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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

農家の廃屋

2022-09-18 | アメリカ事情 人間性

Picture: SALLY DENG 

 

 

 

 

 

つい先週まで3桁の気温で一時は華氏120度(摂氏48.89度)まで 上昇したのに、週末にはアリゾナ、ネヴァダ、そしてカリフォルニアにかかっていたメキシコからのモンスーンが、降雨をもたらし、今週は初秋の気配が漂い始めている。 そうした大気のあまりの逆変に、やっと、本が落ち着いて読める、とワクワクさえして、手に取ったのは、Dear Country Agent GuyというJerry Nelsonジェリー・ネルソン氏の著書だ。 その中の一文にしんみりとして、ますます初秋を感じた私である。 下にその箇所を訳してみた。 私の好む秋をお感じあれ。 この本は、アマゾンで入手できる。 (和訳があるかは不明)

 

 

古い農家屋は放棄され、バラバラになりつつあった。 しかし、だからと言ってその廃屋を解体することは、作者の過去を破壊するに等しいことである。

1963年、65歳のとき、作者の祖父、アーウィンは愚かとも言えるプロジェクトに取り組むことにした。 彼は新しい家を建てたかったので、それまで使用していたその古い家をどうするか迷っていた。 それを取り壊すのはもったいなく思えたが、かと言ってその家屋の立つ場所に新しい家は建てられるはずだった。 どうしたら良いか、はっきりとしたことは考え付かなかった。 倹約・節約を頭に考えあぐねた結果、インスピレーションを受けたかのように、瞬間に、祖父はブルドーザー作業員を雇って古い家を遠くの木立に押し込むことにした。 そうして、あの古い農家屋は今もそこにある。

祖父アーウィンと祖母エリダが亡くなり、私は彼らの地所から農場を購入した。 妻と私はこの場所で息子たちを育て、30年以上ここに住んでいる。 私たちが当初引っ越してきたとき、妻は例の木立に遺棄された廃屋を一目見て、危険だと宣言した。 私は同意し、巨大な焚き火を計画した。 しかし、価値のあるものが置き忘れられた場合に備えて、まず最初にその廃屋をチェックするのが賢明だと思った。

2人の幼い息子が付き添い、廃屋があった牧草地の背の高い草の中を歩いて行ったが、たどり着くまで、かなり時間がかかった。 たどり着くとフロント・ポーチ自体が崩壊し、ほとんどの窓がなくなり、外壁が落ちていた。 開いた窓から中に入ると、まるでスカンクが床板の下に住んでいたような匂いがした。

タイムカプセルの過去の時空に迷い込んだような気分だった。 ここには、祖父母の生活のさまざまな残骸が横たわっている。壊れた椅子。 麻袋に入った古着。 穀物エレベーター(サイロ)の温度計。しかし、私の目を引いたのは、書類が詰まった段ボール箱だった。私はその内容物を調べようと、箱のなかを掘り起こし、即座に時間を遡っていた。  1957年からの納税申告書があった。 1962年6月からの使用された小切手類。 古い友人や親類からのグリーティング・ カード、今では差出人はすべて亡くなっている。 叔父の小学3年生時の綴り方の本。

私はその箱を掘り起こしながら、多くの楽しい時間を費やした。 その間ずっと、息子たちは、この廃屋に関する一連の質問をし続けていたので、それらに答えなければならなかった。 息子たちは、かつて 総勢9人の家族が、水も電気も通っていなかったこの小さな家に住んでいたことに驚いていた。 作者は、寒い冬の朝、台所のコンロのすぐ隣に置いてあったバケツ一杯の水が氷で覆われていたことなどを話した。 そして、当時はそのコンロが唯一の熱源だったと話すと、息子たちは震えた。

タイムカプセルのような、この古い家は、故に焚き火の末路を免れたのだった。

年月が経ち、廃屋への訪問は稀になっていった。 古い家は再び牧草地で一人孤独を楽しんでいたようだった。 作者や家族たちが人生を急足で歩んでいると、時折あの木々の間から廃屋を垣間見ることができるので、人はなんだろうかと不思議に思うかもしれない。 今は荒屋(あばらや)になったあの家が、どのようにして砂嵐や洪水、吹雪、大恐慌を生き延びられたのだろうか?  そこに住んでいた家族の人々は、私たちよりも堅固な逞しいものでできていたに違いなかった。 子供の頃、牧草地の背の高い草を分け入り、先を歩く父の足跡をたどるのに苦労したことを思い出した。 それでも、父と同じように、農業ほど崇高な生業は作者には想像できなかった。

そして、4月のある朝突然、作者の父が68歳で大規模な心臓発作で事切れた。 作者を含めて家族全員が彼の死にショックを受けた。

作者の父の葬儀が終わった直後に、何故作者があの廃屋に出かけたのかは、作者の理解を超えていた。 まるで彼を呼んでいるかのようだった。 木々でさえ、いらっしゃい、訪問なさい、しばらくそこへいなさい、というような招待を囁いているようだった。

再びあの古いリノリウムの床に立ったとき、彼の目は床に散らばった書類に引き寄せられた。 経年で黄ばんだ封筒が古い書類の上に置かれていた。 封筒には「海軍検閲官通過」と青いインクのスタンプが押されていた。 どうしてこの由緒ありげな遺物を見逃せようか?  作者の父は第二次世界大戦中、USSワシントンに乗艦していて、できる限り家に手紙を書いていたと聞いている。 作者の祖母はそんな息子の手紙をすべて保存していた。

作者はその封筒から一通の手紙を慎重に取り出した。 それは 1944年9月の日付だった。 彼の父は当時18歳で南太平洋のどこかにいたはずで、作者にはなじみの筆記を目にして、読んだ。 まだ18歳だった父は、燕麦(オーツ)の収穫がどうだったのか、作者のやはり歳若かった叔父の新しい農耕馬がうまく働いているのか、などと尋ねている。 作者の父は彼の一番下の弟が、小学1年生になろうとしていると仮定し、頼りになる役立つ若い少年になりつつあると想像もしているようだった。 作者の父は母親に、みんなによろしく伝えてほしいと頼み、自分がどれだけみんなが恋しいことかと書いていた。

行間を読むのは難しくなかった。 この手紙には、それまでの全生涯を両親の農場の草原のこの草の海に住んでいた、まだうら若いホームシックの若者、本当にはまだ子供だった子が、その手紙をしたためたとき、全く別の種類の海にいたのだった。 戦争中の世界の雷と稲妻によって荒らされていた海であった。 手紙の一番下に、下線が引かれた活字で、作者の父は最後のメッセージを伝えていた。 父が慎重に強調した次の言葉を読んだとき、作者の目に涙があふれた。 "心配しないでください僕は元気です。"

その日、古い家を出るとき、作者は肩越しにその廃屋を最後にもう一度見返した。 誰がどう思おうと、彼は決めた。 その廃屋は、自ら朽ち果てて、土に還るまでそこにとどまると。

 

 

ここでお知らせです:コメントをいただいて、今日お返事を書きました。大変遅れてしまい、誠に申し訳ございません。一つ一つのコメントに深く感謝致しております。ありがとうございます。

 


見知らぬ人の祝福

2022-08-09 | アメリカ事情 人間性

Getty Image

 

 

つい先月のこと。下記のニュースが目についた。破天荒な気象、Covid-19に次ぐ怪しい流行病の噂、止まることを知らない侵略戦争、物価高、物不足、とちっとも心躍らない話題の中に埋もれるように、ちいさいながら燦然と輝いていたニュースである。

 

アーカンソー州のある町に住む若い母親のデヴォン・リンデンさんは、毎週 2 人の子供を水泳の練習に連れて行くが、この日はいつもよりかなりたいへんだった。2人のどちらの子供もひどい癇癪を起こし、手がつけられない状態だったのだ。

 

「私は母親として、とにかく子供たちを落ち着かせようと必死になっているうちに、容易に事態収集がつかず、本当に涙が出そうになってしまいました」とこの若い母は語った。

 

その時、素敵な見知らぬ人がどこからともなく現れ、励ましの小さなメモを彼女に手渡したのだった。

 

「彼女は私が悪戦苦闘しているのを見た瞬間、私や私の子供たちや、私の子育てのしかた、などについて批難せず、ただ私を祝福することを選んでくださったのです。」

 

5NewsOnline.om

 

メモには、「あなたの人生と目的は巨大です!!  生きることはとても貴重です。 毎日が贈り物ですから、大切になさってください!!」とあった。

 

子供たちと車に乗り込むまで、彼女はメモを広げてそこにあったサプライズを見てはいなかったのだった: $100札!

 

彼女は「涙がこぼれました。」と語った。

 

5NewsOnline.com

 

彼女は5ニュースオンライン局に、この方が将来なりたいと思っているような人だと言った。

 

「これからの新しい10年が私に何をもたらしてくれるのか、私はどんなタイプの人になるために努力できるのかを考えています。そして、私はこの女性のようになりたいと思っています。私は最高の影響力を彼女のようにしようと努力します。」とこの若い母親は語った。

 

そして彼女は彼女を祝福した女性に向けていくつかの言葉を持っている。

 

「私がつらい時に現れてくださって、本当に感謝しております。あの瞬間に必要なものを与えてくださり、これからも1日1日を良い母親として、良い人間として過ごすことができる希望をくださったのです。」と語った。

 

あのダライ・ラマは仰った。

いつでも親切であれ。それはいつでも可能である。

ダライ・ラマ

 

 

 

 


悲しい共通分母

2022-06-18 | アメリカ事情 人間性

honorsociety.com

 

 

【注:長文】

 

今年6月1日にデイリー・シグナルというニュースに、ジョシュア・アーノルド記者がテキサス州の小学校での銃乱射事件の悲惨な結末に関して、「父親:集団銃撃事件犯の人生から欠落している家族の構成要素」という記事を載せた。 それが以下の要約である。

*******

上院民主党は先週、テキサス州ユヴァルデでの大きな犠牲者数を出した学校乱射事件に対応してさらなる銃規制法を検討したが、共和党はそれだけの対応が実際にこの深刻な問題に適宜に対処できるかどう疑問視した。

「なぜ私たちの文化は、罪のない人々を殺したい多くの若い男性を突然のように生み出しているのですか?」マイク・リー上院議員(ユタ州選出共和党)は尋ねた。 「父親のいないこと、家族の崩壊、市民社会からの孤立、暴力の美化などが要因になっているのではないでしょうか?」

リージェント大学法学部の家族法教授であるリン・マリー・コム氏は、「ワシントン・ウォッチ」というトーク番組で、マイク・リー上院議員の述べた事柄が、絶対的に乱射事件に貢献している要因だとした。 「家族の状態は大きな違いを生みます。」と彼女は述べる。少年暴力犯罪に関する広範な調査の結果、5つの「暴力を振るこれらすべての少年に共通する分母」のリストをまとめた。

1.「親の関与がほとんどない。」コム氏は、こうした少年たちの両親は、息子が誰と付き合っているのか、または友人が誰であるのかを知ろうと十分な時間を息子たちと一緒に過ごしていなかったと説明した。会話、趣味、その他の親子・家族としての活動のいずれであっても、両親はことごとく「子供の生活に関与していない」のだ。そして、特に警告を発するような兆候が現れたとき、こうした両親は自分達の子供に対して無知か、不信感を持つ。 「こうした両親は自分の子供を大変に怖れているのです」と彼女は言った。

2.「子供に対するある種のストレス。」コム氏が特定するように、いじめは一般的なストレス要因だが、それだけではない。子供たちは自分でストレスに対処する手段を持っていない。両親はストレスをいかに管理するかを子供に教えるという必要性があるにもかかわらず。自分の子供が親を必要としている、とさえ思いつかない。

3.「一人でかなりの時間過ごす。」怠惰につながりかねない孤独は子供に「暴力への過激さを増加させる時間を残すことです」と彼女は説明した。他の人を大切にすることや、過激な考え方を持たず、それに抗えるように行動できるように教えられるコミュニティの利益から切り離されている。

4.「真実の感覚と道徳」。 「彼らは何が正しく何が間違っているのかを本当に知らないのです。誰も子供に指し示さないのです」、とコム氏は説明した。道徳教育は長い間公立学校から追放されており、多くの家庭も同様にそうした教えに不足しています。親は子供に不正か正しいかを教える根本的責任を負うことになっていても(旧約聖書申命記 6:7)、多くの親はこの義務を怠っている。

5.「反省の信じられないほどの欠如。」コム氏はこれを「最も憂慮すべきこと」と呼び、「良心に最も衝撃を与えることです」と言う。これらの若い男性は自らの良心を凍結したかのように、「最も凶悪な犯罪を犯す前に、ことの良し悪しを判断し、少年を一時停止させさえしないのです。伝えられるところによると、ユヴァルデの乱射犯人は普段から理由もなく人々の車に卵を投げつけたり、BB銃で通りすがりの人を撃ったり、自分自身の顔を切り付けたり、動物を虐待することを自慢し、複数の拳を振り回して殴り合いをし、女の子を脅し強姦し、人間を殺すことについても話していたそうです。」「親や保護者に無視されてきたすべての若者が銃撃犯になるわけではありませんが(自由意志による自身の言動の選択は言うまでもなく、ストレスと孤独も要因であることも考慮のうちに入れて)、暴力への道はまず父親の不在から始まるようです」。

「多くの子供たちは、父親が我が子らと関わっていないために憤慨して成長していきます」と、家族研究評議会の会長であり、「ワシントンウォッチ」トーク番組のホストであるトニー・パーキンスはエペソ人6:4(父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼を育てなさい)を例えにして嘆いた。父親は「自身の子供たちの生活に存在し、成人期への移行を支援している」わけではない。

5人の子供を持つパーキンス氏は、良い父親であるということは、「単に肉体的に存在しているだけではありません」と主張した。それは感情的・精神的に関与し、子供の生活に従事していることです。」

コム氏は、「父親がいない場合でも」、子供にはその成長期に子供たちに「介入できる人」(子供の存在を真に気にかけ、舵取りの助けをしてくれる人ー兄、叔父、伯父、祖父、保護者など)が必要だと同意した。

父親は子供の幼いうちから関わり始めなければならない。 American Worldview Inventoryという調査会社によると、ジョージ・バーナ博士(市場調査会社を設立、さまざまな宗教と社会の関係を研究する社会科学者)は「13歳までに、子供の世界観は、ほぼ完全に整っていくのです」と述べている。

次世代を担う子供たちを育てる責任は、国家ではなくまず(父)親と家族にあるはずだが、そこに政府の政策が何の役割も果たさないという意味ではない。

「親の権利の復活、親の関与が必要です」とコム氏は述べた。「親の権利に対する攻撃的なことがあり、親は無力なものだと感じ、子供を守るために何もできないことになってしまいます。」

この無力感は学校に於いて特に深刻であり、政府は親を締め出し、子供の幸福に関する情報を親から隠しているように見える。

「政府の介入は両親を困惑させました。 自分の子供を育てることに消極的で、恐れてさえいる一部の親たちを、政府はさらに混乱させているようなものです、政権や政治家は親の力と権威を奪いました」とパーキンス氏は言った。

それでも、「本当の質問をする勇気を持っている政治指導者はほとんどいないのです」と彼は続け、多くの人が「同じ古い話に重点を置き、つまり『銃の制御規制、精神的健康への支出の仕方』を探すのに躍起になっているのです」、と付け加えた。 その間、若者世代は、成熟するまで成長する方法を教えるはずの良い父親の存在不足のために苦しんでいる。

したがって、次にある青小年が生きることに、社会に訳のわからない怒りを持ち始め、それが煮詰められると、無実の民間人にその怒りをぶつけたくなるのだ。そうなると人々の疑問は「彼はどこで銃を手に入れたのか」ではなく、それと同じくらい関連性のある質問を持たねばならない。つまり「彼はどこで父親の姿を失ったのだろうか?」なのである。

*******

この記事を読み、私の脳裏に彷彿としてきたのは、1968年日本で起こった4名の犠牲者を出した連続射殺事件の被告永山則夫だ。1968年の犯行は原審での死刑に始まり、事件当時未成年だったことが考慮の一つにあり、無期懲役になったが、結局は1990年逮捕から21年後に再び死刑が確定した。1997年永山は死刑に処された。その犯行も残酷だが、それ以上にまるで胸に風穴が開いたような暗澹たる気持ちになったのは、永山の凄惨な生い立ちで、父親の不在を原点として彼はどんどん破滅への道を転げていったことだ。

その永山則夫は、育ってきた家庭環境(子供を守り育て正しい選択のできる人格を形成する努力や義務を怠った父親の不在と欠落は顕著である)が、おおいな犯罪要因であることは間違いない。彼にやっと人としての人格を立て直す機会を与えたのは、死刑とつながった刑務所生活だったわけだ。悲しすぎはしないか。

そんな悲惨な過酷な人生を歩ませるか、あるいは慈しみながら制御のある道徳を持たせ、人らしく生きていく力を与えるか、それは親の最初のそして究極の子供への責任であり、ギフトでもある。誰でも生物学的に、養子縁組で、あるいは里親としてでも親になれるが、真の父親、母親は、強い意志を持ち授かった命に道理・道徳を教えていく覚悟や決心や愛情がどれだけ必要なのか、永山事件当時、未だ学び舎にあった私でさえ、若年ながら強く感じたものだ。

昨今の日本における親の乳児・幼児・児童虐待・殺人は、本当に心が引き裂かれる。親として資格試験が必要なのではなどと過度なことを思わず考えてしまうほどだ。親という意味は、決して軽く考えてはならない。

今年の父の日は6月19日、その日に限らず、毎日の終わりには、常に私の父や夫の父、そして夫へ、あるいは私たちの息子・義理息子たちに、父親として人道を外すことなく、その役目を十二分に果たし、むしろそれを喜びとしていることを心から感謝したい。そして英雄の陰には女あり、のごとく父親を支える母親への感謝も忘れまい、そのつながりが生物学的であろうが、法的つながりであろうが。子供は親への天からの授かりであり、親は子供を預けられて存在しているのを忘れたくはない。

願わくば1日の終わりには、子供が親(保護者)に託されている命であることを感謝したい。

 


野球は90%精神的で、残りの半分は物理的

2022-05-02 | アメリカ事情 人間性

https://yogiberramuseum.org athlonsports.com

ヨギイズムのひとつ:終わるまで終わりません。

 

 

この世のことごとくに自分の言動に自信が持てない私でも、たったひとつ100パーセント自信を持って、確かなことがある:私の野球の知識が皆無、あるいはそれにかなり近いということである。 そんな私でも心底敬愛してやまない野球選手がいる。 イチローさんや大谷くんは確かに素晴らしいし、人望も厚く賞賛に値する方々であるが、ヨギ・ベラには敵わない(ごめんなさい)。 ヨギ・ベラ氏は、もう長いこと野球無知の私のアイドルである。

Lawrence Peter "Yogi" Berraローレンス・ピーター・”ヨギ”・ベラは、2015年9月22日90歳でその生涯を終えたが、彼はアメリカのスポーツと文化の巨人であった。  18のオールスターゲームでプレーし、コーチ、マネージャー、キャッチャーとして13度ワールドシリーズの勝者チームに属していたと聞く。 ヤンキースやメッツに属し、1972年には野球殿堂入りを果たし、彼が没しても アメリカ人は彼の野球人としてのキャリアを決して忘れないだろう。 

彼は野球での素晴らしい活躍ばかりではなく、あのGreatest Generation(最も偉大なる世代=GI世代あるいは第二次大戦時代世代)の一人と呼ばれるに相応しい人であった。

第二次世界大戦中、ベラは合衆国海軍に属し、欧州戦域へ送られ、ノルマンディー上陸参加によってパープルハートメダル*やその他2つの従軍星章、欧州戦域での作戦のリボン(軍服の左胸などにつける色鮮やかなリボン)などを獲得した。 ベラは軍人としてもかなりな貢献をし、多大な名誉を得た。【*パープルハートメダルは、米軍従軍中に敵の行動結果として負傷または死亡した軍人に贈られる。 その他にも自らの命を顧みずに果敢に敵に立ち向かうなどもその受賞対象となる。 パープルハートは厳粛な殊勲に対しての叙勲であり、非常に名誉なことである。】

 

wistv.com

 

彼のその姓からも察せられるように、イタリア移民の両親を持ち、1925年5月ミズーリー州セントルイスで誕生した。 ヨギという呼び名は、アメリカンリーグで野球をしていた頃、選手で友人のジャック・マグワイアから付けられた。

ある時インドに関するニュース映画を観たマグワイアは、インドのヨガ行者(ヨギ)が腕と足を組み座るのを知った。 そして彼の友人が試合で出番を待つ間や、試合に負けた後などで、しばしそのような格好をするのを見ていた。 それで「ヨギ」とベラを呼び始めたのだった。 

私が敬愛を感ずるのは実は野球のキャリアやその功績にではなく、ヨギ語録と呼ぶ彼の語ってきたことだ。 今日のブログタイトルは、彼の名言(迷言)の一つである。  辻褄が合わないのに、何故かピンとくるものがあったり、納得できてしまう珠玉の言葉である。

それではヨギイズムのいくつかをここにご紹介しよう。

  • 特に将来についての予測は難しい。
  • 私たちはあまりにも多くの間違った間違いを犯します。
  • 世界が完璧だったら、そうではないでしょう。
  • 未来は以前のようではありません。
  • 両手利きになるように右腕をあげよう。
  • 5セント硬貨は、もう10セント硬貨の価値がない。
  • ゲームの前半で100%を与える必要があります。それでも不十分な場合は、後半で残りを与える必要があります。

2015年9月ベラは亡くなったが、「アメリカ合衆国の国益や安全、または世界平和の推進、文化活動、その他の公的・個人的活動に対して特別の賞賛に値する努力や貢献を行った個人」に贈られる大統領自由勲章Presidential Medal of Freedomを死後受賞した。 これは議会名誉黄金勲章Congressional Gold Medalと並んで国民に贈られる最高位の勲章である。

1998年ニュージャージー州リトルフォール市のその名前もヨギ・ベラ通りにあるモントクレア州立大学キャンパスにヨギ・ベラ博物館及び学習センターとヨギ・ベラ・スタジアムがオープンされ、博物館正面にヨギ・ベラの銅像が置かれている。 ニュージャージー州へお越しの際には、是非ともそこへお立ち寄りになることをお勧めする。

 

yogiberramuseum.org

ヨギ・ベラ博物館と学習センターに立つヨギ・ベラの銅像

 


賢く老いるフクロウ

2022-04-30 | アメリカ事情 人間性

grandmasnurseryrhymes.com

 

 

 

 

政治的利益のために人種差別を誤って操作することは、人種差別がもはや存在しないと一部の人々に信じさせるには良い方法かもしれない。 それはちょうど真心からと、せっせと千羽も一万羽も折り鶴を作りつなげて被災地や遠くの戦地へ送ることに似ている。 実際にはせっかくの「真心」こもった折り鶴は受け取り拒否でどこかに処分にも困って放置されていると聞く。 

少なくとも千羽鶴には政治的利益はあり得ないが、食料や生活用品やもしかしたら武器を最も必要とする人々にはなんの利益も救いももたらさない。 むしろそれを折る時間を祈りに使い、紙資源ももっと有効に使われるべきかもしれない。

人生の2/3以上を帰化アメリカ市民としてアメリカに住み、この国の人種関連で思うのは、保守や特にリベラルは、人種差別は最低限実際には問題ではないという仮定で現代を生きている風潮があることだ。

確かに奴隷制、リンチ、白人専用のバスルームはもうないし、公共の乗り物もホテルもレストランも肌の色で分けている所はなく、そんなことは違法だ。 だからヴィクター・H.グリーンの「黒人ドライバーのためのグリーン・ブック」ガイドブックは使用する必要がないし、第一1966年を最後にもう発行もされてはいない。 ほぼ全てのまともな人間は、肌の色に関係なく、人々を平等に扱うことを望み、志しているように見える。  それはそれで決して悪いことではなく、人々の意識の向上であるのかもしれない。

だが、気になる点がある。 それは人種差別に対する適切で前向きとされるアプローチは、色覚異常つまり色盲であれという点だ。 たとえば就学する子供たちに「自分とは違う人種のお友達の肌の色は気にしないで。 色の区別がつかないようにふるまいなさい。」と諭したり、大人でも「私は人間に関しては全くの色覚異常です」などというのだ。 

それはそれで逆に白人種以外の人種を否定する役割さえ透けてみえそうだ。 何故なら潜在意識の人種差別、犯罪統計に基づく人々のプロファイリングには誰も人種に対して色覚異常ではないことがわかるからである。 

ただし、人種の違いが親しい知人・友人間ならば当人達にはそう問題にはならないことが多い。 むしろ人種が違う友人・知人には気軽に祖先はどちらから、とか、その人種に特有の料理や習慣などを純粋な興味を持って話したりするものだ。

ここで人種への似非色覚異常を掘り下げるつもりはないが、そうした概念を持つ人は存在するし、しかしだからと言って、その概念を持つ人々が悪であるとは思わない。 そう、この世ではみな学びの徒であり、人種にかかわらず他人を理解し、奉仕する努力をしたいものだからだ。 

真から「黒人差別を無くしたいのならば、その話をしないことだ」、とモーガン・フリーマンは機会があるたびに強く述べる。 ご存知モーガン・フリーマンは、燻銀のような名役者である。 彼は、黒人大統領を演じた時、黒人の大統領を演じましたが、と聞かれ、「いいえ、私は黒人ですから、大統領を演じたまでです。」と返したことは有名である。 

アメリカでは2月1日から3月1日は、リンカーン大統領とフレデリック・ダグラスの誕生日があることから、黒人歴史月間とすることを1926年黒人の歴史家カーター・G・ウッドソンが提唱し始め、全米で知られるようになったのは、1976年合衆国政府が制定してからだ。 その際共和党のジェラルド・フォード大統領は、国民に「我々の歴史のあらゆる側面において、あまりにも軽視されてきた黒人アメリカ人の業績を見直す機会を捉えるようにしよう」と話した。 

この黒人歴史月間に対してもフリーマンは「おかしなことに世界中どこにも『白人の日』や『ユダヤ人歴史月間』はありません。」と述べ、公式に黒人歴史月間のどのようなイベントにも参加しない。 フリーマンは持論の「人種差別をなくすには、その話をしないこと」を文字通り実践している。 

子供のナーサリーライム、童歌に、Wise Old Owl, 賢い老ふくろう、というのがあり、モーガン・フリーマンの知恵や洞察はその詩が実によく合う。

A wise old owl lived in an oak;

The more he lived, the less he spoke;

The less he spoke, the more he heard.

Now wasn't he a wise old bird?

賢い古いフクロウはカシの森に住んでいた。
生きれば生きるほど、彼は話すことが少なくなった。
話すことが少なければ少ないほど、彼はより多くのことを聞いた。
さて彼は賢い老いた鳥ではなかったろうか?

 

愚か者は真実を知り、真実を見て、それでも嘘を信じる

             ーモーガン・フリーマン