「泣いてくれてもよかったのに」
「あはは、お化粧がまだ残ってるからさ。あとほら、泣いちゃうと思ってたのに、なんてさっき言ったばっかりだし」
それは確かにそう言っていたのですが、これはその要件から外れているわけで、と、まあしかしそれについては栞だって承知の上でしょうけどね。
いやそれにしても、話一つするためだけにそんなお膳立てをしてみせるなんてさすがは――。
「いや、止めとこう」
「ん?」
「いま栞に色々言ったらそれって、泣かしに掛かってるみたいだしね。話の流れ的に」
「あはは。そっか、私の方をなんとかしても今度は孝さんがそうなっちゃうか。うーん、そこまでは考えてなかったなあ」
残念そうに笑ってみせる栞でしたが、しかし残念がるというのはつまり、ということで、繋いでいる左手には嬉しそうにきゅっと力を入れてきたりもするのでした。
「じゃあ孝さん、お喋りが駄目ならこういうのはどうかな?」
「ん?」
言われた瞬間、「だからといって代わりの何かを用意するようなことなのか」なんて感想を持つことが出来たのは、我ながら結構な思考速度だったんじゃないでしょうか。というのは栞、僕の反応を待つことなく即座に行動に出ていたのです。
僕と栞の間に位置し、しかし繋いだままの左手を乗せてもいるテーブル。栞はその存在を無視して、つまりは擦り抜けて僕へ近付くと、そのまま抱き付いてきたのでした。
そしてそこまでしてもやっぱり、左手は繋いだままで。
「ありがとう、色々言ってくれるような人でいてくれて」
「その色々を言えないまま礼を言われちゃうと、ちょっともやっとしないでもないけどね」
「ふふ、まあそうだよね」
で、それで礼を言われてしまったということなら、ここでもやはり何も言えはしないわけでもありまして。
というわけでここは一つ、そこから逸れた話題を。
「告白した時にもあったよね、こういうの。テーブル擦り抜けて抱き付いてくるって」
「あ、思い出す? ふふ、嬉しいなあ。狙ったわけじゃないけど、私も思い出してた」
やった後になって思い出すというのなら、そりゃあ間違いなく狙ったわけではないのでしょう。ということはつまり、何を意識するというわけでもなく栞はこういう人なんだ、ということになるわけです。具体的にどういう人だと言われたら――テーブルの周囲を迂回するのさえ惜しむような? って、これだとただの面倒臭がりにも聞こえかねませんが。
何にせよ一緒になって喜んでいたところ、すると栞、浮かべた笑みをそのままにこんなふうにも。
「結婚してもまだあの頃と同じことしてるって、なんか変な感じだね」
「あの頃ってほど昔の話でもないけど」
と、毎度お馴染みな今日これまでの期間の話はまあいいとして、
「周りから見たらいくらでも良く言えそうなんだけどね。いつまでも仲が好い、みたいな。例えば、大吾が膝の上に成美さん座らせてるのとか見た時だってそうじゃない? 栞だって」
「おお、これ以上ないくらい分かり易い例え。そっかそっか、周りから見たらそういうことになるのかあ」
もちろん大吾達のあれと僕達のこれがそのまま同じ扱いを受けるようなものであればの話ではあるわけですが、でもまあ、せっかく納得してもらえたこともありますし、余計な突っ込みはしないでおきましょう。
「それに他の人を例えに使わせてもらうまでもなく、さっきみんなの前で誓ったばっかりでもあるんだしさ。変わらぬ愛をって」
「なるほど、むしろ変えちゃいかんわけですね? なら孝さん、こういう私をこれからも宜しくお願いします」
「こちらこそ、料理くらいしか能のない奴ですが」
というのはもちろん、お互いに冗談ではあるわけですけどね。
栞が泣きそうだ、という話を引きずって最後の最後まで冗談で締め括る必要はなかったかもしれませんが、しかしまあ、それはそれで、ということにしておきましょう。口で何を言おうとこうして抱き合い、手を繋ぎ合ったままではあるわけで、ならば言葉の裏にあるものくらいは読み取れているわけですしね。
真面目な一言の代わりに少しばかり黙って視線を交わし合ったのち、僕達はゆっくりと身体を離し始めました。一方で繋いだ左手の方は――。
「……腕組みにしとく?」
「あっちの待合室に着くまでは――とも思ったけど、あはは、そうだね。廊下で誰かと出くわしたりするかもだし」
周囲の人から見ると、なんて話をつい今しがたしたばかりではありますが、だからといってそりゃあ無遠慮に振舞うわけにはいかないのです。現実は厳しい……いや、この場合厳しいのは現実でなく自分の中にある羞恥心なのかもしれませんが。
ともあれ今言った通りに繋いでいた左手を腕組みの形へ移行させ、そうしてテーブルから離れた僕と栞はとうとう、この部屋を後にするところまできたわけですが。
「夢みたい、なんて思ってたんだろうなあ。ちょっと前までの私だったら」
至近距離、どころか密着している僕がいながら、しかし栞は独り言の調子でそう溢すのでした。独り言であるにせよ耳にした以上は何か言葉を返したくもなるわけですが、しかし。
独り言なら口にしなければ良し、そうでないならはっきりと僕に言えば良し。そのどちらでもなく中途半端な今の振舞いというのは、ならばこれは多分、本当にギリギリなんだろうな、と。
メイクがどうとか泣かずに済んだと言ったばかりだとかいう話ではなく、弱ったところを見せた、見せてくれた彼女に対してそれをつついてみせるなどという不義理を働きたくないという理由から、僕は声を掛けずに済ませることにしておきました。
とはいえ何もしないというのもそれはそれで避けたいところではあり、なので組んでいる腕を軽く引き付けるようにしたところ。
「でも今はもう、これが当たり前なんだもんね」
と、腕だけでなく身体ごとこちらに預けながら、今度は明確に僕へ向けてそう言ってくる栞なのでした。
…………。
ちょっと前までの私だったら、と、栞はそう言いました。それが具体的にいつ頃のことを指しているのかは尋ねていない以上はっきりとさせられないわけですが、しかし僕としてはどうしても、頭に浮かばざるを得ない一時期というものがあるのでした。
幸せを感じると泣いてしまう。
付き合ってから暫くの間まで、ということになるでしょうか、栞はそういう状態にあったのです。そしてわざわざ「そういう状態」などという取り上げ方をする以上、それはただ単に感動して涙が出てくる、というようなものではなく。
ずっと病院暮らしだった自分が、死後になってから幸せになる。栞が「幸せ」というものに苛まれていたのは、その噛み合わなさを飲み込めないでいたからでした。しかしそれも、その象徴である胸の傷跡を僕に晒し、その内にあるものを預けてくれることで乗り越えられたわけですが――。
今はもうこれが当たり前だ、と、栞はそう言いました。腕を組んでいる僕を指して、いや、僕という夫が傍にいることを指して、そう言ってくれました。
僕がそれを放棄することなど有り得ない以上、起こり得ない状況ではあります。ありますが、しかし今の栞なら、今はもうその形を失わせた胸の傷跡も、その内あるものも、僕に頼ることなく自分の力のみで受け入れてしまえることでしょう。
重ねて言うに僕がそれを放棄することなど有り得はしないわけですが、しかし栞が、愛する妻がそこまで立ち直って――いや、元々以上に強くなってくれたということは、その想定が有り得ないものだと分かっていても尚、嬉しくて堪らないことなのでした。
「そうだね」
さっきの栞もこんな感じだったのでしょう。引き続き何も言わないでいるつもりだったというのに、ついつい相槌が口から零れてしまうのでした。しかもそれですら頑張って押し留めた結果であって、それがなければ一体、どれだけの言葉を栞に向けていたことか。
朝起きて家を出るまで、四方院に着いてから僕達の式が始まるまで、式の最中、式が終わってからこの部屋に家守さん達が現れるまで。どのタイミングでも何かしら栞への気持ちが強まる場面はあったわけですが、しかし今この瞬間、僕はこれまでで一番、栞を抱きしめたい衝動に駆られているのでした。
そしてそういう時に限って手が出せない状態にあるというのは、なんともどかしい話なのでしょうか。
僕が努めて何も言わないようにしている、ということくらいは簡単に察してしまうであろう栞です。ならばここでそれを破り、たった一言とはいえ言葉を口にしてしまった僕は、彼女の目にどう映るものなんでしょうか?
少し間があってから、栞は言いました。
「ありがとう、孝さん」
今いる親族控室は式場のすぐ傍、そして目的地である普通の――という言い方も変な感じではありますが、親族用でない控室もまた式場のすぐ傍ということで、ならば今いるここから目的地までも同様に、すぐ傍、ということにはなるわけです。式場を挟んで反対側なので、距離としては倍くらいではあるんですけどね。
と、それはともかく。
待つ必要があったわけでもないでしょうが、組んだ左腕にすがりついていた栞が顔を上げるまで待ってから、僕は出入口のドアに手を掛けました。
「うーん、まだ残ってたら良かったんだけどねえ」
開いたドアの向こうへ一歩を踏み出すより先に、栞は足元を見下ろしてそんなふうに。何の話かというのは、しかしまあ尋ねるまでもないでしょう。
「それはそれで照れ臭いような……手繋いでたのをわざわざ腕組みにしたっていうのもあるんだし」
「いやあ、腕組みと違って自分達でそうするわけじゃないから諦めも付くかなってね?」
「あはは、諦めなんだ」
というわけで赤絨毯、というかまあ、バージンロードの話です。式場内部はともかくそこへ繋がる廊下部分もその呼び方でいいのかどうかは少々不安だったりもしますが。
「でもまあ敷かれてたとしてもそれっぽくはならないかな、今の私達じゃあ。着てる服もそうだけど、荷物持ったりしちゃってるわけだし」
「まあ……単にイチャついてる男女でしかないよね」
僕がスーツだったりするのを考えれば、そこに「会社帰りの」という情報も付け加えられるでしょうか。別に付け加えたくないですけど……あ、でも栞は私服なわけだから、家から迎えに来てくれたとかそういうことにも?
「言ってることの割に口元がにやけてるけど?」
「なんの」
何が「なんの」なのか自分でも全く分かりませんが、ともあれそうして無事に危機を回避したところ。
「あれ」
「おや」
足元の赤絨毯や変な話に気を取られ過ぎていたのか、正面の人影に今更気付く僕と栞なのでした。で、その人影というのは複数で、そしてどうやらまだこちらに気付いていないようで――。
控室を出て、最初に辿り着くドア。であるならばそれは式場に通じるものなのですが、そこに男の子が顔を押し付けているのでした。どうやら隙間から中の様子を窺おうとしているようで、そしてその後ろには女の子が二人控えていたりも。
「どう? 見える?」
「んー、全く見えないってことはないけど……そもそも電気点いてないっぽいなあこれ。今使われてないっていうのは間違いないと思う。あとなんかごちゃごちゃしてる、かな?」
「も、もしかして式場なんじゃあ……? 他の部屋でごちゃごちゃってなさそうだし」
そんな遣り取りをし始めている眼前の三人ですが、どうしましょうか。こそこそしている雰囲気ではあるのですが、声を掛けたほうがいいのでしょうか?
「あのー」
僕が考えを纏めるよりも先に、栞が声を掛けてしまいました。いやまあ、それでいいんでしょうけどね?
で、そうなればそりゃあそうなるといいましょうか、こそこそしていた様子のお三方は揃ってビクッとしてみせたりしながらこちらを振り向くわけです。
が、別に僕達は怪しい者ではなく、またあちら三人も同じく怪しい人達ではありません。というわけで彼女らは、家守さんのご友人。数時間前に知り合ったばかりのお三方です。
「あ、ああ、日向さん達でしたか。その節はどうも」
二人いるうち髪が長いほうの女の子、もとい女性が、安心した様子でそう挨拶をしてきます。ならばとこちらもそれに倣って挨拶を返したところ、
「うーん、やっぱり誰にも出くわさずにっていうのは無理があったよなあ」
「そりゃそうだよ……」
と、残る男性と髪が短い方の女性はそんなふうに。どうやら本当にこそこそしていたようで。
「何かお困りですか? そこ、さっき私達が使わせてもらったばっかりの式場ですけど」
さらっと不必要な情報を付け足す栞なのでした。そりゃ確かにそうですし、気持ちも分からないではないですが。
「あら、それはそれは。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
という流れになって初めてそちらに気が向きましたが、僕と栞、まだ腕を組んだままなのでした。……まあ、だからってこのタイミングでそれを解くというのもどうかとは思いますし、だったらそうはしないでおきますけど。
「それで、誰にも出くわさずにっていうのは……」
その「誰にも」には当然僕と栞だって含まれていることでしょうし、ならば少々尋ねにくいことではあったのですがしかし、それを聞かせてもらわないと話が進まないというものでしょう。もちろん、進めない、という選択肢を取ってもらっても構わなくはあるわけですが。
で、それに対してのお返事は男性から。
「ああいや、やましいことがあったりするわけじゃないんだけどね? ただこう、僕達って楓ちゃんの友人として今日ここに招待されてるわけなんだけど――他の招待された人達の中に混ざったりするのは避けた方がいいかな、ってね」
話の流れとしてはそうすべきだったのでしょうが、しかし僕も栞も、「どうして」とは訊かないでおくのでした。
数時間前に会った時もそこまでの話はしませんでしたし、ならばこの人達は僕達がそれを知らないと思っているのでしょうが、しかし実際のところ僕達は知っているのです。友人であるという以外に、この人達と家守さん達の間に何があったのか。
この人達に確かめたのでなければ家守さんに確かめたわけでもなく、なので人違いという可能性もないわけではないですが……しかしそれは、切り捨ててしまっていいくらいに小さなものではあるのでしょう。三人の背格好と家守さんと同年代という実年齢の差、天国から呼ばれて来たという話、そして以前家守さんから聞かせてもらった話を思い出すに。
「式が始まる直前にしれっと式場にお邪魔してる、くらいのタイミングを狙って出てきたんですけど……早過ぎたってことなんですかね? お二人の式が終わったところってことだと」
尋ねはしないでおきながら代わりの話題を提供できないでもいたところ、今度は髪が短い方の女性がそんな質問を投げ掛けてくるのでした。なるほど、それなら他の参列者さん達から家守さんとの話を振られたりしないで済みますもんね。
などと納得だけしているわけにもそりゃあいかないので、
「そうですねえ、式まではまだちょっと掛かると思います。あっちの――」
と、自分達が今歩いてきた方向を振り返りながら。
「いま僕達が出てきた部屋が親族控室なんですけど、このあと家守さん達があそこで着付けなりなんなりしてからってことになりますし」
「そうですか……うーん、それまでずっとうろうろするっていうのもなんだか……」
元々お困りの様子だったところ、更にそれを強めてしまう結果に。ううむ、事情を知っているが故に一層、何とかして差し上げたいところではあるのですが。
「あ、孝さん、もしかしてあれかな」
「ん?」
とここで栞、何か思い付くことがあったようで。
「成美ちゃんと大吾くんの式の時、ちょっと時間ずれたでしょ?」
「あー」
期待したものとは違うご意見だったわけですが、しかし確かにそういうこともありましたっけね。なるほど、それでこの人達の予定もずれてしまったと。
「あら、そんなことが?……んー、でも結婚式ですものねえ。それくらい仕方ないというか、あって当然というか」
「晴れ舞台だもんね、やっぱり」
と、予定が狂った割には満更でもなさそうな女性お二人でしたが、
「でも、じゃあ僕らどうしよっか? これから」
ということにもそりゃあなるわけです。というか、この場においてはそちらこそがメインであるべきなのでしょう。
…………。
少し考えたのち、僕は栞に耳打ちしました。
「あの」
「何でしょうか?」
耳打ちである以上、僕と栞の相談内容はあちら三人に伝わっていないわけですが、しかし耳打ちをしていたということ自体は見れば分かるわけです。密かな相談を終えた僕が声を掛けたところ、返事をした長い髪の女性のみならず他のお二人も同様に、多少ながら身構えてらっしゃるのでした。
が、身構えるということならこっちこそ、多少どころではなく身構えていたりもするわけですが……。
「僕達がご一緒してましょうか? 式が始まるまで、控室で」
「え、でも」
僕のその提案には他お二人の顔色を窺いに掛かる髪の長い女性でしたが、しかしやはり、好感触ということはもちろんなく。
といったところで、栞からもう一言。
「今まで黙っていて申し訳ないんですけど、実は私達、全部知ってるんです。楓さんの昔の話、前に聞かせてもらったことがあって」
黙っていたことと今この場でそれを伝えることのどちらがより申し訳ないかは判断に迷うところではありましたが、僕と栞はそういう選択をしたのでした。知っているということを伝え、だからそちらの心配の対象からは――悪い意味で、ということになるのかもしれませんが――初めから外れているんですよ、という。
あちらからの反応が得られるまでには、数秒を要しました。
「……万が一があってはいけませんし、念のために確認させてもらっていいですか? それが本当に私達の話かどうか」
「はい」
引き続き、髪の長い女性と栞がそんな遣り取りを。万が一であろうが億が一であろうが、そこはまあ、そうならざるを得なくはあるのでしょう。
ということになったところで、その確認についてもやはり栞の口から。
……間違っても口にしていて気分のいい話ではありませんし、更にはそれを口にするのが家守さんを敬愛してやまない栞ともなれば、尚のことなのでしょう。もう一人の母親のような人、という関係を清算した今であっても。
ともなればこの確認作業は僕が引き受けようと思いもしたのですが、しかし栞は僕にそれを持ち掛けなかったどころか、むしろ僕にそれをさせたくないかのように迷いなく説明をし始めたのでした。
敬愛している自分だからこそ、ということなのでしょう。栞がそういう人なのは知っていますし、栞のそういうところを好いている僕ではあるのですが、しかし今回ばかりはさすがに、自分の顔の強張りを感じるばかりなのでした。
と、そんなことを考えている間に――というとまるで短時間で事が済んでしまったようですし、実際にも短時間の出来事ではあったのですが、しかし僕個人の体感時間としてはそうではなく。
「私達の話ですね。間違いなく」
俯きがちになりながら、髪の長い女性はまずそう言いました。初めからかなりの身長差があるところで俯かれると表情が窺えなかったりもするのですが、しかしこれは、見るまでもない、ということになりましょう。
その場に立ち尽くしているあちら三名ではありますが、けれど栞は、追い縋るようにしてこう付け加えるのでした。
「あの、私から言うようなことじゃないですけど、楓さんはその時のこと――」
「あ、大丈夫です。その辺りは私達も分かってますから」
栞が言わんとしたことが何なのか。一緒に話を聞いた僕なら何なく分かることではあったのですが、しかしどうやら彼女らについてもそれは同じであるらしいのでした。
「楓ちゃん、ちょくちょく僕らに会いに来てくれてるからね」
「そうそう、じゃなかったらいきなり結婚式にお呼ばれされるなんてことには」
他お二人からはそんなお話が。初めて知った情報ではありましたが、しかしその詳細を尋ねる気には、そしてその様子を想像してみる気にすら、僕としてはなれそうもないのでした。いやもちろん、あちらの様子からして良い結果を結んではいるんでしょうけど……。
栞も同じような心境だったか、というのは定かではありませんが、
「それで、どうでしょうか? この後ご一緒させて頂く件については」
浸りも浸らせもしないまま、話を進めようとするのでした。
「どうしましょうか」
「僕は構わないよ。というか、お願いしたいかな」
肯定的な返事をした男性はもちろん、それを尋ねた髪の長い女性も弾んだ口調なのでした。
ですが、
「となると、あとは……」
と、髪の短い女性は廊下の奥、僕達がこれから向かうべき方向を見遣りながら。
あとは。
そこに続く言葉が何なのかということについてはしかし、僕も栞も、それを推測するための手掛かりは既に持っていたりするのでした。
「あ、そういえば、まだお会いしてませんけどもう一人」
釣られて廊下の奥を見遣りながら栞がそう言ったところ、
「僕も構わないよ」
――という声が、僕と栞の背後から。つまり、あちらの女性と栞が向いているのとは正反対の方向から。
「家守ちゃんの今の友達か。ふふ、面白そうだね」
振り向いた先でそう言いながら笑っていたのは、その声とこの状況から察せられる通り、やはり小さな男の子でした。ただ……。
その笑顔にぞくりとさせられたのは、一体何によるものだったんでしょうか?
「あれ、なんでそっちから?」
「ここ、外周をぐるっと一周できるみたいでね。あのまま進んでたら一回りしちゃったよ」
「へー……じゃなくて、話聞いてたんでしょ? 声ぐらい掛けてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん、なんか名乗り出るタイミング逃しちゃって」
「嘘吐け、わざと隠れて近付かなきゃここまで誰も気付かないってことないだろ。こんな真っ直ぐな廊下でさ」
「あはは、ごめんってば」
……不自然なく友人然とした、他三人とのそれらの遣り取り。うん、気のせいですかね、これは。
「あはは、お化粧がまだ残ってるからさ。あとほら、泣いちゃうと思ってたのに、なんてさっき言ったばっかりだし」
それは確かにそう言っていたのですが、これはその要件から外れているわけで、と、まあしかしそれについては栞だって承知の上でしょうけどね。
いやそれにしても、話一つするためだけにそんなお膳立てをしてみせるなんてさすがは――。
「いや、止めとこう」
「ん?」
「いま栞に色々言ったらそれって、泣かしに掛かってるみたいだしね。話の流れ的に」
「あはは。そっか、私の方をなんとかしても今度は孝さんがそうなっちゃうか。うーん、そこまでは考えてなかったなあ」
残念そうに笑ってみせる栞でしたが、しかし残念がるというのはつまり、ということで、繋いでいる左手には嬉しそうにきゅっと力を入れてきたりもするのでした。
「じゃあ孝さん、お喋りが駄目ならこういうのはどうかな?」
「ん?」
言われた瞬間、「だからといって代わりの何かを用意するようなことなのか」なんて感想を持つことが出来たのは、我ながら結構な思考速度だったんじゃないでしょうか。というのは栞、僕の反応を待つことなく即座に行動に出ていたのです。
僕と栞の間に位置し、しかし繋いだままの左手を乗せてもいるテーブル。栞はその存在を無視して、つまりは擦り抜けて僕へ近付くと、そのまま抱き付いてきたのでした。
そしてそこまでしてもやっぱり、左手は繋いだままで。
「ありがとう、色々言ってくれるような人でいてくれて」
「その色々を言えないまま礼を言われちゃうと、ちょっともやっとしないでもないけどね」
「ふふ、まあそうだよね」
で、それで礼を言われてしまったということなら、ここでもやはり何も言えはしないわけでもありまして。
というわけでここは一つ、そこから逸れた話題を。
「告白した時にもあったよね、こういうの。テーブル擦り抜けて抱き付いてくるって」
「あ、思い出す? ふふ、嬉しいなあ。狙ったわけじゃないけど、私も思い出してた」
やった後になって思い出すというのなら、そりゃあ間違いなく狙ったわけではないのでしょう。ということはつまり、何を意識するというわけでもなく栞はこういう人なんだ、ということになるわけです。具体的にどういう人だと言われたら――テーブルの周囲を迂回するのさえ惜しむような? って、これだとただの面倒臭がりにも聞こえかねませんが。
何にせよ一緒になって喜んでいたところ、すると栞、浮かべた笑みをそのままにこんなふうにも。
「結婚してもまだあの頃と同じことしてるって、なんか変な感じだね」
「あの頃ってほど昔の話でもないけど」
と、毎度お馴染みな今日これまでの期間の話はまあいいとして、
「周りから見たらいくらでも良く言えそうなんだけどね。いつまでも仲が好い、みたいな。例えば、大吾が膝の上に成美さん座らせてるのとか見た時だってそうじゃない? 栞だって」
「おお、これ以上ないくらい分かり易い例え。そっかそっか、周りから見たらそういうことになるのかあ」
もちろん大吾達のあれと僕達のこれがそのまま同じ扱いを受けるようなものであればの話ではあるわけですが、でもまあ、せっかく納得してもらえたこともありますし、余計な突っ込みはしないでおきましょう。
「それに他の人を例えに使わせてもらうまでもなく、さっきみんなの前で誓ったばっかりでもあるんだしさ。変わらぬ愛をって」
「なるほど、むしろ変えちゃいかんわけですね? なら孝さん、こういう私をこれからも宜しくお願いします」
「こちらこそ、料理くらいしか能のない奴ですが」
というのはもちろん、お互いに冗談ではあるわけですけどね。
栞が泣きそうだ、という話を引きずって最後の最後まで冗談で締め括る必要はなかったかもしれませんが、しかしまあ、それはそれで、ということにしておきましょう。口で何を言おうとこうして抱き合い、手を繋ぎ合ったままではあるわけで、ならば言葉の裏にあるものくらいは読み取れているわけですしね。
真面目な一言の代わりに少しばかり黙って視線を交わし合ったのち、僕達はゆっくりと身体を離し始めました。一方で繋いだ左手の方は――。
「……腕組みにしとく?」
「あっちの待合室に着くまでは――とも思ったけど、あはは、そうだね。廊下で誰かと出くわしたりするかもだし」
周囲の人から見ると、なんて話をつい今しがたしたばかりではありますが、だからといってそりゃあ無遠慮に振舞うわけにはいかないのです。現実は厳しい……いや、この場合厳しいのは現実でなく自分の中にある羞恥心なのかもしれませんが。
ともあれ今言った通りに繋いでいた左手を腕組みの形へ移行させ、そうしてテーブルから離れた僕と栞はとうとう、この部屋を後にするところまできたわけですが。
「夢みたい、なんて思ってたんだろうなあ。ちょっと前までの私だったら」
至近距離、どころか密着している僕がいながら、しかし栞は独り言の調子でそう溢すのでした。独り言であるにせよ耳にした以上は何か言葉を返したくもなるわけですが、しかし。
独り言なら口にしなければ良し、そうでないならはっきりと僕に言えば良し。そのどちらでもなく中途半端な今の振舞いというのは、ならばこれは多分、本当にギリギリなんだろうな、と。
メイクがどうとか泣かずに済んだと言ったばかりだとかいう話ではなく、弱ったところを見せた、見せてくれた彼女に対してそれをつついてみせるなどという不義理を働きたくないという理由から、僕は声を掛けずに済ませることにしておきました。
とはいえ何もしないというのもそれはそれで避けたいところではあり、なので組んでいる腕を軽く引き付けるようにしたところ。
「でも今はもう、これが当たり前なんだもんね」
と、腕だけでなく身体ごとこちらに預けながら、今度は明確に僕へ向けてそう言ってくる栞なのでした。
…………。
ちょっと前までの私だったら、と、栞はそう言いました。それが具体的にいつ頃のことを指しているのかは尋ねていない以上はっきりとさせられないわけですが、しかし僕としてはどうしても、頭に浮かばざるを得ない一時期というものがあるのでした。
幸せを感じると泣いてしまう。
付き合ってから暫くの間まで、ということになるでしょうか、栞はそういう状態にあったのです。そしてわざわざ「そういう状態」などという取り上げ方をする以上、それはただ単に感動して涙が出てくる、というようなものではなく。
ずっと病院暮らしだった自分が、死後になってから幸せになる。栞が「幸せ」というものに苛まれていたのは、その噛み合わなさを飲み込めないでいたからでした。しかしそれも、その象徴である胸の傷跡を僕に晒し、その内にあるものを預けてくれることで乗り越えられたわけですが――。
今はもうこれが当たり前だ、と、栞はそう言いました。腕を組んでいる僕を指して、いや、僕という夫が傍にいることを指して、そう言ってくれました。
僕がそれを放棄することなど有り得ない以上、起こり得ない状況ではあります。ありますが、しかし今の栞なら、今はもうその形を失わせた胸の傷跡も、その内あるものも、僕に頼ることなく自分の力のみで受け入れてしまえることでしょう。
重ねて言うに僕がそれを放棄することなど有り得はしないわけですが、しかし栞が、愛する妻がそこまで立ち直って――いや、元々以上に強くなってくれたということは、その想定が有り得ないものだと分かっていても尚、嬉しくて堪らないことなのでした。
「そうだね」
さっきの栞もこんな感じだったのでしょう。引き続き何も言わないでいるつもりだったというのに、ついつい相槌が口から零れてしまうのでした。しかもそれですら頑張って押し留めた結果であって、それがなければ一体、どれだけの言葉を栞に向けていたことか。
朝起きて家を出るまで、四方院に着いてから僕達の式が始まるまで、式の最中、式が終わってからこの部屋に家守さん達が現れるまで。どのタイミングでも何かしら栞への気持ちが強まる場面はあったわけですが、しかし今この瞬間、僕はこれまでで一番、栞を抱きしめたい衝動に駆られているのでした。
そしてそういう時に限って手が出せない状態にあるというのは、なんともどかしい話なのでしょうか。
僕が努めて何も言わないようにしている、ということくらいは簡単に察してしまうであろう栞です。ならばここでそれを破り、たった一言とはいえ言葉を口にしてしまった僕は、彼女の目にどう映るものなんでしょうか?
少し間があってから、栞は言いました。
「ありがとう、孝さん」
今いる親族控室は式場のすぐ傍、そして目的地である普通の――という言い方も変な感じではありますが、親族用でない控室もまた式場のすぐ傍ということで、ならば今いるここから目的地までも同様に、すぐ傍、ということにはなるわけです。式場を挟んで反対側なので、距離としては倍くらいではあるんですけどね。
と、それはともかく。
待つ必要があったわけでもないでしょうが、組んだ左腕にすがりついていた栞が顔を上げるまで待ってから、僕は出入口のドアに手を掛けました。
「うーん、まだ残ってたら良かったんだけどねえ」
開いたドアの向こうへ一歩を踏み出すより先に、栞は足元を見下ろしてそんなふうに。何の話かというのは、しかしまあ尋ねるまでもないでしょう。
「それはそれで照れ臭いような……手繋いでたのをわざわざ腕組みにしたっていうのもあるんだし」
「いやあ、腕組みと違って自分達でそうするわけじゃないから諦めも付くかなってね?」
「あはは、諦めなんだ」
というわけで赤絨毯、というかまあ、バージンロードの話です。式場内部はともかくそこへ繋がる廊下部分もその呼び方でいいのかどうかは少々不安だったりもしますが。
「でもまあ敷かれてたとしてもそれっぽくはならないかな、今の私達じゃあ。着てる服もそうだけど、荷物持ったりしちゃってるわけだし」
「まあ……単にイチャついてる男女でしかないよね」
僕がスーツだったりするのを考えれば、そこに「会社帰りの」という情報も付け加えられるでしょうか。別に付け加えたくないですけど……あ、でも栞は私服なわけだから、家から迎えに来てくれたとかそういうことにも?
「言ってることの割に口元がにやけてるけど?」
「なんの」
何が「なんの」なのか自分でも全く分かりませんが、ともあれそうして無事に危機を回避したところ。
「あれ」
「おや」
足元の赤絨毯や変な話に気を取られ過ぎていたのか、正面の人影に今更気付く僕と栞なのでした。で、その人影というのは複数で、そしてどうやらまだこちらに気付いていないようで――。
控室を出て、最初に辿り着くドア。であるならばそれは式場に通じるものなのですが、そこに男の子が顔を押し付けているのでした。どうやら隙間から中の様子を窺おうとしているようで、そしてその後ろには女の子が二人控えていたりも。
「どう? 見える?」
「んー、全く見えないってことはないけど……そもそも電気点いてないっぽいなあこれ。今使われてないっていうのは間違いないと思う。あとなんかごちゃごちゃしてる、かな?」
「も、もしかして式場なんじゃあ……? 他の部屋でごちゃごちゃってなさそうだし」
そんな遣り取りをし始めている眼前の三人ですが、どうしましょうか。こそこそしている雰囲気ではあるのですが、声を掛けたほうがいいのでしょうか?
「あのー」
僕が考えを纏めるよりも先に、栞が声を掛けてしまいました。いやまあ、それでいいんでしょうけどね?
で、そうなればそりゃあそうなるといいましょうか、こそこそしていた様子のお三方は揃ってビクッとしてみせたりしながらこちらを振り向くわけです。
が、別に僕達は怪しい者ではなく、またあちら三人も同じく怪しい人達ではありません。というわけで彼女らは、家守さんのご友人。数時間前に知り合ったばかりのお三方です。
「あ、ああ、日向さん達でしたか。その節はどうも」
二人いるうち髪が長いほうの女の子、もとい女性が、安心した様子でそう挨拶をしてきます。ならばとこちらもそれに倣って挨拶を返したところ、
「うーん、やっぱり誰にも出くわさずにっていうのは無理があったよなあ」
「そりゃそうだよ……」
と、残る男性と髪が短い方の女性はそんなふうに。どうやら本当にこそこそしていたようで。
「何かお困りですか? そこ、さっき私達が使わせてもらったばっかりの式場ですけど」
さらっと不必要な情報を付け足す栞なのでした。そりゃ確かにそうですし、気持ちも分からないではないですが。
「あら、それはそれは。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
という流れになって初めてそちらに気が向きましたが、僕と栞、まだ腕を組んだままなのでした。……まあ、だからってこのタイミングでそれを解くというのもどうかとは思いますし、だったらそうはしないでおきますけど。
「それで、誰にも出くわさずにっていうのは……」
その「誰にも」には当然僕と栞だって含まれていることでしょうし、ならば少々尋ねにくいことではあったのですがしかし、それを聞かせてもらわないと話が進まないというものでしょう。もちろん、進めない、という選択肢を取ってもらっても構わなくはあるわけですが。
で、それに対してのお返事は男性から。
「ああいや、やましいことがあったりするわけじゃないんだけどね? ただこう、僕達って楓ちゃんの友人として今日ここに招待されてるわけなんだけど――他の招待された人達の中に混ざったりするのは避けた方がいいかな、ってね」
話の流れとしてはそうすべきだったのでしょうが、しかし僕も栞も、「どうして」とは訊かないでおくのでした。
数時間前に会った時もそこまでの話はしませんでしたし、ならばこの人達は僕達がそれを知らないと思っているのでしょうが、しかし実際のところ僕達は知っているのです。友人であるという以外に、この人達と家守さん達の間に何があったのか。
この人達に確かめたのでなければ家守さんに確かめたわけでもなく、なので人違いという可能性もないわけではないですが……しかしそれは、切り捨ててしまっていいくらいに小さなものではあるのでしょう。三人の背格好と家守さんと同年代という実年齢の差、天国から呼ばれて来たという話、そして以前家守さんから聞かせてもらった話を思い出すに。
「式が始まる直前にしれっと式場にお邪魔してる、くらいのタイミングを狙って出てきたんですけど……早過ぎたってことなんですかね? お二人の式が終わったところってことだと」
尋ねはしないでおきながら代わりの話題を提供できないでもいたところ、今度は髪が短い方の女性がそんな質問を投げ掛けてくるのでした。なるほど、それなら他の参列者さん達から家守さんとの話を振られたりしないで済みますもんね。
などと納得だけしているわけにもそりゃあいかないので、
「そうですねえ、式まではまだちょっと掛かると思います。あっちの――」
と、自分達が今歩いてきた方向を振り返りながら。
「いま僕達が出てきた部屋が親族控室なんですけど、このあと家守さん達があそこで着付けなりなんなりしてからってことになりますし」
「そうですか……うーん、それまでずっとうろうろするっていうのもなんだか……」
元々お困りの様子だったところ、更にそれを強めてしまう結果に。ううむ、事情を知っているが故に一層、何とかして差し上げたいところではあるのですが。
「あ、孝さん、もしかしてあれかな」
「ん?」
とここで栞、何か思い付くことがあったようで。
「成美ちゃんと大吾くんの式の時、ちょっと時間ずれたでしょ?」
「あー」
期待したものとは違うご意見だったわけですが、しかし確かにそういうこともありましたっけね。なるほど、それでこの人達の予定もずれてしまったと。
「あら、そんなことが?……んー、でも結婚式ですものねえ。それくらい仕方ないというか、あって当然というか」
「晴れ舞台だもんね、やっぱり」
と、予定が狂った割には満更でもなさそうな女性お二人でしたが、
「でも、じゃあ僕らどうしよっか? これから」
ということにもそりゃあなるわけです。というか、この場においてはそちらこそがメインであるべきなのでしょう。
…………。
少し考えたのち、僕は栞に耳打ちしました。
「あの」
「何でしょうか?」
耳打ちである以上、僕と栞の相談内容はあちら三人に伝わっていないわけですが、しかし耳打ちをしていたということ自体は見れば分かるわけです。密かな相談を終えた僕が声を掛けたところ、返事をした長い髪の女性のみならず他のお二人も同様に、多少ながら身構えてらっしゃるのでした。
が、身構えるということならこっちこそ、多少どころではなく身構えていたりもするわけですが……。
「僕達がご一緒してましょうか? 式が始まるまで、控室で」
「え、でも」
僕のその提案には他お二人の顔色を窺いに掛かる髪の長い女性でしたが、しかしやはり、好感触ということはもちろんなく。
といったところで、栞からもう一言。
「今まで黙っていて申し訳ないんですけど、実は私達、全部知ってるんです。楓さんの昔の話、前に聞かせてもらったことがあって」
黙っていたことと今この場でそれを伝えることのどちらがより申し訳ないかは判断に迷うところではありましたが、僕と栞はそういう選択をしたのでした。知っているということを伝え、だからそちらの心配の対象からは――悪い意味で、ということになるのかもしれませんが――初めから外れているんですよ、という。
あちらからの反応が得られるまでには、数秒を要しました。
「……万が一があってはいけませんし、念のために確認させてもらっていいですか? それが本当に私達の話かどうか」
「はい」
引き続き、髪の長い女性と栞がそんな遣り取りを。万が一であろうが億が一であろうが、そこはまあ、そうならざるを得なくはあるのでしょう。
ということになったところで、その確認についてもやはり栞の口から。
……間違っても口にしていて気分のいい話ではありませんし、更にはそれを口にするのが家守さんを敬愛してやまない栞ともなれば、尚のことなのでしょう。もう一人の母親のような人、という関係を清算した今であっても。
ともなればこの確認作業は僕が引き受けようと思いもしたのですが、しかし栞は僕にそれを持ち掛けなかったどころか、むしろ僕にそれをさせたくないかのように迷いなく説明をし始めたのでした。
敬愛している自分だからこそ、ということなのでしょう。栞がそういう人なのは知っていますし、栞のそういうところを好いている僕ではあるのですが、しかし今回ばかりはさすがに、自分の顔の強張りを感じるばかりなのでした。
と、そんなことを考えている間に――というとまるで短時間で事が済んでしまったようですし、実際にも短時間の出来事ではあったのですが、しかし僕個人の体感時間としてはそうではなく。
「私達の話ですね。間違いなく」
俯きがちになりながら、髪の長い女性はまずそう言いました。初めからかなりの身長差があるところで俯かれると表情が窺えなかったりもするのですが、しかしこれは、見るまでもない、ということになりましょう。
その場に立ち尽くしているあちら三名ではありますが、けれど栞は、追い縋るようにしてこう付け加えるのでした。
「あの、私から言うようなことじゃないですけど、楓さんはその時のこと――」
「あ、大丈夫です。その辺りは私達も分かってますから」
栞が言わんとしたことが何なのか。一緒に話を聞いた僕なら何なく分かることではあったのですが、しかしどうやら彼女らについてもそれは同じであるらしいのでした。
「楓ちゃん、ちょくちょく僕らに会いに来てくれてるからね」
「そうそう、じゃなかったらいきなり結婚式にお呼ばれされるなんてことには」
他お二人からはそんなお話が。初めて知った情報ではありましたが、しかしその詳細を尋ねる気には、そしてその様子を想像してみる気にすら、僕としてはなれそうもないのでした。いやもちろん、あちらの様子からして良い結果を結んではいるんでしょうけど……。
栞も同じような心境だったか、というのは定かではありませんが、
「それで、どうでしょうか? この後ご一緒させて頂く件については」
浸りも浸らせもしないまま、話を進めようとするのでした。
「どうしましょうか」
「僕は構わないよ。というか、お願いしたいかな」
肯定的な返事をした男性はもちろん、それを尋ねた髪の長い女性も弾んだ口調なのでした。
ですが、
「となると、あとは……」
と、髪の短い女性は廊下の奥、僕達がこれから向かうべき方向を見遣りながら。
あとは。
そこに続く言葉が何なのかということについてはしかし、僕も栞も、それを推測するための手掛かりは既に持っていたりするのでした。
「あ、そういえば、まだお会いしてませんけどもう一人」
釣られて廊下の奥を見遣りながら栞がそう言ったところ、
「僕も構わないよ」
――という声が、僕と栞の背後から。つまり、あちらの女性と栞が向いているのとは正反対の方向から。
「家守ちゃんの今の友達か。ふふ、面白そうだね」
振り向いた先でそう言いながら笑っていたのは、その声とこの状況から察せられる通り、やはり小さな男の子でした。ただ……。
その笑顔にぞくりとさせられたのは、一体何によるものだったんでしょうか?
「あれ、なんでそっちから?」
「ここ、外周をぐるっと一周できるみたいでね。あのまま進んでたら一回りしちゃったよ」
「へー……じゃなくて、話聞いてたんでしょ? 声ぐらい掛けてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん、なんか名乗り出るタイミング逃しちゃって」
「嘘吐け、わざと隠れて近付かなきゃここまで誰も気付かないってことないだろ。こんな真っ直ぐな廊下でさ」
「あはは、ごめんってば」
……不自然なく友人然とした、他三人とのそれらの遣り取り。うん、気のせいですかね、これは。
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