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『古事記が語る古代の世界・」全34回・32・顕宗天皇

2016-04-09 19:55:19 | 日記

『古事記が語る古代の世界』 全34回

三十二、顕宗(けんそう)天皇(てんのう)

顕宗天皇
伊弉(いざ)本別(ほんわけ)王(みこ)(履中天皇)の御子、市辺(いちへん)忍(おし)歯(は)王(みこ)の御子で袁祁(おけ)王(みこ)である。
近つ飛鳥の宮において天下統治をされた。天下統治されること八年であった。
天皇は石木王の娘の難波王と結婚された。

※説話解釈・御名は弘計(袁祁)命で、兄の億計(意祁)命とは双子の弟、牛飼い、馬飼いの職業を因んで呼ばれた。
宮廷の天下統治の譲りの編は、美談として創作されたものと思われる。双子の王は歌垣の舞で身元素姓を告白して、一挙に皇位継承の候補に登る。その詳細は歌垣と帝位の編で語られている。
顕宗天皇兄弟は、雄略天皇に殺されたので、身分を隠し、播磨の国に逃亡したとされ、志自牟の所で使役された。兄弟が発見されたのは、新嘗の供物を徴収するために派遣された、山部連の小楯が新築祝いに参入したことによって、身分が発覚された。父王の仇を討つために雄略陵を破壊しょうとしたが、兄の諌めによって思い留まったという。
天皇としての評価は、民への労役も少なく、儒教的な仁政をされた。皇后には皇子が無かったという。

置(ちき)目老溫(めのおみな)
この天皇は父王の市辺王の骨を探しておられた時に、近江の国に住む卑しい老女が参上して「王子様の御骨を生めた場所は私がただ一人知っております。
また遺骸は御歯で知ることができます」(市辺王の歯は一つの歯の根に三つに別れ大きな歯であった。)そこで民を集めて、土を掘り、その骨を捜した。
それは蚊屋野の東山に、御陵を造りお葬り成された。韓(から)袋(ふくろ)の子にその御陵を守らせた。その後に、父王の骨を河内の近飛鳥宮に持って行かれた。
その後、教えてくれた老女を忘れず覚えていてくれたことに、誉めて、名を下さり、置目老溫と名付けられた。手
厚く多くの恵みを授け与えた。老女の住まいを宮の辺りに造り、毎日決まってお召しになり、鈴を引いて鳴らしになった。そして歌を詠みになられた。
浅茅(あさじ)原(はら)から 小谷をわたり
遠く伝わる 鈴が揺れて鳴るよ
置目がやって来るようだ
ある時、置目老溫が「私めは、たいそう高齢でございます、故郷へ帰りたく思います」と申した。
それでその申し出通り下って行く時天皇は見送って、歌って言われた。
置目よ 近江の置目
明日からは 山の彼方に隠れてしまい
見えなくなってしまうなあ

猪飼(いかい)の老人
始め、天皇は父王の市辺王を殺される災難に遭い、逃亡された時に、その召し上がり物を奪い取った猪飼の老人を捜された。
捜し出し、都に呼び出されて、飛鳥川の河原で斬り殺しことごとくその一族の者に膝の筋を切る刑に処した。
これ以後、今日にいたるまで猪飼の子孫が大和に上がる時には,真直ぐに歩けなかった。それで猪飼の老人のいる場所には良く見える標識を立てた。その地名を志米湏(しめす)という。

雄略(ゆうりゃく)の天皇陵破壊
天皇はその父王が殺された大長谷天皇(雄略天皇)を深く恨まれて、前天皇の御霊に報復をしたいと思われた。
そこで大長谷天皇陵を破壊するには、他の者を差し向けてはなりません。もっぱら私一人で行き、天皇の御心通り破壊して参りましょうと申した。
兄が言ったので天皇は「それならば言われる通り行ってください」と言われた。そうして兄の意祁命は、自ら河内の国から下って行かれた。
兄王は大長谷天皇陵の墓を傍らを少し掘り削っただけで、帰って来て報告をした「すっかり掘り壊してきました」と告げた。
天皇は早く帰られて不思議に思い「どのように破壊なさったのか」兄王は答えて、「御陵の傍らの土を少し掘り起こしました」と申した。
天皇は少しの壊しで不満に思われた。兄王は天皇に「父王の恨みを晴らすのに、大長谷天皇の霊魂に報復をしょうと思われるのは最もですが、けれど大長谷天皇は父王の仇ですが、裏を返せば伯父王です。また前天皇です。
今ただ単に仇を討つだけで志を立てると為に、御陵を壊したりすると後世の人々が必ず非難するでしょう。
そこで父王の恨みを晴らすために少し掘っただけで、羞恥を示すことが出来るでしょう。」この様に申されたことに「それは大きな道理です。御言葉のとおりです。」と言われた。
天皇の崩御後は伊富祁(おおけ)命(みこと)が即位された。
天皇の御寿命は三十八歳、統治は八年間。御陵は片岡の石坏(いわつき)岡(おか)のほとりにある。

※説話解釈・この説話は一般的に知られた話である。皇位継承で粛清されたり、消滅されたり、『古事記』の説話でその様子が多く割かれ記載されている。
父王が前天皇に殺された報復に仇を討つは多々あるが、無くなって御陵を破壊するは少々子供締めているが、ここでは皇位を譲り合った兄弟の先に天皇になった袁祁命(天皇)が恨みを晴らすために御陵を破壊を命令した時に、代って兄王が進んでその役を引き受け、御陵を破壊に行くが、少し掘り起しただけで、帰り報告した天皇は不審に思い問いただして、少し掘り起しただけと知った。
兄王は仇討、報復、復讐の気持ちを理解どうしても、それで後世の者にどう思われるかと諭す。兄の道理に納得した物語は儒教の影響も入って、王道の脇前を兄王が教えたものだった。







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