中森さん個人を知っていると論評するのにとても難しい本だ。なぜならこの本を評価するということは、中森さんの作品ではなく、中森さんという人そのものを論評するということだからだ。特に自身の出生と父の死を描いた第一章と、母親の死に終わる終章は、ほぼ「中森明夫」がむき出しのまま差し出されている(ように読める)。
「中森明夫」の父親、母親とのかかわりが、「さみしさ」というキーワードを通して描かれ、そこに私たちの生き様と死に対する実感が刻まれている。ディズニー、坂本龍馬、ヒットラー、そして代表的な日本のアイドルたちのさびしさについて考察した第二章と第三章は、それ自体で読むことができる。多くの読者はここで冒頭で書かれた「中森明夫」の父を通した「さびしさ」の経験が、代表的な人物の経験と共通したものであり、また自分達の経験とも通ずるものだとして、一般化できるだろう。
また第四章には、モンテーニュの「さびしさ」の哲学とでもいえるものが解説されていて、それが「中森明夫」の父と母の両方の死をつなげる思索の軸になっている。
僕も「中森明夫」と同じようにアイドルたちにさびしさとそこから放たれる力強さと危うさの両面を感じ取ることができる。と同時に、中森さんとずれるのは、それは日本の代表的なアイドルたちだけではなく、むしろ「地下アイドル」と呼ばれる人たちにも同様に感じ取っていることにある(のかもしれない)。おそらくさびしさの強度は、世俗的な成功や失敗にはほとんど関係していないのだろう。もちろん著者もそんなことはとっくに知っていることかもしれないが。
僕も著者と同じく、最近は死がやたら身近である。他者の死というものが、不在であるという「さびしさ」を毎日のように実感している。たまにまだこの世界のどこかに、死者たちが生きているかのような錯覚もする。そしてそれが幻想だと悟る瞬間にさらにさびしさは加速し、自分のいる世界がゆらぐ。自分もまたそのさびしさの根源へやがて去るという事実を思い知るからである。
いま書いたことは、実は無数の有名無名のアイドルたちをみているときの僕の心境でもある。そしてそのことは本書でも実際に何人かのアイドルたちを通して著者の手で描かれていることだ。本書は、その意味で独特のアイドル論として読むこともできる。
本書を読み終わって、(もちろん検索して知ってはいるけれども)今度、中森さんに会ったら「中森明夫」ではない本当の名前をお聞きしてみたくなった。
http://www.amazon.co.jp/dp/4106106116
「中森明夫」の父親、母親とのかかわりが、「さみしさ」というキーワードを通して描かれ、そこに私たちの生き様と死に対する実感が刻まれている。ディズニー、坂本龍馬、ヒットラー、そして代表的な日本のアイドルたちのさびしさについて考察した第二章と第三章は、それ自体で読むことができる。多くの読者はここで冒頭で書かれた「中森明夫」の父を通した「さびしさ」の経験が、代表的な人物の経験と共通したものであり、また自分達の経験とも通ずるものだとして、一般化できるだろう。
また第四章には、モンテーニュの「さびしさ」の哲学とでもいえるものが解説されていて、それが「中森明夫」の父と母の両方の死をつなげる思索の軸になっている。
僕も「中森明夫」と同じようにアイドルたちにさびしさとそこから放たれる力強さと危うさの両面を感じ取ることができる。と同時に、中森さんとずれるのは、それは日本の代表的なアイドルたちだけではなく、むしろ「地下アイドル」と呼ばれる人たちにも同様に感じ取っていることにある(のかもしれない)。おそらくさびしさの強度は、世俗的な成功や失敗にはほとんど関係していないのだろう。もちろん著者もそんなことはとっくに知っていることかもしれないが。
僕も著者と同じく、最近は死がやたら身近である。他者の死というものが、不在であるという「さびしさ」を毎日のように実感している。たまにまだこの世界のどこかに、死者たちが生きているかのような錯覚もする。そしてそれが幻想だと悟る瞬間にさらにさびしさは加速し、自分のいる世界がゆらぐ。自分もまたそのさびしさの根源へやがて去るという事実を思い知るからである。
いま書いたことは、実は無数の有名無名のアイドルたちをみているときの僕の心境でもある。そしてそのことは本書でも実際に何人かのアイドルたちを通して著者の手で描かれていることだ。本書は、その意味で独特のアイドル論として読むこともできる。
本書を読み終わって、(もちろん検索して知ってはいるけれども)今度、中森さんに会ったら「中森明夫」ではない本当の名前をお聞きしてみたくなった。
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