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1981年当時、保谷駅を北に向かって歩いて行くとスタジオZ5、更にキャベツ畑のある風景を眺めながら北上するとスタジオ№1が入っていた平野マンションに辿り着くのでした。
あまり知られていない事ですが、深夜にクルマの窓から平野マンションに向かって「金田ぁ~!」と叫びながら通り過ぎる山崎和男 氏を始め、古参のアニメーター仲間が多かったという話からも金田さんを慕っていたヒトの多さと人気の高さを物語っていました。
玄関を開けると台所、入り口には無数の靴が散乱し、右の壁には所在確認用のマグネットボード、各メンバーの名前と「外出」「メシ」といった所に各自でマグネットを移動させるようになっていました。 台所の東側に越智さんの動画机があり、その頃はまだありませんでしたが、後に玄関の真正面に牧子さんの動画机が入るのでした。
台所から部屋が左右に別れ、右側(西側)の部屋にキャップこと長崎さん、貞光さん、金田さん、鍋島さん、左奥の部屋に野田さん、山下さん、飯島さん方が居られましたが、だいたい右の部屋に行っていたので左側(東側)の部屋の記憶といえば、クーラーの送風口に凧の下に付いているような紙が無数に貼ってあって涼しかった事や山下さんが太陽鉄人の頃にデカい円定規を使っていた事くらいしか憶えていませんでした。
その日、金田さんと右側(西側)の部屋に居ると左側(東側)の部屋から飯島さんらしき叫び声が聞こえて来ました。
「え~、空手なんか判んないよ~!」 「何か資料ない?」(飯島正勝)
その声に僕が驚いていると、その理由を金田さんが教えてくれました。
「今度ね、№1でタイガーマスク(二世)やるの・・・」(金田伊功)
実はこの年「名古屋オリンピック」開催が決まれば、オリンピックの正式種目に空手が加わるはずでした。 当時、僕は強化選手の1人に選ばれており名古屋で3つの道場で空手を指導していました。
実際のところ、開催地がソウルと決まり「名古屋オリンピック」は無くなってしまいましたが、空手なら説明出来るし、デタラメな動きは許せない立場でもありました。
ただ、金田さんの描く動きには、Z、Z5、№1の描く動きには何か魅かれるものがあり、認めてしまった事により大きな転機を迎える事になったのでした。
「金田さん達の動きが観たい・・・」という理由から空手の事は封印し、その時は何も言いませんでした。
僕の動きの中に空手でない大きなミッシングリンクが存在している原因はここから始まったのです。
「何故だか判らないけど、こうなる・・・」
後にNHKの放送(MAG・ネット スペシャル「アニメの革命児 金田伊功」)で治くん(小林治)が「金田さんは普通描かないような手を描く」みたいな事を話していましたが、一言で言うと「伸筋主体の指遣い」なのです。
求めていた核心に触れたと感じたのは、まさしくこの頃でした。