それから更に暫く経ち、相も変わらずみんなで暇をしていたところ、成美ちゃんの匂いと体温が心地よかったせいか、なんだか眠たくなってきてしまった。
そうしてうとうとしていると、ある時大吾くんの傍で横になっていたジョンが急に頭を持ち上げて台所の方向を向き、それが気になって一時的に眠気が飛んだ私は、同じく台所のほうを向いてみた。
「あっ」
「ワウ」
台所、いや正確には玄関からなのだろうが、それはいいとしてお客さんが来ていた。
「ニャア」
チャイムは鳴らず、「お邪魔します」もない。それもそのはず、そうしてやってきたのは猫さんだった。噂をすれば何とやら――と言うにはちょっと、猫さんの話題が出てから時間が経ってはいたけど。
ともかく猫さんが声を出したということで、私とジョンに限らず皆がその存在に気が付く。
「おお、いらっしゃい」
「おはようございます」
家守さんがいないので猫さんは人間の言葉が話せず、そして聞きとることもできない。けれど成美ちゃんと大吾くんは、当然のようにそう声を掛けた。もちろん、それが伝わらないということは分かったうえなのだろう。
「ああ、すまないね。今日はちょっとお呼ばれしていたもので」
猫さんの言葉を聞き取ったのだろう、猫さんの「ニャア」に対してチューズデーはそんな返事。猫さん、何を言ったんだろう?
「わたしが102号室に居なかったから全部の部屋を回る羽目になった、だそうだ。……くくく、まあしかし別の部屋に居るというのは割とよくあることだからね」
笑ってそう言うということは、猫さんもそこまで気を悪くしているということでもないのだろう。ならばそれはそれで良しとしておいて。
チューズデーが102号室にいなかったから、という話。そこからも分かる通り、猫さんは成美ちゃんや大吾くんではなく、チューズデーに会いに来ている、ということになっている。もちろんそれは表面上での話であって、内心では成美ちゃんと大吾くんをチューズデーのついで扱いしているというわけではないんだろうけど。
好きな、どころか愛している男の人が自分とは違う女の人に会いに来るっていうのは、どんな気分なんだろう。成美ちゃんの体重を感じながらそんなことを考えてみたものの、しかしそれは、人間と猫の違いが表れてくる問題だった。どんな気分も何も、猫の世界ではそれこそが通常なのだ。
ならばそれは成美ちゃんが私に話をしてくれた時、人間の話だからあてにならない推測でしかないと言っていたのと同様、私が何を考えてもあてにならない推測にしかならないのだろう。事実、私が頭に浮かべ掛けたような感情は、成美ちゃんの嬉しそうな顔からは一欠けらも見出せないのだから。
ということでそんな私の考えはさておき、それまでチューズデーに抱き付いていたナタリーが、何を言うでもなく彼女からその細長い身体をほどくようにして離れた。するとチューズデーは、一拍だけ名残を惜しむような間を取ってから、成美ちゃんの膝から飛び降りて猫さんのもとへ。
「さて、君。見て分かる通り、わたしは今まで哀沢の膝の上でナタリー君に巻かれてくつろいでいたわけだが、どうするね? 君も一緒にくつろいでみるかね? ちなみに、他にすることはないぞ」
「…………」
誘っているようでいて、突き離したようにも感じられるチューズデーの呼び掛け。猫さんはそれに言葉を失って――というわけでは、ないのだろう。猫さん、もともと無口なほうらしいし。
ならばチューズデーの誘いに乗って成美ちゃんの膝に向かったかというとそうでもなく、猫さんはむしろ大吾くんのほうを向いてそちらへ歩み寄り、膝に登ってその上にちょこんと座り込んだ。そしてその座る場所は、足と足の間を中央とするならそこからやや横にずれていて、隣にもう一人座れるような位置取りだった。
もちろん、足と足の間では座り難いから避けたというふうに見ることもできるし、むしろ普通ならそう見るところなのだろう。けれどこの場合は、そうではないように思う。
「オマエも来いってことなんじゃねえか?」
「おや、本人は黙っているのに野暮なことだね」
「むぐ」
痛いところを突かれた、というような顔になる大吾くん。でもそう言ったチューズデーも大吾くんがそう言うまでは動かなかったわけで、ならば実際は野暮というようなものではなかったんだろう。私みたいな外野が思う以上に、チューズデー本人にとって。
そういうわけでチューズデーも大吾くんの膝へ移動し、私達と同じような状況に。
膝の上に二匹の猫を座らせている。その見た目だけなら随分とのんびりした印象を受ける今の大吾くんだけど、しかしチューズデーはともかく猫さんをというのは、本人としてはどんな感じなんだろうか? 大吾くんは猫さんを目上の相手だと捉えているわけで、そんな猫さんを膝の上に、というのは。
などと考えてみたものの、しかしよく考えれば私がいま膝に座らせている成美ちゃんだって同じではあった。猫さんに対する大吾くんとは普段の接し方に差がありはするけど、まあ形としては。
……大吾くんも猫さんを可愛いと思ってるのかな?
絶対に違う気がした。いや、可愛いけども。
「あ」
自分でも馬鹿だなあと思えるようなことを考えてしまったその時、その馬鹿だなあという思考がぐらりと揺れた。
「どうした?」
思考の揺れに際して出た声は小さなものだったけど、いくら小さな声だからといって耳元なら聞き逃す筈もなく、成美ちゃんが半分だけこちらを振り返りながら声を掛けてきた。
「うーん、眠くなってきちゃったような……」
猫さんが来る直前に湧き、そして猫さんの到着で飛んでいた眠気が、ぶり返してきたと。まあ、それだけのことだった。
「おお、そうか。なら横になるといい。掛け布団も出してやろう」
「あー……うん、ありがとう」
眠くなってきた理由は成美ちゃんの匂いと体温であって、つまり成美ちゃんを抱っこしているのが気持ちよかったからそうなったということだ。ならば横になるよりむしろこの体勢のまま寝てしまったほうが気持ちいいんじゃないだろうかと思ってはみたものの、せっかくの厚意ではあるし、そもそも寝ている私に抱っこされ続けるというのは、成美ちゃんとナタリーからすればちょっと怖いだろうし。というわけで私は、お言葉に甘えて横になることにした。
「こちらこそ。わたしも一緒に眠くなっていてもおかしくないくらい、いい気持だったぞ」
成美ちゃんはそう言って笑い、ナタリーを抱いたまま私の膝から立ち上がった。そして掛け布団を取りに、私室へと向かってくれた。
――ううん、それは惜しい。もし成美ちゃんも一緒に眠くなってたら抱っこしたまま、抱き枕みたいにして一緒に寝たりできたかもしれないのに。
眠気にあてられただらしのない思考で、だらしのない思考だからこそというような内容のことを思い浮かべながら、私はその場に横になった。
「散歩の時まで寝てたら、その時は起こしてね」
「おう。おやすみ」
大吾くんにそれだけ頼み、そしてその後私に掛け布団を掛けてくれた成美ちゃんにお礼を言ってから、私は眠気にこの身を委ねることにした。こうくん以外の男の人から「おやすみ」を言われるなんてちっとも思わなかったなあ、とこれまた馬鹿らしいことを考えたりもしながら。
夢を見た。
不思議と、その夢を見ている最中から「ああこれは夢なんだな」と理解していた。
その夢の中で私は、私の家に帰っていた。自分の部屋で目を覚まし、お父さんとお母さんに「おはよう」と挨拶をし、そして三人で朝食が並んだ食卓を囲む。食べ終わったらそのままお父さんが仕事へ出掛け、お母さんと私が「行ってらっしゃい」と声を掛け、そして私はひとまず自分の部屋へ戻った。
これは夢だと分かっていた。
しかし夢ですら、その先にはもう何もなかった。
学校へ行くわけでもなく、だからといって代わりに他の何処かへ出掛けるでもなく。病院でずっとそうだったように、私は自分のベッドに横になり続けていた。
これは夢だと分かっていた。
だから、それほどショックでもなかった。
私が「おはよう」と声を掛けても、お父さんとお母さんは気付いてくれなかったこと。三人で囲んだ食卓には、お父さんとお母さんの二人分の食事しか並んでいなかったこと。出掛けるお父さんにお母さんと二人で「行ってらっしゃい」と声を掛けても、お父さんが振り返った先にはお母さんしかいなかったこと。そのあと戻った私の部屋が、もう本当は誰の部屋でもなかったこと。これが夢だと知っている私は、それら全てを「まあそうだろうな」と受け止めていた。
なぜなら、私はもう死んでいるのだ。
――これが夢であることには気付いていたし、どうして自分がこんな夢を見ているかということにもまた、気付いていた。
声を掛けても気付いてもらえないのはいい。それは当然だ。だけど、お父さんとお母さんの思い出の中に、私はまだ残っているのだろうか? 私という娘がいたことを、お父さんとお母さんは今でも覚えてくれているのだろうか?
私の死を引きずって辛い思いをし続けろというわけではない。ただ、忘れ去られることが怖かったのだ。
「栞さん」
気が付くとそこはもう私の部屋ではなく、あまくに荘の203号室、つまり現在の私の部屋だった。そしてもちろん、これはまだ夢の中だった。
「昼ご飯、できましたよ」
こうくんだった。ベッドで寝ていた私を、起こしに来てくれたらしい。ご飯を食べるのはいつも私の部屋でなくこうくんの部屋だというのに、夢というのは随分と都合がよかった。
「あ、うん」
呼ばれた私は、美味しいお昼ご飯に期待を寄せながらベッドから降りる。するとこうくんは、私に抱き付いてきた。
「愛してます」
これもまた夢らしい、唐突な展開だった。
現実のこうくんだってちょくちょく唐突なことはあるけど、さすがにここまでではない。とはいえこれが私の夢である以上、このこうくんは私の中のこうくんをほぼ完璧に再現したものであって、声の優しさも抱かれる感触も、そして五感を通して伝わってくる愛情も、どれも本物と同等のそれだった。
「…………」
私は返事が出来なかった。もちろんその言葉が嬉しくないというわけではないし、私だってこうくんのことを愛している。
けれど。
「どうして、こんな……」
言葉が漏れ、そして涙も。
これでは、こんな順番では、私は私の家を見限ってこうくんにその代役を任せているみたいじゃないか。そうじゃないのに。そうじゃなくしたいのに。
家のことを考えるのは辛い。そしてこうくんのことを考えるのは幸せだ。でも、並べて比べてどちらを取るという話では、ないはずなのに。
夢の中のこうくんは、私の涙を拭ってはくれなかった。私がそう望んだからなのだろう。
「…………」
夢が終わったから目が覚めたのか、目が覚めたから夢が終わったのか。あの夢に続きがあったところであまりいい気分にはなれなかったのだろうが、ともかく私は自然と目が覚めた。
身体を起こすと、掛かっていた掛け布団がずり落ちる。こんなに柔らかいものに包まって、どうしてあんな夢を見てしまったのだろうか? 夢と現実の居心地の落差にそんなことを考えてはみるものの、しかしあの夢を見た理由は、夢の中で考えた通りなのだろう。
そういえば。今見た夢は、夢としては珍しいくらい目が覚めた後でもしっかり記憶に残っている。一から十まで思い出すこともできそう――いや、できた。寝ていた時間に比例してか短かい夢だったので、完了まではあっという間だった。
「あ、起きました? おはようございます、喜坂さん」
一番初めに気付いたのは、ナタリーだった。見てみれば私の隣でお昼寝をしているジョンの背中の上を、まるでマフラーか何かのようにだらんとその身を横たえていた。
「おはよう。ってことは、まだお昼にはなってないのかな」
「もう少しで十二時というところだ」
声がした方を見てみると、成美ちゃんだった。確か、寝る前には猫さんとチューズデーがいたはずの場所、つまり大吾くんの膝の上に、二人と入れ替わるようにして座っている。そして大吾くん自身は、寝る前の私が座っていた座椅子に。
成美ちゃんは、やっぱり私の膝の上よりはそっちのほうが似合っている気がした。大吾くんには嫌がられるかもしれないけど。
「割と騒いではいたのだが、ぐっすりだったな」
「そう?」
冗談混じりにそう言われ、なんともないふうに返しておきながらも、しかし私はほっとしていた。どうやら寝ている間、酷い顔にはなっていなかったらしい。夢の中と同じ表情をしていたとしたら、ここで冗談は言われなかっただろう。
そんな夢を見ておきながらぐっすりだったというのも、ちょっと妙な気分ではあったけど。
「孝一が帰ってくるのっていつぐらいだっけか」
「あ、講義が終わるのが十二時十分だから、それくらいだね」
「じゃあもうすぐか」
成美ちゃんを抱っこしている大吾くんは、意外にも特に恥ずかしそうだったりはしなかった。私が意外だなんて言うのはお門違いなのかもしれないけど、まあしかし私の中での大吾くんはそんなイメージだったりする。
と思ったら大吾くん、時計を見上げたまま、顔の向きが固定されてしまった。もちろんただ時計を眺めていたい気分になっただけという可能性もありはするものの、しかしどうなのだろう、やっぱり私が思った通りなのではないだろうか。
けれど他のみんなに見られてどうともなかったのに、私に見られて初めて恥ずかしく思うというのは……うーん、どうなんだろう。
分からなかったけど、直接尋ねるっていうのもなあ。そんなふうに思いながらどうしたものかと考えていたところ、
「どうしたね大吾、じっと見ていて面白いものなのかね? 時計というのは」
チューズデーがほぼ同様の質問をした。質問の中身には違いがあるけど、大吾くんの返事はどちらでも変わらないだろう。
「ん? ああいや、そういうわけじゃねえけど」
チューズデーにそう答えてから、大吾くんは横目で私のほうを見た。ならばということで、何も分かっていないふりをして小さく首を傾げてみせ、すると大吾くんの顔の向きの固定は解除された。自分の背後で大吾くんがそんな動きをしているとまるで気付いていない成美ちゃんとのギャップが、見ていてちょっと面白い。
けれどそれはそれとして、ああいう夢を見てしまったのなら、せっかくなのでまた少し考えてみることにする。家に帰るかどうかについて。
私がこうして考えようとしているのは、私の問題を解決させるため。
そして私があの夢を見た理由は、もうずっと帰っていない私の家においての私の存在に、不安を覚えたから。ならばやはり、それについても解決させるべきなのだろう。付随する問題があると発覚した以上は、家に帰るか帰らないかだけを決めてしまえばそれでいい、というわけにもいかないのだから。
しかしそれは、どうやって解決させればいいだろうか? 私の家での私の存在がどうなっているかという問題は、ここで私が頭を働かせるだけで答えが見付かるようなものなのだろうか?……そうではないのだろう、やはり。
結論は意外なほどすぐに出てきた。
私が考えている、家に帰るということ。それはつまりお父さんとお母さんに会うことで――重ねてつまり、それは楓さんと高次さんのお世話になるということ。そうするかどうかは後で決めるとして、まずは一度このまま、お父さんとお母さんに気付かれないまま、家に帰ってみよう。思い出としてでも私があの家に存在できているかどうか、確かめてみよう。
帰るというよりは、忍び込むというほうが近いのかもしれない。しかし「家に帰る」ということについて考えている現状としては、そうして別の言葉で置き換えられるほうが却って都合が良かった。
私の家に忍び込む。うん、それでいこう。
「喜坂さん、なんだか嬉しそうですね。あ、もしかして楽しい夢が見れたとかですか?」
ナタリーがそう声を掛けてきた。自覚はしていないものの、どうやら今の私は嬉しそうな顔をしているらしい。
「まあね」
本当は真逆もいいところで、お父さんとお母さんの夢からくる不安はもちろん、その後にあのタイミングでこうくんを登場させ、更にはあんなことを言わせた自分が、情けなるような夢だった。けれどそのおかげで現実では前を向けているわけで、だったらそれはやはり、今の自分の表情通りに嬉しいことなのだろう。
前を向いて、私の家に忍び込むと決めた。
では、行動に出るのはいつだ? もちろん、一番いいのは今すぐに始めることだろう。けれど私の家に忍び込み、そこで私の存在の有無を確かめるというのはやはり、とても怖かった。そこに私がいなかったらどうしよう。そんなことを考えてしまうと、身が竦むようだった。
「…………」
もちろん、問題自体は私一人で解決させる。けれど問題以前のところで、少しだけこうくんに頼ろう。顔を見るだけでいい。何も話さなくたっていい。予定通り、みんなと一緒に散歩をするだけでいい。私は多分、それだけで勇気が出せると思うから。
こうくんが帰ってくるまで、あと少し。
あと少しあと少しと思っていると、むしろ長く感じてしまう。そういうわけでジョンが耳をぴくりと動かして壁のほうを見、次いでチューズデーが「帰ってきたようだね」と呟くまで、体感の時間だけで言うなら相当待つことになった。
「おお、そうか」
チューズデーの報告を受け、成美ちゃんが大吾くんの膝から立ち上がり、台所のほうへ。掃除の時に私に声を掛けたのと同じく、台所の窓から顔を覗かせるのだろう。
私も一緒に行こうかなと思ったけど、しかし止めておくことにした。特に意味があるわけではないけど、「今回の問題についてこうくんには頼らない」と自分に言い聞かせるためというか。まあ、問題外のところでちょっとだけ頼りはするんだけど。
台所から成美ちゃんとこうくんの会話が聞こえ、その後こうくんは一度204号室に帰ったのだろう。顔を見ることになったのは、戻ってきた成美ちゃんが全員へ向けて「じゃあ行くぞ」とだけ言い、そうしてみんな揃って202号室を出た後のことだった。
「おかえり」
「ただいま、栞さん」
今からまた出発するわけだけど、取り敢えずは大学から帰ってきたことについての挨拶をした。朝には「一人で考える」と伝えていた割に成美ちゃんの部屋へお邪魔したりしていたわけだけど、しかしそれについて何か言われるようなことはなかった。だから私は、ただただいい気分にだけ浸ることができた。
たとえ一人で考えると決めていて、そしてその通りに行動していても、問題を抱えている時にこうくんの顔を見るとそれだけで安心できてしまう。もちろんそれが問題に対して何の意味もないということは分かってるけど、それでもそんなふうに思える自分自身が、嬉しかった。
そしてもちろん、そんな大袈裟な考えはこうくんには共有されない。
「あ、猫さん来てたんですか」
「うむ。今日はずっとこの調子だ」
こうくんは低い位置にいる猫さんの存在にやや遅れて気が付き、そして成美ちゃんはそんな物言いを。この調子、というのが何を指しているかと言えば、チューズデーの隣に寄り添うようにしていることだろうか。まあ、猫さんが寄り添っているのかチューズデーが寄り添っているのかは、私の目では判断が難しいところではあるんだけど。
「おや、嫉妬かね? ご不満ならお返しするがね」
「はは、まさか」
尻尾をくねらせながらそんなことを言うチューズデーに対して、成美ちゃんは嫌味なく笑っていた。複数の異性と関係を持つことが当たり前らしい猫の世界では、確かに嫉妬というような感情はなかなか湧きはしないものなのだろう。
しかしここで、「けれど」とも考える。
今でこそ大吾くんと猫さんを同時に夫として迎えている成美ちゃんだけど、考え方としては私達と同じで――具体的に言うなら、一夫一婦制というやつだろうか。異性については、そういう考えを持っている。だったら多少くらいは、チューズデーの言うように嫉妬というものをしてもおかしくはないのだろう。
けれどたった今確認した通り、成美ちゃんの笑顔に嫌味はない。それは嫌味を隠した結果なのか、それとも本当に嫌味などなかったのか、どちらだろうか?
――相手がチューズデーだから嫉妬をしない。むしろ歓迎している。
不意に浮かんだ私のそんな思い付きには、当然ながら何の根拠もありはしなかった。
「実はですね日向さん、私達、今日のお散歩はこれで二度目なんです」
「え、そうなんですか?」
階段を降りたところで、ジョンの背中の上からナタリーがこうくんに声を掛けた。いくらゆっくり歩いているだけとはいえ、進行方向と真逆を向いて酔ったりはしないんだろうか。そんなことが頭をよぎったものの、そうなるんだったらこれまでにそうなっていただろう、ということで。
「はい。今日は風があって涼しそうだったんで、日向さんを待ちきれなくて」
「あはは、すいませんお待たせしちゃって」
「いやこうくん、待たなかったって話じゃないかなこれ」
とついつい突っ込みを入れてしまったところ、こうくんがこちらを向いた。
「じゃあ栞さんは待ってくれる気が全くなかったってことですね?」
それはもちろん冗談だったのだろう。それに気付いたのなら私だって冗談で返したかったところだけど、しかし残念なことに、
「あ、私は行かなかったんだけどね、一回目」
ということになるのだ。そしてそれはもちろん、待つ気満々だったというアピールではなく。
「あれ、そうなんですか?」
「わたしと話をしていてな。どうせこの二度目があるのだからいいだろう、ということで」
成美ちゃんから説明され、へえ、と短い返事をしたこうくんは、もう一度私のほうを見た。こうくんのことだ、恐らくその成美ちゃんとの話が、今日の私の「考えなければならないこと」に関係しているのだろうかと考えているのだろう。
たまに考え過ぎることがあるこうくん。しかし私は、こうくんのそんなところに何度も助けられている。だから、言葉にすれば「考え過ぎ」という否定的なものになりこそすれ、私はむしろ嬉しく思う。考え過ぎてくれる、とでも言い直したほうが合っているのだろう。
嬉しく思い、ならば私は微笑んだのだろう。私の顔を見たこうくんが同じく微笑み、そして微笑んだまま、視線を私の顔から前方へ。
こうくんを信頼し、そして頼ることができる喜びは、これまで沢山感じさせてもらってきた。けれどこういう、「信頼されたからこそ何も言われない」ということにはまだ慣れてなくて、だから、とてもくすぐったいような気持ちになってしまう。
そしてそんなことを考えている間に、あまくに荘の正面玄関に到着。厳密にはこの玄関をくぐった瞬間から、散歩が開始したということになるのだろう。
――思った通り、顔を見ただけで勇気が湧いてくるようだった。更にこのあともう暫く一緒に歩けるというのは、とてもとても心強いことだった。
そうしてうとうとしていると、ある時大吾くんの傍で横になっていたジョンが急に頭を持ち上げて台所の方向を向き、それが気になって一時的に眠気が飛んだ私は、同じく台所のほうを向いてみた。
「あっ」
「ワウ」
台所、いや正確には玄関からなのだろうが、それはいいとしてお客さんが来ていた。
「ニャア」
チャイムは鳴らず、「お邪魔します」もない。それもそのはず、そうしてやってきたのは猫さんだった。噂をすれば何とやら――と言うにはちょっと、猫さんの話題が出てから時間が経ってはいたけど。
ともかく猫さんが声を出したということで、私とジョンに限らず皆がその存在に気が付く。
「おお、いらっしゃい」
「おはようございます」
家守さんがいないので猫さんは人間の言葉が話せず、そして聞きとることもできない。けれど成美ちゃんと大吾くんは、当然のようにそう声を掛けた。もちろん、それが伝わらないということは分かったうえなのだろう。
「ああ、すまないね。今日はちょっとお呼ばれしていたもので」
猫さんの言葉を聞き取ったのだろう、猫さんの「ニャア」に対してチューズデーはそんな返事。猫さん、何を言ったんだろう?
「わたしが102号室に居なかったから全部の部屋を回る羽目になった、だそうだ。……くくく、まあしかし別の部屋に居るというのは割とよくあることだからね」
笑ってそう言うということは、猫さんもそこまで気を悪くしているということでもないのだろう。ならばそれはそれで良しとしておいて。
チューズデーが102号室にいなかったから、という話。そこからも分かる通り、猫さんは成美ちゃんや大吾くんではなく、チューズデーに会いに来ている、ということになっている。もちろんそれは表面上での話であって、内心では成美ちゃんと大吾くんをチューズデーのついで扱いしているというわけではないんだろうけど。
好きな、どころか愛している男の人が自分とは違う女の人に会いに来るっていうのは、どんな気分なんだろう。成美ちゃんの体重を感じながらそんなことを考えてみたものの、しかしそれは、人間と猫の違いが表れてくる問題だった。どんな気分も何も、猫の世界ではそれこそが通常なのだ。
ならばそれは成美ちゃんが私に話をしてくれた時、人間の話だからあてにならない推測でしかないと言っていたのと同様、私が何を考えてもあてにならない推測にしかならないのだろう。事実、私が頭に浮かべ掛けたような感情は、成美ちゃんの嬉しそうな顔からは一欠けらも見出せないのだから。
ということでそんな私の考えはさておき、それまでチューズデーに抱き付いていたナタリーが、何を言うでもなく彼女からその細長い身体をほどくようにして離れた。するとチューズデーは、一拍だけ名残を惜しむような間を取ってから、成美ちゃんの膝から飛び降りて猫さんのもとへ。
「さて、君。見て分かる通り、わたしは今まで哀沢の膝の上でナタリー君に巻かれてくつろいでいたわけだが、どうするね? 君も一緒にくつろいでみるかね? ちなみに、他にすることはないぞ」
「…………」
誘っているようでいて、突き離したようにも感じられるチューズデーの呼び掛け。猫さんはそれに言葉を失って――というわけでは、ないのだろう。猫さん、もともと無口なほうらしいし。
ならばチューズデーの誘いに乗って成美ちゃんの膝に向かったかというとそうでもなく、猫さんはむしろ大吾くんのほうを向いてそちらへ歩み寄り、膝に登ってその上にちょこんと座り込んだ。そしてその座る場所は、足と足の間を中央とするならそこからやや横にずれていて、隣にもう一人座れるような位置取りだった。
もちろん、足と足の間では座り難いから避けたというふうに見ることもできるし、むしろ普通ならそう見るところなのだろう。けれどこの場合は、そうではないように思う。
「オマエも来いってことなんじゃねえか?」
「おや、本人は黙っているのに野暮なことだね」
「むぐ」
痛いところを突かれた、というような顔になる大吾くん。でもそう言ったチューズデーも大吾くんがそう言うまでは動かなかったわけで、ならば実際は野暮というようなものではなかったんだろう。私みたいな外野が思う以上に、チューズデー本人にとって。
そういうわけでチューズデーも大吾くんの膝へ移動し、私達と同じような状況に。
膝の上に二匹の猫を座らせている。その見た目だけなら随分とのんびりした印象を受ける今の大吾くんだけど、しかしチューズデーはともかく猫さんをというのは、本人としてはどんな感じなんだろうか? 大吾くんは猫さんを目上の相手だと捉えているわけで、そんな猫さんを膝の上に、というのは。
などと考えてみたものの、しかしよく考えれば私がいま膝に座らせている成美ちゃんだって同じではあった。猫さんに対する大吾くんとは普段の接し方に差がありはするけど、まあ形としては。
……大吾くんも猫さんを可愛いと思ってるのかな?
絶対に違う気がした。いや、可愛いけども。
「あ」
自分でも馬鹿だなあと思えるようなことを考えてしまったその時、その馬鹿だなあという思考がぐらりと揺れた。
「どうした?」
思考の揺れに際して出た声は小さなものだったけど、いくら小さな声だからといって耳元なら聞き逃す筈もなく、成美ちゃんが半分だけこちらを振り返りながら声を掛けてきた。
「うーん、眠くなってきちゃったような……」
猫さんが来る直前に湧き、そして猫さんの到着で飛んでいた眠気が、ぶり返してきたと。まあ、それだけのことだった。
「おお、そうか。なら横になるといい。掛け布団も出してやろう」
「あー……うん、ありがとう」
眠くなってきた理由は成美ちゃんの匂いと体温であって、つまり成美ちゃんを抱っこしているのが気持ちよかったからそうなったということだ。ならば横になるよりむしろこの体勢のまま寝てしまったほうが気持ちいいんじゃないだろうかと思ってはみたものの、せっかくの厚意ではあるし、そもそも寝ている私に抱っこされ続けるというのは、成美ちゃんとナタリーからすればちょっと怖いだろうし。というわけで私は、お言葉に甘えて横になることにした。
「こちらこそ。わたしも一緒に眠くなっていてもおかしくないくらい、いい気持だったぞ」
成美ちゃんはそう言って笑い、ナタリーを抱いたまま私の膝から立ち上がった。そして掛け布団を取りに、私室へと向かってくれた。
――ううん、それは惜しい。もし成美ちゃんも一緒に眠くなってたら抱っこしたまま、抱き枕みたいにして一緒に寝たりできたかもしれないのに。
眠気にあてられただらしのない思考で、だらしのない思考だからこそというような内容のことを思い浮かべながら、私はその場に横になった。
「散歩の時まで寝てたら、その時は起こしてね」
「おう。おやすみ」
大吾くんにそれだけ頼み、そしてその後私に掛け布団を掛けてくれた成美ちゃんにお礼を言ってから、私は眠気にこの身を委ねることにした。こうくん以外の男の人から「おやすみ」を言われるなんてちっとも思わなかったなあ、とこれまた馬鹿らしいことを考えたりもしながら。
夢を見た。
不思議と、その夢を見ている最中から「ああこれは夢なんだな」と理解していた。
その夢の中で私は、私の家に帰っていた。自分の部屋で目を覚まし、お父さんとお母さんに「おはよう」と挨拶をし、そして三人で朝食が並んだ食卓を囲む。食べ終わったらそのままお父さんが仕事へ出掛け、お母さんと私が「行ってらっしゃい」と声を掛け、そして私はひとまず自分の部屋へ戻った。
これは夢だと分かっていた。
しかし夢ですら、その先にはもう何もなかった。
学校へ行くわけでもなく、だからといって代わりに他の何処かへ出掛けるでもなく。病院でずっとそうだったように、私は自分のベッドに横になり続けていた。
これは夢だと分かっていた。
だから、それほどショックでもなかった。
私が「おはよう」と声を掛けても、お父さんとお母さんは気付いてくれなかったこと。三人で囲んだ食卓には、お父さんとお母さんの二人分の食事しか並んでいなかったこと。出掛けるお父さんにお母さんと二人で「行ってらっしゃい」と声を掛けても、お父さんが振り返った先にはお母さんしかいなかったこと。そのあと戻った私の部屋が、もう本当は誰の部屋でもなかったこと。これが夢だと知っている私は、それら全てを「まあそうだろうな」と受け止めていた。
なぜなら、私はもう死んでいるのだ。
――これが夢であることには気付いていたし、どうして自分がこんな夢を見ているかということにもまた、気付いていた。
声を掛けても気付いてもらえないのはいい。それは当然だ。だけど、お父さんとお母さんの思い出の中に、私はまだ残っているのだろうか? 私という娘がいたことを、お父さんとお母さんは今でも覚えてくれているのだろうか?
私の死を引きずって辛い思いをし続けろというわけではない。ただ、忘れ去られることが怖かったのだ。
「栞さん」
気が付くとそこはもう私の部屋ではなく、あまくに荘の203号室、つまり現在の私の部屋だった。そしてもちろん、これはまだ夢の中だった。
「昼ご飯、できましたよ」
こうくんだった。ベッドで寝ていた私を、起こしに来てくれたらしい。ご飯を食べるのはいつも私の部屋でなくこうくんの部屋だというのに、夢というのは随分と都合がよかった。
「あ、うん」
呼ばれた私は、美味しいお昼ご飯に期待を寄せながらベッドから降りる。するとこうくんは、私に抱き付いてきた。
「愛してます」
これもまた夢らしい、唐突な展開だった。
現実のこうくんだってちょくちょく唐突なことはあるけど、さすがにここまでではない。とはいえこれが私の夢である以上、このこうくんは私の中のこうくんをほぼ完璧に再現したものであって、声の優しさも抱かれる感触も、そして五感を通して伝わってくる愛情も、どれも本物と同等のそれだった。
「…………」
私は返事が出来なかった。もちろんその言葉が嬉しくないというわけではないし、私だってこうくんのことを愛している。
けれど。
「どうして、こんな……」
言葉が漏れ、そして涙も。
これでは、こんな順番では、私は私の家を見限ってこうくんにその代役を任せているみたいじゃないか。そうじゃないのに。そうじゃなくしたいのに。
家のことを考えるのは辛い。そしてこうくんのことを考えるのは幸せだ。でも、並べて比べてどちらを取るという話では、ないはずなのに。
夢の中のこうくんは、私の涙を拭ってはくれなかった。私がそう望んだからなのだろう。
「…………」
夢が終わったから目が覚めたのか、目が覚めたから夢が終わったのか。あの夢に続きがあったところであまりいい気分にはなれなかったのだろうが、ともかく私は自然と目が覚めた。
身体を起こすと、掛かっていた掛け布団がずり落ちる。こんなに柔らかいものに包まって、どうしてあんな夢を見てしまったのだろうか? 夢と現実の居心地の落差にそんなことを考えてはみるものの、しかしあの夢を見た理由は、夢の中で考えた通りなのだろう。
そういえば。今見た夢は、夢としては珍しいくらい目が覚めた後でもしっかり記憶に残っている。一から十まで思い出すこともできそう――いや、できた。寝ていた時間に比例してか短かい夢だったので、完了まではあっという間だった。
「あ、起きました? おはようございます、喜坂さん」
一番初めに気付いたのは、ナタリーだった。見てみれば私の隣でお昼寝をしているジョンの背中の上を、まるでマフラーか何かのようにだらんとその身を横たえていた。
「おはよう。ってことは、まだお昼にはなってないのかな」
「もう少しで十二時というところだ」
声がした方を見てみると、成美ちゃんだった。確か、寝る前には猫さんとチューズデーがいたはずの場所、つまり大吾くんの膝の上に、二人と入れ替わるようにして座っている。そして大吾くん自身は、寝る前の私が座っていた座椅子に。
成美ちゃんは、やっぱり私の膝の上よりはそっちのほうが似合っている気がした。大吾くんには嫌がられるかもしれないけど。
「割と騒いではいたのだが、ぐっすりだったな」
「そう?」
冗談混じりにそう言われ、なんともないふうに返しておきながらも、しかし私はほっとしていた。どうやら寝ている間、酷い顔にはなっていなかったらしい。夢の中と同じ表情をしていたとしたら、ここで冗談は言われなかっただろう。
そんな夢を見ておきながらぐっすりだったというのも、ちょっと妙な気分ではあったけど。
「孝一が帰ってくるのっていつぐらいだっけか」
「あ、講義が終わるのが十二時十分だから、それくらいだね」
「じゃあもうすぐか」
成美ちゃんを抱っこしている大吾くんは、意外にも特に恥ずかしそうだったりはしなかった。私が意外だなんて言うのはお門違いなのかもしれないけど、まあしかし私の中での大吾くんはそんなイメージだったりする。
と思ったら大吾くん、時計を見上げたまま、顔の向きが固定されてしまった。もちろんただ時計を眺めていたい気分になっただけという可能性もありはするものの、しかしどうなのだろう、やっぱり私が思った通りなのではないだろうか。
けれど他のみんなに見られてどうともなかったのに、私に見られて初めて恥ずかしく思うというのは……うーん、どうなんだろう。
分からなかったけど、直接尋ねるっていうのもなあ。そんなふうに思いながらどうしたものかと考えていたところ、
「どうしたね大吾、じっと見ていて面白いものなのかね? 時計というのは」
チューズデーがほぼ同様の質問をした。質問の中身には違いがあるけど、大吾くんの返事はどちらでも変わらないだろう。
「ん? ああいや、そういうわけじゃねえけど」
チューズデーにそう答えてから、大吾くんは横目で私のほうを見た。ならばということで、何も分かっていないふりをして小さく首を傾げてみせ、すると大吾くんの顔の向きの固定は解除された。自分の背後で大吾くんがそんな動きをしているとまるで気付いていない成美ちゃんとのギャップが、見ていてちょっと面白い。
けれどそれはそれとして、ああいう夢を見てしまったのなら、せっかくなのでまた少し考えてみることにする。家に帰るかどうかについて。
私がこうして考えようとしているのは、私の問題を解決させるため。
そして私があの夢を見た理由は、もうずっと帰っていない私の家においての私の存在に、不安を覚えたから。ならばやはり、それについても解決させるべきなのだろう。付随する問題があると発覚した以上は、家に帰るか帰らないかだけを決めてしまえばそれでいい、というわけにもいかないのだから。
しかしそれは、どうやって解決させればいいだろうか? 私の家での私の存在がどうなっているかという問題は、ここで私が頭を働かせるだけで答えが見付かるようなものなのだろうか?……そうではないのだろう、やはり。
結論は意外なほどすぐに出てきた。
私が考えている、家に帰るということ。それはつまりお父さんとお母さんに会うことで――重ねてつまり、それは楓さんと高次さんのお世話になるということ。そうするかどうかは後で決めるとして、まずは一度このまま、お父さんとお母さんに気付かれないまま、家に帰ってみよう。思い出としてでも私があの家に存在できているかどうか、確かめてみよう。
帰るというよりは、忍び込むというほうが近いのかもしれない。しかし「家に帰る」ということについて考えている現状としては、そうして別の言葉で置き換えられるほうが却って都合が良かった。
私の家に忍び込む。うん、それでいこう。
「喜坂さん、なんだか嬉しそうですね。あ、もしかして楽しい夢が見れたとかですか?」
ナタリーがそう声を掛けてきた。自覚はしていないものの、どうやら今の私は嬉しそうな顔をしているらしい。
「まあね」
本当は真逆もいいところで、お父さんとお母さんの夢からくる不安はもちろん、その後にあのタイミングでこうくんを登場させ、更にはあんなことを言わせた自分が、情けなるような夢だった。けれどそのおかげで現実では前を向けているわけで、だったらそれはやはり、今の自分の表情通りに嬉しいことなのだろう。
前を向いて、私の家に忍び込むと決めた。
では、行動に出るのはいつだ? もちろん、一番いいのは今すぐに始めることだろう。けれど私の家に忍び込み、そこで私の存在の有無を確かめるというのはやはり、とても怖かった。そこに私がいなかったらどうしよう。そんなことを考えてしまうと、身が竦むようだった。
「…………」
もちろん、問題自体は私一人で解決させる。けれど問題以前のところで、少しだけこうくんに頼ろう。顔を見るだけでいい。何も話さなくたっていい。予定通り、みんなと一緒に散歩をするだけでいい。私は多分、それだけで勇気が出せると思うから。
こうくんが帰ってくるまで、あと少し。
あと少しあと少しと思っていると、むしろ長く感じてしまう。そういうわけでジョンが耳をぴくりと動かして壁のほうを見、次いでチューズデーが「帰ってきたようだね」と呟くまで、体感の時間だけで言うなら相当待つことになった。
「おお、そうか」
チューズデーの報告を受け、成美ちゃんが大吾くんの膝から立ち上がり、台所のほうへ。掃除の時に私に声を掛けたのと同じく、台所の窓から顔を覗かせるのだろう。
私も一緒に行こうかなと思ったけど、しかし止めておくことにした。特に意味があるわけではないけど、「今回の問題についてこうくんには頼らない」と自分に言い聞かせるためというか。まあ、問題外のところでちょっとだけ頼りはするんだけど。
台所から成美ちゃんとこうくんの会話が聞こえ、その後こうくんは一度204号室に帰ったのだろう。顔を見ることになったのは、戻ってきた成美ちゃんが全員へ向けて「じゃあ行くぞ」とだけ言い、そうしてみんな揃って202号室を出た後のことだった。
「おかえり」
「ただいま、栞さん」
今からまた出発するわけだけど、取り敢えずは大学から帰ってきたことについての挨拶をした。朝には「一人で考える」と伝えていた割に成美ちゃんの部屋へお邪魔したりしていたわけだけど、しかしそれについて何か言われるようなことはなかった。だから私は、ただただいい気分にだけ浸ることができた。
たとえ一人で考えると決めていて、そしてその通りに行動していても、問題を抱えている時にこうくんの顔を見るとそれだけで安心できてしまう。もちろんそれが問題に対して何の意味もないということは分かってるけど、それでもそんなふうに思える自分自身が、嬉しかった。
そしてもちろん、そんな大袈裟な考えはこうくんには共有されない。
「あ、猫さん来てたんですか」
「うむ。今日はずっとこの調子だ」
こうくんは低い位置にいる猫さんの存在にやや遅れて気が付き、そして成美ちゃんはそんな物言いを。この調子、というのが何を指しているかと言えば、チューズデーの隣に寄り添うようにしていることだろうか。まあ、猫さんが寄り添っているのかチューズデーが寄り添っているのかは、私の目では判断が難しいところではあるんだけど。
「おや、嫉妬かね? ご不満ならお返しするがね」
「はは、まさか」
尻尾をくねらせながらそんなことを言うチューズデーに対して、成美ちゃんは嫌味なく笑っていた。複数の異性と関係を持つことが当たり前らしい猫の世界では、確かに嫉妬というような感情はなかなか湧きはしないものなのだろう。
しかしここで、「けれど」とも考える。
今でこそ大吾くんと猫さんを同時に夫として迎えている成美ちゃんだけど、考え方としては私達と同じで――具体的に言うなら、一夫一婦制というやつだろうか。異性については、そういう考えを持っている。だったら多少くらいは、チューズデーの言うように嫉妬というものをしてもおかしくはないのだろう。
けれどたった今確認した通り、成美ちゃんの笑顔に嫌味はない。それは嫌味を隠した結果なのか、それとも本当に嫌味などなかったのか、どちらだろうか?
――相手がチューズデーだから嫉妬をしない。むしろ歓迎している。
不意に浮かんだ私のそんな思い付きには、当然ながら何の根拠もありはしなかった。
「実はですね日向さん、私達、今日のお散歩はこれで二度目なんです」
「え、そうなんですか?」
階段を降りたところで、ジョンの背中の上からナタリーがこうくんに声を掛けた。いくらゆっくり歩いているだけとはいえ、進行方向と真逆を向いて酔ったりはしないんだろうか。そんなことが頭をよぎったものの、そうなるんだったらこれまでにそうなっていただろう、ということで。
「はい。今日は風があって涼しそうだったんで、日向さんを待ちきれなくて」
「あはは、すいませんお待たせしちゃって」
「いやこうくん、待たなかったって話じゃないかなこれ」
とついつい突っ込みを入れてしまったところ、こうくんがこちらを向いた。
「じゃあ栞さんは待ってくれる気が全くなかったってことですね?」
それはもちろん冗談だったのだろう。それに気付いたのなら私だって冗談で返したかったところだけど、しかし残念なことに、
「あ、私は行かなかったんだけどね、一回目」
ということになるのだ。そしてそれはもちろん、待つ気満々だったというアピールではなく。
「あれ、そうなんですか?」
「わたしと話をしていてな。どうせこの二度目があるのだからいいだろう、ということで」
成美ちゃんから説明され、へえ、と短い返事をしたこうくんは、もう一度私のほうを見た。こうくんのことだ、恐らくその成美ちゃんとの話が、今日の私の「考えなければならないこと」に関係しているのだろうかと考えているのだろう。
たまに考え過ぎることがあるこうくん。しかし私は、こうくんのそんなところに何度も助けられている。だから、言葉にすれば「考え過ぎ」という否定的なものになりこそすれ、私はむしろ嬉しく思う。考え過ぎてくれる、とでも言い直したほうが合っているのだろう。
嬉しく思い、ならば私は微笑んだのだろう。私の顔を見たこうくんが同じく微笑み、そして微笑んだまま、視線を私の顔から前方へ。
こうくんを信頼し、そして頼ることができる喜びは、これまで沢山感じさせてもらってきた。けれどこういう、「信頼されたからこそ何も言われない」ということにはまだ慣れてなくて、だから、とてもくすぐったいような気持ちになってしまう。
そしてそんなことを考えている間に、あまくに荘の正面玄関に到着。厳密にはこの玄関をくぐった瞬間から、散歩が開始したということになるのだろう。
――思った通り、顔を見ただけで勇気が湧いてくるようだった。更にこのあともう暫く一緒に歩けるというのは、とてもとても心強いことだった。
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