歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

いつかのための横浜・覚え書き

2022-12-04 06:18:59 | 神奈川県
繰り返しになりますが・・・
上越に端を発した、戦後史への興味は、今、地元・横浜に戻ってきました。

一気読みした、
清水聡『戦犯を救え BC級「横浜裁判」秘録』(新潮新書)は
私でも知っている場所や人が出てくるのに、知らなかった史実があって・・・

こうなると、すぐにでも、現地へ行って確かめたいところなのですが・・・
コチラとあちらの予定が合わず、しかも師走。
横浜・歴タビ(散歩かな)は、年明けに持ち越しです。

いつかの日の歴タビのために、
この本からの情報や、母の昔語りなどで
参考になることを、ちょこっとまとめておきたいと思います。



まず、本の内容ですが・・・

「横浜裁判」とは、横浜地方裁判所で行われた、
BC級戦犯の戦争裁判です。
罪状は「通例の犯罪」「人道に対する罪」、具体的に言うと
捕虜の虐待や殺害など、残虐な事件に関わったということでした。

横浜では331件、1039人が起訴され、裁かれた・・・

その弁護をした日本人弁護士、たとえ英語は得意ではなくとも・・・
「食糧難の中で、慣れない法廷と不利な扱いに苦闘しながら、
それでも戦犯を救おうとした人々」15頁でした。

詳しくは、いつかの歴タビ後に、まとめるとして・・・



今回は、その一部。

「偕楽園」は、「はまれぽ.com」によると・・・

磯子の花街にあった、超がつくほどの高級料亭で、
昭和に入ると、横須賀に近いことから
海軍指定料亭となったそうです。

ここで、わたしの疑問点。
前記事「母の昔語り~童謡の記憶」で、戦後、幼稚園生だった母は、
料亭「雨月楼」の前で流される、童謡「南京言葉」を市電に乗ると
歌っていたと申します。

市電は花街の中を通っていたの?
子どもでも歩けるようなところに?

母の答えは、「雨月楼」が花街との分岐点だったのではないかとのこと。
ここは屏風ヶ浦から続く美しい海岸線で、一般人も楽しんでいました。
そこから折れた奥に、花街が続き、偕楽園があったのだろうとのこと。

「はまれぽ.com」に地図や説明がありますが、
方向音痴の私には、さっぱりわからないので、
これも、いつか、現地で確認したいと思います。


さて海軍御用達だった、超高級料亭「偕楽園」の戦後。

横浜裁判が始まると、第一復員省(旧陸軍省)と第二復員省(旧海軍省)は
偕楽園の大広間と一部の部屋を借り上げました。

裁判で、被告のために証言してもらう証人、弁護士、
そして傍聴に来る被告の家族のためにです。

当時は戦後すぐの混乱期、
地方にいる人たちがやってくるのは容易ではなく、
食糧持参で移動するのが当たり前でした。

といって、滞在用の食糧を用意するのは、
庶民が、おいそれと、できることではありません。
そこで、復員省が、あらかじめ「食糧・燃料・寝具」を宿に用意し
便宜を図ったのでしょう。

また、弁護士にも、俸給として米が与えられたので、
これに惹かれ、弁護を引き受けた人も多かったそうです。(95頁)

(俸給が米とは江戸時代じゃあるまいし・・・などと、
令和の今でこそ、考えてしまいますが・・・)

でも、偕楽園の食事はお粗末だったそう。

弁護士が巣鴨プリズンに収容された被告と接見後、
そのまま食事が出されたので、被告と一緒に食べたところ、
偕楽園よりも、よっぽど内容が良く、愕然としたと書かれていました。

以上が偕楽園についての覚え書きです。



その他についても、いくつか。

わたしの記憶にある最初の横浜市長だった飛鳥田一雄。
(1963~1977在任)後に、社会党委員長にもなりました。

その飛鳥田さんが、若き日、父・喜一と共に、弁護士として、
横浜裁判に、奔走したということも、初めて知りました。


肝心の裁判の舞台となった、横浜地方裁判所。
どっしりとした石造りの建物は、
「タケノコ建築」にはなりましたが、健在です。

洋館の並ぶ、この通りは、大好きな場所で
ちょくちょく立ち寄るカフェもあります。

今は銀杏並木の黄葉もきれいだろうなぁと、
出かける算段をしましたが、どう考えても、師走の今は厳しい。
自分の体力を考えると、あとで響きそう・・・

・・・と、これも、いつかの日に。


裁判所内のかつての法廷は、今、市内に移築復元されているそうです。
横浜裁判当時のものと時代的にズレるものの、当時の名残もあるとか。
公開が限られた日だけなので、これも、私と予定が合わず・・・
年が明けたらの、いつか日に、ぜひ見学を、と意気込んでいます。



父も母も横浜に生まれ育ち、
わたしもアラカン人生のほぼ全てを横浜で過ごしました。

だからこそ横浜が舞台となった歴史を知りたい、
そして母が元気なうちに、庶民の見た横浜の話を、
できるだけ聞いておきたい・・・

大きな歴史の中で、母や祖父母が、どう生きてきたのか
知りたくてなりません。

長々と、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

◆画像は、先週、出かけた横浜みなとみらいで撮影しました。

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