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島津斉彬が登用  小松帯刀

2009-09-24 12:34:10 | 小松帯刀
 篤姫の養父に当たる第11代薩摩藩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。斉彬は,文化6(1809)年9月28日,薩摩藩主島津斉興の長男として生まれ,今年は生誕200年。英明をもって知られ斉淋は,富国強兵・殖産興業政策をとり,反射炉の建設,造船事業などヨーロッパ技術を取り入れての軍事科学の発展に努めた。


 昨年,放映の大河ドラマ「篤姫」でスポットライトを浴びたのが,瑛太さん演じる篤姫の幼なじみの肝属尚五郎(きもつきなおごろう),のちの小松帯刀である。

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 小松帯刀や下級武士の西郷や大久保らの才能を見いだしたのが11代藩主島津斉彬。ちなみに,小松は西郷よりも7歳,大久保よりも5歳年下であった。

1835(天保6)年 喜入領主・肝属兼善(かねよし)の三男として生まれる。
1855(安政2)年 小松家の養子となる。
1856(安政3)年 篤姫、将軍家定の正室となる。
         帯刀と改名。火消隊長となる
1863(文久3)年 生麦事件が原因で薩英戦争勃発。
1865(慶応元)年 坂本龍馬、鹿児島着。京都小松邸で薩長同盟が締結。
1867(慶応3)年 城代家老に命じられる。
         江戸城無血開城。
         小松 領地・吉利領の返上を申し出,版籍奉還の模範を示す。
1868(慶応4)年 大阪で病死(36歳)



▼小松帯刀の墓  日置市日吉町吉利(園林寺跡,鬼丸神社)

江戸時代に,鹿児島の武家の間で流行した“祠堂型”が印象的なこの墓地は,見る人を圧倒させます。また,近くには小松家の先祖を祭る,“せっぺとべ”でも有名な 「鬼丸神社」や珍しい姿の田之神様などの史跡・旧跡が残され,現在も昔と変わりなく,地域住民や土地の守り神として大切にされている。

・自動車でのアクセス
 鹿児島市街地から,県道35号線を日吉方面へ。約40分後,永吉十文字交差点を右折,国道270号線へ。しばらく道なりに行くと「園林寺」へ右折標示あり。(園林寺跡)上記標示を右折後,約5分直進。左側。(鬼丸神社),駐車場あり(普通車 約5台分)
 

・JRとバスの場合
 JR鹿児島本線乗車→伊集院(いじゅういん)駅で下車。鹿児島交通の「加世田(かせだ)行き」バス乗車→「日置大川(ひおきおおかわ)」バス停下車後,徒歩5分。 
 

●肝付家のルーツ 高山が本家の肝付家(本家は断絶):肝付家は平安時代の大伴氏ゆかりの伴氏に連なる九州南端肝付半島を支配した豪族である。鎌倉時代に薩摩の守護となった惟宗家(荘園の名をとって島津と名乗る)よりは,古い。鹿屋の隣,高山を根拠地としていたが,1574(天正2)年島津一門との戦いに敗れ,領地を鎌倉から付いてきた家臣の二階堂に譲り渡し,宮之城に移る。(元代議士の二階堂進はこの末裔)

●小松家(旧禰寝家)は,大隅半島の根占地方を治めていましたが,17代禰寝重張(ねじめしげはる)の時に吉利に移封。江戸時代には,吉利郷の総地図の作製や農業書を著し,領地の農業技術の発展に尽力した。多くの功績は今でも吉利集落の人々に語り継がれている。24代清香の時に禰寝から小松に改姓(祖先の平重盛が小松内大臣と呼ばれていたためと言われる。)

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