「栞」
「ん?」
「こっちおいで」
言って、足の間の床をぽんぽんと。あちらから頼まれてそうするならともかく、自分らしくない言動だなあ、なんて思わないでもありませんでしたが、
「うん」
栞が寂しそうにしている。それは、こうする理由としては充分なものなのでしょう。
指定した場所に腰を下ろした栞を、僕は緩く抱き留めます。
「もう少し待ってもいいんだよ? それこそ別に、今日じゃなくたって」
「ううん、そこは予定通りにするよ」
気丈にも、とは取らないでおきました。栞のその返事は、即断したというより初めからそれ以外の選択肢を考えていないふうだったのです。ならばそこに、一切の無理や気遣いはなかったとみていいのでしょう。
「こんなことしてくれてるんだし、孝さんは分かってるんだろうけど」
抱き留める僕の手に触れ、栞は言います。
「こういう気持ちも大事にするべきなんだろうなって。『寂しいと思っちゃう』じゃなくて、『寂しいと思える』なんだろうしね。だったら、薄まるまで待つっていうのは勿体無いかな」
「……そっか」
綺麗だな、とそう思わされてしまいました。なんせ自分を励ましている側だと認識していたので、そこで逆に感心させられるというのは、足場がぐらつくような感覚に見舞われてしまいます。
けれど、いい気分であることには変わりありません。
「孝さんとの思い出だって、ちゃんとその『思える』の一部だからね? 一回振ったのにここまで推し掛けられて、告白されたこととか」
いい気分だからこそ、そんなふうに言ってもらえるのはとても嬉しいのでした。
「推し掛けてはなかったと思うけどなあ。呼ばれて来たんじゃなかったっけ? 一応」
「そうだっけ? ふふ、そうだったかもね」
この203号室の、この場所で。甘い思い出と呼ぶには少々荒っぽい内容でしたが、けれどもしかし、ずっと記憶に留めておきたいものであることは間違いありません。
今日このあと、この部屋が無人になったあとも、ずっと。
「栞」
「ん?」
「好きだよ」
すると栞、ぷっと吹き出して「急にどうしたの?」と。
ううむ、やはり説明なしで敢行するには唐突過ぎたか。
「普通の告白もしとこうかなって。僕達あの日、あんなだったし」
「あー、確かに普通かって言われたら普通じゃなかったよねえ、あれ。――あはは、ごめんごめん」
笑いながら謝った栞、すると僕の足の間から立ち上がり、僕と向き合うようにして座り直しました。
「そういうことなら、もう一回お願いします」
なるほど、告白ならそりゃこうか。
ならば改めて、と先程の言葉を繰り返そうとしたのですが、しかし。
わざわざ座る位置を直してくれた栞を見た後だと、せっかくならこっちの台詞ももうちょっとそれっぽいものしたほうがいいかなあ、なんて。好きだよ、の一言だけじゃあ告白っていうよりは普段の遣り取りですしね、今はもう。
…………。
「栞」
「うん」
「もう結婚までしちゃってるけど、これからもずっと好きです。なので、これからもずっと僕と付き合って下さい」
「喜んで」
「…………」
「…………」
『ぷっ』
その後、二人でひとしきり大笑いし合いました。何がそんなに面白かったのかは、正直よく分かりませんでしたが。
「あっ」
「うおっ」
結局、引っ越し作業は昼ぐらいからにしようということになり、ならばそれまでは暇な時間ということになるので、栞と二人で軽く出掛けてみようと外に出たところ。
「おはようございます、成美さん」
「う、うむ」
成美さんと顔を合わせることになりました。
普段であればそれは、物音やら何やらで僕達の外出を察知した成美さんが出迎えるような形になるのですが、今回はどうやら違うようでした。202号室の前を通りかかった際に台所の窓を見てみたらそこに成美さんがいたのですが、どうもあちらは「見付かりたくなかった」という様子。つまり今回については、たまたまだったのでしょう。
ちなみに成美さん、小さい方の身体だと窓に頭が届かず、椅子を使うかシンクによじ登るかしないと外からその姿を視界に納めることはできません。というわけで今回は、朝から大人の身体なのでした。
「ええと、あれか? 引っ越しの話か?」
「いえ、それは昼ぐらいからにしてちょっと出掛けようかなと思って」
「そうだな、どう見ても通り過ぎようとしていたものな」
それは仰る通り。なのですが、
「あの、どうかしたんですか?」
見付かりたくなさそうだった、というのは分かります。けれども、どうして見付かりたくなかったのかまでは分からず、なので尋ねてみることにしました。
すると、僕に続いて栞からもこんな一言。
「もしかしてだけど、昨日の朝みたいな話だったらもう気にしないよ? むしろこっちから謝ったほうがいいかもだし」
……まあその、夜中に騒がしくしてすいませんと、そういう話なのでしょう。うむ、ええ、僕だって気にしませんとも。謝る必要があるんだったら同じく謝らせていただきますとも。
「むう、そう言ってもらえると有難いのだが――ぐぬぬ、しかしなあ」
どうやらやっぱりその件だったようですが、しかし成美さん、尚も顔をしかめ続けます。
栞が今言った通りこの問答は昨日の朝にもあったことですし、その時はその時で決着もついています。成美さんはむしろそのことを気にする栞に「気にしなくていい」と言ってくれていたわけで、ならば今になって逆に成美さんが気にしだすというのは妙な感じなのですが、はて、何をそんなに?
「誰か来たのか」
こっちまで顔をしかめそうになっていたところ、そんな声。男性のものだったそれはしかし、大吾のものではありませんでした。
「お、おいこら今はまだ……!」
成美さんが慌て始めますが、それと同時に声の主はしなやかな動きでシンクに飛び乗り、その姿を僕達の視界に納めさせたのでした。
「あ、おはようございます。昨日はお泊りだったんですか?」
「ああ。帰ろうとしたらそうするよう誘われてな、こいつにも大吾にも」
「こらってば!」
というわけで猫さんなのですが、成美さんは慌てを通り越して怒り始めてしまいました。
猫さんに対してこうまで声を荒げるということは、さっきの話と猫さんになにか関わりが?――あ。
閃いた不安に突き動かされ、大袈裟なくらいがばっと栞のほうを振り向きます。そこには、笑みを浮かべたまま真っ赤になっている顔がありました。
猫さんの耳。それはきっと、成美さんと同じくらい良く聞こえる耳なのでしょう。
「少しずつ説明しようと思ったのにお前は! 人間はそういうことに神経質だから気を遣ってやってくれと、さっき言っておいただろう!?」
……正直、僕についてはそこまでダメージは大きくなく、なのでそんな成美さんに苦笑いを浮かべるくらいの余裕はありました。けれど一方栞のほうは、注目するのも気の毒なほどだったので、さっさと視線を外しておきました。
するとそこへ猫さん、背筋も尻尾もピンと立てつつ、
「イヤアキノウノヨルハシズカダッタナア。グッスリネムレタナア」
……これまでのイメージが灰燼に帰すくらい、それはそれはド下手くそな演技なのでした。もしかしてこれは猫さんを模したロボットなのではないだろうか、と一瞬ながら真面目に考えてしまうほどに。
そりゃそうですよね。演技の経験が豊富だなんてこと、あるわけもなく。
「うわあああ馬鹿もう馬鹿っ! お前ちょっと静かにしてろ!」
あまりの緊急事態に言葉遣いまで崩壊しかかる成美さんですが――静かにさせるどころか猫さんを抱えて居間へ置き去りにし、そして自分だけ即座に台所へ戻ってきました。
「すまん! 本っ当にすまん! 言い訳のしようもない!」
その力一杯の謝罪は、それこそシンクに額を擦りつけるほどの勢いで。
「だ、大丈夫ですよそんな。栞は――そうでもなさそうですけど、だからって悪く思ってるわけじゃないですから。ね? 栞?」
頭から煙が噴き出しそうですらある栞はしかし、無言ながらこくこくと頷いてくれました。うむ、傷の大きさを考えればそれでも上出来なのでしょう。
「猫さんは成美さんの旦那さんなんですから、部屋に呼ぶことに僕達がどうこうなんて気にする方が変なんですし。だから成美さん、顔上げてください」
「……『元』旦那という扱いではあるのだがな」
そんな訂正を加えではありつつ、成美さんはゆっくりと頭を上げてくれました。
謝られてしまうと居心地が悪いというのはもちろん、かつ最大の要因ながら、今の成美さんに頭頂部を向けられていると、その、撫でたくなってしまうんですよね。猫耳を。
「その元旦那に関しては今の失態があるからどうでもいいが、大吾のほうも勘弁してやってくれ。一応、この場に出てこないのはわざとなのだ」
わざと。つまり、こちらに気を遣って、ということなのでしょう。栞の立場になってみれば、女性である成美さんならともかく、という部分はやっぱりあるんでしょうしね。
そしてその心遣いを「わざと」なんて言葉で表した成美さんもまた、こちらに気を遣ってくれているのでしょう。
「分かりました」
最初から分かってた、なんてこともあったりなかったりなのですが、そこら辺を語り始めると話が長引いてしまう気がしたので、手短に済ませておきました。
「それじゃあ成美さん、またお昼頃に」
「うむ、その時は扱き使ってやってくれ。――ああそうだ、日向」
「はい?」
「呼び方、変えたのだな」
誰の、と言われたらそりゃあ栞のことなのでしょう。そっちについても成美さんは「日向」と呼ぶので、だからわざわざ言いはしなかったんでしょうけど。
「あ、はい。大した理由もないんですけど、結婚したからってことで」
「はは、そうか。逆はどうだ? そっちは、『孝一くん』のままなのか?」
という質問、口調や顔の向きからして、成美さんは僕に問い掛けていたのでしょう。
けれど、答えたのは栞でした。
「ううん、私も変えたよ。『孝さん』って」
「そうか。うむ、いいことだと思うぞ。わたしだってそうだったし、その時はやはりいい気分だったしな」
今は大吾を大吾と呼ぶ成美さん。少し前までは、怒橋と呼んでいました。
そっか、成美さんも同じような気分だったのか。
「済まなかったな、出掛けるところを呼び止めて」
「いえいえ、話が出来て良かったです」
「ん? そんな大したことは言ってないような。……いや、大したことはあったのだが」
またも顔をしかめさせる成美さんですが、僕はもちろんながら栞ももう、そんな顔をされるに相応しいような状態ではありません。
というわけで栞、殊更に笑い掛けるようにしながら言いました。
「大吾くんにも宜しくね、その話。気にしてない、っていうのはさっきまでがあれじゃあ説得力無いだろうけど、気にしないから」
「うむ、くれぐれも引き受けたぞ」
栞に釣られたのか、それとも意識して合わせたのか。ともかく成美さんも、最後にはにこにこと見送ってくれたのでした。
「でも栞」
「ん?」
「最後のあの『大吾にも宜しく』って言い方だと、大吾にまで聞こえてたってふうに取れなくもなかったような。成美さんも、何も言ってこなかったけど」
「あはは、まさか。そうだとしても今更気にしないし」
先日のこれと同じ件は僕の部屋、つまり204号室で起こりました。そして本日は栞の部屋、つまり203号室で起こりました。204号室と203号室は寝室でもある私室が壁一枚を隔てて隣り合っており、ならば「音源」と202号室との距離自体は、そう変わるものではないのですが――。
音の伝達についての話だと、壁一枚の有無って大きいんじゃないでしょうか?
「……まさか、ねえ?」
もはや、敢えて何も言い返さないでおきました。
――で、その後。出掛けてしまう前に一つ、予め設定されていた用事がありました。
訪ねたのは101号室、家守さんの部屋でございます。
「ありゃ、おはよーさん二人とも」
『おはようございます』
鳴らされたチャイムに応じて玄関まで出てきた家守さん、挨拶を済ませるなり良く見る笑顔を浮かべます。
「こんな朝っぱらから出歩いて大丈夫なのかね?」
そりゃ寝不足は感じてますけども。と、そういう意味で仰っているのでしょう間違いなく。
そこで頭に浮かぶのは、それとはまるで対照的なさっき会っていた人物です。
「成美さんがここにいたら激怒するだろうね」
「ねー」
あちらはこっちが申し訳なってくるぐらい気を遣ってくれたというのに、そこへまあこの人は。……とはいえ、それが家守さんだからなのでしょう。僕はもちろん、さっきは言葉を失いさえしていた栞も、まるで平然としているのでした。
「むう、軽く流されてしまった。しかもよく分かんない理屈で」
「ふふ、いちいち真に受けてられないですもん。楓さんの冗談って、しょっちゅうですし」
「キシシ、自分で言っててなんだけどそりゃそうだ。んで二人とも、何か御用かな?」
朝から、しかも二人揃って現れた、ということを受けてなのでしょう。家守さんは、頼れる管理人さんの顔になるのでした。
がしかし、今回の用はそういう方面ではなく。
「これからちょっと散歩程度に出掛けようと思ってるんですけど、椛さん達の到着は何時くらいになるかなって。はっきりしてるんだったらそれまでには戻りたいですし」
「おお、そっかそっか。そうだね、昨日の時点で訊いときゃよかったか。ごめん、電話してみるからちょっと待ってて」
どのみち昼には帰ってくるつもりなんでそこまでしてもらわなくても、と告げるよりも早く、家守さんは奥へ引っ込んでしまいました。
というわけで、二人取り残された僕と栞。
「家守さん相手だったら平気そうだね、やらしい話」
「そりゃあ楓さんだもん。もしそれが苦手だったら、そういう話だけじゃなくて楓さん自身が苦手になっちゃうよ」
「なるほどねえ」
栞が家守さんを苦手に感じるなんて、考えられないことです。ならば今の栞の発言は、逆説的かつ恒久的に、真実で在り続けるのでしょう。
で、それから程なく。
「現在進行形で焼いてる最中らしくて、こっちに来られるのは二時くらいになるってさ」
「今焼いてくれてるんですか!?」
戻ってくるなりだった家守さんのその報告には、ついつい声を大きくさせられてしまいました。二時くらいとなると僕達の外出には影響を及ぼさない時間ではあるわけですがしかし、今が十時ちょい過ぎなので、二時くらいに到着というのは、移動時間も含めれば結構な忙しさなのではなかろうか、という。
とはいえ移動にどれくらいの時間を要するのかは存じていませんし、それに声が大きくなったことには、もちろん感激の意味も込められています。
すると家守さん、僕のその感激っぷりを察したのでしょう。
「焼き立てを食べてもらいたいっていうのはまあ、あっちだってあるだろうけどね。でもそれ以前にケーキは注文されてから作るらしいから、昨日頼んで今日持ってくるってなったらそりゃあ当日まで掛かっちゃうと思うよ」
「あっ、そ、そりゃそうですよね」
昂った気持ちが落ち着きを取り戻し、そして「なんでそこに気付かなかったんだろうか」と少々恥ずかしくなったりも。ケーキ屋さんならともかくパン屋さんなんですから、作り置きが常備してあるっていうのはまあ、ちょっと考え難いでしょうしね。
「そうそう。しかも一つだけじゃなくて、三つも作らなきゃならないわけだし」
家守さん、続けてそう言います。羞恥という弱味を突かれなかったことにほっとしたのはいいとして、三つ。僕達と大吾達の二つは把握していますが、そこへ更に一つ加えられているということは。
実際にそれを指摘したのは、僕ではなく栞でした。
「三つ? ってことは、楓さんも頼んだんですか?」
「そりゃもう。しぃちゃん達となっちゃん達が頼んだのにアタシらだけ頼まないってのは、逆に義理に欠くだろうしねえ。――キシシ、『ケチケチすんじゃないよ』ってどやされそうだしさ、椛に」
そういうものなんだそうです。
「もちろん、単純に食べたいっていうのが最優先だけどね」
「ですよねー」
さも当然のように同意する栞なのでした。そういうものなんだそうです。
家守さんもそんな栞に口の端をニヤリと持ち上げるのですが、しかしそれは少しすると収まり、変わりに現れたのは何やら不思議そうな表情でした。
「しぃちゃん、そういやさあ」
「あ、はい。なんですか?」
「いつものアレ、付けてないの? 頭」
自分の頭にぽんと手を当てながら、そんな質問。それ対して栞が上げたのは、「あ」と間の抜けたような声でした。
どうやら付けていなかったこと自体をすっかり忘れていたらしく、家守さんと同様頭に手を当てつつ答えます。
「今朝から、そういうことにしたんです。もう孝さんとも家族なんだしってことで」
「そっかあ」
それだけの説明で納得できるということは、家守さんも栞のカチューシャについての経緯は把握しているのでしょう。それを知ったのは今が初めてですが、けれど知るまでもないことだったりもします。そりゃあ、家守さんなんですから。
で、その家守さん。こちらの心情に反し、ここであの厭らしい笑みです。
「んでしぃちゃん、今『孝さん』って? こーちゃんのこと」
「あ、はい。それもやっぱり、結婚したからってことで」
「ふーん。年下の旦那さんでもそうなるんだねえ、やっぱり」
「あはは、みんながみんなってことはないでしょうけどね」
「キシシ、まあそりゃそうだろうね」
そこについては僕からも同意しておきましょう。
けれどもしかし今の話、不安にさせられるところもありました。
「でも楓さん、私からってだけじゃないんですよ?」
「ほう?」
年下の旦那に対してさん付けをする。家守さんはそんな栞にニヤニヤしていますが、では逆に、年上のお嫁さんに対して――。
「孝さん、私のこと『栞』って呼び捨てにしてるんです」
「んキャ――――!」
案の定、と言ってしまうには想像以上のリアクションでした。
猿か何かのような鳴き声を発した家守さん、これまで以上のニヤニヤ顔を浮かべながら僕に抱き付いてきたのです。
「年下の! こーちゃんが! 年下なのに! 『栞』って!? 『愛してるよ栞』って!? ひゃーこりゃもうたまんねー!」
わざわざキザったらしい声まで作って僕の台詞(勝手な想像上)を再現してくださる家守さん。そしてそれも含めたこの一連の動作。ここまでするほどですか。年下の男が妻を呼び捨てにするというのは。馬鹿にしている、という感じでないのは唯一の救いとすべきでしょうか。
……あと、胸が当たってるどころの騒ぎじゃないです。柔らか過ぎかつフリーダム過ぎます。くそう、起き抜けでもおかしくない時間帯とはいえ、まさかノン下着なのかこれは。
「たまんねえって、完全におっさんだなあ」
下手に動くと余計変な絡み方になってしまいそうで、なのに栞は全く助ける素振りを見せてくれなくて途方に暮れていたところ、視界外から脱力感に塗れた声。それはその声色に反し、僕にとってはこれ以上なく心強いものなのでした。
「ほらほら、セクハラは控える」
我等が家守さんキラー、高次さん。言うが早いか、家守さんを僕からベリベリと引き剥がしてくれたのでした。その引き剥がそうとする手に潰された顔で「むぎゅう」と呻く家守さんは、少し面白かったです。
「くうっ、女からでもセクハラが成立するとは」
「知人じゃなかったら訴えられるか変質者として通報されるレベルだぞ今のは。――というわけで二人とも、うちの変質者がとんだ失礼を」
「そっち!? 変質者のほう採用なの!?」
「はっは、戒めとしてはそっちのほうが強力だろうしな」
そこまで言われてしまったところで、しおしおと「ごめんなさい」を告げてくる家守さんなのでした。
けれどこちらとしては別に謝られるようなこととは思っていないので、冗談話のまま終わらせてもらってもよかったんですけどね。……何も、気持ちよかったからとかそういうわけではなく。
「んで高次さん、今の話、どこから聞いてたの?」
「ん? いや、話の中身は全く。一回戻ってきて月見さんとこに電話してたのだけは知ってるけど」
というわけで高次さん、どうやら家守さんから僕へセクハラが行われたことだけしか把握していないようです。まあセクハラ行為を視認できる位置から盗み聞きみたいなことをする理由はないわけで、だったらそりゃそうなんでしょうね。
そういうことなら、というわけでこれまで話したことを説明。とはいえ既にご存じである月見さん宅への電話の件を除けば、あとはどうでもいいような話しか残っていないわけですが。
「ほほー、日向くんが呼び捨てねえ」
カチューシャの件はそれほどでもなかったようですが、僕と栞のお互いの呼び方については、そんなふうに関心を見せた高次さん。もちろん家守さんよりはずっと大人しい反応なのですが、ううむ、やはりそんなに気に留まるものなのでしょうか。僕が栞を呼び捨てにするというのは。
「襲い掛かったのはやり過ぎにしても、それだったら楓の気持ちも分かるかなあ」
「襲い掛かったってまたそんな」
高次さん、その家守さんからの抗議の声は見事にスルー。
「勝手なイメージで悪いけど、昨日までは真逆の印象だったからねえ。『栞さん』と『孝一くん』で。それで俺らがはしゃぐってのも、まあ変と言えば変な話なんだけど」
そんな話には同意するところもあるものの、しかし例えばこれが僕と栞の話でなく大吾と成美さんの話だったりしたらと考えたところ――あっちの場合はどっちも呼び捨てだから、どっちもさん付けになるってことかな?――うん、きっと僕も同様にはしゃいでいたことでしょう。
そんなことを考えている間に、栞からお返事が。
「孝さんとも話したんですけど、呼び方が変わってもお互いをどう思ってるかってところまでは変えてないんです。中身は今でもその『栞さん』と『孝一くん』のままっていうか」
もうちょっと正確に言うなら「孝一くん」じゃなくて「こうくん」だけどね、という突っ込みは、もちろん心の中だけに留めておきます。
「へえ? はっは、そりゃ良かった。――って、これまた俺が良いとか悪いとか言うようなことじゃないんだけどね」
「ふふっ、いえいえ。これからも気に掛けて頂けると嬉しいです」
直後に否定されはしたものの、良かった、という高次さんの言葉。周囲から見ていてもやっぱりそっちのほうが僕と栞には合ってるんだな、なんて思ってしまうと、なんだかしみじみしてしまうのでした。そこまで大袈裟に感動するほどの話じゃないというのは、分かってはいるのですが。
「それはどーんと任せてもらっていいよ。なんせうちの嫁さんが二人のことを好き過ぎて、それに構ってたら俺も自動的に気に掛けざるを得なくなっちゃうんでね」
そんな話に栞と家守さんは屈託なく笑っていたのですが、僕の笑顔は屈託ありだったのでしょう。なんせさっきのああして抱き付かれた直後なので、高次さんへの労いの気持ちが笑いのそれを越えてしまっていたのです。
ご苦労様です。
今後も、有事の際には宜しくお願いします。
「ん?」
「こっちおいで」
言って、足の間の床をぽんぽんと。あちらから頼まれてそうするならともかく、自分らしくない言動だなあ、なんて思わないでもありませんでしたが、
「うん」
栞が寂しそうにしている。それは、こうする理由としては充分なものなのでしょう。
指定した場所に腰を下ろした栞を、僕は緩く抱き留めます。
「もう少し待ってもいいんだよ? それこそ別に、今日じゃなくたって」
「ううん、そこは予定通りにするよ」
気丈にも、とは取らないでおきました。栞のその返事は、即断したというより初めからそれ以外の選択肢を考えていないふうだったのです。ならばそこに、一切の無理や気遣いはなかったとみていいのでしょう。
「こんなことしてくれてるんだし、孝さんは分かってるんだろうけど」
抱き留める僕の手に触れ、栞は言います。
「こういう気持ちも大事にするべきなんだろうなって。『寂しいと思っちゃう』じゃなくて、『寂しいと思える』なんだろうしね。だったら、薄まるまで待つっていうのは勿体無いかな」
「……そっか」
綺麗だな、とそう思わされてしまいました。なんせ自分を励ましている側だと認識していたので、そこで逆に感心させられるというのは、足場がぐらつくような感覚に見舞われてしまいます。
けれど、いい気分であることには変わりありません。
「孝さんとの思い出だって、ちゃんとその『思える』の一部だからね? 一回振ったのにここまで推し掛けられて、告白されたこととか」
いい気分だからこそ、そんなふうに言ってもらえるのはとても嬉しいのでした。
「推し掛けてはなかったと思うけどなあ。呼ばれて来たんじゃなかったっけ? 一応」
「そうだっけ? ふふ、そうだったかもね」
この203号室の、この場所で。甘い思い出と呼ぶには少々荒っぽい内容でしたが、けれどもしかし、ずっと記憶に留めておきたいものであることは間違いありません。
今日このあと、この部屋が無人になったあとも、ずっと。
「栞」
「ん?」
「好きだよ」
すると栞、ぷっと吹き出して「急にどうしたの?」と。
ううむ、やはり説明なしで敢行するには唐突過ぎたか。
「普通の告白もしとこうかなって。僕達あの日、あんなだったし」
「あー、確かに普通かって言われたら普通じゃなかったよねえ、あれ。――あはは、ごめんごめん」
笑いながら謝った栞、すると僕の足の間から立ち上がり、僕と向き合うようにして座り直しました。
「そういうことなら、もう一回お願いします」
なるほど、告白ならそりゃこうか。
ならば改めて、と先程の言葉を繰り返そうとしたのですが、しかし。
わざわざ座る位置を直してくれた栞を見た後だと、せっかくならこっちの台詞ももうちょっとそれっぽいものしたほうがいいかなあ、なんて。好きだよ、の一言だけじゃあ告白っていうよりは普段の遣り取りですしね、今はもう。
…………。
「栞」
「うん」
「もう結婚までしちゃってるけど、これからもずっと好きです。なので、これからもずっと僕と付き合って下さい」
「喜んで」
「…………」
「…………」
『ぷっ』
その後、二人でひとしきり大笑いし合いました。何がそんなに面白かったのかは、正直よく分かりませんでしたが。
「あっ」
「うおっ」
結局、引っ越し作業は昼ぐらいからにしようということになり、ならばそれまでは暇な時間ということになるので、栞と二人で軽く出掛けてみようと外に出たところ。
「おはようございます、成美さん」
「う、うむ」
成美さんと顔を合わせることになりました。
普段であればそれは、物音やら何やらで僕達の外出を察知した成美さんが出迎えるような形になるのですが、今回はどうやら違うようでした。202号室の前を通りかかった際に台所の窓を見てみたらそこに成美さんがいたのですが、どうもあちらは「見付かりたくなかった」という様子。つまり今回については、たまたまだったのでしょう。
ちなみに成美さん、小さい方の身体だと窓に頭が届かず、椅子を使うかシンクによじ登るかしないと外からその姿を視界に納めることはできません。というわけで今回は、朝から大人の身体なのでした。
「ええと、あれか? 引っ越しの話か?」
「いえ、それは昼ぐらいからにしてちょっと出掛けようかなと思って」
「そうだな、どう見ても通り過ぎようとしていたものな」
それは仰る通り。なのですが、
「あの、どうかしたんですか?」
見付かりたくなさそうだった、というのは分かります。けれども、どうして見付かりたくなかったのかまでは分からず、なので尋ねてみることにしました。
すると、僕に続いて栞からもこんな一言。
「もしかしてだけど、昨日の朝みたいな話だったらもう気にしないよ? むしろこっちから謝ったほうがいいかもだし」
……まあその、夜中に騒がしくしてすいませんと、そういう話なのでしょう。うむ、ええ、僕だって気にしませんとも。謝る必要があるんだったら同じく謝らせていただきますとも。
「むう、そう言ってもらえると有難いのだが――ぐぬぬ、しかしなあ」
どうやらやっぱりその件だったようですが、しかし成美さん、尚も顔をしかめ続けます。
栞が今言った通りこの問答は昨日の朝にもあったことですし、その時はその時で決着もついています。成美さんはむしろそのことを気にする栞に「気にしなくていい」と言ってくれていたわけで、ならば今になって逆に成美さんが気にしだすというのは妙な感じなのですが、はて、何をそんなに?
「誰か来たのか」
こっちまで顔をしかめそうになっていたところ、そんな声。男性のものだったそれはしかし、大吾のものではありませんでした。
「お、おいこら今はまだ……!」
成美さんが慌て始めますが、それと同時に声の主はしなやかな動きでシンクに飛び乗り、その姿を僕達の視界に納めさせたのでした。
「あ、おはようございます。昨日はお泊りだったんですか?」
「ああ。帰ろうとしたらそうするよう誘われてな、こいつにも大吾にも」
「こらってば!」
というわけで猫さんなのですが、成美さんは慌てを通り越して怒り始めてしまいました。
猫さんに対してこうまで声を荒げるということは、さっきの話と猫さんになにか関わりが?――あ。
閃いた不安に突き動かされ、大袈裟なくらいがばっと栞のほうを振り向きます。そこには、笑みを浮かべたまま真っ赤になっている顔がありました。
猫さんの耳。それはきっと、成美さんと同じくらい良く聞こえる耳なのでしょう。
「少しずつ説明しようと思ったのにお前は! 人間はそういうことに神経質だから気を遣ってやってくれと、さっき言っておいただろう!?」
……正直、僕についてはそこまでダメージは大きくなく、なのでそんな成美さんに苦笑いを浮かべるくらいの余裕はありました。けれど一方栞のほうは、注目するのも気の毒なほどだったので、さっさと視線を外しておきました。
するとそこへ猫さん、背筋も尻尾もピンと立てつつ、
「イヤアキノウノヨルハシズカダッタナア。グッスリネムレタナア」
……これまでのイメージが灰燼に帰すくらい、それはそれはド下手くそな演技なのでした。もしかしてこれは猫さんを模したロボットなのではないだろうか、と一瞬ながら真面目に考えてしまうほどに。
そりゃそうですよね。演技の経験が豊富だなんてこと、あるわけもなく。
「うわあああ馬鹿もう馬鹿っ! お前ちょっと静かにしてろ!」
あまりの緊急事態に言葉遣いまで崩壊しかかる成美さんですが――静かにさせるどころか猫さんを抱えて居間へ置き去りにし、そして自分だけ即座に台所へ戻ってきました。
「すまん! 本っ当にすまん! 言い訳のしようもない!」
その力一杯の謝罪は、それこそシンクに額を擦りつけるほどの勢いで。
「だ、大丈夫ですよそんな。栞は――そうでもなさそうですけど、だからって悪く思ってるわけじゃないですから。ね? 栞?」
頭から煙が噴き出しそうですらある栞はしかし、無言ながらこくこくと頷いてくれました。うむ、傷の大きさを考えればそれでも上出来なのでしょう。
「猫さんは成美さんの旦那さんなんですから、部屋に呼ぶことに僕達がどうこうなんて気にする方が変なんですし。だから成美さん、顔上げてください」
「……『元』旦那という扱いではあるのだがな」
そんな訂正を加えではありつつ、成美さんはゆっくりと頭を上げてくれました。
謝られてしまうと居心地が悪いというのはもちろん、かつ最大の要因ながら、今の成美さんに頭頂部を向けられていると、その、撫でたくなってしまうんですよね。猫耳を。
「その元旦那に関しては今の失態があるからどうでもいいが、大吾のほうも勘弁してやってくれ。一応、この場に出てこないのはわざとなのだ」
わざと。つまり、こちらに気を遣って、ということなのでしょう。栞の立場になってみれば、女性である成美さんならともかく、という部分はやっぱりあるんでしょうしね。
そしてその心遣いを「わざと」なんて言葉で表した成美さんもまた、こちらに気を遣ってくれているのでしょう。
「分かりました」
最初から分かってた、なんてこともあったりなかったりなのですが、そこら辺を語り始めると話が長引いてしまう気がしたので、手短に済ませておきました。
「それじゃあ成美さん、またお昼頃に」
「うむ、その時は扱き使ってやってくれ。――ああそうだ、日向」
「はい?」
「呼び方、変えたのだな」
誰の、と言われたらそりゃあ栞のことなのでしょう。そっちについても成美さんは「日向」と呼ぶので、だからわざわざ言いはしなかったんでしょうけど。
「あ、はい。大した理由もないんですけど、結婚したからってことで」
「はは、そうか。逆はどうだ? そっちは、『孝一くん』のままなのか?」
という質問、口調や顔の向きからして、成美さんは僕に問い掛けていたのでしょう。
けれど、答えたのは栞でした。
「ううん、私も変えたよ。『孝さん』って」
「そうか。うむ、いいことだと思うぞ。わたしだってそうだったし、その時はやはりいい気分だったしな」
今は大吾を大吾と呼ぶ成美さん。少し前までは、怒橋と呼んでいました。
そっか、成美さんも同じような気分だったのか。
「済まなかったな、出掛けるところを呼び止めて」
「いえいえ、話が出来て良かったです」
「ん? そんな大したことは言ってないような。……いや、大したことはあったのだが」
またも顔をしかめさせる成美さんですが、僕はもちろんながら栞ももう、そんな顔をされるに相応しいような状態ではありません。
というわけで栞、殊更に笑い掛けるようにしながら言いました。
「大吾くんにも宜しくね、その話。気にしてない、っていうのはさっきまでがあれじゃあ説得力無いだろうけど、気にしないから」
「うむ、くれぐれも引き受けたぞ」
栞に釣られたのか、それとも意識して合わせたのか。ともかく成美さんも、最後にはにこにこと見送ってくれたのでした。
「でも栞」
「ん?」
「最後のあの『大吾にも宜しく』って言い方だと、大吾にまで聞こえてたってふうに取れなくもなかったような。成美さんも、何も言ってこなかったけど」
「あはは、まさか。そうだとしても今更気にしないし」
先日のこれと同じ件は僕の部屋、つまり204号室で起こりました。そして本日は栞の部屋、つまり203号室で起こりました。204号室と203号室は寝室でもある私室が壁一枚を隔てて隣り合っており、ならば「音源」と202号室との距離自体は、そう変わるものではないのですが――。
音の伝達についての話だと、壁一枚の有無って大きいんじゃないでしょうか?
「……まさか、ねえ?」
もはや、敢えて何も言い返さないでおきました。
――で、その後。出掛けてしまう前に一つ、予め設定されていた用事がありました。
訪ねたのは101号室、家守さんの部屋でございます。
「ありゃ、おはよーさん二人とも」
『おはようございます』
鳴らされたチャイムに応じて玄関まで出てきた家守さん、挨拶を済ませるなり良く見る笑顔を浮かべます。
「こんな朝っぱらから出歩いて大丈夫なのかね?」
そりゃ寝不足は感じてますけども。と、そういう意味で仰っているのでしょう間違いなく。
そこで頭に浮かぶのは、それとはまるで対照的なさっき会っていた人物です。
「成美さんがここにいたら激怒するだろうね」
「ねー」
あちらはこっちが申し訳なってくるぐらい気を遣ってくれたというのに、そこへまあこの人は。……とはいえ、それが家守さんだからなのでしょう。僕はもちろん、さっきは言葉を失いさえしていた栞も、まるで平然としているのでした。
「むう、軽く流されてしまった。しかもよく分かんない理屈で」
「ふふ、いちいち真に受けてられないですもん。楓さんの冗談って、しょっちゅうですし」
「キシシ、自分で言っててなんだけどそりゃそうだ。んで二人とも、何か御用かな?」
朝から、しかも二人揃って現れた、ということを受けてなのでしょう。家守さんは、頼れる管理人さんの顔になるのでした。
がしかし、今回の用はそういう方面ではなく。
「これからちょっと散歩程度に出掛けようと思ってるんですけど、椛さん達の到着は何時くらいになるかなって。はっきりしてるんだったらそれまでには戻りたいですし」
「おお、そっかそっか。そうだね、昨日の時点で訊いときゃよかったか。ごめん、電話してみるからちょっと待ってて」
どのみち昼には帰ってくるつもりなんでそこまでしてもらわなくても、と告げるよりも早く、家守さんは奥へ引っ込んでしまいました。
というわけで、二人取り残された僕と栞。
「家守さん相手だったら平気そうだね、やらしい話」
「そりゃあ楓さんだもん。もしそれが苦手だったら、そういう話だけじゃなくて楓さん自身が苦手になっちゃうよ」
「なるほどねえ」
栞が家守さんを苦手に感じるなんて、考えられないことです。ならば今の栞の発言は、逆説的かつ恒久的に、真実で在り続けるのでしょう。
で、それから程なく。
「現在進行形で焼いてる最中らしくて、こっちに来られるのは二時くらいになるってさ」
「今焼いてくれてるんですか!?」
戻ってくるなりだった家守さんのその報告には、ついつい声を大きくさせられてしまいました。二時くらいとなると僕達の外出には影響を及ぼさない時間ではあるわけですがしかし、今が十時ちょい過ぎなので、二時くらいに到着というのは、移動時間も含めれば結構な忙しさなのではなかろうか、という。
とはいえ移動にどれくらいの時間を要するのかは存じていませんし、それに声が大きくなったことには、もちろん感激の意味も込められています。
すると家守さん、僕のその感激っぷりを察したのでしょう。
「焼き立てを食べてもらいたいっていうのはまあ、あっちだってあるだろうけどね。でもそれ以前にケーキは注文されてから作るらしいから、昨日頼んで今日持ってくるってなったらそりゃあ当日まで掛かっちゃうと思うよ」
「あっ、そ、そりゃそうですよね」
昂った気持ちが落ち着きを取り戻し、そして「なんでそこに気付かなかったんだろうか」と少々恥ずかしくなったりも。ケーキ屋さんならともかくパン屋さんなんですから、作り置きが常備してあるっていうのはまあ、ちょっと考え難いでしょうしね。
「そうそう。しかも一つだけじゃなくて、三つも作らなきゃならないわけだし」
家守さん、続けてそう言います。羞恥という弱味を突かれなかったことにほっとしたのはいいとして、三つ。僕達と大吾達の二つは把握していますが、そこへ更に一つ加えられているということは。
実際にそれを指摘したのは、僕ではなく栞でした。
「三つ? ってことは、楓さんも頼んだんですか?」
「そりゃもう。しぃちゃん達となっちゃん達が頼んだのにアタシらだけ頼まないってのは、逆に義理に欠くだろうしねえ。――キシシ、『ケチケチすんじゃないよ』ってどやされそうだしさ、椛に」
そういうものなんだそうです。
「もちろん、単純に食べたいっていうのが最優先だけどね」
「ですよねー」
さも当然のように同意する栞なのでした。そういうものなんだそうです。
家守さんもそんな栞に口の端をニヤリと持ち上げるのですが、しかしそれは少しすると収まり、変わりに現れたのは何やら不思議そうな表情でした。
「しぃちゃん、そういやさあ」
「あ、はい。なんですか?」
「いつものアレ、付けてないの? 頭」
自分の頭にぽんと手を当てながら、そんな質問。それ対して栞が上げたのは、「あ」と間の抜けたような声でした。
どうやら付けていなかったこと自体をすっかり忘れていたらしく、家守さんと同様頭に手を当てつつ答えます。
「今朝から、そういうことにしたんです。もう孝さんとも家族なんだしってことで」
「そっかあ」
それだけの説明で納得できるということは、家守さんも栞のカチューシャについての経緯は把握しているのでしょう。それを知ったのは今が初めてですが、けれど知るまでもないことだったりもします。そりゃあ、家守さんなんですから。
で、その家守さん。こちらの心情に反し、ここであの厭らしい笑みです。
「んでしぃちゃん、今『孝さん』って? こーちゃんのこと」
「あ、はい。それもやっぱり、結婚したからってことで」
「ふーん。年下の旦那さんでもそうなるんだねえ、やっぱり」
「あはは、みんながみんなってことはないでしょうけどね」
「キシシ、まあそりゃそうだろうね」
そこについては僕からも同意しておきましょう。
けれどもしかし今の話、不安にさせられるところもありました。
「でも楓さん、私からってだけじゃないんですよ?」
「ほう?」
年下の旦那に対してさん付けをする。家守さんはそんな栞にニヤニヤしていますが、では逆に、年上のお嫁さんに対して――。
「孝さん、私のこと『栞』って呼び捨てにしてるんです」
「んキャ――――!」
案の定、と言ってしまうには想像以上のリアクションでした。
猿か何かのような鳴き声を発した家守さん、これまで以上のニヤニヤ顔を浮かべながら僕に抱き付いてきたのです。
「年下の! こーちゃんが! 年下なのに! 『栞』って!? 『愛してるよ栞』って!? ひゃーこりゃもうたまんねー!」
わざわざキザったらしい声まで作って僕の台詞(勝手な想像上)を再現してくださる家守さん。そしてそれも含めたこの一連の動作。ここまでするほどですか。年下の男が妻を呼び捨てにするというのは。馬鹿にしている、という感じでないのは唯一の救いとすべきでしょうか。
……あと、胸が当たってるどころの騒ぎじゃないです。柔らか過ぎかつフリーダム過ぎます。くそう、起き抜けでもおかしくない時間帯とはいえ、まさかノン下着なのかこれは。
「たまんねえって、完全におっさんだなあ」
下手に動くと余計変な絡み方になってしまいそうで、なのに栞は全く助ける素振りを見せてくれなくて途方に暮れていたところ、視界外から脱力感に塗れた声。それはその声色に反し、僕にとってはこれ以上なく心強いものなのでした。
「ほらほら、セクハラは控える」
我等が家守さんキラー、高次さん。言うが早いか、家守さんを僕からベリベリと引き剥がしてくれたのでした。その引き剥がそうとする手に潰された顔で「むぎゅう」と呻く家守さんは、少し面白かったです。
「くうっ、女からでもセクハラが成立するとは」
「知人じゃなかったら訴えられるか変質者として通報されるレベルだぞ今のは。――というわけで二人とも、うちの変質者がとんだ失礼を」
「そっち!? 変質者のほう採用なの!?」
「はっは、戒めとしてはそっちのほうが強力だろうしな」
そこまで言われてしまったところで、しおしおと「ごめんなさい」を告げてくる家守さんなのでした。
けれどこちらとしては別に謝られるようなこととは思っていないので、冗談話のまま終わらせてもらってもよかったんですけどね。……何も、気持ちよかったからとかそういうわけではなく。
「んで高次さん、今の話、どこから聞いてたの?」
「ん? いや、話の中身は全く。一回戻ってきて月見さんとこに電話してたのだけは知ってるけど」
というわけで高次さん、どうやら家守さんから僕へセクハラが行われたことだけしか把握していないようです。まあセクハラ行為を視認できる位置から盗み聞きみたいなことをする理由はないわけで、だったらそりゃそうなんでしょうね。
そういうことなら、というわけでこれまで話したことを説明。とはいえ既にご存じである月見さん宅への電話の件を除けば、あとはどうでもいいような話しか残っていないわけですが。
「ほほー、日向くんが呼び捨てねえ」
カチューシャの件はそれほどでもなかったようですが、僕と栞のお互いの呼び方については、そんなふうに関心を見せた高次さん。もちろん家守さんよりはずっと大人しい反応なのですが、ううむ、やはりそんなに気に留まるものなのでしょうか。僕が栞を呼び捨てにするというのは。
「襲い掛かったのはやり過ぎにしても、それだったら楓の気持ちも分かるかなあ」
「襲い掛かったってまたそんな」
高次さん、その家守さんからの抗議の声は見事にスルー。
「勝手なイメージで悪いけど、昨日までは真逆の印象だったからねえ。『栞さん』と『孝一くん』で。それで俺らがはしゃぐってのも、まあ変と言えば変な話なんだけど」
そんな話には同意するところもあるものの、しかし例えばこれが僕と栞の話でなく大吾と成美さんの話だったりしたらと考えたところ――あっちの場合はどっちも呼び捨てだから、どっちもさん付けになるってことかな?――うん、きっと僕も同様にはしゃいでいたことでしょう。
そんなことを考えている間に、栞からお返事が。
「孝さんとも話したんですけど、呼び方が変わってもお互いをどう思ってるかってところまでは変えてないんです。中身は今でもその『栞さん』と『孝一くん』のままっていうか」
もうちょっと正確に言うなら「孝一くん」じゃなくて「こうくん」だけどね、という突っ込みは、もちろん心の中だけに留めておきます。
「へえ? はっは、そりゃ良かった。――って、これまた俺が良いとか悪いとか言うようなことじゃないんだけどね」
「ふふっ、いえいえ。これからも気に掛けて頂けると嬉しいです」
直後に否定されはしたものの、良かった、という高次さんの言葉。周囲から見ていてもやっぱりそっちのほうが僕と栞には合ってるんだな、なんて思ってしまうと、なんだかしみじみしてしまうのでした。そこまで大袈裟に感動するほどの話じゃないというのは、分かってはいるのですが。
「それはどーんと任せてもらっていいよ。なんせうちの嫁さんが二人のことを好き過ぎて、それに構ってたら俺も自動的に気に掛けざるを得なくなっちゃうんでね」
そんな話に栞と家守さんは屈託なく笑っていたのですが、僕の笑顔は屈託ありだったのでしょう。なんせさっきのああして抱き付かれた直後なので、高次さんへの労いの気持ちが笑いのそれを越えてしまっていたのです。
ご苦労様です。
今後も、有事の際には宜しくお願いします。
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