「ふむ。そういうことらしいので日向君、サーズデイをお任せしても?」
「え、ああ、はい」
ついさっき清さんが一緒だということで喜んでいたのに、どうやら成美さんの話で心移りしてしまったらしいサーズデイさんでした。悪い気がするってわけじゃあないんですけどね? もちろんながら。
というわけで清さんからサーズデイさん入りの瓶を受け取るのですが、すると何やらサーズデイさん、瓶の側面に頬を押し付けるようにしました。頬というものは、多分ないんでしょうけど。
「むぎゅー」
ともかくその動きは、僕に何かを伝えようとしているのでしょう。はて、どう解釈すべきなのでしょうか?
「……大吾ー」
「知らん」
助けを求めてみましたが、一蹴されてしまいました。あまつさえ、困った僕を無視する形で歩き始めてしまいます。そりゃあこれから散歩だというところでずっと立ち止まっているのもどうなんだって話ではありましょうが、だからって今じゃなくても。
大吾に見捨てられたので周囲にも助けを請う眼差しを贈ってみましたが、みんな揃ってニンマリしていたので、声を掛ける前から諦めました。
「ううむ……」
「ぎゅむうー」
歩き出しつつサーズデイさんを観察してみても、様子は一向に変わりません。頬を瓶の側面に押し付ける。ただそれだけなのでした。
――ややこしく考えず、シンプルに考えてみるとしたら?
というのは苦し紛れな思考ではあったのですが、ともかく僕はその考えに則ってみることに。どうしたかというと、サーズデイさんの真似をして瓶の側面に頬を押し付けてみたのです。
ひんやりして気持ちいい、なんて思ったその時でした。
「ちゅっ」
耳元、というか頬の辺りから、そんな声が聞こえました。
瓶から頬を離し、再度サーズデイさんと向き合います。
「……ええと、キスですか? 今の」
「こくこく」
瓶越しにキスをされてしまったようでした。瓶越しなのについつい頬をさすってしまいますが、もちろん感触も何も残ってなんかいませんとも。
そこそこ悩んだ結果がこれ、ということで脱力してしまうのですが、しかしまあサーズデイさんは楽しそうにしていたので、良しとしておきましょう。
「傷付くなあ。サーズデイにはキスまでされても平然としているのに、わたしだと頭を撫でることすら躊躇うというのだから」
僕が良しとしても、成美さんには良しとされなかったようでした。いやだからサーズデイさんは性別が、という釈明はしても無駄なのでしょう、きっと。
「いやでも、今はなんとなく躊躇わなさそうな気分ですよ?」
というのはサーズデイさんから頂いた脱力感のなせる業なのでしょうが、根源の善し悪しはともかく、今ならいくらでも、更には躊躇も遠慮もなく、成美さんの頭を撫でられそうな気がしました。
「おお、そうなのか?」
成美さんは嬉しそうでした。そして僕の傍へ寄って来たのですが、
「……自分より背が高い人の頭を撫でるって、変な気分ですね」
現在の成美さんは、大人バージョンなのです。
「まあまあそう言わずに」
そう言って成美さんは少し頭を下げたのですが、それでようやく僕の頭と同じくらいの高さだったので、なんだか余計に身長差が強調されているような気分に。
「帽子は取った方がいいか?」
「あ、いえ、そこはお構いなく」
猫耳を隠すために被っているニット帽。脱いでしまったらもちろん意味がないわけで、だったらば脱いでもらう必要はないでしょう。脱いで欲しいのであれば、家に帰ってから再度撫でさせてもらえばいいわけですし。
というわけで、一応は大吾と栞さんの顔色をちらりと窺ってから、成美さんの頭に手を添えました。
…………。
……分かってはいたことですが、非常に気持ちいいのでした。
猫耳、などと呼んではいても、成美さんのそれは髪の毛の集まりです。なのでとてもふわふわしているのですが、しかしそうでありながら、かつて上から装着した栞さんのカチューシャを跳ね飛ばしたことからも分かる通り、非常に強い弾力を備えてもいるのです。
ふわふわしていて、かつ強い弾力性を持っている。耳にするだけでは矛盾しているようにも思える説明ですが、しかしその説明通りの逸品が現在、僕の手の中にあるのです。
「ふふっ」
神経の通った耳ではなく髪の毛ということで、僕が得ている感触とほぼ同じものを、成美さんも頭皮を通じて感じているのでしょう。気持ちよさそうな笑みを漏らす成美さんには、どこかくらりとさせられるものがありました。
……呑気にそんな感想を持ったところで背徳感に襲われ、なので僕は自分から、成美さんの頭を撫でるという行為を終了させることに。一時は克服した遠慮も躊躇も、結局は後からまた湧いてきてしまったのでした。
「じゃあ次は楽だな」
気分をよくした成美さん、僕の手が頭から離れるとすぐに狙いを清さんへ移しました。「清さんもですよね」と巻き込んだのは僕ですが、まあともかく、ここまでの話の流れからすればそりゃそうなるのでしょう。そしてそういうことになるならば、
「ぎゅー、ぎゅー」
サーズデイさんも成美さんと同じく、ということで、清さんへ向けて頬を突き出しています。だったら、瓶を僕が持っている必要はないでしょう。
「じゃあ清さん、どうぞ」
「うーん、いいんですかねえ? 私のようなおっさんがこんなにモテモテで」
サーズデイさん入りの瓶を受け取りつつ、笑いながらもそんな疑問を吐露する清さんなのでした。しかしそれについては、誰から文句が出るということもないのではないでしょうか?
そうでなくともナタリーさんとジョンも担当している清さんは、サーズデイさんを受け取った時点で両手が塞がってしまいます。というわけでジョンのリードについては、一時的に僕が預かることになりました。
「……相変わらず、他の何かに例えられない気持ちよさですねえ」
言われた成美さんはさっきと同じく気持ちよさそうにしているばかりなのですが、清さんは猫耳の感触をそんなふうに表現し、褒めるのでした。さっき体験したばかりなので、僕もそれには惜しみなく同意するばかりです。
「ぎゅうー」
後回しにされたサーズデイさんが、瓶の側面に頬を押し付けたままちょっぴり不満そうにしています。
「ああ、すいませんねウェンズデー。いやあ、やはりと言うか、キスをされると初めから分かっているというのは照れ臭くて」
キスをされると分かっていてそのうえ、そうするよう導くのは自分の手。あちらからしてくるならともかく、そりゃあ大体の人は照れるでしょう。まあ、瓶越しではあるんですけど。
それはともかく、そんなふうに急かされてしまった清さんは、成美さんの頭を撫で続けつつウェンズデーさんを自分の頬へ。
「ちゅっちゅっ」
キスは、二回でした。僕には一回だけだったのに、なんてことを言ってはいけないのでしょう。むむむ。
「ワウ」
ジョンが慰めてくれました。多分違うんでしょうけど、そういうことにしておきましょう。お礼に頭を撫でておきました。
「大吾くんにもしてあげたらどう? ああ、成美ちゃんのは『させてあげたら?』かな」
「今日はえらい絡んでくるな、オマエ」
栞さんの一言で成美さんとサーズデイさんの目標が大吾にも移ることになったのは、言うまでもないでしょう。
ちなみに大吾へのキスは、「ちゅうー」と若干ディープキスっぽい雰囲気を含んでいたのでした。僕には以下略、でございます。むむむ。
さて、ジョンのリードが清さんの右手、サーズデイさんが僕の右手、成美さんが大吾の隣へそれぞれ戻り、そして散歩が暫く続いた頃。思い出した話題があった僕は、とりとめもない会話の切れ目にそれを挟み込ませました。
「ねえ大吾」
「ん?」
「大学が終わった後の話なんだけど、栞さんと買い物に行くってことになっててさ。大吾達も一緒に来ない?」
「買い物かあ。どうする? 成美」
「買い物となればわたしが行かないわけにはいかないだろう。丁度、実体化してもいることだしな」
買うような物がないということなのかあまり積極的ではない大吾でしたが、しかし成美さんは対照的でした。僕と清さん、それに大吾から頭を撫でられて気分を良くしていることも関係しているのかもしれませんが、実に乗り気な様子です。
「そっか。それじゃあ、オレもまあ」
こうなれば当然と言うべきか、大吾も来ることに。となれば、あとは。
「清さんもどうですか?」
「うーむ。いえ、私は遠慮しておきます」
おや、これは意外な返事。
「散歩ならともかくデートに交じるのは、さすがにですしねえ。んっふっふ」
意外な返事には意外な理由が付いてきました。デートなんて一言も言ってないような気がするんですが……? いやまあ、僕と栞さんは特に買う物の予定があるわけじゃあなく、単にお出掛けの延長として買い物に行こうという話になったわけで、だったらそりゃまあデートってことになるんでしょうけどね? でも、そのことを清さんの前で言ったわけじゃないですし。
……買う物の予定がない? そういえば、大吾もそれっぽいんだっけ。
ああ、じゃあ清さん、大吾を見てそう思ったのかな。
「デートって、二人でするものじゃないんですか?」
清さんの肩の上からそう尋ねたのは、ナタリーさんでした。
「んっふっふ、しかしナタリー、ダブルデートという言葉もあるのですよ。二組のカップルが一緒になってデートをする、という」
へええ、と唸るのはもちろんナタリーさんですが、僕も内心では唸っていました。そういえばそんな言葉もあったっけな、と。
「今時の若者にも広まっているかどうかは、分かりませんけどね」
僕の場合、知識としてなんとか知ってはいても「広まっている」というほど当たり前のことではありませんでした。がしかし、自分がきちんと「今時の若者」をしているかと言われれば、かなり自信がありません。なので清さんの疑問はスルーしておきます。
「ダブルデートか。ふむ、面白そうだな」
一方で成美さんは、またも乗り気なのでした。
「でも、そういうことになったらあれだな。清サンだけじゃなくてサーズデイ達も……」
「あ、私は全然構いませんよ?」
「ぷくぷくー」
ダブルかどうかに関わらず、デートということであれば、サーズデイさん達もご遠慮頂くことになります。そういうわけでどこか申し訳なさそうな語り口の大吾だったのですが、当のサーズデイさん達はさらりとそれを了解するのでした。
そんな様子を「ふふっ」と笑った成美さんは、大吾にこう言います。
「気持ちは分かるが、今日のところはわたしと喜坂達で我慢しておけ。せっかくのお誘いなのだしな」
「いや別に、そういうわけじゃねえけど」
気持ちは分かるが、という言葉だけでどういうわけなのかを察してしまっている辺り、それはきっと嘘なのでしょう。だからといって「じゃあ止めとく?」ということにはしませんけどね。
話が纏まった、ということで栞さんの顔を窺ってみれば、そこにはもちろんのこと嬉しそうな表情がありました。朝、「大吾達も呼びますか」と尋ねたのは僕ですが、「そうしたい」と言ったのは栞さんでしたもんね。そんなふうに訊いておきながら僕は当初、二人で行こうと考えてたわけですし。
「買いたいものがあったら遠慮なく言うのだぞ? いやむしろ、せっかくの機会だ。買いたいものが特にないまま無駄に買い物をしてみるとか、そういうのも歓迎するぞ」
「無駄な買い物なあ。まあ考えるにしても、行ってみてからだな」
乗り気を通り越してノリノリな成美さん。たった今まで後ろ髪を引かれたような様子だったのに、それに釣られて少しだけ表情を和らげる大吾。実に微笑ましい二人なのでした。
だったらこちらこそ、ダブルデートは大歓迎です。
……頭に浮かべただけでちょっと恥ずかしかったです、ダブルデート。
あまくに荘に戻った後はいったん102号室に集まって、ジョンのブラシがけと雑談を。
とはいえそれもそう長く掛かるものではなく、更に僕は昼食がまだなので、大吾の仕事が終わったところで自分の部屋へ戻ることに。
となると一緒に昼食になる栞さんはもちろんのこと、大吾と成美さんも、それに合わせて202号室へ戻るということになりました。
「それでは、お邪魔しました」
それは散歩終わりの挨拶、ということなのでしょう。それにしたって今の今まで部屋にお邪魔していたのはこちらですし、そもそも散歩終わりの挨拶としてもちょっと相応しくない言葉のように思えましたが、清さんは別れ際にそう言ってきたのでした。冷やかしな部分もまあ、あったんでしょうけどね。
「ふふ、お邪魔しました」
真似なくてもいいんですよナタリーさん。しかもちょっと笑っちゃってますし。
「けらけら」
笑ってしかいないじゃないですかサーズデイさん。
「ワフッ」
ジョンはお利口だねえ。――ということにしておこう。もしかしたら一緒に笑ってるのかもしれないけど。
帰りがけ、「次に大学へ行ったら帰って来るのは何時くらいだ」とうきうきした様子で尋ねてくる成美さんに、四時であることを伝えます。
そしてそんな今現在の時刻が、一時少し前。成美さんがあまりにも楽しみそうだったので、三時間以上も待たせるはちょっと気が引けました。が、そればっかりは仕方がないでしょう。まあ当の成美さんはまるで気にしたふうもなく、引き続いて楽しみそうなままだったのですが。
そうして僕達はそれぞれの部屋へ戻るのですが――それぞれの部屋へと言うにしては、栞さんが来るのは僕の部屋です。しかしもう僕にとっての栞さんは「お客様」ではないので、ならば「それぞれの部屋へ」というのももう、間違った表現ではないのでしょう。
「ようやくお昼ご飯だね」
「さすがにちょっとお腹減ってきました」
ただいま、と二人揃ってそう言ったなら、さっそく料理の時間です。
「お味噌汁、朝のがまだ残ってるから後で温め直すね」
「あ、はい。じゃあまずはこっちを……」
普段一緒に料理しているのは、料理教室という名目です。なので協力して作業をすすめるというよりは、個々がそれぞれの作業をきっちりこなす、というふうだったりします。
しかし今回は料理教室でなく、「栞さんが手伝ってくれている」のです。ならばそれは間違いなく、協力して作業を進める、ということになるのでしょう。
なので、
「すいません、こっち見といてもらえますか?」
「あ、うん」
というようなこともあれば、
「こうくん、これお皿に盛りつけといてもらえるかな。私はお味噌汁温めるから」
「はい」
というようなこともあるわけです。
同じ複数での料理とは言え、割と勝手が違ってくるものですね。
その勝手の違いにほんわかさせられるというのはまあ、我ながら良くあるパターンだとは思いますが……しかし、もう一つ。こうしてスムーズに連携が取れるということについて、栞さんの料理の腕も随分上達したなあ、とも思うわけです。今朝の朝食もそうだったのですが、もう一人で料理をしても何の問題もなさそうですし。
『いただきます』
「……うーん、ちょっと頑張りすぎちゃったかな? お昼ご飯にしては豪勢というか――麻婆豆腐とか、どうなんだろうね。この時間に」
「まあでも、麻婆豆腐の素――というかレトルト食品は、朝か昼に使わないと全然減りませんし。夜のほうであんまり使っちゃうと、料理教室じゃなくなっちゃいますしね」
「なるほど、それはまあそうだろうね。……でも、あんまり使わないならなんで買ってあるの? レトルト食品」
「いや、使わないってわけじゃないですよ? 朝なんか特にですけど、僕でも料理をするのが面倒だと思うことはありますし。そういう時でも楽にちゃんとした料理ができるっていうのは、やっぱり有難いです」
「あ」
「ん? 今のでどうかしましたか?」
「いやその、ちょっと照れ臭い台詞が浮かんじゃってさ」
「そう言われたら聞きたきなっちゃいますけどねえ、そりゃ」
「……あ、朝ご飯だったら私が、毎日でも作ってあげるよって……」
「…………」
「…………」
「毎日かどうかはともかく、朝が辛い日は宜しくお願いします。一緒に暮らすことになったら」
「は、はい。こちらこそ宜しくお願いします。なんだったらお昼ご飯も。夜ご飯だって」
『ごちそうさまでした』
いつもならもうとっくに家を出て大学に行っていなければならない時間ですが、三限が休講になった今日は、まだまだ時間はたっぷりあります。こうして満腹感に浸っていられるくらいに。
「勢いでいろいろ言っちゃったけどさ――」
満腹で満足で幸福な僕に引き換え、栞さんはどこか落ち着かない様子でした。けれどまあ、そうなる理由は僕にも分かっています。なんせ栞さん、その「いろいろ言っちゃった」からずっとこんな調子ですし。
「ああ言っちゃった以上、ご飯は朝昼晩全部私が、ってことにしたほうがいいのかな」
「いや、そこまで固く考えなくても。その……本当に一緒に暮らし始められてからでもいいんじゃないですか? そういう決め事を作っていくのって」
「そ、そうだよね。あはは」
などと言いつつ、栞さんほどではないにせよ、僕も固く考えてしまいそうではあります。
事が事だけに仕方がなくもあるのでしょうが、でもやっぱりそれは避けたほうがいいように思えるのです。事前にあれこれと決めて準備バッチリ、と思っていたら想定と違うことがぽろぽろ出てきて準備が無駄になった、なんてことも考えられますし。というか、大なり小なり確実にそういうことは起こるんでしょうし。
「あと栞さん、今日は『気楽ぅに』ですし」
「あ、そうだった。ごめんごめん、すっかり頭から抜けちゃってたよ」
そういう問題じゃないと思われるかな、という心配もなくはなかったのですが、そういう問題だと思ってもらえたようでした。
「うん、じゃあ今の話はなかったってことで。話題を変えよう、もっと気楽なのに」
随分と積極的に気楽な栞さんなのでした。
積極的に気楽。なんとなく違和感がある表現ですが、間違ってはいないでしょう。
「買い物だけど――今のところ、何か買いたいものとかってある?」
「今のところは、まあ食材ですかね、いつも通り。買いたいものが特にないっていうのもそうですし、あと、あんまりお金に余裕がないですし」
「あっ、そ、そっか。それも忘れてたよ私」
お金に意識が向けば思い出してたんでしょうけどね、忘れてたと言っても。
ということでお金に余裕がないという話ですが、どういうことかと言いますと、家守さんと高次さんに対する依頼料についてです。今度の土曜日、栞さんを僕の両親に紹介する手伝いをしてもらうことについての。
まだ詳細は聞いていませんが、高い、ということだけはハッキリ言われちゃってるんですよねえ。まあ僕も栞さんも、自分達から望んで「お金を払わせてもらう」わけですけど。
「とはいっても大吾達の買い物もありますし、荷車代わりに自転車持っていったほうがいいかもしれませんね」
「それいいね。大きいもの買ったりしたら、持って帰るの大変だろうし」
僕が車に乗れればなあ、とは思いますが、現状では車どころか免許すらもないわけで、それらを揃える費用を考えれば、まさに夢のまた夢です。
店側に郵送してもらうという手は――まあ、届け先を僕の住所にすればいいんでしょうけど、それでも積極的に活用したいとは思えませんでした。
「四人ですし、乗らずに押していきますけどね。自転車」
「乗って先に行っちゃっても文句は出ないと思うけどなあ」
栞さんはそんなふうに言いましたが、しかし薄く笑っているところを見るに、僕の考えを察してはいるのでしょう。買い物というのは一緒に出掛ける口実であって、メインの目的は「一緒に出掛けること」なのです、あくまでも。
「栞さんはどうですか? 何か買いたいものって」
「ああ、うん」
尋ね返してみたところ、少し考えるふうに俯いた栞さん。ですがそれは、買いたいものがあるかどうかを考えているふうには見えませんでした。むしろこう、既に買いたいものは決まっているけど、それを答えるかどうかを考えている、というか。
そして、栞さんの顔が上がります。
「髪が伸びるようになったでしょ? 私」
「ん? ああ、はい」
「だから、手入れもちゃんとしないとなあって。切っちゃうとか、そういうわけじゃないんだけどさ」
考える時間を取った割には普通な内容でした。いや、髪が伸びるようになった原因を考えれば、多少照れたりはするんでしょうけどね? そりゃあ。
――と思ったら栞さん、再度俯きながら、こう続けてきました。
「その……髪が伸びるっていうのはつまり年をとるっていうことで、じゃあ、髪だけじゃなくて、他にもいろいろとさ」
「あ、ああ、はい」
「うん」
そうですよね、そうなりますよねそりゃ。
「こうくん相手に恥ずかしがるようなことじゃないんだろうけどね」
「いやあ、どうせ僕も人のこと言える状態じゃないというか」
これまで「そういうの」が不必要だった、というのもなかなか特殊な状況なんですし、だったら少々動揺するくらいはあってもおかしくはないのではないでしょうか。栞さんと同時に自分へのフォローも兼ねたそんな一文を頭に思い描きつつ、僕は軽く笑っておきました。
「…………」
「…………」
気まずいというほどのことではないのですが、なんとなくお互い言葉に窮してしまいました。いつもなら「これはこれで」と甘受するところですが、今回はそう穏やかでもいられません。はて、何か別の話題を持ってくるべきでしょうか?
「あのさ、こうくん」
「あ、はい」
「髪、撫でてくれないかな」
僕が別の話題を思い付く前に栞さんから、と思ったら、そうして出てきた話題は随分と急なものなのでした。――いや、髪の話をしてたんだし、案外急ということでもないでしょうかね?
ともかく。
「どうぞ」
投げ放すように足を広げてそう言うと、栞さんはこちらに背を向け、広げた足の間に座り込んできました。髪を撫でるだけならここまで接触しなくてもいいのですが、それについては言いっこなしということにしておいて、そのまま撫で始めます。
……少なくとも髪の毛については、手入れを気にする必要なんて暫くなさそうだけどなあ。こんなに綺麗なんだし。
さらさらと指の間をすり抜けていく髪を眺めてそんなことを思っていたところ、不意に栞さんから質問が。
「成美ちゃんの耳、撫でてて気持ちよかった?」
「え? ああ、はい。そりゃもう」
この状況で他の女性についてこんな感想を持つのは、あまり宜しくないことなのかもしれません。しかし成美さんの耳が触って気持ちいいものだということは栞さんも知っていることなので、だったらむしろ隠す方が宜しくないのかな、と。
「そっか。私も撫でさせて欲しかったなあ」
「頼めば喜んで撫でさせてくれそうですけどね、成美さん。だからまあ、買い物の時にでも」
「ふふ、そうする」
……しかし、奇妙な話ではありました。なんで栞さんの髪を撫でながら成美さんの猫耳の話をしているんだろう、と。そりゃあ別の話をするのはおかしいってわけじゃないですけど、一言も触れないというのは、はてさて。
「え、ああ、はい」
ついさっき清さんが一緒だということで喜んでいたのに、どうやら成美さんの話で心移りしてしまったらしいサーズデイさんでした。悪い気がするってわけじゃあないんですけどね? もちろんながら。
というわけで清さんからサーズデイさん入りの瓶を受け取るのですが、すると何やらサーズデイさん、瓶の側面に頬を押し付けるようにしました。頬というものは、多分ないんでしょうけど。
「むぎゅー」
ともかくその動きは、僕に何かを伝えようとしているのでしょう。はて、どう解釈すべきなのでしょうか?
「……大吾ー」
「知らん」
助けを求めてみましたが、一蹴されてしまいました。あまつさえ、困った僕を無視する形で歩き始めてしまいます。そりゃあこれから散歩だというところでずっと立ち止まっているのもどうなんだって話ではありましょうが、だからって今じゃなくても。
大吾に見捨てられたので周囲にも助けを請う眼差しを贈ってみましたが、みんな揃ってニンマリしていたので、声を掛ける前から諦めました。
「ううむ……」
「ぎゅむうー」
歩き出しつつサーズデイさんを観察してみても、様子は一向に変わりません。頬を瓶の側面に押し付ける。ただそれだけなのでした。
――ややこしく考えず、シンプルに考えてみるとしたら?
というのは苦し紛れな思考ではあったのですが、ともかく僕はその考えに則ってみることに。どうしたかというと、サーズデイさんの真似をして瓶の側面に頬を押し付けてみたのです。
ひんやりして気持ちいい、なんて思ったその時でした。
「ちゅっ」
耳元、というか頬の辺りから、そんな声が聞こえました。
瓶から頬を離し、再度サーズデイさんと向き合います。
「……ええと、キスですか? 今の」
「こくこく」
瓶越しにキスをされてしまったようでした。瓶越しなのについつい頬をさすってしまいますが、もちろん感触も何も残ってなんかいませんとも。
そこそこ悩んだ結果がこれ、ということで脱力してしまうのですが、しかしまあサーズデイさんは楽しそうにしていたので、良しとしておきましょう。
「傷付くなあ。サーズデイにはキスまでされても平然としているのに、わたしだと頭を撫でることすら躊躇うというのだから」
僕が良しとしても、成美さんには良しとされなかったようでした。いやだからサーズデイさんは性別が、という釈明はしても無駄なのでしょう、きっと。
「いやでも、今はなんとなく躊躇わなさそうな気分ですよ?」
というのはサーズデイさんから頂いた脱力感のなせる業なのでしょうが、根源の善し悪しはともかく、今ならいくらでも、更には躊躇も遠慮もなく、成美さんの頭を撫でられそうな気がしました。
「おお、そうなのか?」
成美さんは嬉しそうでした。そして僕の傍へ寄って来たのですが、
「……自分より背が高い人の頭を撫でるって、変な気分ですね」
現在の成美さんは、大人バージョンなのです。
「まあまあそう言わずに」
そう言って成美さんは少し頭を下げたのですが、それでようやく僕の頭と同じくらいの高さだったので、なんだか余計に身長差が強調されているような気分に。
「帽子は取った方がいいか?」
「あ、いえ、そこはお構いなく」
猫耳を隠すために被っているニット帽。脱いでしまったらもちろん意味がないわけで、だったらば脱いでもらう必要はないでしょう。脱いで欲しいのであれば、家に帰ってから再度撫でさせてもらえばいいわけですし。
というわけで、一応は大吾と栞さんの顔色をちらりと窺ってから、成美さんの頭に手を添えました。
…………。
……分かってはいたことですが、非常に気持ちいいのでした。
猫耳、などと呼んではいても、成美さんのそれは髪の毛の集まりです。なのでとてもふわふわしているのですが、しかしそうでありながら、かつて上から装着した栞さんのカチューシャを跳ね飛ばしたことからも分かる通り、非常に強い弾力を備えてもいるのです。
ふわふわしていて、かつ強い弾力性を持っている。耳にするだけでは矛盾しているようにも思える説明ですが、しかしその説明通りの逸品が現在、僕の手の中にあるのです。
「ふふっ」
神経の通った耳ではなく髪の毛ということで、僕が得ている感触とほぼ同じものを、成美さんも頭皮を通じて感じているのでしょう。気持ちよさそうな笑みを漏らす成美さんには、どこかくらりとさせられるものがありました。
……呑気にそんな感想を持ったところで背徳感に襲われ、なので僕は自分から、成美さんの頭を撫でるという行為を終了させることに。一時は克服した遠慮も躊躇も、結局は後からまた湧いてきてしまったのでした。
「じゃあ次は楽だな」
気分をよくした成美さん、僕の手が頭から離れるとすぐに狙いを清さんへ移しました。「清さんもですよね」と巻き込んだのは僕ですが、まあともかく、ここまでの話の流れからすればそりゃそうなるのでしょう。そしてそういうことになるならば、
「ぎゅー、ぎゅー」
サーズデイさんも成美さんと同じく、ということで、清さんへ向けて頬を突き出しています。だったら、瓶を僕が持っている必要はないでしょう。
「じゃあ清さん、どうぞ」
「うーん、いいんですかねえ? 私のようなおっさんがこんなにモテモテで」
サーズデイさん入りの瓶を受け取りつつ、笑いながらもそんな疑問を吐露する清さんなのでした。しかしそれについては、誰から文句が出るということもないのではないでしょうか?
そうでなくともナタリーさんとジョンも担当している清さんは、サーズデイさんを受け取った時点で両手が塞がってしまいます。というわけでジョンのリードについては、一時的に僕が預かることになりました。
「……相変わらず、他の何かに例えられない気持ちよさですねえ」
言われた成美さんはさっきと同じく気持ちよさそうにしているばかりなのですが、清さんは猫耳の感触をそんなふうに表現し、褒めるのでした。さっき体験したばかりなので、僕もそれには惜しみなく同意するばかりです。
「ぎゅうー」
後回しにされたサーズデイさんが、瓶の側面に頬を押し付けたままちょっぴり不満そうにしています。
「ああ、すいませんねウェンズデー。いやあ、やはりと言うか、キスをされると初めから分かっているというのは照れ臭くて」
キスをされると分かっていてそのうえ、そうするよう導くのは自分の手。あちらからしてくるならともかく、そりゃあ大体の人は照れるでしょう。まあ、瓶越しではあるんですけど。
それはともかく、そんなふうに急かされてしまった清さんは、成美さんの頭を撫で続けつつウェンズデーさんを自分の頬へ。
「ちゅっちゅっ」
キスは、二回でした。僕には一回だけだったのに、なんてことを言ってはいけないのでしょう。むむむ。
「ワウ」
ジョンが慰めてくれました。多分違うんでしょうけど、そういうことにしておきましょう。お礼に頭を撫でておきました。
「大吾くんにもしてあげたらどう? ああ、成美ちゃんのは『させてあげたら?』かな」
「今日はえらい絡んでくるな、オマエ」
栞さんの一言で成美さんとサーズデイさんの目標が大吾にも移ることになったのは、言うまでもないでしょう。
ちなみに大吾へのキスは、「ちゅうー」と若干ディープキスっぽい雰囲気を含んでいたのでした。僕には以下略、でございます。むむむ。
さて、ジョンのリードが清さんの右手、サーズデイさんが僕の右手、成美さんが大吾の隣へそれぞれ戻り、そして散歩が暫く続いた頃。思い出した話題があった僕は、とりとめもない会話の切れ目にそれを挟み込ませました。
「ねえ大吾」
「ん?」
「大学が終わった後の話なんだけど、栞さんと買い物に行くってことになっててさ。大吾達も一緒に来ない?」
「買い物かあ。どうする? 成美」
「買い物となればわたしが行かないわけにはいかないだろう。丁度、実体化してもいることだしな」
買うような物がないということなのかあまり積極的ではない大吾でしたが、しかし成美さんは対照的でした。僕と清さん、それに大吾から頭を撫でられて気分を良くしていることも関係しているのかもしれませんが、実に乗り気な様子です。
「そっか。それじゃあ、オレもまあ」
こうなれば当然と言うべきか、大吾も来ることに。となれば、あとは。
「清さんもどうですか?」
「うーむ。いえ、私は遠慮しておきます」
おや、これは意外な返事。
「散歩ならともかくデートに交じるのは、さすがにですしねえ。んっふっふ」
意外な返事には意外な理由が付いてきました。デートなんて一言も言ってないような気がするんですが……? いやまあ、僕と栞さんは特に買う物の予定があるわけじゃあなく、単にお出掛けの延長として買い物に行こうという話になったわけで、だったらそりゃまあデートってことになるんでしょうけどね? でも、そのことを清さんの前で言ったわけじゃないですし。
……買う物の予定がない? そういえば、大吾もそれっぽいんだっけ。
ああ、じゃあ清さん、大吾を見てそう思ったのかな。
「デートって、二人でするものじゃないんですか?」
清さんの肩の上からそう尋ねたのは、ナタリーさんでした。
「んっふっふ、しかしナタリー、ダブルデートという言葉もあるのですよ。二組のカップルが一緒になってデートをする、という」
へええ、と唸るのはもちろんナタリーさんですが、僕も内心では唸っていました。そういえばそんな言葉もあったっけな、と。
「今時の若者にも広まっているかどうかは、分かりませんけどね」
僕の場合、知識としてなんとか知ってはいても「広まっている」というほど当たり前のことではありませんでした。がしかし、自分がきちんと「今時の若者」をしているかと言われれば、かなり自信がありません。なので清さんの疑問はスルーしておきます。
「ダブルデートか。ふむ、面白そうだな」
一方で成美さんは、またも乗り気なのでした。
「でも、そういうことになったらあれだな。清サンだけじゃなくてサーズデイ達も……」
「あ、私は全然構いませんよ?」
「ぷくぷくー」
ダブルかどうかに関わらず、デートということであれば、サーズデイさん達もご遠慮頂くことになります。そういうわけでどこか申し訳なさそうな語り口の大吾だったのですが、当のサーズデイさん達はさらりとそれを了解するのでした。
そんな様子を「ふふっ」と笑った成美さんは、大吾にこう言います。
「気持ちは分かるが、今日のところはわたしと喜坂達で我慢しておけ。せっかくのお誘いなのだしな」
「いや別に、そういうわけじゃねえけど」
気持ちは分かるが、という言葉だけでどういうわけなのかを察してしまっている辺り、それはきっと嘘なのでしょう。だからといって「じゃあ止めとく?」ということにはしませんけどね。
話が纏まった、ということで栞さんの顔を窺ってみれば、そこにはもちろんのこと嬉しそうな表情がありました。朝、「大吾達も呼びますか」と尋ねたのは僕ですが、「そうしたい」と言ったのは栞さんでしたもんね。そんなふうに訊いておきながら僕は当初、二人で行こうと考えてたわけですし。
「買いたいものがあったら遠慮なく言うのだぞ? いやむしろ、せっかくの機会だ。買いたいものが特にないまま無駄に買い物をしてみるとか、そういうのも歓迎するぞ」
「無駄な買い物なあ。まあ考えるにしても、行ってみてからだな」
乗り気を通り越してノリノリな成美さん。たった今まで後ろ髪を引かれたような様子だったのに、それに釣られて少しだけ表情を和らげる大吾。実に微笑ましい二人なのでした。
だったらこちらこそ、ダブルデートは大歓迎です。
……頭に浮かべただけでちょっと恥ずかしかったです、ダブルデート。
あまくに荘に戻った後はいったん102号室に集まって、ジョンのブラシがけと雑談を。
とはいえそれもそう長く掛かるものではなく、更に僕は昼食がまだなので、大吾の仕事が終わったところで自分の部屋へ戻ることに。
となると一緒に昼食になる栞さんはもちろんのこと、大吾と成美さんも、それに合わせて202号室へ戻るということになりました。
「それでは、お邪魔しました」
それは散歩終わりの挨拶、ということなのでしょう。それにしたって今の今まで部屋にお邪魔していたのはこちらですし、そもそも散歩終わりの挨拶としてもちょっと相応しくない言葉のように思えましたが、清さんは別れ際にそう言ってきたのでした。冷やかしな部分もまあ、あったんでしょうけどね。
「ふふ、お邪魔しました」
真似なくてもいいんですよナタリーさん。しかもちょっと笑っちゃってますし。
「けらけら」
笑ってしかいないじゃないですかサーズデイさん。
「ワフッ」
ジョンはお利口だねえ。――ということにしておこう。もしかしたら一緒に笑ってるのかもしれないけど。
帰りがけ、「次に大学へ行ったら帰って来るのは何時くらいだ」とうきうきした様子で尋ねてくる成美さんに、四時であることを伝えます。
そしてそんな今現在の時刻が、一時少し前。成美さんがあまりにも楽しみそうだったので、三時間以上も待たせるはちょっと気が引けました。が、そればっかりは仕方がないでしょう。まあ当の成美さんはまるで気にしたふうもなく、引き続いて楽しみそうなままだったのですが。
そうして僕達はそれぞれの部屋へ戻るのですが――それぞれの部屋へと言うにしては、栞さんが来るのは僕の部屋です。しかしもう僕にとっての栞さんは「お客様」ではないので、ならば「それぞれの部屋へ」というのももう、間違った表現ではないのでしょう。
「ようやくお昼ご飯だね」
「さすがにちょっとお腹減ってきました」
ただいま、と二人揃ってそう言ったなら、さっそく料理の時間です。
「お味噌汁、朝のがまだ残ってるから後で温め直すね」
「あ、はい。じゃあまずはこっちを……」
普段一緒に料理しているのは、料理教室という名目です。なので協力して作業をすすめるというよりは、個々がそれぞれの作業をきっちりこなす、というふうだったりします。
しかし今回は料理教室でなく、「栞さんが手伝ってくれている」のです。ならばそれは間違いなく、協力して作業を進める、ということになるのでしょう。
なので、
「すいません、こっち見といてもらえますか?」
「あ、うん」
というようなこともあれば、
「こうくん、これお皿に盛りつけといてもらえるかな。私はお味噌汁温めるから」
「はい」
というようなこともあるわけです。
同じ複数での料理とは言え、割と勝手が違ってくるものですね。
その勝手の違いにほんわかさせられるというのはまあ、我ながら良くあるパターンだとは思いますが……しかし、もう一つ。こうしてスムーズに連携が取れるということについて、栞さんの料理の腕も随分上達したなあ、とも思うわけです。今朝の朝食もそうだったのですが、もう一人で料理をしても何の問題もなさそうですし。
『いただきます』
「……うーん、ちょっと頑張りすぎちゃったかな? お昼ご飯にしては豪勢というか――麻婆豆腐とか、どうなんだろうね。この時間に」
「まあでも、麻婆豆腐の素――というかレトルト食品は、朝か昼に使わないと全然減りませんし。夜のほうであんまり使っちゃうと、料理教室じゃなくなっちゃいますしね」
「なるほど、それはまあそうだろうね。……でも、あんまり使わないならなんで買ってあるの? レトルト食品」
「いや、使わないってわけじゃないですよ? 朝なんか特にですけど、僕でも料理をするのが面倒だと思うことはありますし。そういう時でも楽にちゃんとした料理ができるっていうのは、やっぱり有難いです」
「あ」
「ん? 今のでどうかしましたか?」
「いやその、ちょっと照れ臭い台詞が浮かんじゃってさ」
「そう言われたら聞きたきなっちゃいますけどねえ、そりゃ」
「……あ、朝ご飯だったら私が、毎日でも作ってあげるよって……」
「…………」
「…………」
「毎日かどうかはともかく、朝が辛い日は宜しくお願いします。一緒に暮らすことになったら」
「は、はい。こちらこそ宜しくお願いします。なんだったらお昼ご飯も。夜ご飯だって」
『ごちそうさまでした』
いつもならもうとっくに家を出て大学に行っていなければならない時間ですが、三限が休講になった今日は、まだまだ時間はたっぷりあります。こうして満腹感に浸っていられるくらいに。
「勢いでいろいろ言っちゃったけどさ――」
満腹で満足で幸福な僕に引き換え、栞さんはどこか落ち着かない様子でした。けれどまあ、そうなる理由は僕にも分かっています。なんせ栞さん、その「いろいろ言っちゃった」からずっとこんな調子ですし。
「ああ言っちゃった以上、ご飯は朝昼晩全部私が、ってことにしたほうがいいのかな」
「いや、そこまで固く考えなくても。その……本当に一緒に暮らし始められてからでもいいんじゃないですか? そういう決め事を作っていくのって」
「そ、そうだよね。あはは」
などと言いつつ、栞さんほどではないにせよ、僕も固く考えてしまいそうではあります。
事が事だけに仕方がなくもあるのでしょうが、でもやっぱりそれは避けたほうがいいように思えるのです。事前にあれこれと決めて準備バッチリ、と思っていたら想定と違うことがぽろぽろ出てきて準備が無駄になった、なんてことも考えられますし。というか、大なり小なり確実にそういうことは起こるんでしょうし。
「あと栞さん、今日は『気楽ぅに』ですし」
「あ、そうだった。ごめんごめん、すっかり頭から抜けちゃってたよ」
そういう問題じゃないと思われるかな、という心配もなくはなかったのですが、そういう問題だと思ってもらえたようでした。
「うん、じゃあ今の話はなかったってことで。話題を変えよう、もっと気楽なのに」
随分と積極的に気楽な栞さんなのでした。
積極的に気楽。なんとなく違和感がある表現ですが、間違ってはいないでしょう。
「買い物だけど――今のところ、何か買いたいものとかってある?」
「今のところは、まあ食材ですかね、いつも通り。買いたいものが特にないっていうのもそうですし、あと、あんまりお金に余裕がないですし」
「あっ、そ、そっか。それも忘れてたよ私」
お金に意識が向けば思い出してたんでしょうけどね、忘れてたと言っても。
ということでお金に余裕がないという話ですが、どういうことかと言いますと、家守さんと高次さんに対する依頼料についてです。今度の土曜日、栞さんを僕の両親に紹介する手伝いをしてもらうことについての。
まだ詳細は聞いていませんが、高い、ということだけはハッキリ言われちゃってるんですよねえ。まあ僕も栞さんも、自分達から望んで「お金を払わせてもらう」わけですけど。
「とはいっても大吾達の買い物もありますし、荷車代わりに自転車持っていったほうがいいかもしれませんね」
「それいいね。大きいもの買ったりしたら、持って帰るの大変だろうし」
僕が車に乗れればなあ、とは思いますが、現状では車どころか免許すらもないわけで、それらを揃える費用を考えれば、まさに夢のまた夢です。
店側に郵送してもらうという手は――まあ、届け先を僕の住所にすればいいんでしょうけど、それでも積極的に活用したいとは思えませんでした。
「四人ですし、乗らずに押していきますけどね。自転車」
「乗って先に行っちゃっても文句は出ないと思うけどなあ」
栞さんはそんなふうに言いましたが、しかし薄く笑っているところを見るに、僕の考えを察してはいるのでしょう。買い物というのは一緒に出掛ける口実であって、メインの目的は「一緒に出掛けること」なのです、あくまでも。
「栞さんはどうですか? 何か買いたいものって」
「ああ、うん」
尋ね返してみたところ、少し考えるふうに俯いた栞さん。ですがそれは、買いたいものがあるかどうかを考えているふうには見えませんでした。むしろこう、既に買いたいものは決まっているけど、それを答えるかどうかを考えている、というか。
そして、栞さんの顔が上がります。
「髪が伸びるようになったでしょ? 私」
「ん? ああ、はい」
「だから、手入れもちゃんとしないとなあって。切っちゃうとか、そういうわけじゃないんだけどさ」
考える時間を取った割には普通な内容でした。いや、髪が伸びるようになった原因を考えれば、多少照れたりはするんでしょうけどね? そりゃあ。
――と思ったら栞さん、再度俯きながら、こう続けてきました。
「その……髪が伸びるっていうのはつまり年をとるっていうことで、じゃあ、髪だけじゃなくて、他にもいろいろとさ」
「あ、ああ、はい」
「うん」
そうですよね、そうなりますよねそりゃ。
「こうくん相手に恥ずかしがるようなことじゃないんだろうけどね」
「いやあ、どうせ僕も人のこと言える状態じゃないというか」
これまで「そういうの」が不必要だった、というのもなかなか特殊な状況なんですし、だったら少々動揺するくらいはあってもおかしくはないのではないでしょうか。栞さんと同時に自分へのフォローも兼ねたそんな一文を頭に思い描きつつ、僕は軽く笑っておきました。
「…………」
「…………」
気まずいというほどのことではないのですが、なんとなくお互い言葉に窮してしまいました。いつもなら「これはこれで」と甘受するところですが、今回はそう穏やかでもいられません。はて、何か別の話題を持ってくるべきでしょうか?
「あのさ、こうくん」
「あ、はい」
「髪、撫でてくれないかな」
僕が別の話題を思い付く前に栞さんから、と思ったら、そうして出てきた話題は随分と急なものなのでした。――いや、髪の話をしてたんだし、案外急ということでもないでしょうかね?
ともかく。
「どうぞ」
投げ放すように足を広げてそう言うと、栞さんはこちらに背を向け、広げた足の間に座り込んできました。髪を撫でるだけならここまで接触しなくてもいいのですが、それについては言いっこなしということにしておいて、そのまま撫で始めます。
……少なくとも髪の毛については、手入れを気にする必要なんて暫くなさそうだけどなあ。こんなに綺麗なんだし。
さらさらと指の間をすり抜けていく髪を眺めてそんなことを思っていたところ、不意に栞さんから質問が。
「成美ちゃんの耳、撫でてて気持ちよかった?」
「え? ああ、はい。そりゃもう」
この状況で他の女性についてこんな感想を持つのは、あまり宜しくないことなのかもしれません。しかし成美さんの耳が触って気持ちいいものだということは栞さんも知っていることなので、だったらむしろ隠す方が宜しくないのかな、と。
「そっか。私も撫でさせて欲しかったなあ」
「頼めば喜んで撫でさせてくれそうですけどね、成美さん。だからまあ、買い物の時にでも」
「ふふ、そうする」
……しかし、奇妙な話ではありました。なんで栞さんの髪を撫でながら成美さんの猫耳の話をしているんだろう、と。そりゃあ別の話をするのはおかしいってわけじゃないですけど、一言も触れないというのは、はてさて。
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