付けし・演出家と何でもござれの監督ボブ・フォッシーの自伝的映画ということもあって、ショービジネスの世界が舞台。
酒・女・ドラッグは当たり前のものとして表現の可能性を突き詰めていくギデオンの姿は、日本の芸事の世界でも通じてる。
表現に携わるものにとって常に恐れているのは”並””凡庸”で、非凡であろうとするには常に心を開放していなくてはならない。
だから善も悪もかまっていられず、良心など足かせ以外のものでないということにも一理ある。
その結果、周りにいる者たちは常に振り回され、傷つくのだ。
さしものギデオンも人の子、時には自分の行いを振り返り後悔することがあっても、最大の関心事である”表現”を萎縮させることを恐れる気持ちを凌駕しはしない。
死の間際まで、彼の心は表現することを欲している。
大なり小なり”表現”に携わる者にとって、ギデオンは理想だろう。

映画を見ているときは、家族も一緒にいたので集中の仕方、のめりこみが足りなく、いや心のどこかに感情のブレーキがかかっていたせいもあって、エンディングロールが流れても感動が薄かった。
加えて家人の『自分の力量をこれ見よがしにする演出が鼻につく』など曰ふ差し水も、感情を苛立たせて、映画の余韻を楽しむことができなかった。
その後、つらつらと映画を思い起こすうちに、表現者の業に素直に身をゆだねられる者の偏ってはいるがその幸せに羨望を覚えた。
表現の領域に羽ばたくには、決別しなくてはならない重力が存在するのをひしひしと感じるがゆえに、できない自分の矮小さを哀しく思うのでもある。

どうなのだろう、儀助もそう感じたから、涙を流したのであろうか。
シラノの「貴様達は俺のものを皆奪る気だな、桂の冠も、薔薇の花も! さあ奪れ! だがな、お気の毒だが、貴様達にゃどうしたって奪りきれなぬ佳いものを、俺ゃぁあの世に持って行くのだ。それも今夜だ、俺の永遠の幸福で蒼空の道、広々と掃き清め、神のふところに入る途すがら、はばかりながら皺一つ汚点一つ附けずに持って行くのだ、他でもない、そりゃあ、私の羽根飾(こころいき)だ。」に憧れるのも、同じような気持ちによるものなのかと、自分の心を覗いてみるのであった。

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