歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

永井隆生い立ちの家

2024-05-24 17:40:08 | 島根県
雲南市永井隆記念館(↓)で教えていただいた、
「永井隆生い立ちの家」。
道を教えてもらい、雨脚が強くなる中、車を走らせた。



本日の記事は、そのときに撮影した画像をアップし、
永井隆記念館で購入した『永井隆さんの生いたちガイドブック1⃣』と
永井隆『村医』(アルパ文庫)を参考にする。

ガイドブックは、地元「飯石(イイシ)」に残る写真や
証言をまとめたガイドブックである。



『村医』は博士の両親が、この地で医院を開業した1年を
題材にした「小説」である。登場人物は、もちろん仮名だ。
それでも、土地の雰囲気や博士の育った環境が伺えようと
あえて、参考にしたことを、最初にお断りしておく。

(以下、敬称略)


まず、永井家と現・雲南市との関わりを確認する。

博士の祖父・文隆(フミタカ 1848ー1908)は、
仁田米(美味♥)で知られる奥出雲町の出身で、
旧飯石郡(現雲南市)に、30歳頃から亡くなるまで
村医(漢方医)として活躍した。


文隆の長男・寛(ノブル 1880ー1939)は、この地で生まれ、
やんちゃな少年時代を送る。
地元の小学校を退校させられ、何度も転校、
結局、小学校の学歴すらないと言うから、相当だ。

それでも、20歳の頃、一発奮起、松江市田野医院(既に解体)で
書生として住み込み、猛勉強。

何事があって登(『村医』の名)が発奮したのかわからないが、
石にかじりついても医者になり、父の跡をつぐ決心したのであった18頁


5年後、医師の国家試験一次二次を同時に合格した。
全国で同時・合格はたった2名だけという快挙だった。

その後、寛は松江の田野病院に戻り、
今度は医師として働き、安田ツネと結婚。
隆は、田野医院の2階で産声を上げる。


その翌年、一家三人は、いよいよ飯石(イイシ)村へと移り住む
田野医院の院長の推薦を受け、医師のいなくなった村で
開業することになったからだ。

人力車に揺られて、やってきたのが、
現在の「永井隆生い立ちの家」。
ちょうど売りに出ていた農家を医院に改築、
山から水を引き、「養生堂永井医院」はスタートした。




さて、令和の今・・・

かつての永井医院までの道のりは、けっこう遠い

失礼ながら永井隆記念館も、なかなかな山深い印象だった。
(なんせ目の前には山城がそびえているほど!)
ところが、生い立ちの家は、さらに上をいく。



この山深さは、隆少年の時代と変わらないのではあるまいか。
夢中で撮影した画像をアップしたので、
おわかりいただけるはず・・・w

まるで山のすりばちの中だった...谷底を東から西へ小川が流れ、
それに沿うて村道があった。村道の両方の端は、まるで手品のように
山で切られていた。とにかく買った家は南向きの山腹に二つ並んだ、
この西の方のわら家だった。120-121頁

『村医』作中で、が景色を眺めた場面である。
その前を人も犬もイタチも通らず、ただキジが鳴いただけ・・・と続く。



かつては、この家のすぐ下にバス停があったそうだが、
今は見当たらなかった。バス便は、なくなったのだろうか?

『村医』は、開業した医師夫妻の悪戦苦闘の日々が描かれる。
簡単にいえば、古い因襲がはびこる中、政治的な駆け引きは盛んで、
若い医師夫妻が掲げる、衛生観念や医療への偏見との闘いの日々
でもあった。

たとえばジフテリアが流行した時のこと。
薬を飲まそうとしない家庭、
必要ないと言いきった舌の根も乾かぬうちに、
我が子が罹患すると薬を手に入れようとする、土地のお偉方・・・

どこまでがフィクションかはわからぬのだが、
隆が両親から聞かされた昔話もあったのではないだろうか。

一方で、生活文化誌として読めば、
明治初期、農村の暮らしとして民俗学的な興味も満たされる。
『村医』は、そんな一冊だ。



さて・・・

松江で生まれた隆は、この農村で成長する。
頭が大きく、難産の末、生まれたためか、成長しても
頭が大きく、帽子が入らなかったという。
そこで、ついたあだ名は「タカシャッポ

三人の妹、弟一人の長男だったせいか、
穏やかで成績もよかった。
だが、松江中学の入試では、補欠の3番に甘んじた。
その後、発奮し、卒業時は主席だったそうだ。



卒業後は松江高校を経て、長崎医科大学で学んだが、
故郷をわすれることはなかった。

夏休みに帰郷すると、近所の子供たちと遊び、
若者たちと芝居を楽しんだという。
観るのではなく、脚本演出を自ら手掛け、役者もこなす。
皆に愛される、多才な人だった。

大学卒業と同時に徴兵検査に合格、
軍医として大陸に出征している。
のちに、この体験を母校・飯石小学校で話したが、
巧みな話術で子供たちを引き付けたという。

終生、地元との交流は続いたそうだ。


今、隆の母校・飯石小学校長崎市立山里小学校
姉妹校となっている。
山里小学校は、爆心地にも近く、隆や教員、生徒の手で
「あの子らの碑」が建てられた学校である。

永井隆という偉大な名前は、
これからも語り継がれていくことだろう。



最後に我が母のことを書いておきたい。

一昨年、長崎へ母と旅し、「如己堂」(↑)を訪ね、
それはそれは喜んだ。

本当は、津和野の「乙女峠」(↓)にも行きたがっていたのだが、
おそらく、あの山道を、母は、もう登れないだろう。

80代も半ばになった母であるが、
永井隆博士の名は、少女時代から燦然と輝いているのだ。



母に繰り返し聞かされた話がある。

「小学生の時、朝、学校へ行ったら、シスターが
『永井隆博士が、亡くなりました。
皆さん、博士のためにお祈りしましょう』って集められて、
お祈りしたの。

子どもだから、よくわからないんだけれど、
えらい人が亡くなったんだなぁってことだけは、わかったわ。
それで永井隆って覚えたのね、きっと」



わたしが永井隆博士に惹かれるのは、
そんな母の影響もあるのかもしれない。

********************

おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

永井記念館の資料や以下の本を参考にまとめましたが、
素人のことゆえ、間違いや勘違いもあるかとじます。
どうぞお許しくださいませ。

参考:
●『永井隆さんの生い立ち ガイドブック1⃣』 雲見の里いいし
●永井隆『村医』(アルパ文庫)サンパウロ
この記事についてブログを書く
« 永井隆博士のこと~プロローグ | トップ | オンライン対談イベント »
最新の画像もっと見る

島根県」カテゴリの最新記事