歴史の足跡

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歴史は語る②”ヤマトタケルの英雄伝説”

2014-08-23 06:50:49 | 例会・催事のお知らせ
二、“ヤマトタケルの英雄(えいゆう)伝説(でんせつ)”

古代伝説で最も日本人に人気の高いヤマトタケルの説話は、景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の御子(みこ)であるヤマトタケル命(小碓命)である。八十人からいる御子の中でヤマトタケルを含めノ三人御子が皇継と思われていたが、幼少の頃に腕力と乱暴で誤解を受ける。話の食い違いのために、兄御子を掴み潰(つかみつぶ)し殺してしまった。以後父王に疎んじられ冷遇された。

生い立ち編
この筋書きで『古事記』『日本書紀』とでは随分違って述べられている。
最初の編で『古事記』は兄の大碓命は父寵妃を奪った。父の指示に従わなかったので諭(さと)すように(注意くらいする様に指示)乱暴にも素手でつかみ殺してしまった。
その腕力に恐れをなした天皇は、ヤマトタケル(小碓命)を遠ざけるためか疎まれ、遠ざけるために、九州の支配者クマソタケル兄弟を討ち取るように命令をした。
僅かな従者しか与えられず小碓命は良き理解者の叔母倭姫命の住む伊勢に赴き女装の衣装を授かる。この頃は少年の年頃に描かれている。
『日本書紀』では兄殺しの話も無く、父天皇が平定をした九州に再び叛乱が起き、十六歳の小碓命が討伐に遣わされ従者も与えられている。叔母の倭姫命も登場しない。
※『古事記』では父天皇と小碓命の凶暴性を描き親子の不信がと小碓命は少年として表現している。伊勢の斎(さい)王(おう)の倭姫命も支援をしている。
『日本書紀』には父天皇が九州の叛乱を収めた実績を記述されていて、国難の叛乱を征伐する役割が明記されている。
※神話部分でも古代編の説話には兄弟の跡目争いが出てくる。大方の場合弟が良識ある人物として描かれ、兄が無謀と理不尽に悪者として登場する場合が多く、東南アジアや中国の伝説、説話と取り入れた形跡が窺える。
小碓命は天皇に疎んじられ暴力的な人物像に仕立てられている。良き理解者の斎王の倭姫命は伊勢神宮の皇統を強調するために挿入されたのかも知れない。
ここでは兄の大碓命は目立った活躍はなく、『日本書紀』には大碓命の場面は描かれていいない。


熊襲(くまそ)・出雲(いずも)征伐編(せいばつへん)
『古事記』ではヤマトタケルは「倭建」と表記、熊襲と出雲征伐に関して『古事記』では叔母のヤマトヒメから御衣と御裳とお守りを受け取ると意気揚々と西に向かった。
九州に着くと熊襲の首長クマソタケル兄弟の館に辿り着いた。その時には宴会の最中、護衛の隙を窺って潜入し策を練って叔母からもらった品で女装をした。
少女に変装したヤマトタケルはクマソタケル兄弟に近づきお酌をした時に懐中から取り出した剣で二人を討ち取った。
絶命の際にヤマトタケルの名与えた。クマソ征伐を終えたヤマトタケルは九州から出雲国に入り、猛々しいイズモタケルと友情を結び、肥の河で水遊びに行って腰に付けていた剣を、木の偽物とすり替え、水から上がったイズモタケルに決闘を申込み、騙し討ちにして殺した。
『日本書紀』ではヤマトタケルを「日本武尊」と表記、九州に入った日本武尊は熊襲の首長梟師タケル一人される点と天皇家に従属的な面を除けば、ほぼ同じ筋書きになっている。
『日本書紀』には出雲タケルの説話は出てこない。熊襲退治の後は吉備や難波の邪神を退治して水陸の道を開き天皇称賛と寵愛を受ける。

※熊襲・出雲建については下記の◆を参照・

東征出発編
『古事記』には手柄を立てて帰還した倭建命に労いもないまま、父王は東征を命じた。
東征に赴く途中に伊勢に居る倭姫命叔母にあって、父王の冷たい仕打ちに嘆き胸の内を明かした。
そして東征に行く倭建命の身を案じ、身を守る為の品々を叔母は手渡した。草薙の剣と困った時に明ける袋を貰って東征に赴いた。
叔母倭姫命から授かった品々は伊勢神宮に在った神剣、草那(くさな)芸(ぎ)剣(つるぎ)と袋は窮地の時に開けるように言われる。
『日本書紀』には当初大碓命が将軍に選ばれたが怖気つき逃げ出した。かわって日本武尊が行くと名乗りを上げる。天皇は称賛と皇位を譲ると約束をする。吉備氏や大伴部氏を随行させる。日本武尊は伊勢で叔母に草薙(くさなぎ)剣(つるぎ)を賜る。

東征編
『古事記』倭建命は尾張の国造家に入り、美夜受媛と婚約して東国へ赴く。
伊勢・尾張から相模国で悪い国造に騙まし討ちに遭い、窮地に叔母の貰った袋を開けて火打ち石と剣で、敵から放たれた火の海から脱出、悪い神を倒した。
さらに東に進み、走水(浦賀(うらが)水道(すいどう))で大嵐(おおあらし)に会い、妻の弟橘姫が海神を鎮めるために自ら身を投じて助かるが、その後姫の櫛が海岸に見つけられた。
やがて東国の蝦夷を平定し、足柄山に着き、甲斐・科野国へとたどり着き、尾張に着いて、この地で見初めた美夜受媛と結婚する。美夜受媛に草薙剣を預け、伊吹山の「山の神」を退治するために山に登った。
途中に白い猪に出遭い、帰りに退治しょうと行き過ぎた時、白い猪は侮られたと怒って、大粒の雹を降らせ倭建命を打ちのめした。
傷つき衰弱したヤマトタケルは伊勢国の能煩(のぼ)野(の)まで辿り着き、「倭は国のまほろ場・・」と言って息絶えた。
『日本書紀』尾張での対応する話はない。相模の話はほぼ同様、悪い国造を火打ち石で迎え火を付けるだけで、剣は出てこない。
征伐の順路が上総から更に海上を北上し、北上川流域に至る。その後甲斐に入り武蔵・上野を廻って群馬の鳥居峠から信濃に入り、坂の神の蒜(ひる)を殺し越に廻って吉備武彦と合流して尾張に至る。
日本武尊は伊吹山では山の化身の大蛇をまたいで通ったために、神は怒り氷を降らし意識が朦朧(もうろう)としたまま下山し病身になった。
尾津から能褒野に帰る途中で伊勢神宮に捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わせ報告した。

終末編
『古事記』倭建命の死の報せを聞いて、大和から訪れた后や皇子は陵墓を築いて周囲を廻り悲しみの歌を討遭った。やがてヤマトタケルの遺体から白鳥が舞い上がり、大和に向かい、河内は志紀に留まった。その地に御陵を造った。
やがてその白鳥は何処かへ飛んで行った。
『日本書紀』父天皇は日本武尊の死を聞いて、寝食も進めず、百官に命じて日本武尊を能褒野に葬るが、日本武尊は白鳥となって大和の方に向いて飛んで行った。

★景行天皇・『記紀』には第十二代天皇。和風諡号では大足彦仁代別天皇。父は垂仁天皇、母は丹波道主王の娘。
日本武尊・成務天皇・五百城入彦等の父。『記紀』にあるように全国支配の確立期としてこの天皇の位置づけ。
★倭姫命*垂仁天皇の皇女。伊勢神宮の起源譚の主役で伝承上の初代斎宮。豊鍬入姫命に関わって天照大神を身に着け、鎮座地を求めて近江・美濃を経て伊勢に至った。
★熊襲『古事記』『日本書紀』に登場する、南九州に居住するヤマト王朝に服従しない豪族、『古事記』には大八島国の国造りの項目に『筑紫嶋』四面の一つ熊曾(くまそ)国(くに)とし建日別と言う。『古事記』熊曾(くまそ)『日本書紀』に熊襲と表記する。熊を表わす字体に地名「球磨」と大隅国の「隅」の熊からの連称とする説があるが明確ではない。
★出雲健*『記紀』に登場する支配者。タケルが勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)な事を表わす普通名詞ならば、出雲地方の勇敢な支配者のタケルと考えられ、物語が肥河で沐浴のあと受け取った太刀は木刀であった説話が出てくる。

※ヤマトタケルは皇位を継承はできなかったが、御子が皇位を継いでいる。熊襲征伐は先住民族の隼人を指し、出雲征伐は古代出雲王朝が有ったかも知れない。
東征は先住民の蝦夷が住んでおり大和王朝に服従させるための、大和朝廷の支配拡大に大きく寄与した。
またヤマトタケルの戦略手法は決して正々堂々と言ったものではなく九州の熊襲征伐には姑息な一面も赤裸々に説話は解かれている。





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