今回の津波による被災地の惨状は、
何処もかも悲惨なんだろうけど、
私にとっては、
気仙沼も、南三陸も行ったことがない。名取の閖上にも知り合いはいないし、
やっぱり行ったことがない。。
私個人にとっての一番の気がかりは、四月に行った仙台空港あたりであり、
二年前まで前の会社で担当していた仙台の宮城野区、多賀城の産業道路あたり、
仕事さぼって寄っていた、七ヶ浜の海である。
いつも、ウロウロしていたし、仕事での知り合いもいる。
気になっていても、震災後行く気になれなかったし、
又、実際いろいろ忙しくて行く機会もなかった。
だけど、やっと、今日行ってみることにした。
暑さが急に一段落して、雨が続く今日。。
なんで今日なんだか、私にもわからないけど、
なんとなく・・今日しかない・・そう思ったんだ。
産業道路の三井のアウトレットあたりの交差点。
ここにも、もちろん津波は来たんだ。
ウロウロと周りを見る。。
スマフォで写真を撮るのは、信号で止まった時だけだけど、
きれいに直して、再開しているお店は一部で、
全く手つかずの建物もある。
空き地には、壊れた車が一面積まれておいてある。
ここは、ソニーの建物。
TBS系列のテレビの記者が、地震の後、車を捨て、ここに逃げ込んで
その後、見るまに津波がおしよせた場面を何度かテレビで見た場所だ。
そんなに海が近い場所ではない。
周りに車が流れ着いて、助けを求める子供連れを救出していたよね。
いつも前を通っていた、ここだったのか。。
このあたりは、津波の後、たくさんの車が流れ着いた。
津波は、この産業道路を超え、もっと内陸の国道45号線を超えたのだ。
そんなとこにまで波が来るなんて、
誰も考えなかったと思う。
先を進み、右折して七ヶ浜の方にも行ってみた。
道沿いは、少し高台だったんだな。
いつも行ってた海の方に行ってみるか・・と道を進むと、
なんだか、地形が変わってしまったように、
どこがどこだかわからなくなっていた。
海との境に、防波堤があって、砂浜があったはずなのに、
もう、そんな光景はない。。
海沿いの形は、変わってしまったんだなあ。。
基礎だけになった家の跡もたくさんある。
景色が変わり、何だかわからず、行き過ぎてしまったのか、
仮設住宅が並んでいる所まで出てしまった。
坂を上り、一見きれいで無事な住宅街の谷を降りたところに、
仮設住宅が並んでいた。
やっぱり、気持ちが重くなったけど、
これを受け止めに、わざわざ来た気がした。
他人事ではない、いつも見ていた所・・
津波は、すぐ近くで起こったことなんだと胸に刻まないといけない気がしていたんだ。
その後、知り合いの新しい工場に行った。
震災後、安否を気にしながら、なかなか電話できなかったけど、
津波からすれすれで車で逃げ切ったと教えてくれて、ほっとした
修理工場の有能な事務員の彼女のとこだ。
私が前の仕事を辞めてから、初めて会うから二年五か月ぶり。
なんだか、うれしくて抱き合った。
彼女が要の会社は、工場は流されたけど、新しい場所で六月から再開していた。
社長は、もう六十代後半。
新たな借金をして、彼女を頼りにしての、再開だ。
積る話を三時間くらいしたかな。
昔を思い出す、相変わらずの話もたくさん。
よくケンカしていたな。社長と彼女。
その尻拭いもたくさんした。
彼女によると、
津波の中、助かった人の中には、
車の窓ガラスをたたいて助けを求めていた人の顔が忘れられない。
歩いて逃げる子供連れを車に乗るように言ったけど、怪しい風体に拒否された。
すぐに津波が来たんだから・・と思うと、
無理やりにでも乗せればよかった・・と
長く気持ちがさいなまれた人が多いという。
元ヤンキーの気丈な彼女だけど、
震災番組は見たくない。必ず泣くから・・と言っていた。
津波なんて、怖いとも思わずに逃げ切った彼女は
親と死に別れた子供の話
幼くして亡くなった子供の話は、耐えきれず
泣く・・と言う。
近い身内はみんな無事で、
元気で相変わらずの人達だったけど、
やっぱり確実に、大震災は私達の心に何かを重く投げかけて、
違う景色を作り出していた。
そのことから、目をそむけないよう、
今までは来れなかった所に
やっと来れた・・・
まだ五ヵ月。
でも、ここまで来るのに、五ヵ月もかかってしまった私なのだ。。
救いになったのは、
ボロボロになったガソリンスタンドにたなびく、営業中の看板とか、
知り合いの新しい工場に貼ってあった、がんばろう宮城の看板・・
立ち上がろうとしている、人達の一生懸命な笑顔なんだ。
がんばるしかないもんね。。
あと、人生楽しまなくっちゃね
と彼女が言って
私も、うなずいた。
・・※ 二年半まえの七ヶ浜の海