ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

哲学VS医学

2007-02-12 | 雑記
 「人は何故生きているのか?」
 という問いに、学生の頃、同級生と飲み屋で議論になったことがある。相手は哲学科を卒業してから医学部に入ってきた年上二人組。二人とも、何故人は生まれてくるのか、これほど不思議なことはない、何故人間というものが生きているのか考えることが大切だ、と言って譲らなかった。
 こちらは私と親友の若輩二人組、何故であろうがどうであろうが、とにかく人は生きている、生きているという所から始まっている、何故生きているかなんて考えることがナンセンスだ、と言って譲らなかった。
 二対二でずいぶん長く白熱していたが、向こうは人が生きているという"ゴール"に到達する前を語っている、こちらは人が生きているという事実を"スタート"した後を語っている、というわけで、夜明け頃になっても議論は平行線のまま、まったく噛み合うことがなかった。
 結局、親友と、これが文系と理系の考え方の違いなんだろうかね、と顔を見合わせて笑った。嫌みな感覚ではなく、哲学科の人と議論をするのは面白いねえ、と、笑い合ったものだ。考え方の湧き出る根っこが異なる人と議論をするのは、本当に楽しかった。
 その親友はさっさと故人になり、もと哲学者の二人はそれぞれの病院に赴任して離れ離れとなり、私たちが再び同じ議論をすることはなかった。病院で働いていれば、人間は何故生きているのか?という問いかけは、なおさら頭でっかちなファンタジーに思えた。医者である限り、患者がまず生きている、というところから全てがスタートしているからだ。一生懸命治療しようとしている患者に、「何故生きているの?」と問いかけてみればいい、果たしてそんな勇気があるのなら。

 最近、病院の食事をかきこみながらテレビをつけっぱなしにしていると、有名な占い師がゲストに向かって「人は何故生きているの?」と命題を出していた。ゲストは一生懸命「○○するため」とか「××のためになるように」と答えていた。
 私はご飯をかきこみながら、日本人はどうして、「何故?」ときかれると「目的」を答えてしまうのだろうと、いつもながら不思議に思った。「何故?(Why)」が「何のために?(What for)」と同義に使われてしまうのが、日本語のナゾだ。そのために、人は「目的」がなければ生きていてはいけないような気にさせられる。問いかけられて、答えられなければ、まともに生きていないような気分にさせられるマジックのようだ。何かのためになろうがならなかろうが、人は生きている。それでいいじゃないか。それに、占い師の問いかけ自体、「何のために?」を問うているものではなかった。
 私はテレビに向かって、何故生きているかなんて、考えたことないね、とあの日のように答えてみた。ちょっと懐かしかった。人は、生きている、というところから始まっている、それは事実だ、すべてがそこから始まっている、何故、なんて、考えること自体がナンセンスだ。
 それでも答えなければならないとしたら、強いて言えば、地球がまわっているからじゃないですか。地球がまわってるから、地球上の生物である自分も生きている。他の動物もみんな生きている。何故、というより、そういう成り行きの、そういう事実なんでしょうさ。
 と、心の中で言ったとたん、占い師が「地球が生きているからでしょうに!」と叫んだので、私は笑い出してしまった。
 ちょっとだけ、今はもういない親友と一緒にその占い師と議論をする夢を見た。今度は議論は平行線ではなくて、もっともっと、別の方向へ向かうだろうか。
 人は何故生きているのか?
 人の数だけ、その答えは出て来るのだろう。
 何故?と考えること自体がナンセンスだ、と言いつつ、その「何故?」を議論するのは、案外楽しいのかもしれない。


コメント (1)
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