歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

皇女は斎宮、悲劇の皇后へ

2022-12-24 07:05:09 | 奈良県
春に、母と奈良を旅したときのこと。

歩き疲れた母には宿で休んでもらい、ひとりで元興寺を参拝し、
ならまち」を散歩しました。

そのとき、偶然にも、井上皇后を祀った、井上神社が目に入り・・・
10代の頃の記憶が突然蘇ったのです。




むかしむかし・・・
高校生の時に読んだ、杉本苑子「藤原薬子」

薬子に、桓武天皇が倫理上の叱責をすると
(薬子も、すごい女性だからねぇ)
逆に、薬子は天皇の古傷をえぐり、冷笑します。

桓武天皇の古傷こそが井上皇后だったのです。

桓武天皇は、平城京遷都を実施した、日本史に欠かせない人物、
その天皇の「古傷」は、潔癖な高校生には衝撃でした。


その古傷とは・・・
「水鏡」「続日本紀」などにも書かれているそうですが・・・

772(宝亀3)年のこと、
光仁天皇(コウニンテンノウ)は后の井上皇后と双六遊びをしていました。
たわいない遊びに飽きた天皇は「勝った方に、それぞれ異性を与えよう」
と、言い出したのです。(はぁ?)

勝ったのは井上皇后
天皇は冗談のつもりだったのに、皇后は約束を守るよう迫ります。
このとき、藤原百川の思惑もあり、皇后の相手を務めたのが
光仁天皇の息子・山辺親王でした。

山辺親王は、母親の身分が低く、皇位継承の見込みはなく
当時は腐りきっていたので、すっかり捨て鉢に。
そこで、義母にあたる井上皇后のもとに通い、寵愛された・・・

実は、これは藤原百川の計略。
時期を見て、光仁天皇に注進しました。

「皇后が山辺親王に夢中になるあまり、
夫の光仁天皇を呪詛し、亡き者にしようとしている」と・・・

光仁天皇は激怒。
井上皇后の御封(ミフ)を止め、皇后位を剥奪して幽閉。
母の罪は子の罪と、他戸皇太子(オサベコウタイシ)も
皇太子の座を追われました。

三年後、母子は衰死、同じ日に亡くなっていることから、
毒殺や自殺だったかもしれないとも・・・

これが、「水鏡」などに書かれている「史実」とされています。


(井上神社の御由緒は年代物で、う~っ、読みにくい・・・)


さて、この旅をきっかけに、40年以上の時を経て、
気になりだした井上皇后
少しずつですが本も読んでみました。

10代だった私がアラカンですから・・・
この40年の間に歴史研究が進んでいるのも当然。

ここからは、一番おもしろかった
遠山美都男『天平の三皇女ー聖武の娘達の栄光と悲劇』(河出文庫)を
参考に、備忘録を兼ね、まとめてまいります。

まず、井上皇后は「イノウエ」ではなく、
「イガミ」あるいは「イノエ」と読みます。



(東大寺大仏殿)


「井上」は奈良の大仏開眼で有名な聖武天皇の娘、
井上内親王です。
ただし、母君は皇后・光明子ではありません。

そのため聖武天皇の長子でありながら、
井上内親王は10歳で伊勢の斎宮として下向、都を離れます。
清らかな暮らしをしていたものの、同母弟の死去による穢れから、
斎宮を解任され、都に戻りました。
以後、少女は28歳の女性として、新しい人生を送ることになります。

まずは、結婚。
お相手は、内親王より少し年上の皇族・白壁王です。
その後、当時としては高齢出産の40代で、他戸親王(オサベシンノウ)を
出産しました。この子が、後に母とともに亡くなる皇子です。

一方、聖武天皇の娘と言えば、
阿倍内親王、後の孝謙天皇が知られています。

こちらは次子ながら、母が藤原氏の出身である、光明皇后
藤原氏の権力により、臣下ながら初めて皇后に立った女性です。
(これ以前は、皇族でないと天皇の妻になれても「皇后」にはなれなかった)

光明皇后は、男子を出産するも、すぐに亡くしてしまいます。
そこで父・聖武天皇から皇太子に選ばれたのが
娘の阿倍内親王でした。

この時代の権力争いはすさまじく、
昨日の味方が今日の敵状態。

実際、即位し孝謙天皇となると、亡き父が皇太子と決め、
やがて天皇位を譲った淳仁(ジュンニン)天皇と仲違いしています。
そして、天皇を廃位し、自らが称徳天皇として重祚するのです。

一見、わがままなようですが、称徳天皇(孝謙天皇 阿倍内親王)は、
父の遺勅を守らねばと、いちずに考えていたのです。

つまり「天皇の位は、聖武天皇の血筋で継がれていかねばならない、
自分のあとには、同じ血筋の皇子が成長するまで、
中継ぎ天皇を立てればよい」・・・と。


(「ならまち」の元興寺、冒頭画像も。)


こう考えるにいたったのは、姉・井上内親王
他戸親王が誕生していたからでした。
この子が成長したらば、天皇位を譲る・・・
では、自分が退位した後、いわば「中継ぎ天皇」を誰にするか?

何かと問題の多い淳仁天皇はダメ・・・
では?となったときに、僧・道鏡が登場するのです。

道鏡と言えば、「ナクヨ坊さん平安京」と教えられた
794(延暦13)年の平安遷都につながる人物・・・
つまり僧侶が力を持ちすぎたから
平安京に遷都したのだと、学校で習ったはず・・・

今は、そういう見方だけではないらしいのですが・・・

とにかく、かつては、独身の女性天皇が僧侶にのぼせあがって、
天皇の位まで譲ろうとした(=だから女はダメなんだ)・・・と
今になって思えば、女性蔑視も甚だしく語られていた気がします。

ところが、最近では、二人は男女関係云々よりも、
称徳天皇が、仏教に深く帰依していた両親・聖武天皇光明皇后
教えにしたがい、自信も仏教で国を治めようとしていた・・・

そこで、人品ともに素晴らしく、また仏教の力もあわせもつ道鏡に、
「中継ぎ天皇」として即位させるつもりだった・・・と
考えられるようです。

実際、称徳天皇が、病篤く伏せっていたとき、
道鏡の祈りによって、回復し、それが縁で
彼に心酔するようになったとされています。

もちろん、道鏡の後は、姉・井上の子、他戸親王が即位すれば良い・・・と
考えていたはずなのですが・・・
称徳天皇が、死の床で、次の天皇として認めたのは、
姉の婿・白壁王だったのです。


(元興寺。飛鳥から運んできた最古の瓦として有名なのは本堂こちら向きと
食堂の左側奥。明らかに色が違う)


このあたり、何か裏がありそうながら・・・

宝亀2(771)年正月、
井上内親王の夫・白壁王が即位、光仁天皇です。
また息子の他戸親王が皇太子、井上内親王は皇后となりました。
こうして、聖武天皇の娘「井上」の人生は、華やかに絶頂期を迎えます。

ところが、翌年(宝亀3)3月ですもの。
井上皇后が呪詛を行ったと、皇后位を剥奪されるのは・・・

実は、井上皇后は、姉・称徳天皇が健在だった頃、
姉妹二人で末妹・不破内親王を陥れているようなのです。
おそらく陰謀の結果、不破内親王と皇子は遠流されています。

これは息子・他戸親王を、将来、天皇にしたかったから・・・
妹にも息子がいたので、ライバルを蹴落とすために
姉と結託したのです。

不破内親王は、称徳天皇とは母親が違いますが、
井上皇后とは母が同じ・・・
この時代、同母か異母かは大きいのです。
それだけに、井上皇后の罪は重いと見なされたのかもしれません。

この一件が、政治の実権を握る、藤原氏らには
井上皇后を警戒させるには十分でした。
その結果が、一連の皇后位剥奪事件へと、つながったのではないかと、
本の著者遠山氏は見ています。

ちなみに空位となった光仁天皇の皇太子となったのが、
井上皇后のもとに通ったとされる山辺親王
後の桓武天皇でした。

光仁天皇には、「井上」を母としない、他の皇子はいたのに!

「水鏡」などに書かれている双六に始まる一連の事件は、
真偽の程はともかく、井上皇后母子の死によって
終わったかに見えました。

ところが、そうではないところが、
歴史、時の流れのおもしろいところ♫



現在、「ならまち」井上神社の近くには、御霊神社があります。
ご祭神は、なんと、井上皇后、他戸親王の母子なのです。

しかも、東西の社殿には、早良親王(サワラシンノウ)、藤原広嗣(フジワラノヒロツグ)、
藤原大夫人(フジワラノダイフジン)、伊予親王(イヨシンノウ)、橘逸勢(タチバナハヤナリ
文屋宮田麿 (ブンヤノミヤタマロ)と、非業の死を遂げた人物が
ズラリと祀られています。

これらの人が亡くなると、都では不審な出来事が続き、
天変地異にも襲われました。

「これは、あの人達が怨霊となった祟りでは・・・?」
・・・ということで、その魂を鎮めるために
御霊神社が建てらたのです。

御霊神社」の「御霊」とは
「怨霊が人々に祀られ鎮まった状態」(小松:72頁)にあることです。
そして、その祟りがなくなったと見なされると、
「祟り神の英雄・偉人化、つまり『顕彰神』化がなされた」
(小松13頁)わけです。

未来永劫、この人を覚えておこうよね~、という顕彰化。
これが御霊信仰で、各地にある御霊神社の始まりなのです。


さて、ならまちの「御霊神社」は、
桓武天皇の詔によっての造営でした。

かつての山辺皇子光仁天皇の皇太子となり、
光仁天皇が亡くなると、桓武天皇として即位したものの、
ずっと体調が優れぬまま・・・

今でこそ、大勢が祀られていますが、
もともとは井上皇后母子のための神社でした。
同時に井上皇后の皇后位も復活、名誉が回復されています。

こういった行動を見ると、桓武天皇は、
そうとう気が咎めていたとしか思えません。
体調が優れなかったのも、良心の呵責による
ストレスだったのではないのでしょうか。

してみると、やっぱり井上皇后の一連の事件は、
陰謀だったといえそうです。





私が春に偶然通りかかった井上神社は、
江戸時代?に、町の人たちが井上皇后母子の霊を慰めるために
建てた神社だそうです。

いっぽうのならまち御霊神社の場所は、井上皇后母子が幽閉されていた、
もともとは元興寺の敷地でした。
元興寺は、奈良の時代、外京ながら、
壮大な伽藍を誇っていたそうですから、納得です。

なお、井上皇后は、元興寺に幽閉されているときに
光仁天皇の姉を呪詛した罪にも問われました。
幽閉中に、そんなことができるとしたら、監視は何をしていたんだ?
という話で、とにかく井上皇后母子が邪魔だったことが伺えます。

結局、井上皇后母子は、元興寺から、さらに大和国宇智郡に移され、
そこで亡くなっています。
(今の奈良県五條市の聖神社あたりか?)

今、ならまち御霊神社は、縁結びの人気スポット。
お参りした日も、若い女性が大勢、御朱印状を境内で待っていました。
これには、泉下で井上皇后も苦笑なさっているのではないかしらw

内親王→伊勢斎宮→皇族の妻→皇后→罪人・・・
井上皇后ほど、めまぐるしい人生を送った女性も、
史上、珍しいのではないかしら・・・

時代に巻き込まれたのは確かですが、
自らが飛び込んだ部分もある・・・

となれば、奈良時代の意思を持った女性として
とっても、惹かれるのでございます。

いずれは、井上皇后・終焉の地も訪ねてみたいと、
新たな野望に火がつきましたw


春に、井上神社を見かけ、10代の頃の記憶が蘇ったとき、
「もっと井上皇后について知りたい、
その上で、もう一度、ここに来よう」・・・
瞬時に、そう思いました。

それが、この12月の旅へとつながりました。

おそらく井上皇后の件がなければ、
しばらくは奈良へ行かなかったかも、
少なくとも年内には、なかったでしょうw

「三つ子の魂百まで」ではありませんが、
年齢を重ねると、人は、結局、好きだったモノ・コトへと
戻っていくんですね・・・♥

*********************
長々と失礼致しました。

最後まで、お読みいただいた皆さまに、感謝申し上げます。
どうもありがとうございました。

なお、本文については参考文献をもとに、まとめたものです。
勘違いや読み違いもあるかと存じますが、
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。

◆参考
●「杉本苑子「藤原薬子」『政権を動かした女性たち』
 (「人物日本の女性史」5)集英社
●遠山美都男『天平の三皇女ー聖武の娘達の栄光と悲劇ー』河出文庫
●小松和彦『神になった人びと』淡交社

この記事についてブログを書く
« お城EXPOで・・・「島原の乱... | トップ | 藤原京は優美に~古代の都へ »
最新の画像もっと見る

奈良県」カテゴリの最新記事