ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

小栗の不播(まかず)の稲

2009-08-29 | フォトエッセイ

 小栗判官の物語は、江戸時代から説法や浄瑠璃で繰り返し取り上げられ、近年はスーパー歌舞伎にもなって、いまだに人気が衰えることがありません。
 常陸の国の城主小栗(おぐり)は、強引に盗賊横山の養女照手姫の夫になり、怒った横山に家来ともども毒殺されてしまいます。閻魔大王の計らいで生き返ることができたものの、墓から這い出た姿は「餓鬼」で、目も見えず、歩くこともできない有り様。しかし僧侶大空上人がこの餓鬼となった小栗を引き車に乗せ、「この者を一引き引けば千僧供養 、二引き引けば万僧供養 」と書いた札をつけたため、多くの人々の力で次々にリレーされて、ついに熊野に辿り着き、湯の峰温泉の壺湯につかってもとの姿に甦る物語です。途中、放浪していた照手姫も、その餓鬼が自分の夫であるとは知らずに車を引き、最後はめでたく結ばれるハッピーエンドです。
 この物語の凄さは、死んだにもかかわらず地獄から甦り、餓鬼になっても壺湯の力でもとの姿に甦るという、「殺しても殺しても甦ってくる」小栗判官の、胸のすくくらいぶっとんだ生命力の凄さにもあるのですが、同時に、(熊野の神の力で甦るという形をとってはいるけれど)貴賤様々な多くの人々の力のリレーで次々と助けられていく、という「無名の人々の情と活躍の物語」であるところが人気の秘密ではないでしょうか。実際、見知らぬ人々の助け合いの力で、常陸(茨城県)から熊野(和歌山県)まで行ってしまうんだから、凄い話です。

 この話の凄みの裏にあるのが、小栗の餓鬼の姿とは、実はハンセン病患者であった、と言われていることです。ハンセン病(過去らい病と呼ばれていたもの)は誤った認識のもとに、ずいぶん最近まで差別されてきました。いまだに誤解している人のいないよう説明しておくと、ハンセン病は結核菌と同じ抗酸菌の一種であるらい菌が感染して起こるもので、感染力は非常に弱く、現代では抗生剤で普通に治る病気です。温度が高いと生きていられない菌なので、体温の低い皮膚で発症するという情けなさで、多くの餓死者が出るような鎌倉時代とか江戸時代とか戦前とか、そういう極端に人体の抵抗力が弱っている時代に感染があったという話なのですね。結核が現代においてもいまだに撲滅されず、完治できない人がいる一方、ハンセン病は日本では元患者さん全員が完治しています。結核が強力な感染力と致死率を持っているにもかかわらず、文学や歴史物語なんかで深窓の美少女とか不治の病とか美化され、現代でもほとんど野放しにされているのに、ハンセン病は皮膚の病変が目に見えるというだけで忌み嫌われて隔離政策がとられ、現代でも元患者の宿泊を拒否する事件などが起きている、というのは実にヘンな話で、私たちがいかに見た目に惑わされるのかといういい例だと思います。

 ハンセン病は全世界にある病気で、映画ベンハーでも"キリストの奇跡"でハンセン病患者が治る場面が出てきます。この小栗の物語も、"熊野の神の奇跡(湯の峰の湯の力)"でハンセン病が治るという形をとっていますね。でも実際は「熊野の神」を共通に信じるお互い見も知らない人々が、神への信心を糧に小栗を助けていく話なのですね。

 そして、熊野で私が驚愕したものがありました。私は「うーん」と唸って、しばらくその場で動けませんでした。
 湯の峰温泉には小栗にまつわる史蹟がけっこうあるのですが、その中に「不播の稲(まかずのいね)」というのがあります。湯の峰の小さな川の谷底に、猫の額ほどのほんの小さな水田があるのです。

『餓鬼の姿で湯の峰温泉に辿り着いた小栗の髪がほどけて、髪を結っていた稲わらが地面に落ちました。その稲わらから稲が芽吹き、それからは毎年稲が実るようになりました。』

 私が驚愕したのは、(当時世間では忌み嫌われていたはずの)ハンセン病の小栗が、この湯の峰の地では、稲をもたらした豊穣の神の役割を与えられていたからでした。
 今でこそ減反政策なんかがとられていて、米は余って困っているような言い方がされていますが、かつてはいかに稲をつくり稲を食べるかが人々の最大の目標であり夢でもありました。「一度でいいから白い飯を食べたい」と言いながら死んでいった人はたくさんいたのです。全国の民俗行事を取材していて、いかに稲作が人々の生活の最大の関心事になっていて、いかに稲と豊穣をもたらす「神」を迎えることが行事の中心であるかを目の当たりにしてきた身としては、ハンセン病患者の髪からほどけて落ちた稲わらを、万人の生命を満たす食物の源として神格化している姿に、ひどく打たれたのでした。湯の峰という谷合いの、田を拓くことも容易ではなかったと思われる狭い土地に、今でもちゃんと「不播の稲」の水田が保たれているのだから、すごい話なのです。ここでは単に差別がなかったという話ではなく、人間一人一人の存在はもっと混沌として、「病人も女人も貴賤も問わず」と語られた熊野の人々の生活が、確かにあったと思われるのです。

 湯の峰温泉の老舗旅館のご主人が言います。
「自分が子供の頃は、ハンセン病患者さんもたくさん暮らしていた。患者さんが飯盒で炊いた御飯を、しょっちゅうお呼ばれして一緒に食べて、楽しかった。それで感染した人もいなければ、困る人もいなかった。ここは昔からそういう場所だ。湯の峰の湯が私たち全員を守ってくれるんだから。九州の方で患者さんの宿泊を拒否する事件があったが、温泉として信じられない。患者さんをよそへ移住させる話が出た時は、村をあげて反対し中止させたんだ。それで村の誇りは保たれたんだよ」
 湯の峰の湯のもとで、皆がともに暮らしてきたのだ、というものすごい誇りに、私はまた打たれました。「熊野の神」というキーワードで繋がった人々がお互いに助け合う、それは小栗の物語の中だけでなく、今この現在も確かに続いているのです。


小栗を運んだ土車を埋めたという車塚
(和歌山県湯の峰温泉)




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