「いやあ、やっぱいいもんだねえああいうのは」
「本当にねえ」
口宮さんと、その口宮さんにもたれかかるようにして隣を歩く異原さんがこちらへ完全に背を向けたところで、諸見谷さんと一貴さんは、詰まっていた息を吐き出すかのように気持ちよく感想を漏らすのでした。
「残った君達はどうだい? ああいうこと、あるのかな?」
残った君達というのはもちろん僕と同森さんと音無さんなのですが、お相手がこの場にいない僕はまだいいとして、同森さんと音無さんにとっては「ああいうこと」があってもなくても返答し辛い質問でしょう。まあ、今日はこんなのばっかりなんですけど。
しかしそんな僕の考えに反し、返事は割とあっさりなされるのでした。
「残念ながら……と言っていいのかどうかは分かりませんけど……ない、ですね……」
「ワシらは、言ってみれば昔からの知り合いが普通に付き合い始めたってだけですしな。こう……口宮と異原みたいに、何やかんやの事情があったりもしませんし」
さすがに最後の辺りは口調が躊躇いがちになる同森さんでしたが、でもまあそれはそうなのでしょう。昔からよく知っている人と特別な事情があるわけでもなしに付き合い始めたとなれば、度を超えて泣いたり笑ったりするような事件というのは、そうそう起こらないものでしょうし。
「なんとなーく残念がってるように聞こえなくもないけど、それはそれで喜ぶべきことだと思うわよ? 実際、異原さんと口宮くんに訊いたら、羨ましがるんじゃないかしら」
そりゃそうでしょう――と肯定してしまうのは帰ってしまったお二人に悪い気がするので、そう思うだけに留めておきます。
「隣の芝は何とやら、ってやつなのかもね。幼馴染と昔から好き合ってて、それから何年も経った後にその人と結ばれるなんて、ベッタベタに素敵な話なのに」
「ベッタベタとか言うんじゃないわい。持ち上げられてるはずなのにちっとも嬉しくないわ」
「この場限りでどう思うなんて、今後の静音ちゃんとの関わり合いを考えればさして大きな問題じゃないわよ。あたしの言い回し一つに、そんなところにまで影響を及ぼすような効果があると思う?」
「そういうことにしておいて言いたい放題言いまくる、ってな魂胆じゃろう? どうせ」
「うふふ、大正解」
なんとも仲のいいご兄弟なのでした。
この中に飛び込むことになる音無さんが――というか、既に飛び込んでいると見るべきなのかもしれませんが――ちょっと心配にもなりますけど、しかし同森さんと幼馴染であるなら一貴さんとも同様なので、ならばこういう遣り取りには慣れていてしかるべきなのでしょう。
……その音無さん、今現在のところはちょっと困ってるご様子でしたけども。
しかしそれはまあ、自分と同森さんのことが話題に取り上げられているからだ、ということなのでしょう。そうであってください。
「ほら一貴、あんまり度が過ぎると音無さんが疲れちゃうでしょ。そのへんにしときなさいな」
「あら。――ああ、ごめんなさいね静音ちゃん。三人揃っちゃうとどうも、はしゃぎたくなっちゃって」
その三人というのは、順当に考えて一貴さんと同森さんと音無さんを指しているのでしょう。
するとそれを聞いた音無さん、困っていた表情(もちろん口元だけしか見えませんが)をふんわりと微笑ませ、更に小首を傾げるようにして、こう言いました。
「一貴お兄ちゃんは……わたし達が小さい頃から、こうだったもんね……」
一貴お兄ちゃん。もちろん、普段はそんな呼び方をしていません。ならばこれまた順当に考えるに、小さい頃にはそう呼んでいた、ということなのでしょう。
……ところで今の笑顔、ちょっとクラッと来てしまいました。なんとも情けない話なうえ、かなりどうでもいい話ですけど。
というわけでどうでもいい話はともかく、ここで何やら諸見谷さん、「えぇ?」と素っ頓狂な声をあげました。
「一貴、昔っからこんなだったの? 男言葉の時代に? うわー、想像しやすいようなしにくいような」
「言葉遣いがどうあれ、仲のいい男女を見たらちょっかいを出したくなるのが子供心ってものじゃない? 感心がなさそうにしてるのって、十中八九むっつりスケベよ。あたしはその点、全開スケベだったけど」
全開スケベって一貴さん、そんなことをキッパリ言い切れるような子供時代を送りながらよくオカマさんなんかに……。いや、むしろ「だからこそ」と捉えるべきなんだろうか?
何というかこう、意味深なようなそうでないような、それ以前に考えさせられるだけ馬鹿を見てるような。
「誇るようなことじゃないし、それを抜きにしてもものすんごい偏見だね……。しかも、今にも続いてる自分の行動を子供心で説明付けちゃったよ。もう成人でしょうに」
「『子供心を忘れない大人』って言葉、よくいい意味で使われてるでしょ?」
「忘れないどころか根っこにこびりついてる感じだけどね。ま、相手は限られてるみたいだし、そういう節度あってのことなら、悪いこっちゃないんだろうけどさ」
諸見谷さんが言っているのは、仲のいい男女を見るとちょっかいを出したくなる、という部分についてなのでしょう。しかしはてさて、一貴さんはそれだけでなく、全開スケベとも言っていました。ならばそれについても、「節度あってのこと」というのは適用されるんでしょうか?
……まあ、考えるまでもないことなんでしょうけどね。
「相手を限るっていうなら、そういうのが一番多いのは愛香さんよ?」
一貴さんのその言葉は、僕がたった今考えていたことの証拠と思っても問題ないのでしょう。
というか、スケベ心に節度がなかったら大ごとですしね。大小様々とはいえ、言ってしまえば誰だってスケベ心の一つや二つは持ってるんですし。
「誰にでも私相手みたいなことされてたまるかっての。警察に突き出されるぞ」
そうでしょうそうでしょう。
「自分の胸に嫉妬したのなんて私くらいのもんなんじゃないの?」
何があったんですか。
しかしともかくそんな時、音無さんが「胸……」と小声で反応。小声とはいえ僕にも聞こえたそんな呟きを同森さんが聞き逃す筈もなく、諸見谷さと兄の遣り取りに曇らせていたその顔を、音無さんの方向へ。
けれどもそれは顔を向けただけで、特に声を掛けたりはしないのでした。掛けたいことは掛けたいんでしょうけど、まあなんせ女性の胸の話なので、周囲に人がいる場所では口にしづらいのでしょう。たとえその周囲の人、つまり僕達が、その話を知っていても。
「あれ、音無さんどうかした?」
――あ、そういえば。
「ああ、そういえば愛香さんの前では話したことなかったかしら?」
僕も含めた大学のいつものメンバーが音無さんの胸の悩みを知ったのは、ごく最近。その後に諸見谷さんが会いにきたのは今日も含めて二回のみで、ならばその二回のうちに音無さんの悩みの話が出たかと言われれば、そんな記憶はありませんでした。
「とはいえ、話していいものかどうかは――」
「あ、いえ……すいません、大丈夫です……」
音無さんの様子を窺う一貴さんでしたが、その音無さんは軽く頭を下げながら、そう言うのでした。
僕が言うのもなんですが、こういう状況になってしまえば、音無さんとしては「どうせ諸見谷さん以外の全員が既に知っているから」ということになるのでしょう。何もなしに話すのはもちろん躊躇われてしかるべきなんですけどね。
ということで、若干の気遅れは見受けられましたが、音無さん自身が諸見谷さんへ説明。そりゃあ他人の、しかも男の口からじゃあ、話す本人としても音無さんとしても厳しいものがありますしね。
「へえ……なるほど、そりゃあ大変そうだね」
説明が終わると、諸見谷さんは険しい表情。これまでと同じく笑いながら、とはいかないようです。
「あんまり急だと身体の感覚が追い付かないってのもあるんだろうけど、音無さんの場合、身体よりも気持ちのほうがって感じかな」
「そう……ですね……。服も未だにこんなですし……」
「でも良かったねえ、昔からじゃなくて。一貴に目ぇ付けられでもしたら、トラウマ植え付けられるぐらいはしたかもしんないよ?」
「愛香さん、シリアスな表情でそんなこと言っちゃう?」
「言っちゃうさ、自分の体験を省みて」
何があったんですか本当に。
「――というのはまあ冗談として、夏場なんかはこのままじゃねえ? 前よりマシになってるとは言っても、まだまだ厚着の域は出てないし」
「な、夏までには……なんとか克服したいなとは、思ってるんですけどね……」
この話になる度に服装が取り上げられるのは、まあ仕方がないのでしょう。
ちなみにその服装ですが、上から下まで真っ黒なのは、この件とは関係ないんでしょう。夏場を考えるなら黒より白のほうがいいとは思いますけど。
「みんな知ってる話だってんならもう言われてるかもしんないけど――特に一貴なんかは絶対に言ってるだろうけど、哲郎くん。茶化して言うにしても本気で言うにしても、こりゃあ君の仕事だよ。もちろん、音無さん自身がどうするってのを除いて、だけど」
「ご想像の通り、もう言われとります」
そんな同森さんの返事が、ちょっと気の毒に感じられてしまうのでした。お門違いもいいところでしょうけど。
「理屈は分かりますけど、それ以上の詳細はお願いですから勘弁して下さい」
「かっかっか、言われなくとも。そこまで考えなしじゃないよ、いくら私だって」
普段の諸見谷さんが考えなしだとはとても思えないわけですが、しかしまあ、その言葉自体が何かしらの考えあってのものなのでしょう。
「ところで――異原さんと口宮くんがいる間に言っときゃ良かったかもだけど」
同森さんの頼みを受けてなのか、それとも初めからこうするつもりだったのか、諸見谷さんは別の話題を持ち出してきました。
異原さんと口宮さんがいる間に言っておけば良かったということで、その話の対象は同森さんと音無さんだけでなく、僕も含まれているようです。ならば、普段以上にしっかりと耳を傾けさせてもらいましょう。
「ラーメン食べてる時にも言ったけどさ、私が言ってることの殆どって、一貴以前に彼氏がいたっていう経験からきてるんだよね」
諸見谷さんは以前に彼氏がいたことを挙げて、だからどこか冷めた目で男というものを観察しているところがある、と言っていました。今言っているのは恐らくその辺りのことなのでしょう。
もちろん僕にそんな経験はないわけですが、しかしならば諸見谷さんの言葉を理解できないかと言われれば、そんなことはありません。ちょっと想像を巡らせるだけでも、誰だってそうなっておかしくないことぐらいは分かります。
しかし諸見谷さん、「もちろん私自身にとっては私の考え方が一番しっくり来てるんだけど」と前置きしたうえで、「じゃあみんなにとってもそうかって言ったら、そうじゃないんだよ。なんせ、今の彼氏彼女以前に別の恋人がいたってわけじゃないんだし」と。
「お互いにそれを理解して付き合ってるわけだから、それに適した考え方がある筈なんだよね。私の話なんかよりはさ」
ラーメンを食べている最中の話には納得させられっぱなしだったので、それを認めるのは気が引けてしまう部分もあります。
が、よくよく考えてみれば、納得することとそれを自分に当て嵌めるかどうかは、また別の話です。納得しながら「でも自分はそうじゃないな」と思うことは特に不自然でも何でもないですし。
「だからまあ、忘れてくれとまでは言わないけど、良くて参考程度だろうね。そのくらいのつもりで受け取ってくれたほうがいいと思うし、そうしてくれたら私としても気が楽かな。――あはは、あれだけ語っといてごめんね、最後に無責任で」
そう言って諸見谷さんは苦笑しますが、でもそんな顔をされるようなことじゃないな、とは思います。
恐らくは殆どの人がそう思わされるような話なのでしょう。同森さんも、同じような立場のようでした。
「ワシとしても、諸見谷さんと同じようにゃいかんことは分かってます。というか諸見谷さんはいいとして、その相手が常識外れ過ぎますし」
「なるほど、そりゃあもっともだ」
「あら失礼ねえ」
同森さんが口を開くとすぐに一貴さんが悪者に仕立て上げられてしまいますが、しかしまあ、その部分は冗談なのでしょう。諸見谷さんと同じようにいかないというのは、自分達が諸見谷さんではないという時点で明確なんですから。
「機会があったら今の話、異原さんと口宮くんにも伝えておいてね。まあこの場の様子を見るに、言うまでもないって感じだけど」
「引き受けました。人の真似ができるほど器用な奴等でもないでしょうけど」
筋肉質な腕を組み、見るからに頼りがいのありそうな風体でそういう同森さんでしたが、
「哲くんも、あんまり人のことは言えなさそうな……」
音無さんから突っ込まれてしまうのでした。同森さん、あんまり人のことは言えそうにないんだそうです。
しかしそんなことを言われても、同森さんはへこたれませんでした。
「そうだとしたら、原因は真似したくない候補のナンバー1がとてつもなく身近にいたからじゃろうの」
「あら、じゃああたし、てっちゃんのてっちゃんらしい人格形成に一役買ってたってわけね? うふふ、光栄だわあ」
「そういう考え方もできんことはないが、自分でそれを言うんじゃからなあ」
仲良しですよね、本当に。
「かっかっか、ぱっと見は真逆でも根っこの部分はさすが兄弟ってとこかね」
諸見谷さんがそう笑い飛ばすと同森さんは露骨に嫌そうな顔をしましたが、しかしそれをさておいて、
「さて、伝えることも伝えたし、今日はそろそろ解散かね?」
とのこと。異原さんと口宮さんも帰っちゃったことですしね。
「あたしと愛香さんは、このあとちょっとお出掛けだけど……てっちゃんと静音ちゃんはどうするの?」
「いや、特にどうすると決めとるわけでもないんじゃが」
「ふーん。なんだったらうちに連れ込んじゃってもいいんじゃないかな、と思うけど、どうかしら」
さらりと大胆なことを言ってしまわれる一貴さんでしたが、同森さんはともかく、音無さんも慌ててしまうような様子はありません。意外だと思ってしまうのも失礼な話ですが、しかしやはり意外です。
「音無家も交えてはやし立てられるだけじゃろう、どうせ」
ああ、そうでした。同森さんと音無さんの家って、お向かいさんなんでしたっけ。とは言っても音無さんは現在、僕と同じくこの辺りで独り暮らしをしているらしいですけど。
「それも含めてよ。二人が付き合い始めたっていうのは静音ちゃんちも知ってるみたいだけど、二人揃って顔を出したことって、まだないでしょう?」
「うーむ……」
どうやら、まだのようでした。先週に諸見谷さんと会った日の帰りがけ、同森さんと帰り道を同じくしていた音無さんは「実家へ顔を出す」と言っていましたが、それについては、同森さんと一緒に、というわけではなかったようです。家の前で別れたんでしょうね、多分。
「大丈夫よお、そこまで堅苦しいことにはならないだろうから。ま、ちょっとくらいは格好付けたほうがいいだろうけどね」
「……そうじゃなあ。いつかはせにゃならんのだろうし、だったら予定のない日にしておいたほうがいいんじゃろうな」
今回ばかりは兄の言葉に噛み付くこともなく、素直に聞き入れる同森さんでした。
ところで、付き合ってる相手の家族を昔から知ってるって、どういう気分なんでしょうね? やっぱり、知らないまま会いに行くよりは緊張も少なかったりするんでしょうか。照れ臭さは増大するような気もしますけど。
「静音はどうじゃ?」
「わたしも……できれば今日、行っておきたいかな……」
「ふむ、じゃあ決まりじゃの。――ううむ、そうと決めたら途端に不安になってきたわい」
「うふふ、今のうちにそうしてめいっぱい不安になっておけば、本番で拍子抜けできるわよ」
「教えてもらわんほうがいい助言じゃな、それ」
不安になろうにもなれなくなっちゃいますもんね。
ということで親切なんだか意地悪なんだか判断が難しい一貴さんの助言でしたが、強張り始めていた同森さんの表情は和らぐのでした。
助言の内容とは真逆の結果ですが、これはこれでよかった、ということでいいのでしょう。
「それで兄貴、諸見谷さんと出掛けるというのは?」
「ああ、今日は前みたいに泊まり掛けとかじゃないわよ?」
「まあ先週行ったばかりじゃしな。それに明日は平日じゃし」
どこに行っているのかは不明ながら、一貴さんは年に何回かほど遠出をするそうです。年に何回か程度のものなので、二週連続でというようなことは、やっぱりないようです。
「それじゃあ今日はこの辺でお別れだけど――静音ちゃん、うちの弟を宜しくお願いします」
「あ……いえいえ、こちらこそ……」
「気が向いたら、いま住んでるところにも招待してあげてね?」
「え……! あ、いや、はい……」
と、最後の最後に音無さんを慌てさせると、一貴さんはこちらを向きました。
「日向くんも、彼女さんと仲良くね」
「はい」
一貴さんは――というか諸見谷さん以外のみんなは、栞さんのことを知っています。その割には名前で呼ばずに「彼女さん」と呼んだ辺り、どこか余所余所しさを感じたのですが、しかしそれはわざとなのでしょう。
諸見谷さんが栞さんを含め幽霊のことを知らないのは、「知らせていないから」ではなく「知らせないことにしているから」なのです。ならばこの場で一貴さんが栞さんのことを知っているような素振りを見せれば、そこに諸見谷さんが気付いた場合、話がややこしくなってしまうのです。
もちろん僕としては、「知らせてもいい」ということになれば喜んで知らせるんですけどね。なら、それを決めるのが誰かということになると……一貴さんになるでしょう、やっぱり。恋人という間柄が、この話と全く関係ないにしても。
さてさて、そういうわけで一貴さん諸見谷さんと別れ、あまくに荘への帰り道。通学に電車を使う同森さんが一緒なのはいつものことですが、今日はそこに音無さんも加わっています。
「音無さんは大丈夫なんですか? 親に同森さんを会わせるとか、自分が同森さんの親に会うとか」
というような質問を投げ掛けてみましたが、音無さん「は」なんて言ってる時点で、緊張すると言っていた同森さんを意識してしまっているのは明らかなのでした。自分でも言ってから気付きましたけど。
「あー……あは、は……あんまり大丈夫ではないような……」
曖昧な笑みを返してくる音無さん。けれど、そこまで酷くプレッシャーを感じているというわけでもないのでしょう。そうでなかったら多分、笑う余裕すらなくしてるでしょうしね、この人の場合。
「まあ、あからさまに平気面しとったら、それはそれで不自然かもしれんしの。これくらいがちょうどいいんじゃろう。……多分」
同森さん、最後の一言がやけに重々しいトーンなのでした。恐らく本当にそう思ったというわけではなく、自分に対する気休めだったのでしょう。
結局のところ、二人ともそれなりには緊張しているようでした。
「何だったら、うちで一休みしていきます?」
気軽に人を呼べるっていいものだな、なんて思いつつ、本当の意味であまくに荘がどういう所なのかを知っている二人にそう尋ねてみました。
「――いや、有難いが遠慮しておくわい。いま気が緩んだらやる気も一緒に抜けてしまいそうじゃし」
「そうだね……。わたしも、怖気づいて自分の部屋に帰っちゃいそうな気がするし……」
やんわり断られてしまいましたが、なるほどそういうこともあるのでしょう。ちょっと残念な部分もあるにはありますが、二人がベストを尽くせるなら、それが一番です。
「ところで気休めの意味でも別の話なんじゃが、兄貴の時はどんな感じだったんじゃろうな? ワシと静音にあれだけ言ったんじゃから、兄貴だってもう諸見谷さんの両親には会ってるんじゃろうし」
もはや気休めだのなんだのを隠すつもりすらない同森さんでしたが、言われてみれば確かに気になります。もちろん、一貴さんが本当に諸見谷さんの両親と会っているかどうかは、分からないわけですけど。
「どんな感じ……。う、うーん、驚いたんじゃないかな……」
「まあそれは間違いなくそうじゃろうな」
「何に驚いたか説明されるまでもないですよね」
なんせ一貴さんですし。
と、頭の中ですら説明をしないわけですがその時、同森さんが「いや、でも待てよ」と。
「別に男言葉が使えんわけじゃなし、さすがに彼女の親の前となれば、普通の喋り方になるんじゃろうか――いやいや、なるじゃろうかじゃなくて、なるんじゃろうの。普通なら」
普通だったら普通の喋り方になる。二つの「普通」が続くなら、それは相当に普通なのでしょう。しかしはてさて、ならば一貴さんは、その相当な普通に当て嵌まるのでしょうか?
そんな僕の疑問はさておいて、すると音無さんが「でも……」と、何やら申し訳なさそうに言いました。
「言葉遣いを普通にしたとしても……『そういう人だ』っていうのは、やっぱり、知らせたんじゃないかな……?」
「ううむ、確かに隠したままというのもなあ。まあそもそも、兄貴のあれは表面的なだけのもんなんじゃが」
言葉遣いや細かい仕草は女性らしいけど、中身はしっかり男である一貴さん。だからこそ諸見谷さんとお付き合いをしているわけで、正確にはオカマでなくオカマっぽいだけなのです。
もちろん、だったらそれを気にする人はいないのかと言われれば、そうではないんでしょうけど。
「わ、わたし達も何か、知らせなきゃいけないことってあるのかな……?」
「知られたうえでも言わなきゃならんことっちゅうのは、もちろんあるじゃろうが――知られてないから知らせなきゃならんこととなりゃあ、ないじゃろう、そんなもん。ワシら自身よりワシらのこと知ってそうなのが相手なんじゃぞ、ワシもお前も」
「そ、それもそうだよね……。それはそれで、ちょっと怖い気もするけど……」
相手という単語を使われると、何だか親を敵とみなしているいるように聞こえなくもないのですが、同森さんと音無さんの心境からすれば、実際にそれくらいに思っているのかもしれません。
――さて、そんなことを考えている間に到着してしまいました。お別れの目印、あまくに荘です。
「それじゃあ、同森さんも音無さんも、頑張ってください」
「おう。具体的に何をどう頑張ればいいのか未だにさっぱりじゃがな」
「わたしも同じようなものですけど……頑張ってきます……」
「本当にねえ」
口宮さんと、その口宮さんにもたれかかるようにして隣を歩く異原さんがこちらへ完全に背を向けたところで、諸見谷さんと一貴さんは、詰まっていた息を吐き出すかのように気持ちよく感想を漏らすのでした。
「残った君達はどうだい? ああいうこと、あるのかな?」
残った君達というのはもちろん僕と同森さんと音無さんなのですが、お相手がこの場にいない僕はまだいいとして、同森さんと音無さんにとっては「ああいうこと」があってもなくても返答し辛い質問でしょう。まあ、今日はこんなのばっかりなんですけど。
しかしそんな僕の考えに反し、返事は割とあっさりなされるのでした。
「残念ながら……と言っていいのかどうかは分かりませんけど……ない、ですね……」
「ワシらは、言ってみれば昔からの知り合いが普通に付き合い始めたってだけですしな。こう……口宮と異原みたいに、何やかんやの事情があったりもしませんし」
さすがに最後の辺りは口調が躊躇いがちになる同森さんでしたが、でもまあそれはそうなのでしょう。昔からよく知っている人と特別な事情があるわけでもなしに付き合い始めたとなれば、度を超えて泣いたり笑ったりするような事件というのは、そうそう起こらないものでしょうし。
「なんとなーく残念がってるように聞こえなくもないけど、それはそれで喜ぶべきことだと思うわよ? 実際、異原さんと口宮くんに訊いたら、羨ましがるんじゃないかしら」
そりゃそうでしょう――と肯定してしまうのは帰ってしまったお二人に悪い気がするので、そう思うだけに留めておきます。
「隣の芝は何とやら、ってやつなのかもね。幼馴染と昔から好き合ってて、それから何年も経った後にその人と結ばれるなんて、ベッタベタに素敵な話なのに」
「ベッタベタとか言うんじゃないわい。持ち上げられてるはずなのにちっとも嬉しくないわ」
「この場限りでどう思うなんて、今後の静音ちゃんとの関わり合いを考えればさして大きな問題じゃないわよ。あたしの言い回し一つに、そんなところにまで影響を及ぼすような効果があると思う?」
「そういうことにしておいて言いたい放題言いまくる、ってな魂胆じゃろう? どうせ」
「うふふ、大正解」
なんとも仲のいいご兄弟なのでした。
この中に飛び込むことになる音無さんが――というか、既に飛び込んでいると見るべきなのかもしれませんが――ちょっと心配にもなりますけど、しかし同森さんと幼馴染であるなら一貴さんとも同様なので、ならばこういう遣り取りには慣れていてしかるべきなのでしょう。
……その音無さん、今現在のところはちょっと困ってるご様子でしたけども。
しかしそれはまあ、自分と同森さんのことが話題に取り上げられているからだ、ということなのでしょう。そうであってください。
「ほら一貴、あんまり度が過ぎると音無さんが疲れちゃうでしょ。そのへんにしときなさいな」
「あら。――ああ、ごめんなさいね静音ちゃん。三人揃っちゃうとどうも、はしゃぎたくなっちゃって」
その三人というのは、順当に考えて一貴さんと同森さんと音無さんを指しているのでしょう。
するとそれを聞いた音無さん、困っていた表情(もちろん口元だけしか見えませんが)をふんわりと微笑ませ、更に小首を傾げるようにして、こう言いました。
「一貴お兄ちゃんは……わたし達が小さい頃から、こうだったもんね……」
一貴お兄ちゃん。もちろん、普段はそんな呼び方をしていません。ならばこれまた順当に考えるに、小さい頃にはそう呼んでいた、ということなのでしょう。
……ところで今の笑顔、ちょっとクラッと来てしまいました。なんとも情けない話なうえ、かなりどうでもいい話ですけど。
というわけでどうでもいい話はともかく、ここで何やら諸見谷さん、「えぇ?」と素っ頓狂な声をあげました。
「一貴、昔っからこんなだったの? 男言葉の時代に? うわー、想像しやすいようなしにくいような」
「言葉遣いがどうあれ、仲のいい男女を見たらちょっかいを出したくなるのが子供心ってものじゃない? 感心がなさそうにしてるのって、十中八九むっつりスケベよ。あたしはその点、全開スケベだったけど」
全開スケベって一貴さん、そんなことをキッパリ言い切れるような子供時代を送りながらよくオカマさんなんかに……。いや、むしろ「だからこそ」と捉えるべきなんだろうか?
何というかこう、意味深なようなそうでないような、それ以前に考えさせられるだけ馬鹿を見てるような。
「誇るようなことじゃないし、それを抜きにしてもものすんごい偏見だね……。しかも、今にも続いてる自分の行動を子供心で説明付けちゃったよ。もう成人でしょうに」
「『子供心を忘れない大人』って言葉、よくいい意味で使われてるでしょ?」
「忘れないどころか根っこにこびりついてる感じだけどね。ま、相手は限られてるみたいだし、そういう節度あってのことなら、悪いこっちゃないんだろうけどさ」
諸見谷さんが言っているのは、仲のいい男女を見るとちょっかいを出したくなる、という部分についてなのでしょう。しかしはてさて、一貴さんはそれだけでなく、全開スケベとも言っていました。ならばそれについても、「節度あってのこと」というのは適用されるんでしょうか?
……まあ、考えるまでもないことなんでしょうけどね。
「相手を限るっていうなら、そういうのが一番多いのは愛香さんよ?」
一貴さんのその言葉は、僕がたった今考えていたことの証拠と思っても問題ないのでしょう。
というか、スケベ心に節度がなかったら大ごとですしね。大小様々とはいえ、言ってしまえば誰だってスケベ心の一つや二つは持ってるんですし。
「誰にでも私相手みたいなことされてたまるかっての。警察に突き出されるぞ」
そうでしょうそうでしょう。
「自分の胸に嫉妬したのなんて私くらいのもんなんじゃないの?」
何があったんですか。
しかしともかくそんな時、音無さんが「胸……」と小声で反応。小声とはいえ僕にも聞こえたそんな呟きを同森さんが聞き逃す筈もなく、諸見谷さと兄の遣り取りに曇らせていたその顔を、音無さんの方向へ。
けれどもそれは顔を向けただけで、特に声を掛けたりはしないのでした。掛けたいことは掛けたいんでしょうけど、まあなんせ女性の胸の話なので、周囲に人がいる場所では口にしづらいのでしょう。たとえその周囲の人、つまり僕達が、その話を知っていても。
「あれ、音無さんどうかした?」
――あ、そういえば。
「ああ、そういえば愛香さんの前では話したことなかったかしら?」
僕も含めた大学のいつものメンバーが音無さんの胸の悩みを知ったのは、ごく最近。その後に諸見谷さんが会いにきたのは今日も含めて二回のみで、ならばその二回のうちに音無さんの悩みの話が出たかと言われれば、そんな記憶はありませんでした。
「とはいえ、話していいものかどうかは――」
「あ、いえ……すいません、大丈夫です……」
音無さんの様子を窺う一貴さんでしたが、その音無さんは軽く頭を下げながら、そう言うのでした。
僕が言うのもなんですが、こういう状況になってしまえば、音無さんとしては「どうせ諸見谷さん以外の全員が既に知っているから」ということになるのでしょう。何もなしに話すのはもちろん躊躇われてしかるべきなんですけどね。
ということで、若干の気遅れは見受けられましたが、音無さん自身が諸見谷さんへ説明。そりゃあ他人の、しかも男の口からじゃあ、話す本人としても音無さんとしても厳しいものがありますしね。
「へえ……なるほど、そりゃあ大変そうだね」
説明が終わると、諸見谷さんは険しい表情。これまでと同じく笑いながら、とはいかないようです。
「あんまり急だと身体の感覚が追い付かないってのもあるんだろうけど、音無さんの場合、身体よりも気持ちのほうがって感じかな」
「そう……ですね……。服も未だにこんなですし……」
「でも良かったねえ、昔からじゃなくて。一貴に目ぇ付けられでもしたら、トラウマ植え付けられるぐらいはしたかもしんないよ?」
「愛香さん、シリアスな表情でそんなこと言っちゃう?」
「言っちゃうさ、自分の体験を省みて」
何があったんですか本当に。
「――というのはまあ冗談として、夏場なんかはこのままじゃねえ? 前よりマシになってるとは言っても、まだまだ厚着の域は出てないし」
「な、夏までには……なんとか克服したいなとは、思ってるんですけどね……」
この話になる度に服装が取り上げられるのは、まあ仕方がないのでしょう。
ちなみにその服装ですが、上から下まで真っ黒なのは、この件とは関係ないんでしょう。夏場を考えるなら黒より白のほうがいいとは思いますけど。
「みんな知ってる話だってんならもう言われてるかもしんないけど――特に一貴なんかは絶対に言ってるだろうけど、哲郎くん。茶化して言うにしても本気で言うにしても、こりゃあ君の仕事だよ。もちろん、音無さん自身がどうするってのを除いて、だけど」
「ご想像の通り、もう言われとります」
そんな同森さんの返事が、ちょっと気の毒に感じられてしまうのでした。お門違いもいいところでしょうけど。
「理屈は分かりますけど、それ以上の詳細はお願いですから勘弁して下さい」
「かっかっか、言われなくとも。そこまで考えなしじゃないよ、いくら私だって」
普段の諸見谷さんが考えなしだとはとても思えないわけですが、しかしまあ、その言葉自体が何かしらの考えあってのものなのでしょう。
「ところで――異原さんと口宮くんがいる間に言っときゃ良かったかもだけど」
同森さんの頼みを受けてなのか、それとも初めからこうするつもりだったのか、諸見谷さんは別の話題を持ち出してきました。
異原さんと口宮さんがいる間に言っておけば良かったということで、その話の対象は同森さんと音無さんだけでなく、僕も含まれているようです。ならば、普段以上にしっかりと耳を傾けさせてもらいましょう。
「ラーメン食べてる時にも言ったけどさ、私が言ってることの殆どって、一貴以前に彼氏がいたっていう経験からきてるんだよね」
諸見谷さんは以前に彼氏がいたことを挙げて、だからどこか冷めた目で男というものを観察しているところがある、と言っていました。今言っているのは恐らくその辺りのことなのでしょう。
もちろん僕にそんな経験はないわけですが、しかしならば諸見谷さんの言葉を理解できないかと言われれば、そんなことはありません。ちょっと想像を巡らせるだけでも、誰だってそうなっておかしくないことぐらいは分かります。
しかし諸見谷さん、「もちろん私自身にとっては私の考え方が一番しっくり来てるんだけど」と前置きしたうえで、「じゃあみんなにとってもそうかって言ったら、そうじゃないんだよ。なんせ、今の彼氏彼女以前に別の恋人がいたってわけじゃないんだし」と。
「お互いにそれを理解して付き合ってるわけだから、それに適した考え方がある筈なんだよね。私の話なんかよりはさ」
ラーメンを食べている最中の話には納得させられっぱなしだったので、それを認めるのは気が引けてしまう部分もあります。
が、よくよく考えてみれば、納得することとそれを自分に当て嵌めるかどうかは、また別の話です。納得しながら「でも自分はそうじゃないな」と思うことは特に不自然でも何でもないですし。
「だからまあ、忘れてくれとまでは言わないけど、良くて参考程度だろうね。そのくらいのつもりで受け取ってくれたほうがいいと思うし、そうしてくれたら私としても気が楽かな。――あはは、あれだけ語っといてごめんね、最後に無責任で」
そう言って諸見谷さんは苦笑しますが、でもそんな顔をされるようなことじゃないな、とは思います。
恐らくは殆どの人がそう思わされるような話なのでしょう。同森さんも、同じような立場のようでした。
「ワシとしても、諸見谷さんと同じようにゃいかんことは分かってます。というか諸見谷さんはいいとして、その相手が常識外れ過ぎますし」
「なるほど、そりゃあもっともだ」
「あら失礼ねえ」
同森さんが口を開くとすぐに一貴さんが悪者に仕立て上げられてしまいますが、しかしまあ、その部分は冗談なのでしょう。諸見谷さんと同じようにいかないというのは、自分達が諸見谷さんではないという時点で明確なんですから。
「機会があったら今の話、異原さんと口宮くんにも伝えておいてね。まあこの場の様子を見るに、言うまでもないって感じだけど」
「引き受けました。人の真似ができるほど器用な奴等でもないでしょうけど」
筋肉質な腕を組み、見るからに頼りがいのありそうな風体でそういう同森さんでしたが、
「哲くんも、あんまり人のことは言えなさそうな……」
音無さんから突っ込まれてしまうのでした。同森さん、あんまり人のことは言えそうにないんだそうです。
しかしそんなことを言われても、同森さんはへこたれませんでした。
「そうだとしたら、原因は真似したくない候補のナンバー1がとてつもなく身近にいたからじゃろうの」
「あら、じゃああたし、てっちゃんのてっちゃんらしい人格形成に一役買ってたってわけね? うふふ、光栄だわあ」
「そういう考え方もできんことはないが、自分でそれを言うんじゃからなあ」
仲良しですよね、本当に。
「かっかっか、ぱっと見は真逆でも根っこの部分はさすが兄弟ってとこかね」
諸見谷さんがそう笑い飛ばすと同森さんは露骨に嫌そうな顔をしましたが、しかしそれをさておいて、
「さて、伝えることも伝えたし、今日はそろそろ解散かね?」
とのこと。異原さんと口宮さんも帰っちゃったことですしね。
「あたしと愛香さんは、このあとちょっとお出掛けだけど……てっちゃんと静音ちゃんはどうするの?」
「いや、特にどうすると決めとるわけでもないんじゃが」
「ふーん。なんだったらうちに連れ込んじゃってもいいんじゃないかな、と思うけど、どうかしら」
さらりと大胆なことを言ってしまわれる一貴さんでしたが、同森さんはともかく、音無さんも慌ててしまうような様子はありません。意外だと思ってしまうのも失礼な話ですが、しかしやはり意外です。
「音無家も交えてはやし立てられるだけじゃろう、どうせ」
ああ、そうでした。同森さんと音無さんの家って、お向かいさんなんでしたっけ。とは言っても音無さんは現在、僕と同じくこの辺りで独り暮らしをしているらしいですけど。
「それも含めてよ。二人が付き合い始めたっていうのは静音ちゃんちも知ってるみたいだけど、二人揃って顔を出したことって、まだないでしょう?」
「うーむ……」
どうやら、まだのようでした。先週に諸見谷さんと会った日の帰りがけ、同森さんと帰り道を同じくしていた音無さんは「実家へ顔を出す」と言っていましたが、それについては、同森さんと一緒に、というわけではなかったようです。家の前で別れたんでしょうね、多分。
「大丈夫よお、そこまで堅苦しいことにはならないだろうから。ま、ちょっとくらいは格好付けたほうがいいだろうけどね」
「……そうじゃなあ。いつかはせにゃならんのだろうし、だったら予定のない日にしておいたほうがいいんじゃろうな」
今回ばかりは兄の言葉に噛み付くこともなく、素直に聞き入れる同森さんでした。
ところで、付き合ってる相手の家族を昔から知ってるって、どういう気分なんでしょうね? やっぱり、知らないまま会いに行くよりは緊張も少なかったりするんでしょうか。照れ臭さは増大するような気もしますけど。
「静音はどうじゃ?」
「わたしも……できれば今日、行っておきたいかな……」
「ふむ、じゃあ決まりじゃの。――ううむ、そうと決めたら途端に不安になってきたわい」
「うふふ、今のうちにそうしてめいっぱい不安になっておけば、本番で拍子抜けできるわよ」
「教えてもらわんほうがいい助言じゃな、それ」
不安になろうにもなれなくなっちゃいますもんね。
ということで親切なんだか意地悪なんだか判断が難しい一貴さんの助言でしたが、強張り始めていた同森さんの表情は和らぐのでした。
助言の内容とは真逆の結果ですが、これはこれでよかった、ということでいいのでしょう。
「それで兄貴、諸見谷さんと出掛けるというのは?」
「ああ、今日は前みたいに泊まり掛けとかじゃないわよ?」
「まあ先週行ったばかりじゃしな。それに明日は平日じゃし」
どこに行っているのかは不明ながら、一貴さんは年に何回かほど遠出をするそうです。年に何回か程度のものなので、二週連続でというようなことは、やっぱりないようです。
「それじゃあ今日はこの辺でお別れだけど――静音ちゃん、うちの弟を宜しくお願いします」
「あ……いえいえ、こちらこそ……」
「気が向いたら、いま住んでるところにも招待してあげてね?」
「え……! あ、いや、はい……」
と、最後の最後に音無さんを慌てさせると、一貴さんはこちらを向きました。
「日向くんも、彼女さんと仲良くね」
「はい」
一貴さんは――というか諸見谷さん以外のみんなは、栞さんのことを知っています。その割には名前で呼ばずに「彼女さん」と呼んだ辺り、どこか余所余所しさを感じたのですが、しかしそれはわざとなのでしょう。
諸見谷さんが栞さんを含め幽霊のことを知らないのは、「知らせていないから」ではなく「知らせないことにしているから」なのです。ならばこの場で一貴さんが栞さんのことを知っているような素振りを見せれば、そこに諸見谷さんが気付いた場合、話がややこしくなってしまうのです。
もちろん僕としては、「知らせてもいい」ということになれば喜んで知らせるんですけどね。なら、それを決めるのが誰かということになると……一貴さんになるでしょう、やっぱり。恋人という間柄が、この話と全く関係ないにしても。
さてさて、そういうわけで一貴さん諸見谷さんと別れ、あまくに荘への帰り道。通学に電車を使う同森さんが一緒なのはいつものことですが、今日はそこに音無さんも加わっています。
「音無さんは大丈夫なんですか? 親に同森さんを会わせるとか、自分が同森さんの親に会うとか」
というような質問を投げ掛けてみましたが、音無さん「は」なんて言ってる時点で、緊張すると言っていた同森さんを意識してしまっているのは明らかなのでした。自分でも言ってから気付きましたけど。
「あー……あは、は……あんまり大丈夫ではないような……」
曖昧な笑みを返してくる音無さん。けれど、そこまで酷くプレッシャーを感じているというわけでもないのでしょう。そうでなかったら多分、笑う余裕すらなくしてるでしょうしね、この人の場合。
「まあ、あからさまに平気面しとったら、それはそれで不自然かもしれんしの。これくらいがちょうどいいんじゃろう。……多分」
同森さん、最後の一言がやけに重々しいトーンなのでした。恐らく本当にそう思ったというわけではなく、自分に対する気休めだったのでしょう。
結局のところ、二人ともそれなりには緊張しているようでした。
「何だったら、うちで一休みしていきます?」
気軽に人を呼べるっていいものだな、なんて思いつつ、本当の意味であまくに荘がどういう所なのかを知っている二人にそう尋ねてみました。
「――いや、有難いが遠慮しておくわい。いま気が緩んだらやる気も一緒に抜けてしまいそうじゃし」
「そうだね……。わたしも、怖気づいて自分の部屋に帰っちゃいそうな気がするし……」
やんわり断られてしまいましたが、なるほどそういうこともあるのでしょう。ちょっと残念な部分もあるにはありますが、二人がベストを尽くせるなら、それが一番です。
「ところで気休めの意味でも別の話なんじゃが、兄貴の時はどんな感じだったんじゃろうな? ワシと静音にあれだけ言ったんじゃから、兄貴だってもう諸見谷さんの両親には会ってるんじゃろうし」
もはや気休めだのなんだのを隠すつもりすらない同森さんでしたが、言われてみれば確かに気になります。もちろん、一貴さんが本当に諸見谷さんの両親と会っているかどうかは、分からないわけですけど。
「どんな感じ……。う、うーん、驚いたんじゃないかな……」
「まあそれは間違いなくそうじゃろうな」
「何に驚いたか説明されるまでもないですよね」
なんせ一貴さんですし。
と、頭の中ですら説明をしないわけですがその時、同森さんが「いや、でも待てよ」と。
「別に男言葉が使えんわけじゃなし、さすがに彼女の親の前となれば、普通の喋り方になるんじゃろうか――いやいや、なるじゃろうかじゃなくて、なるんじゃろうの。普通なら」
普通だったら普通の喋り方になる。二つの「普通」が続くなら、それは相当に普通なのでしょう。しかしはてさて、ならば一貴さんは、その相当な普通に当て嵌まるのでしょうか?
そんな僕の疑問はさておいて、すると音無さんが「でも……」と、何やら申し訳なさそうに言いました。
「言葉遣いを普通にしたとしても……『そういう人だ』っていうのは、やっぱり、知らせたんじゃないかな……?」
「ううむ、確かに隠したままというのもなあ。まあそもそも、兄貴のあれは表面的なだけのもんなんじゃが」
言葉遣いや細かい仕草は女性らしいけど、中身はしっかり男である一貴さん。だからこそ諸見谷さんとお付き合いをしているわけで、正確にはオカマでなくオカマっぽいだけなのです。
もちろん、だったらそれを気にする人はいないのかと言われれば、そうではないんでしょうけど。
「わ、わたし達も何か、知らせなきゃいけないことってあるのかな……?」
「知られたうえでも言わなきゃならんことっちゅうのは、もちろんあるじゃろうが――知られてないから知らせなきゃならんこととなりゃあ、ないじゃろう、そんなもん。ワシら自身よりワシらのこと知ってそうなのが相手なんじゃぞ、ワシもお前も」
「そ、それもそうだよね……。それはそれで、ちょっと怖い気もするけど……」
相手という単語を使われると、何だか親を敵とみなしているいるように聞こえなくもないのですが、同森さんと音無さんの心境からすれば、実際にそれくらいに思っているのかもしれません。
――さて、そんなことを考えている間に到着してしまいました。お別れの目印、あまくに荘です。
「それじゃあ、同森さんも音無さんも、頑張ってください」
「おう。具体的に何をどう頑張ればいいのか未だにさっぱりじゃがな」
「わたしも同じようなものですけど……頑張ってきます……」
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