ベル麻痺-愚痴なしブログ 

ベル麻痺の後遺症の軽減および目を守る方法を主に、併せて他の事も載せています。

年の瀬の雑感

2023年12月30日 | 未分類

年の瀬は、お掃除以外に特段の用もないのですが、せわしなく感じます。

 

「時の河を渡る鳥の翼は たったひと羽ばたきで人を老いさせる」

アニメ「アルスラン戦記」の中での「クヴァイヤート」の一節です。

 

心地よいイングリッシュホルンの響きではじまるシベリウスの「トゥオネラの白鳥」を聴きながら、ふとこのフレーズを思い出しました。

トゥオネラは、物語「カレワラ」に出てくる「黄泉の国」との堺に流れる河で、日本流にいうと「三途の川」に該当するようです。

 

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が詠んだ狂歌と伝えられているようです。

傘寿を過ぎると、この狂歌が実感できるようになります。

 

 

アニメ「無限の住人」の中で三味線流しが、歩きながらの唄いに

 

人を憎むに 寄る辺もなきもの

それを世間は夢と呼ぶ 

人を憎んで とめどもなきもの

それを世間は愛と呼ぶ 

夢と知らでか さすらうもの 面影をもとめて 友を捨て 人を捨て

流れ流がされ 落ち行く先は そこは三途の川むこう

 

この漫画(アニメ化)の時代背景は江戸時代、深川付近のようです。

 

深川芸者は、「芸は売っても春は売らない」と気高さがあっようです。

アニメの中でも「旦那、うちらは芸を売るのが商売、春をお望みなら吉原か品川へでもお行き」、からむ酔客をなだめる場面があります。

 

江戸幕府が吉原に遊郭をつくったのは、治水工事で造った堤(土手)を客の往来で踏み固める目論見であったそうです。

 

☟竹村公太郎著、写真はWebから拝借(スキャナの手間を省いて)

江戸幕府には先を読むことの出来る「切れ者」がいたようです。

竹村公太郎氏の著書を何冊か揃えていますが、流石、土木技術者の著書と頷けます。

 

年末に届いた今年の最終便となる「本」は、漫画「ちはやふる」の47から50(完結編)です。

この漫画およびアニメは「競技かるた」「百人一首」の奥の深さを教えてくれました。

作者の末次由紀さんに感謝です。

 

くる年にはどんな書籍を購入するのか未定ですが、理系が9割以上であることに変わりはなさそうです。

年明け早々に届く予定の雑誌は「日経エレクトロニクス」です。

 

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秘すれば花

2023年12月26日 | 未分類

「秘する花を知る事。

秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。

この分け目を知る事、肝要の花なり」

「秘すれば花」なんとも美しい響きを持つ言葉に感じます。

 

☟この言葉をはじめて知ったのは「友よ」執行草舟著、でした。

2010年12.12初版

 

<Web記事から>

日頃から興味のある記事のスクリーンショットをワードに貼り付けて保存して時々、読かえす習慣にしています。

その中から世阿弥の「花伝」をビジネス面から捉えた解説記事の抜粋をアップします。

 

ほとんどの人が知らない「秘すれば花」の本当の意味、世阿弥に学ぶビジネスの極意、大江英樹  (2023.7.27 14:00のスクリーンショット)

 

世阿弥が生きていたのは600年以上前の室町時代。芸術家の立場で、なぜここまで経営の神髄に触れることができたのか Photo:PIXTA© ダイヤモンド・オンライン

能を大成させた世阿弥のことはほとんどの人が知っているかと思いますが、世阿弥の著書『風姿花伝』となると意外と知っている方は少ないのではないでしょうか。

著者で経済コラムニストの大江英樹さんは世阿弥の著書にはビジネスパーソンこそ読むべきエッセンスがあるといいます。そこで今回は新刊『ビジネスの極意は世阿弥が教えてくれた』(青春出版社刊)からなぜ世阿弥の書がビジネス的に優れているかについて抜粋して紹介します。

ドラッカーの顧客志向を先取り!?『風姿花伝』に見る現代の経営理論

 これまでのビジネスの経験から、世阿弥の言葉に「まさに我が意を得たり」と感じることがたくさんありました。

また、ドラッカーやポーターといった世界的に著名な経営学者の書物も読んできましたが、世阿弥の書を読んでみると、そうした本とまったく同じ意味のことが書かれていて驚きを禁じ得ませんでした。

なにしろ世阿弥が生きていたのは600年以上前の室町時代です。芸術家の立場で、なぜここまで経営の神髄に触れることができたのでしょうか。

 たとえば、“経営の神様”と呼ばれているP・F・ドラッカー。名著と言われる『マネジメント』には、「企業の目的は顧客の創造である。したがって企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションであり、それだけが成果をもたらす』とあります。

 世阿弥の根本にある理念がマーケティングの重視と絶え間ないイノベーションなのです。

 また、ドラッカーは、「価値からスタートする、『私たちは何を売りたいのか』ではなく『顧客は何を買いたいか』を問う。『私たちの製品やサービスにできることはこれ』ではなく、『顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足』がこれである」と述べています。

 これはまさに世阿弥のマーケット志向そのものであり、彼の著作『風姿花伝』でも次のように表現されています。

「時によりて、用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす」

(その時、その場のニーズに応えられるものがよいもので、応えられないものはよくないものである)

『風姿花伝』第七・別紙口伝

マイケル・ポーターにも劣らない競争戦略

 また、競争戦略の第一人者と言われるハーバード大学のマイケル・ポーター教授が語る内容も、世阿弥の言葉にしばしば見つけることができます。

「他人と違っていることがその人間の武器になる」とポーター教授は言いますが、世阿弥は『風姿花伝』の「問答条々(もんどうじょうじょう)」で次のように言っています。

「能数(のうかず)を持ちて、敵人の能に変りたる風体を、違へてすべし」

(自分が演じることのできる能のレパートリーをたくさん持ち、相手が演じる能とは違った曲調のものを選んで、趣向を変えて演じるべきである)

『風姿花伝』第三・問答条々

 同じくポーター教授の「人を喜ばせるという思いは資本主義の神髄である」

という言葉は、『風姿花伝』の物学(ものまね)条々で、どうすれば観客を喜ばせることができるかについて語る箇所で見つけられます。他流派と競って負けないために、世阿弥は常に競争戦略を考えることが求められていたのです。

 

ほとんどの人が知らない「秘すれば花」の真意

 もし『風姿花伝』という書物の名前は知らなくても、「初心忘るべからず」とか「秘すれば花」という言葉は知っている、あるいは聞いたことがある人は多いでしょう。

 残念ながら、いずれの言葉も世阿弥が言いたかったことと一般的な解釈に大きなずれが生じています。

 まず、この「秘すれば花」という言葉は、『風姿花伝』の最終章「別紙口伝」の中盤に出てきます。この「別紙口伝」はこの書の最後のパートなのですが、私はこの部分が最も重要ではないかと考えています。

世阿弥の言葉はいずれもビジネスの示唆に富むものですが、この別紙口伝にはそのエッセンスが特に多く出てきます。

 別紙口伝では、次のような形で記されています。

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」

(秘密にして見せないから花となる[価値がある]のだ。秘密にしておかないと花[価値]はなくなる)

『風姿花伝』第七・別紙口伝

 多くの人はこの言葉を「何でもさらけ出して表に出すより、控えめに、慎ましくしている方が美しい」と解釈しています。

つまり、そこには日本人の奥ゆかしさが出ていると考えるわけです。

さらにはこんな解釈もあります。

「全部見せるのではなく『チラ見せ』をした方が“見たい”という意欲を刺激することができる」。

隠すことで欲望を刺激できる、というような意味合いです。

 しかしながら、これらはいずれも間違った解釈です。

「秘すれば花」というのは、日本人の奥ゆかしさや、欲望を刺激する方法を表しているのではなく、勝負を制するための明確な戦略、方法論なのです。

秘密にしていること自体に価値がある

 世阿弥が言いたいのは、“隠しているものの価値が重要だ”ということではなく、“隠すこと自体が重要だ”ということです。

したがって、大事なのは「隠していることすら、相手に気づかれてはいけない」というのです。

 これは、戦いくさや武道における勝負でも同じです。

名将の知略によって、手強い敵に勝つことがあります。

この場合、負けた方は相手の意外なやり方に虚を突かれて負けてしまったわけですが、これこそがあらゆる戦いにおいて勝利を得る方程式だというのです。

計略というものは、後になってその実情がわかれば何ということもないのですが、知らないうちは相手にとっての脅威となるのです。だからこそ秘事が何であるかを知られてはいけないし、秘事があることも知られてはいけない。

 

 さらに世阿弥は、自分が何か秘密を知っている人物だということすら知られてはいけないと言います。

まさに秘密にしていること自体に価値があるわけです。

誰も予想しないからこそ“サプライズ”になる

 私は長年、証券界で株式市場にかかわる仕事をやってきたので、この「秘すれば花」という感覚はとてもよくわかります。

マーケットというものは、それに参加する多くの人の心理で動きます。

したがってマーケットにとって想定外のこと、誰もが考えていなかったことに対して大きく反応するのです。

 古くは2016年に英国で国民投票が行われEU離脱が決まったとき、多くの人にこの結果は予想外だったため、株式市場は短期的に大きく下落しました。

最近では2022年12月、日銀が唐突にイールドカーブコントロール(YCC)の上限を引き上げたため、想定外だったドル円相場は一挙に10円以上も円高方向に振れました。

 マーケットというものは、どんなに悪い材料でもよい材料でも、事前に多くの人が予想していることにはそれほど大きく反応しません。

俗に言う「織り込みずみ」というやつです。ところが誰も想定していなかったことが起きたときは、人々の想像を大きく超えた激しい動きをすることがあるのです。

 したがって、何か効果的に物事を動かしたいと思うことがあるときこそ、「秘すれば花」という考え方を思い出してください。

これは株式市場に限らず、すべての経済活動に共通することです。

「最高のビジネス書」だと言える三つの理由

 このように、世阿弥の思想とその教訓は現代の経営学者に勝るとも劣らぬ輝きを持っています。

世阿弥が残した数々の書が最高のビジネス書となり得ている理由として、以下の三つが挙げられます。

1、徹底したマーケット志向が貫かれている

2、イノベーションのヒントが随所に散りばめられている

3、体験に基づく教訓が普遍化されている

 このうち、一のマーケット志向は世阿弥の一貫した考え方です。

 土屋恵一郎氏は法学者であると同時に演劇評論家でもあり、能楽についても造詣の深い方ですが、土屋氏はその著書で「世阿弥の姿勢は常に“関係的”である」と述べています。

 つまり観客との関係、組織との関係、そして自分との関係など、すべての面において自分の内に入り込まず、常にまわりとの関係を考えながら生きていこうとしているのです。

ビジネスを進めていくうえでこの「マーケット志向」、すなわち市場と関係的であることは何より重要なことだと推測されます。

この思想が一貫していることが、世阿弥の書がビジネス書としても優れている第一の点です。

2、のイノベーションのヒントですが、オーストリアの経済学者でイノベーションの父と呼ばれるヨーゼフ・シュンペーターは、

「イノベーションとは技術革新のことではなく新結合、つまりこれまで組み合わせたことがない要素を組み合わせることによって、新たな価値を創造することである」と言います。

世阿弥が起こした作劇のイノベーションの多くは、まさにこの「新結合」によるものです。常に新しい基軸を打ち出し、マンネリに陥らないようにするために考えられた素晴らしい知恵がそこにあります。

そして最後の理由3が、他の人にはない世阿弥の大きな特徴です。

学者や研究者として理論を考えたのではなく、自身が日々闘い続けたことで得られた知恵と、そこから生み出された数々の理論を持っている。

しかも単に自分の体験を語るのではなく、誰でも理解できるように理論化され、普遍化されて伝えられている点が最も素晴らしいと思っています。

 

同じ世阿弥の花伝も読み方(解釈)で大きく変わることを知らされました。

半導体以外でも、また一つ馬齢を重ねる意味を見つけた感じがします。

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何を刻んで時を知る

2023年12月25日 | 植物観察

宮古島は冬でも最低気温が13℃くらいですので散歩をしますと1年を通して花に出会います。

四季の判然としない地方でも季節感がある様に咲く花があります。

その一つがトックリキワタは10月くらいから咲きはじめます。

☟遠目には桜と勘違いします。

☟花弁は5弁で大きいです。

 

☟花が終わると実がなります。

 

☟実は熟すと皮がはじけて中から「白い綿状」の物が現われます。

 

☟白い綿の玉が鈴なりになります。

この実から綿花の様に綿が採れると面白いと考えています。

 

☟1年中、目にとまるのがハイビスカスです。

 

☟タマスダレも雨が降ると咲くようです。

 

☟タマスダレも植え方で絵になります。ただし、毒草であり、ニラと似ていますので、畑の近くには植えない方が賢明です。

「きれな花にはトゲがあり、可憐な花には毒がある」

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ギュンター・ヴァントのライブ盤

2023年12月23日 | CD

CDのカビ対策でセット物は要注意と思っています。セット物の多くは紙ケースに納められていて湿気をよびやすくカビの好む環境のようです。

 

☟HMVの検索でDSDリマスタリング盤が発売されているようです。

ギュンター・ヴァントのライブ盤は33枚セットを所有していますので、購入は見送りですが、好評なようですのでupします。

 

☟シューベルト:交響曲第8番『未完成』&第9番『グレート』(1995年ベルリン・ライヴ)
ギュンター・ヴァント



1995年3月、ベルリン・フィルハーモニーは、満場の聴衆からのいつ果てるともない熱狂的な喝采に包まれていました。

この日、C.クライバーの代役として10数年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に復帰したヴァントが、シューベルトの最後の2曲を指揮したのです。

ヴァントの緻密なリハーサルのもと、ベルリン・フィルがフルトヴェングラー時代の雄大で重厚な響きを取り戻し、今や神話となっていた音楽作りを再び現実のものとしました。

この2枚組はその歴史的な瞬間を封じ込めたライヴ・レコーディングです(終演後の拍手入り)。

この時期にヴァントが到達していた途轍もない音楽の深まりを克明に記録し、その最晩年の豊饒の時代の到来を全世界に告げた至高の名演です。

(メーカー資料より)

シューベルト:
①交響曲第8番(第7番)ロ短調 D.759『未完成』
②交響曲第9番(第8番)ハ長調 D.944『グレート』

ギュンター・ヴァント指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1995年3月28日&29日、
ベルリン、フィルハーモニーでのライヴ・レコーディング

 

☆5 コメント

ヴァントが、その最晩年にベルリン・フィルとともに成し遂げたブルックナーの一連の交響曲の演奏は、歴史的とも言うべき至高の超名演であった。

この黄金コンビによるブルックナー以外の作曲家による楽曲の演奏で、唯一録音が遺されているのが、本盤におさめられたシューベルトの「未完成」と「ザ・グレイト」である。いずれも、ブルックナーの各交響曲と同様に、素晴らしい至高の名演と高く評価したい。

なお、ヴァントは、ミュンヘン・フィルとともに、これら両曲の演奏を同時期に行っているが、オーケストラの音色に若干の違いがある以外は同格の名演と言えるところであり、両演奏の比較は聴き手の好みの問題と言えるのかもしれない。シューベルトの交響曲、とりわけ「未完成」と「ザ・グレイト」は演奏が難しい交響曲であると言える。最近音楽之友社から発売された名曲名盤300選において、これら両曲については絶対的な名盤が存在せず、各評論家の評価が非常にばらけているという点が、そうした演奏の難しさを如実に物語っていると考えられる。

その理由はいくつか考えられるが、シューベルトの音楽をどう捉えるのかについて未だに正解がない、確立した見解が存在しないということに起因しているのではないだろうか。いずれにしても、シューベルトの「未完成」と「ザ・グレイト」は懐が深い交響曲と言えるのは間違いがないところだ。

私見であるが、これまでの様々な演奏に鑑みて、シューベルトをどう捉えるのかについての見解をおおざっぱに分けると、①ウィーンの抒情的作曲家、②①に加え、人生の寂寥感や絶望感を描出した大作曲家、③ベートーヴェンの後継者、④ブルックナーの先駆者の4つに分類できるのではないかと考えている(いくつかの要素を兼ね備えた演奏が存在しているということは言うまでもない)。

「未完成」や「ザ・グレイト」の演奏に限ってみると、①の代表はワルター&コロンビア交響楽団盤(1958年)、②の代表は、「未完成」しか録音がないが、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル盤(1978年(あるいは来日時の1977年盤))、③の代表は、「ザ・グレイト」において顕著であるがフルトヴェングラー&ベルリン・フィル盤(1942年)であると考えており、④に該当するのが、まさしく本盤におさめられたヴァント&ベルリン・フィル盤であると考える。

ヴァントのこれら両曲へのアプローチは、ブルックナーの交響曲に対して行ったのと基本的に同様のものだ。眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングに基づく緻密で凝縮化された表現には凄みがあり、全体の造型はきわめて堅固なものだ。

したがって、ウィーン風の抒情的な表現にはいささか欠けるきらいがあり、前述のワルター盤の持つ美しさは望むべくもないが、シューベルトの音楽の心底にある人生の寂寥感や絶望感の描出にはいささかの不足はないと言えるのではないか。

特に「未完成」の第1主題は、ワインガルトナーが地下の底からのようにと評したが、ヴァントの演奏は、特に中間部においてこの主題を低弦を軋むように演奏させ、シューベルトの心底にある寂寥感や絶望感をより一層強調させるかのような凄みのある表現をしているのが素晴らしい。

ヴァントは、2000年の来日時のコンサートにおいて「未完成」を演奏しており、とりわけ当該箇所の表現には心胆寒からしめるものが感じられたが、本盤においても、それとほぼ同等の表現を聴くことができるのはうれしい限りだ。

録音は、ブルックナーの一連の演奏とは異なり、いまだSACD化されていないが、音質はなかなかに鮮明であり、更にSHM-CD化によって若干の音質の向上効果が見られるのも大いに歓迎したい。

☆4.5 コメント

ヴァントにはこの「ザ・グレイト」交響曲の演奏盤がいろいろあり流石ブルックナー指揮者が扱うべきそして扱い易い曲への傾倒ぶりが垣間見られます。

古くは1980年前後のKRSOを振った録音盤(タイム①13’49②15’16③10’43④11’18)、1993年録音MPO盤(①14’16②16’25③10’54④12’16)、同年録音DSOB盤(①14’06②15’54③10’49④12’34)、1995年BPO録音本盤(①13’53②15’49③10’46④12’01)などがありその他DVDも手に入るようです。

さて本盤は1995年BPOを振ったライブ盤(ヴァント83歳)でいずれにしてもBPOの低い重心をとっての端正な造型美は見事なのですが剛毅なそして厳しき「ヴァント味?」がもう一つ迫っては来ないのは私だけでしょうか。

第1楽章しっかりしたホルンでスタートし「核」を保持しながらインテンポで進んで行きます。起伏を伴いながら最後結びへは大きく息を吸い込んでそしてゆっくり弱含みを経て余韻をバラまきながら終わります。

第2楽章はBPOらしい肌触り感からスタート、中ほどでの回想感というか抒情性は思わず聴き込みますね。最終楽章ではドラマチック面を強調し音の構成感が明確です。リズムもややアクセントをつけ特に管での扱いを面白く聴きました。

ヴァントならではの味わいがもう一つなのと、「未完成」の方(タイム①15’34②12’43とやや長め?)は未聴ですので素晴らしいランク止めにしておきます。(タイムについては盤により多少異なる場合があります。)

 

☆5 コメント

9番は何度リピートで聴いても飽きない稀有な演奏。放射される音圧と輝かしい音色、絶妙にがっちりと組みあがった微動だにしない。

聴いているだけでその音楽美に打たれてしまう各奏者の匠の技、謳いまわし!BPOとしても珍しく全くうるささを感じさせないのは、それだけ演奏者の気持ちが一つになり充実のアンサンブルを楽しんでいる証拠。

未完成は淡々とした流れだが、出だしの低弦からまるで異次元空間へ引きずり込まれるような深遠さ。

中間部の最後の審判のような凄まじさ。それだけに第2楽章の天国の花園のような美しさが際立って心に沁みる。

 

現在、カビ対策手入れ中のセット(33枚)ライブ録音盤はHMVでは新品の入手不可で、中古品はあるようです。

私が購入したのは2012年8月4日で¥12250でしたが、円安のためか¥17500ほどです。

 

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ハイフェッツのバッハ無伴奏

2023年12月21日 | CD

待望のハイフェッツの「バッハ無伴奏」が復刻されました。

ハイフェッツ唯一のバッハ無伴奏曲集を「Biddulph」が初期盤から復刻

20世紀を代表する名ヴァイオリニストを多数輩出したレオポルト・アウアー門下の音源復刻に取り組む「Biddulph」から、ヤッシャ・ハイフェッツ[1901-1987]唯一のバッハ無伴奏ソナタ&パルティータ(全曲)が登場。初期盤LPからの復刻です。


 ハイフェッツは帝政ロシア時代のヴィルナ(現リトアニアの首都ヴィリニュス)に生まれ、9歳にしてアウアーの門下に迎えられました。12歳でアルトゥール・ニキシュ指揮のベルリン・フィルと共演、16歳でカーネギー・ホールにデビューした早熟の天才で、その卓越した技巧と音楽性を長く保ち、圧倒的な名声を築きました。


ハイフェッツによるバッハ:無伴奏ソナタ&パルティータの全曲録音はこの1952年のRCA盤が唯一。バロック舞曲の要素を取り入れた解釈が広まる遥か前の演奏なので、古楽器演奏に慣れた耳には少し違和感があるかもしれませんが、虚飾を排して一挺のヴァイオリンからバッハが意図した重層的な音構造を描き出す演奏は見事で、速めのテンポながら全体を通してヴァイオリンならではの美感が損なわれていない点も魅力です。


この録音にはすでにRCAによるマスターテープからの復刻CDがあります。それでも今回の復刻を行った理由について「Biddulph」レーベルは「マスターテープからの復刻はノイズの点で有利だが、初期盤の音が演奏者と制作者が認めた音だと考える。状態の良い初期盤を探し出して復刻する意義はそこにある」と語っています。


各ディスクの「余白」にはハイフェッツのソロによるバッハのヴァイオリン協奏曲が1曲ずつ収められるという贅沢な収録になっています。ブックレットにはハイフェッツ愛用のグァルネリ・デル・ジェス(1742)のカラー写真が4ページにわたって掲載され、初出時のLP4枚のジャケットもカラーで印刷されています。(輸入元情報)

【収録情報】
Disc1
J.S.バッハ:
1. 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調 BWV.1001
2. 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番ロ短調 BWV.1002
3. 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調 BWV.1003
4. ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV.1041

Disc2
5. 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV.1004
6. 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番ハ長調 BWV.1005
7. 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調 BWV.1006
8. ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV.1042

ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団(4,8)
アルフレッド・ウォーレンスタイン(指揮:4,8)

録音年月日/初出レコード番号:
1952年10月21,29日/LM1976(1)
1952年10月23,29日/LM2210(2)
1952年10月24,25,29日/LM2115(3)
1952年10月23日/LM1976(5)
1952年10月22,29日/LM2210(6)
1952年10月22,29日/LM2115(7)
1953年12月6日/LM1818(4,8)

録音場所:
ハリウッド、RCAビクター・スタジオ(1-3,5-7)
リパブリック・ピクチャーズ・スタジオ(4,8)

復刻プロデューサー:Eric Wen
復刻エンジニア&マスタリング:Rick Torres

 

ハイフェッツ ファンですが、バッハの無伴奏に関しては「ルミニッツァ・ペトレ」が一番すきです。(現在、HMVでは入手不可となっています)

ペトレ評、芳岡正樹(レコード芸術9月号 海外盤試聴記より抜粋掲載)


いや、その美しいこと! こんなに楚々として香り高く、ヨーロッパの演奏伝統を確かに感じさせ、洗練されたセンスで、聴き手の胸にすーっと滲みこんでくるバッハが今まであっただろうか。


ルミニッツァ・ペトレは現在ヴュルテンベルク州立管弦楽団のコンサート・ミストレスを務める女流で、華やかなソロ活動は行なってないし、CDはクララ・ヴィーク・トリオの一員として数枚出ていたくらい。

いま流行りのピリオド楽器ではなく、モダン楽器による、いわばなんの変哲もない演奏である。


まず彼女のヴァイオリンの哀切な音色に参ってしまう。使用楽器はマッテオ・ゴフリラーだが、その音の質はスリムに引き締まっており、しなやかで、同時に柔らかさを感じさせる。4弦の音色はヴァラエティに富んでおり、彼女はこの色合いの違いを、声部ごとの性格づけに活かしている。

しかし、音色にこれだけの内容を湛えながら、音楽は何事もなかったように、停滞することなく流れてゆく。このギャップが堪らない。
そして、彼女は決してバッハを偉人化しない。

シゲティのように音楽に強烈なくさびを打ち込むことはしないし、シェリングのようにフーガの立体性で聴き手を圧倒することもない。

彼女のアタックは軽く控えめだが、歯切れがよく十分に決まっている。フーガも圧倒的な大伽藍にはならないが、声部間の対話は明快に描かれ、きわめて音楽的だ。これは大会場で多くの聴衆を唸らす演奏ではなく、サロンで新しい仲間に語りかけるように演じられたバッハなのだ。


ペトレはこの演奏をバッハの自筆譜に基づいて行なっている。私もファクシミリを見ながら試聴したが、スラーやエコーなどまったく指示通りの演奏であり、多声部の描き出しやリズム表現など、自筆譜の丁寧な記譜法や勢いのある筆致から生まれていることが実感でき、思わず膝を打つと同時に、その誠実さに感銘を受けた。

そして背景には、彼女のどこまでも気品高く、自然な音楽性がある。


どの曲もよいが、《パルティータ》第2番が格別である。例によって何気なく弾き進めてゆくが、〈シャコンヌ〉に入り、長調に転じる中間部以降、次第に音楽が豊かに息づき、フレーズが弧を描くように歌われる部分など、実に感動的だった。

 

 

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