
広島への旅。
広島・HIROSHIMA、原爆のこと・・・わからないことだらけ。
いろいろあるので、素朴な疑問から解決していくことに・・・
まずは、夫からの問いで、爆心地を訪ねてみた。

次は、わたしの素朴な疑問を解決。
「平和記念公園って、昔は、なんだったの?」
平和記念公園とは、「原爆死没者慰霊碑」のある公園だ。
こんなに広い場所、原爆投下以前は何だったのだろう?

原爆投下の8月6日、毎年、ここで式典が行われる。
テレビ中継されるので、広い公園であることは知っていた。
でも、原爆投下以前は、どんな風だったか、
今までにアナウンスはなかった(と思う)
(以下、古写真の画像は『広島、1945』より)

今回、以下のことを知った。
・・・・・・原爆投下以前の「平和記念公園」は
「中島地区」と呼ばれていた。
かつては、元安川と本川に囲まれている、水上・陸上交通の要衝、
現に今も、旧・広島産業奨励館(原爆ドーム)玄関前には、
雁木(船着き場)の跡が残っている。
交通の要衝には、問屋や、商店、銀行も集まる。
明治の頃には、広島で最初の「集産場」も開かれ、
連日、買い物客でごった返していたそうだ。
「集産場」とは、芝居小屋や寄席、映画館などの娯楽を中心に
小売店が集まっていた「ショッピングセンター」をいう。
さしずめ、現代の「ららぽーと」や「イオンモール」だろう。

ここは、市内有数の繁華街というだけでなく、
昭和3(1928)年までは市役所もあり、
県庁や県病院も近かったそうだ。
つまりは市政の中心地だったとも、いえる。

当時の小売店は、自宅と商店を兼ねた個人商店なので、
当然、住んでいる人も多い。
戦争が始まると、建物疎開のための立ち退きはあったものの、
それでも、1300世帯、約4400人が暮らしていたという。
それが一瞬にして・・・

エノラ・ゲイ号の原爆投下目標は、相生橋だったと聞く。
相生橋は、中島地区と市内を結ぶ、珍しいT字型の橋。
当時も今も路面電車が走るため、幅も広い。
目標にしやすかったことは想像できる。

思えば、わたしも、迂闊だった。
平和記念公園を造れるだけの、こんなに広い土地・・・
しかも爆心地に近い。
当然、一瞬にして、壊滅してしまった。
街も人も消えたから、公園として整備できたのだ。
そのことに、なぜ気づかない?呆れた。
考え浅く、「第五師団の関連施設だったのかなぁ~~」
などと、考えていたのだから恐れ入る。
そういえば「中島地区は繁華街だと知っていた」
ことを思い出した。
最近、興味のあることでも、すぐに忘れてしまって、かなわない。
ま、忘れたら、また思い出せば良いよね・・・
でも、昭和20(1945)年8月6日、
広島で起こったこと。
それは、絶対に忘れてはいけないし、忘れない。
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お読みいただき、どうもありがとうございます。
本記事は、以下を参考にまとめましたが、
勘違いや間違いもあることかと存じます。
素人のことと、お許し下さい。
参考:
南々社編集部(編著)『広島、1945』南々社
(広島平和記念資料館で購入しました。)