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『三輪王朝成立の謎』川村一彦

2014-04-13 06:25:23 | 小論文
三輪王朝の成立の謎                    

「崇神天皇」は紀元前148年に生まれたとされ、名は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラギノミコト)または御肇國天皇と讃えられ、神武天皇以来実在する天皇とされている。
開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(イカガシコメノミコト)異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)異母弟に彦坐王(神功皇后)の祖。                         
皇后に、御間城姫、大彦命女(孝元天皇)の皇子。         
皇子、活目入彦五十侠茅尊、彦五十狭茅尊。皇女四命。
妃、遠津年魚眼眼妙媛、紀伊国荒河戸畔女。皇子、豊城入彦命、皇女一命。
妃、尾張大海媛、津宇那比命。皇子、大入杵命、八坂入彦命。
皇居は磯城瑞籬宮で「古事記」には師木の水垣宮。

「古事記」この天皇の時代には疫病が流行し、天皇は心配し、神意を問うた所、夜に寝床の着いた夢の中にオホモノヌシの大神が現れて「疫病は私の意志によるもの、オオタタネコという人に祭らせらせるならば、神の祟りは起らなくなる」とお告げが有った。オオタネコという人を八方尽くし探した所、河内国の美奴村にその人を見出した。
天皇は喜び直ちにオオタタネコを神主にして丁重に祭った所、疫病は治まり国内は平穏になった。このオホタタネコが神の子孫と分かったのはこんな逸話がった。
イケタマヨリヒメと言う、美しく輝く姫のところに、ある夜比類のない気高い男が現れ二人はひとめぼれで愛し合い結婚、日も経たない内に身篭った。
父母は不審に思い娘に尋ねて「お前は夫もいないのに身篭ったのか」と言ったら、「たいそう立派な男が夜毎通ってきて、いつの間にか身篭ってしまいました」これを聞き父母は素性を知ろうと床に赤い土、赤い糸を用意、男が来たら着物の裾に糸を付ける様に、翌朝糸は三巻き残っていて、鍵穴から糸は三輪山につ通いていた。生まれる子が三輪のオオモノヌシ神の子と分かった。

もう一つの説話に今日「魏志倭人伝」の邪馬台国の卑弥呼の墓と推測されつつある「箸塚古墳」の説話に孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメノ命がオホモノヌシの妻となった。
神の姿が櫛の中を見ると、美しい子蛇であったのに驚いて叫ぶと、神は辱められたのに怒って三輪山に帰った。
姫は悔い箸を陰部を突いて急死した話であるが、昨今孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメノ命は箸墓が造営年、規模、発掘出土品から科学的検査で卑弥呼の時代と一致で、邪馬台国説に重きを成してきた。
* このオホモノヌシ説話は大和の地に天津神の融合と掌握と見られている。
元々オホモノヌシ神は出雲系の神、この蛇神信仰は大和の古くより伝承された有力な神である。
初代天皇の逸話に神武天皇の皇后のイスケヨリヒメはオホモノヌシの女で、朱塗りの矢の説話は崇神天皇まで引き継がれ、三輪の神オホモノヌシ国津神と皇室との関係は緊密で、とりもなおさず大和の旧来の氏族、豪族との関係が説話が残っている形である。こう言った伝説、説話は大陸から東南アジアにも伝え残っていて、人類の移動は広く分布してるものである。

崇神天皇の諸国平定に、天皇はオホビコノ命を越国に遣わした。その子タケヌナカハワケノ命を東方12国に遣わし、次々征服し服従させていった。ヒコイマスノ王を越国に下されたときに、腰裳を着けた少女が山城の幣羅坂の立って歌うに「ミマキイリビコは・・・」の不思議な歌に、胸騒ぎに都に引き返した、天皇に指示を仰ぐと、「山城国にいるあなたの異母兄のタケハニヤスノ王が反逆を起こしたに違いない」そこで和邇臣の祖先のヒコクニブクノを副えられて、山城のタケハニヤスノ王を討ちに、互い戦いを仕掛けた。矢の打ち合いでタケハヤスノ王の矢は外れ、クニブクノ王の矢はタケハニヤスノ王に命中し王は死んだ。こうして北陸道を征服していった。
更にオホビコノ命は、詔により越国の平定に行かれた。所が父タケヌマカハワケ命と会津で行き会った。それぞれ遣わされた国々を服従させ任を終えて天皇に復命をした。そこで天皇は「初国知らしし御真木天皇」と申す。
天皇御年168歳崩御、御陵は山辺道の勾の岡のほとりにある。
*崇神天皇は「古事記」にも「日本書紀」にも「初国知らしし御真木天皇」「御肇国天皇」大和王国の始祖と思われている。
説話には大物主と天皇の融和の関係と大物主神の威厳を知らしめる項目となっている。

「日本書記」御間城入彦五十瓊殖天皇は開化天皇の第二子である。母は伊香色謎命と言い、物部氏の祖先の大綜麻杵の娘である。天皇は十九才で皇太子になられた。善悪の識別する力に優れていた。
都を磯城に移し、瑞籬宮という。国内疫病がはやり民死ぬも多く、半分が死ぬほどであった。天皇は神々を祭らせた、そこで占いで災い起こるわけを究めようと、天皇は神浅茅原で八十万の神々を招き占いをされた。
「もし吾を敬い祀れば、きっと自然に平ぐだろう」それを聞いて天皇はどちらの神かと問いただした。「我は倭国の境の内にいる神、大物主神という」そして大田田根子に我を祀らせればたちどころに平らぐだろう。そこで太田田根子を探された。
見つけられた太田田根子に大物主神を祀らせると疫病は治まり、国内は鎮まり、五穀は実り百姓は賑わった。
四道将軍の派遣、大彦命に北陸道を、武淳川別に東海、吉備津彦を西海に、丹波道主命に丹波に遣わされた。天皇の叔母ヤマトトトヒモモヒメ命に物事の予知を感じ「これは武埴安命(孝元天皇の皇子)の謀反を感知、武埴安命の妻がこっそり呪言、これに天皇は諸将 を集め対坑に議せられた。
武埴安命と妻吾田媛は軍を率いてやってきて夫は山城から妻は大坂から京を襲うとしたが、五十狭芹彦命を遣わし、妻の軍に吉備津彦が応戦、悉く切り捨てた。大彦と和珥氏の祖先、彦国葺を遣わし山背へ行かせ武埴安命討たせた。
倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻になった。昼は来ないが夜にだけやってきた。大物主神に姿を見たいと大神は答えて「朝になれば櫛箱に入っていよう決して驚かないように」と言って夜明けを待って櫛箱を開けてみると、子蛇が入っていた。
それを見て驚いて叫ぶと、たちまち人の形になって、大神は恥じて「お前はがまんが出来ず、私に恥をかかせた、お前をはずかしめにさせよう」三輪山に隠れてしまった。倭迹迹日百襲姫命は悔いて尻餅を突いてしまった。そのときに陰部を突いて死んでしまった。その墓が今卑弥呼の墓と目されている「箸墓古墳」である。
「御肇国天皇の称号」天皇は詔して天位についての抱負を述べられ、人民の戸口を調べ課役を仰せ付けられた。
「神宝」軍臣に対して「武日照命の天から持ってこられた神宝を、出雲大社の宮の収めているものを見たい」と言われ、武諸隅を遣わし奉らせた。
この時には出雲振根が管理をしていたが、筑紫に出かけていたので弟の飯入根が皇命を守り、弟と子に持って奉らせた。筑紫から帰った出雲振根は「神宝」を渡した事に怒り、弟と子を策略を講じて殺そうとした、そのことを弟と子が朝廷に報告をした。直ちに吉備津彦と武淳河別を使わして、出雲振根を殺させた。出雲臣はしばらく出雲大社を祭らなかった。
* 「日本書記」では「古事記」と同じような事柄が記されているが、出雲の神宝についてはまだ
まだ天津神と国津神の対立の構図は残されている。

「垂仁天皇」は紀元前29年に生まれ、名は活目入彦狭茅尊と呼ばれ、崇神天皇の第三子である。母は御間城姫という。大彦命の娘である。
狭穂姫サボビメを皇后にされ、誉津別命が生まれた。天皇はこれを愛しておられ常に身近に置かれ、大きくなっても物を言われなかった。
「古事記」「説話」“沙本毘古と沙本毘売“天皇はサボビメを大切にしていました。ソホビメの所に兄サホビコ王がやってきて「夫と兄どちらが愛しているか」と尋ねた、兄と答えるとサホビコ王は小刀を渡して天皇が寝入った隙を見て刺すようにように告げた。天皇が自分の膝の上で昼寝をしている時に小刀を懐中から出して振り上げた所、天皇への慕情で、なかなか実行に移せなかった。
3度目には思わず涙が流れて落ちて天皇の顔にかかり、目を覚ましたので、目を覚ました天皇に全てを打ち明けた。直ちに天皇は兄の稲城に出撃し、サホビコ王は迎え撃った。サボヒメはこっそり兄の稲城に行ってしまい困り果てたイクメイリビコはサホビメを奪還しょうと試みますがすでにサボヒメの御腹には皇子を宿していた。
天皇は数ヶ月が経つと宮殿で皇子を育てることを伝えた結果は策を講じて奪還を試みたが、やむ得ず天皇は稲城に火を放ち、サボヒメは兄とともに死んで行った。

イクメイリビコイサチノ命(垂仁天皇)は磯城の玉垣宮において天下を治めた。
サホビコノ妹のサハジヒメノ命を妻とされ生まれた皇子は、ホムツワケノ命、ヒバスヒメノ命を妻にして生まれた皇子はイニシキノイリヒコノ命、次ぎにオホタラシヒコ命、ワカキヒリヒコノ命。ヌバタイリヒメノ命を妻に生まれた皇子は、ヌタラシワケノ命、イガタラシヒコノ命である。
アザミイノリビメノ命を妻に生まれた皇子は、イコバヤワケノ命、アザミツヒメノ命。カグヤヒメノ命を妻に生まれた皇子は、ヲザベノ命。カリハトベ命を妻に生まれた皇子は、オチワケノ王、イカタラシヒコノ王、イトシワケノ王、オトカリハタトベ命を妻にして生まれた皇子は、イハツクワケノ王、イワツクビメノ王全ての天皇の十六王、十三皇子、3皇女である。
崇任天皇の皇子イニシキノイリヒコノ命は横刀壱千口を作らせて石上神社に奉納させた。五十瓊敷入彦命は剣一千口石上神社に納め、石上神社の神宝を管理したという。奈良時代から、平安時代掛けて武器庫の様相をしていたようだ。
垂仁紀には倭姫命を天照大神の神霊を奉じて鎮める所も求めて、近江、美濃を経て伊勢国に至った。伊勢神社が皇室と深い関係で奉られるようになったのは、六世紀頃、壬申乱以降と思われている。

天皇はその皇子ホムチワケ王を連れて遊ばれた、ホムチワケ王を寵愛されたが、この皇子髪が胸元にまで届くようになっても、口が利けなかった。そしてある日に、空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて、初めて片言を喋れるようになった。
そこでヤマノベノオホタカという人を遣わして、その鳥を捕らえさせた。その白鳥は、紀伊国から、播磨国に至り,更に追って因幡国を超えて、丹波国、但馬の国を至り、東の方向に飛び、美濃の国から尾張の国に、信濃の国に越しの国に、和那美の水門国に網を引き、その鳥を捕まえて京に上がって献上されて、御覧になったが物を喋ることがなかった。
今度は天皇が夢に現れて「私の神殿を天皇のような宮殿を造ってくれるならば、皇子は必ず物を言うことが出来ると、お告げが会った。
その祟りは出雲の大神の御心であった。その出雲の大神の宮に参拝させる為に誓約を交わせた結果、アケタツノ王とナカミノ王をホムチワケノ王に副えて、一つ一つ行く道にも心配され到着になられる土地ごとに、御名代として品遅部を定めになった。
出雲に着いて、大神に参拝を済ませ、大和に戻られる時に、肥河で出雲国造の祖先の贈り物に、アシハタシコエヲノ大神を敬い、皇子は一夜ヲヒメガヒメと契りを結び、その後そっと覗いてみるとその正体は蛇であった。
驚いた大和に逃げ帰り、姫は悲しんで追いかけてきた。結果皇子は物を喋れるようになった。早速出雲に対して神殿を造らせた。
* 今回の説話も出雲の祟りと、祭ることで解消し、見返りに出雲の神殿を造る話と、蛇の登場は一つの話の筋道となっている。

また常世国の説話に三宅連の記述がある。三宅連の祖先にタジマモリは遥か遠い常世国に遣わされた、時を超え良い香りのする木を求めさせられた。タジマモリはついに見つけ持ち帰った。縵橘8本、矛橘8本を携えて帰ってきたが、天皇は亡くなっていた。そこでもって帰った半分を皇后に、半分を天皇の御陵に供えた。
* ここに常世国が出てくるが、常世国は遥か海を越えた、未知の世界、三宅連は天日桙命の末裔、但馬国の出石の新羅と国の関係で遣わされたのかも知れない。橘の木は柑橘類、みかんの木で香りがする。

「日本書紀」に冒頭の崇仁天皇については、「古事記」の記述と変わりはない。
任那・新羅の紛争の説話を記されておる。
任那の先帝に来朝し帰りそびれてしまった人、蘇那曷叱智の話で「国に帰りたい」の望みに赤織の絹百匹を持たせ先帝の「御間城天皇」名を取ってお前の国名にせよと、任那の国に帰された。所が途中新羅の人が襲い争いになった。

狭穂彦王の反乱の記述は筋書きは「古事記」と同じであるが、若干表現の違いがある。
「角力の元祖」天皇は「タギマノクエハヤ」は天下一の力持ち、これに勝る者はいるかと尋ねられ。一人の臣が進み出て「出雲の野見の宿禰が居ります」早速出雲から野見の宿禰を呼び、勝負をさせた。野見の宿禰がヤギマノクエハヤを骨を踏み砕き腰を握りつぶした。タギマノクエハヤ波土地を没収され全て野見の宿禰に与えられた。
「伊勢の祭祀」について記されている。天照大神を倭姫命に託された。倭姫は大神の鎮座地を求めて、宇陀の篠幡から、近江国に更に美濃を巡って伊勢に入った。天照大神は「伊勢国は波打ち寄せる、傍国の美しい国である。この国にいたいと思う」五十鈴川の畔に斎宮を建てられたという。

「天日槍と神宝」ある時「新羅の王子、天日槍がやってきた時に、宝物は今但馬にある。その神宝を見たい」と言われ、天日槍の曾孫清彦に詔された。清彦は勅を受け「神宝」を献上した。
羽太の玉一つ、足高の玉一つ、うかかの赤石の玉一つ、日鏡一つ、熊のひもろぎ一つ、ただ太刀一つのだけ隠し献上しなかったが、天皇の問いに後で献上したが「天皇の下から太刀は無くなっていた」清彦に尋ねると、昨夜太刀は自分の家にやってきたが、今朝には有りませんと答えた。その太刀は一人で淡路島に行った説話である。

「田道間守」の常世国の話は古事記に出てくる「橘」に話と違って、田道間守は常世国に行って、非常の香果「八竽八縵」を捜し求めて帰還して見ると天皇は無くなっていた話である。

「景行天皇」名は大帯日子淤斯呂和気天皇、諡号はタラシコネでタラシコネはその後天皇に関連性のある名である。
「古事記」には宮は纏向の日代宮で天下を治めたと言う。在位60年、没年143歳と記されている。妃に吉備臣の祖若建吉備津日子の娘、名は針間之伊那毘野取太郎を娶った。産んだ皇子80人、妃は多く、皇子の中に英雄伝説のヤマトタケル命が含まれている。
「古事記」には景行天皇については大確命と小確命の説話が多く占め、この「古代王朝伝説の群像」に書かれているのでその部分は後編で述べることにして、父王の気まぐれで多情な一面は、大確命(オホウス)に書かれている。
三野国(美濃)造の祖大根王の女、名は兄比売、弟比売の二人、容姿麗しくことを聞きか確められて皇子オホウス命を遣わして宮中にお召しになった。
所がその遣わされたオホウスはそのことを知らせずに自分自身が二人を結婚してしまった。更に別の女性を捜し、偽って天皇に差し出した。
その後その偽りが発覚し弟の小確命(ヲウス)に諭す様に命じた所、兄のオホウスは一行に天皇の前に顔を出さないので、不審に思い問い正した所、「夜明けに兄が厠に入った時、待ちうけ捕らえてつかみうち、手足をもぎ取り、薦に包んで棄てた」以後天皇は猛々しい性格を嫌って遠ざけるようになったと言う。
以降についてはヤマトタケル伝説の通りである。

「日本書記」は景行天皇では九州熊襲征伐が述べられている。熊襲がそむいて貢物を贈らなかった。天皇は筑紫に向い,周芳の沙麼(さば)に着かれ、南の方を眺め賊がいると感じ、多臣、国前臣、物部臣を様子を見に行かされた。
白旗を立て、攻めないでください、帰順しますと悪い賊ではないと訴えてきた。本当に悪い四人、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折が居ること伝えて「皇命に従わない」と言っています。それらをおびき出し全部捕まえ殺してしまった。
その後,碩田国(大分)に着かれ、速見村に着き、この村に速津媛と言う長が天皇を出迎えて申すには、この山の大きな石窟に二人の土蜘蛛が住んでおります。一人は青、一人は白で、直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛がいます。この五人の土蜘蛛は強力で仲間が多く「皇命には従わない」と言っております。
天皇は軍臣を集めて、椿の木を取って椎を造り、これを武器された。石室の土蜘蛛を襲い、悉く仲間を殺した。それから日向に着かれ行宮を立ててお住まわれた。
熊襲討伐説話、襲の国に厚鹿文、迮鹿文の二人の勇者は強勇で手下が多い、これらを熊襲の八十梟師と言っている。「熊襲梟師」(クマソタケル)には二人の妹が居ります。姉市乾鹿文と妹市鹿文がいます。容姿端麗で気が荒い者ですが、贈り物で手下にすれば良いでしょう。そこで贈り物で二人の女を欺いて味方につけ、姉の市乾鹿文娘は父を裏切り酒を飲ませた。
従兵が熊襲梟師を殺した。天皇はその娘の不幸を憎み、姉の市乾鹿文を殺させた。妹の市鹿文は火国造に賜った。悉く襲の国を平らげた。高屋宮ですでに六年、御刀媛を召して妃とされ、豊国別皇子を産んだ。これが日向国造の祖先である。
その後天皇は筑紫の国を巡行され、最初に東守〔宮崎県小林〕に着かれ、更に熊県(熊本懸球磨郡)で熊津彦と言う兄弟がいて、兄熊、弟熊を呼ばれたが、これに従われなかったので、討たれた。葦北から船を出し火国に着いた。そこで火の光る邑に着かれ、場所聞かれ「これは八代県の豊村です」と答えると「火国」と名付けられた。
そこから高来県から玉杵名邑で土蜘蛛津頬を殺された。そこから阿蘇国に着かれ二人の神に会われた。阿蘇津彦と、阿蘇津媛だあった。この地を阿蘇国と名付けられた。その後は筑紫後国の三宅に着かれ、日向から大和にお帰りになった。

* 崇神天皇・垂仁天皇は大和三輪を中心に、大国主との融和に展開されたが、景行天皇の行動範囲は九州まで平定、王朝の基盤を機内から地方に広げられて、勢力範囲が九州地方の熊襲に向けられた。婚姻関係でも吉備、三重と各豪族との結びつきを強化された形跡が見られる。この景行天皇の勢力拡大が皇子ヤマトタケル命に引き継がれ東征へと展開されてゆくのである。


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