歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

元寇・遺跡の眠る鷹島へ

2023-05-18 06:25:08 | 長崎県
先日、佐賀を旅し、以前から行きたかった
長崎県松浦市の鷹島へも足を延ばした。

ここには、国史跡「鷹島神崎遺跡」がある。
珍しい「水中遺跡」で、長期にわたり、継続的な調査が行われているのは、
国内では鷹島だけとのこと。

実は、鷹島は、元寇の戦場跡なのだ。


元寇とは、ざっくり言って、鎌倉時代にモンゴル帝国(元)から
二度にわたり「侵略を受けた出来事」。

1度目を文永の役(1274)、2度目を「弘安の役」(1281)と言う。
既に弱体化していた鎌倉幕府が倒れる原因の一つとしても
挙げられる。

鷹島は、2度とも大きな犠牲を出しているが、
ともかく、今は水中遺跡関連についてまとめたいので
2度目の「弘安の役」から、始めたい。



この2度目の戦いは、元軍も本気だった。
1度目は、無礼の数々を働いた日本を、ちょっと脅かしてやれといった
示威行為の説もあるくらいだが、
2度目は、本気も本気。

なんと、元軍は、約4400隻の軍船、14万人あまりの大軍で
現われたのだから。
先発の江南軍と東路軍の二手に分かれ、博多を攻めた。
しかし、元軍は、思いのほか、手こずってしまう。

というのは、幕府も、1度目「文永の役」で懲りており、
この7年の間に、博多を守るため海岸線に石塁を築き、防戦したためだ。

元軍は、作戦を変更。
全軍挙げて、博多を攻めることにする。
平戸沖で合流した両軍は、博多に向かう途中の鷹島沖に停泊した。

元の船団は、40mの長さもある軍船を中心に、
大小の船が取り巻いていたという。
おそらく、びっしりと鷹島沖を埋め尽くしたはずだ。

まさに、この海にびっしりと!↓
「そりゃ、こわいよ~」と、令和の海を眺めながらも、身震いした。

迎え撃つ日本軍は、大軍に覆われた海を認め・・・
明日は戦いだ、命はないだろう・・・と
覚悟して夜を過ごしたにちがいない。



ところが・・・

翌朝、閏7月1日(新暦7月30日)鷹島の沖を眺めると、
元軍が消えているのだ。

この前夜、鷹島を暴風雨が襲った。
台風だ。

このときの台風は、東シナ海に発生した、
もっとも大きな被害を出す、危険な台風の型と、
現在の調査で、わかっている。

しかも、この台風は、沖合から鷹島側へと風が吹き寄せるという。
・・・ということは、鷹島沖に停泊していた元の船団は、
ことごとく鷹島に打ち付けられ大破、沈んでしまったのだ。

無事逃げ延びた船や、生き残って再び日本軍と戦った元軍も
いるにはいた。
だが、大半は鷹島へ沈み、今でも、鷹島の海中に沈んでいる。

それが水中遺跡「鷹島神崎遺跡」である。
(↑画像が遺跡をセンターから見たところ 下は説明板)



鷹島海岸では、古くから、地元の漁師が、壺類や刀剣、碇石などを
引き上げ、家宝として代々伝えてきたという。

松浦市立埋蔵文化センターを開くにあたり、
町が呼びかけたところ、さまざまな遺物が持ち寄られてきたそうだ。
その中には、将来の国宝と思しき品もあり、
今、町役場の金庫に納められているとのことだ。

(お宝については、また後ほど、別記事で)



ところで、なぜ、博多へ行くのに、
元軍は、わざわざ松浦を通ったのか?

これが、松浦党ゆえなのだそうだ。

元軍とは言うものの、内実は多民族軍団で、
東路軍は元軍と高麗軍、江南軍は旧南宋軍で構成されている。

高麗も南宋も、松浦党には悩まされていた。
松浦党、松浦の海を根城にする、簡単にいえば海賊だ。
朝鮮や大陸では「倭寇」として恐れられていた。

元軍、というより高麗や南宋軍は、
長年、悩まされてきた、松浦党へ報復のため、
わざわざ松浦に現われた。

鷹島を含め松浦一帯では、
住民をも巻き込まれ・・・悲惨な戦場となってしまった。

ちなみに、『佐賀県の歴史』によると、
松浦党は、13世紀に活動のピークを迎えるそうだ。
つまり元寇の後のこと。



以上のような説明を、
松浦市立埋蔵文化財センターガイダンス施設スタッフさんより
展示物を見ながらしていただいた。

また海中から引き上げた遺物をトレハロース(!)を使って、
保存・防腐処理を施す過程なども見学できた。
↑同センター内部には松浦市立水中考古学研究センターが置かれ
そこでの活動である。これが、実に面白かった。

保存の処理をするために、
以前、薬剤を使っていた頃は14年間、
トレハロースを使うようになってから半分の7年に短縮されたという。


それでも気の長い話だが、
さらに、さらに気が遠くなる話がある。

4400隻の大半が沈んでいるのは、わかっているのに、
まだ3隻ほどしか調査をしていないのだという。


今、国立の研究所を建設すること急務だ、と
スタッフさんは、おっしゃる。

市どころか県レベルでも、とても追いつかない。
早く、どうにかしなければ、と、素人でもわかる。

今まで、地方任せだったとは、信じられない・・・

**********************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
本記事は、わたしのメモやいただいたパンフレットと
以下を参考にまとめました。

間違いや勘違いもあるかと存じますが、
歴史の素人ということで、お許し下さいませ。

◆参考
杉谷昭他『佐賀県の歴史』(「県史」41)山川出版社
宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本』
 扶桑社新書

コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 80年を経て語る「あの頃のこと」 | トップ | 元寇、海は語る~長崎県・鷹島 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (fuhchan2399)
2023-06-15 06:56:39
蒙古軍の実態、井上靖の風濤で読んだことがあります。
返信する
fuhchan2399さま (ぴあ野)
2023-06-15 15:38:06
井上靖作品(主に「蒼き狼」)を
参考文献に挙げた宮脇淳子氏の新書は、
けっこうバッサリでしたw
返信する

長崎県」カテゴリの最新記事