ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

畝畑と辞職峠

2009-11-21 | 熊野
畝畑街道へ上がる途中、現在は誰も住んでいない西山集落(和歌山県鎌塚)に残された地蔵。何も彫らずに、石板や石錐をそのまま地蔵として祀ったものが時々みられます


 熊野古道大雲取越より西の方、古座川町との境に近い熊野川町(新宮市)の最奥に、畝畑という集落があります。かつて「木の国」紀伊の木の伐り出しで栄え、広い範囲の複数の字に多くの人が暮らしていた集落ですが、現在2軒が残っているだけで、どこが家でどこが学校だったかもわからないくらい黒々と植林に覆われてしまいました。ここに道路がついたのは昭和35年、それまで一体どこをどう通ってこの集落に通じる道があったのか、ずっと不思議に思っていました。地図を見てもほかの集落との距離は半端ではなく、四方を山塊に閉ざされ、文字通り隔絶・孤立しているのです。
 幸い畝畑に昔住んでいたという人たちにお会いし、お話を伺うことができました。それによると「辞職峠」を越えて小口(熊野川町の旧小口村の中心)(途中から別れて鎌塚とも)と通じていたとのこと。小学校の先生が畝畑に赴任してくる時に、あまりの道の遠さに辞職を考えた、という話や、警察官が畝畑まで日常的に見回りに行かなければならないことに辟易して辞職を考えた、という話が伝わっています。

 ということで、辞職峠までのかつての道を小口から探して登ってきました。道は所々崩れていましたがよく残っており、標高の高い山腹を行く気持ちのよい道です。つい50年くらい前まで、ちょっとした買い物とか、当時の子供たちも含めて、何時間もかけてここを歩いたんだなあと思いを馳せつつ。
 しかし、最初は楽勝と思っていた道も、思ったより長く、いやいや、もっと思ったより長~く、登っても登っても峠に着かず、だんだんメンバー皆へろへろになってきました。途中林業用のキャタピラー道に街道が寸断され、迷ったのもあって、陽も傾いた頃にようやく峠に到着。最後は日没を気にしながら一生懸命下る、という状況になってしまいました。かつての人々はここを1日で往復して買い物に行っていたのだし、たぶん帰りはすごい荷物を背負って登ったのだろうし、別の集落では当時は夜中でも山道を歩いた話を何回も聞かされたし、自分たちが当時の人だったら、もっと健脚で、余裕で、日没も気にしないで歩けたんだろうか。それでもやっぱり、この道を行くのは簡単なことではなかったし、初めて歩く子供はダダをこねたくなっただろうし、大人だって日没に間に合うようハラハラしながら歩いたのでは・・・、と想像してみるのです。

 畝畑に住んでいた人々のお話を総合して、また、昭和30年代の古い地図を確認して、かつて畝畑は1)熊野川町(新宮市)方面、2)本宮町(田辺市)方面、3)色川(那智勝浦町)方面の3つの徒歩ルートで周辺集落とつながっていたことがわかりました。しかしどれも、日用品を買いにいくには、また、医者にかかりにいくには、山道を片道4時間というコースでした。

 昭和35年に道路が通じて、畝畑の人々はいなくなったと言います。
 それまで畝畑の多くの人の力と筏で材木を下流へ出荷していたのが、トラックが来て運ぶようになったので、畝畑の人々が林業をする意味がなくなってしまったのだそうです。人々もその道路を通って新宮など働きやすい都市部に流出していきました。
 山間部の人々を助けるためにつくられたはずの車道が、村が消えて行くきっかけになったというのは皮肉な話です。


ここが辞職峠。熊野川町役場の方々、色川百姓養成塾(色川から全国に"農村再生"を実践・発信しています)の方々と。

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