(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第十九章 騒がしいお泊まり 前編 四

2008-10-16 20:58:36 | 新転地はお化け屋敷
 栞さんの様子を知ってか知らずか、「それより日向さん」と今度はこちらに声を掛けてくる大門さん。
「厨房が気になるようでしたら、覗いて頂いても構いませんが? 何の作業をしているわけでもないので、面白味もなさそうですが……」
「いえ、是非!」
 なんせ、プロの使用する設備だ。実家の余りでしかない持ち手がやや溶けたフライ返しや焦げたり折れたりで長さが揃わない菜箸、料理教室を始めるにあたって買い揃えた諸々の安物器具とは違った諸々が、所狭しと敷き詰められているんだろう。それはさながら宝物庫。――もちろん器具だけでなく、料理の素材も良い物が揃っているんだろう。閉店間際のセールを狙ったりまではしていないものの、それなりに吟味して日々食している安い食材なんかではなく、油の乗りが良い肉、新鮮な野菜、肥えた魚。調理前から涎を垂らしてしまいそうなそれらがぎっしり詰まった冷蔵庫(その冷蔵庫も一般の物とは違うだろう)を想像すると、もう頬がにやけてしまう。それら食材群をどう組み合わせて何を作り、自分はもちろん他のみんなが一体どれだけ美味しそうな顔をしてくれるのか! 箸やスプーン、フォークが口へ運ばれる度に目元口元が幸せそうに垂れる一同に、僕へ押し寄せる満足感が如何ほどのものか! それに合わせて弾む会話が、一体どれだけの至福であるのか! ああ、考えるだけで僕はもう――!
「孝一くん、しっかりして!」
「あうあうあう」
 栞さんの呼び掛けと、激しく揺すられる肩と、揺れに合わせて漏れる自身の声。それら全てを知覚してようやく、僕の意識は現実へと舞い戻った。
「あの、すいません。興奮すると時々変になるんですこの人」
「立ったまま突然気絶したのかと思いましたが――ははは、愉快な連れ合いですな」
 自分の代わりに謝られ、なおかつそれを笑い飛ばされる。もう、自前で穴を掘ってでも隠れたくなるような恥ずかしさだった。泣きそうだ。いや、いっそ誰か代わりに泣いてください。親が見たら泣くぞ的な意味合いで。
「料理の腕はあまくに荘のみんなが認めるところなんですけどね、これでも」
 しかしこちらの願いに反して栞さんは、大門さんへの反骨心もあるのか、むしろ胸を張ってそう言い退ける。「これでも」っていうのはちょっと悲しいですが、ありがとうございます。そしてごめんなさい。

 気を取り直し、お言葉に甘えて厨房の中へ。何か用があってここへ来たという事かそれとも単なる付き添いか、大門さんも僕達の後ろから一緒に入ってきた。――いや。着物のままだという事は、やっぱり単なる付き添いか。和服の中でも料理に臨む服装ぐらいはあるんだし。
「わあ……」
 声を上げたのは僕ではなく、栞さんだった。あんまり興味のない場所に付き合わせる事になるんじゃないだろうかという不安は、その一言未満ですっぱり消滅。
 ――それにしても、だ。栞さんですら、と言うと語弊がありそうな気がするけど、それでも敢えて言うならば。栞さんですら溜息が出るばかりの光景に、僕は溜息を吐くどころか息を飲んだ。唾も飲んだかもしれない。
 普通、それは一面の雪景色を表した表現だったと思う。しかしここへ入り込んだその時、僕の頭に浮かんだのはその言葉だった。
 銀世界。
 ドアの丸窓から一部だけを覗いたのとはまるで見栄えが違っていた。厨房全体が、今建造されたが如くにピカピカだった。もちろん本当に造られたてなんて事はないだろう。でもそれにしたって、煙やら油やらで全体的にやや黄ばんでいるのが、僕の持つ厨房のイメージだったんだけど……。
「なんでこんなに綺麗なんですか?」
 ついつい言葉を選ぶ前に出てしまったその質問は、「ある程度は汚ないのが前提」という自分の考えが剥き出しだった。料理長、つまりこの部屋の実質的な支配人であろう大門さんに向ける質問にしては、不躾にも程がある。
「あ、すいません」
 慌てて取り繕い、もう一度言葉を選んで質問し直そうとすると、大門さんはにやりと口の端を持ち上げた。
 この状況で言うのもなんですが、怖いです。悪巧みを思いついた悪代官とか、そんな感じです。
「さすがは評判の料理人。ものの見方がこちら側ですな」
「りょ、料理人だなんてそんな」
 普段は生徒二名を前に先生を自認していますが、本物の前では流石に無理ですそんな事。
「えっと……?」
 栞さんが煙に巻かれたように呟く。僕と大門さんの遣り取りが理解し切れない、という事だろうか。だとするなら、大門さんの言う通りに? ――いやいやそんな、恐れ多い。
 それはそれとして、大門さんが語り始める。
「煙が出ないコンロ、油無しでも肉が張り付かないフライパン、地味なところでは取っ手が取り外しできる――同じく、フライパン。近頃は調理器具も随分と便利になったものですな。それに付随して、あとの掃除も楽になったものです。電気コンロなら周囲のあれこれに焦げ目が入るような事もありませんし、そのコンロ自体が汚れの付きにくいものだったりもしますからな」
 無論何から何まで良くなった面しかないというわけでもありませんが、と付け足して、一旦口を落ち着かせた。その間に僕は大門さんが挙げた器具類を探し、目に納める。
「博物館に来たみたいだね、孝一くん」
 栞さんのその台詞は自分の感想に同意を求めるものではなく、僕がそういう状態に見えると指摘しているそれだった。わざわざ指摘される程とまでは思っていなかったにしてもある程度の自覚はあったので、「そうですかね」と曖昧な相槌を打っておく。
 そして、栞さんの話題は次のものへと。
「そうだ。あの、大門さん」
「なんですかな?」
「離れにあるお風呂の事は聞いてたんですけど、さっきこっち側にもお風呂があるって気付いたんです。それでこっち側のお風呂って、使わせてもらっていいんでしょうか?」
「ええ、それは構いませんが。しかし離れにあるほうが色々と……」
「あ、すいません。どんなお風呂なのかは楽しみに取っておきたいんで」
「――はは、そうですか。では、その時はどうぞごゆっくり」
 ありがとうございますと栞さんがその話題を締め括り、その間にも厨房を構成しているありとあらゆる物――調理器具に限らず、換気扇や照明までも――をそれこそ舐め回すつもりで見回していくと、そのうち、ある物の前に辿り着く。
「オーブン、ですよね?」
「大きいねえ」
 業務用という言葉を連想させるそれに、栞さんも舌を巻いていた。もちろんここが旅館である以上、業務用という表現でも何らおかしくはないわけですが。
「なにせ客がいつ、どれだけ来るか、全く分かりませんからな。普段から盛況だというわけではなし、かと言ってまるで客足が無いわけでもなし。――なにせ、幽霊専門なんで」
 言ってニッと笑んでみせる大門さんに、こちらも微笑み返す。
 幽霊専門だというなら、やっぱりそれも仕方ないんだろう。大々的に宣伝を掛けるわけにもいかないだろうし。――なんて頭の半分で思いつつ、もう半分である事を思い付く。大きいオーブンと、あの人。
「これって、パン焼けたりしますかね? あ、食パンを焼くとかって話じゃなくて、一からパンを作るって意味で」
「パン作り、ですか? まあできん事はないでしょうが……」
 大門さん、怪訝な顔に。しかし「と言って、私はパンなぞ焼いたためしはありませんが」と言い切る頃にはこちらが何を、いや誰を連想しているか分かったらしく、表情が晴れていた。そりゃあパン作りと言えば、ですし。
「今日のお客人は曲者揃いですな」


「え、パン屋さん?」
 時間は飛んで夜七時。弾むような声を上げたのは義春くんだ。
「そうそう。お姉さんはパン屋さんの旦那さんをもらっちゃったんだよぉ」
 返したのは椛さんだ。という事でもちろん、「お姉さん」とは自分の事を指している。
「あれ、じゃあ僕ってもらわれた側になるんだ」
 孝治さんが苦笑し、周囲からくすくすと声が漏れる。今この部屋には――部屋が大きいのはこれまで通りですがやや大きめのテーブルが配置されたこの部屋には、全員が集まっていて、夕食を終えたところなのです。当然と言ってしまうとちょっとアレなんですけど、それでもやっぱり美味しい食事でした。いや、ただ美味しいの一言で片付けるのは失礼と思えてしまうと言うかなんと言うか。
 昨今、食の欧米化が進んでいると言われる日本。肉よりもむしろ魚がメインとすら言える日本食から豪快な肉料理がひしめき合う洋食へと移行していくのは、やはり若者からすれば魚よりも肉が好みだという事だろうか。――そんなエセ分析はともかくとして、だから洋食が味の面で和食に勝る、とは考え難い。洋食のほうが好きだという若者が多くても、和食は必要無いと言い切る人間は多くはないだろう。なんせ米が主食の国だ。そして今日、僕は「本物」による本物の和食を味わった。料理名すら分からないけど、例えば「山と川のどうたらこうたら」とか「なんたらかんたらと供に」みたいにやたら詩的な名前が付きそうなくらい鮮やかな見栄えの、それでいて和食らしく一皿一皿は小ぢんまりとしていて、しかもそれぞれがとんでもなく美味しいという、文句の付けようがない食事群なのでした。もちろん人数が人数なら料理の量も料理の量なので、大門さんが全部作ったと言うわけではないのだろう。料理長という肩書きがあるなら他にも料理人がいるのは明白だ。でもやっぱり大門さんが料理長である以上は、この味や見栄えや香りの根本には大門さんがいるんだろう。ああ、僕も暫らく和食中心でやってみようか――。
 は、いいとして。
 それから何がどうなってパン屋さんの話になったのかと言うと、食事終了後に部屋へ入ってきた大門さんが、テーブルの真ん中に大きなケーキをでん、と配置したのです。大門さんはこういった物を作らないらしく、義春くんが誰にともなく「買ってきてくれたんですか?」と言い放って、そこでパン屋さんです。
「和食の後となると、ちょっと食い合わせがどうかと思いますけど……」
 注文があればケーキも作るらしいパン屋さんは、早速の注文に応えてくださったのでした。その際、材料の中で唯一置いていなかったベーキングパウダーと、あとついでにデコレーション用の板チョコなんかを買いに行かされた人がいるとかいないとか。
「早く食べたい!」
 苦笑する孝治さんなどもう目に入っていないのか、年頃相応の反応を見せる義春くん。それを見て、部屋隅に佇んでいた大門さんはにんまりとしていました。その見た目は怖いですが、良かった良かった。
『もしここのオーブンでパンが焼けるとしたら坊ちゃんに何か、夕食後に出すデザートのようなものを作っては頂けんものでしょうか』
 栞さんと一緒に行った厨房の視察、その終わり際、部屋から出掛けた僕達に大門さんはそう尋ねてきた。
「和食はもちろんとして、洋食も中華もそれなりには作れる」らしい大門さんはしかし、デザートとなるとからきしなんだそうで、今日のように身内が尋ねてきた時くらい、という事で月見夫婦の部屋へ三人で相談に行ったのです。結果はまあ、今この部屋にあるケーキが全てなんですけどね。
「義春、その前にお礼ですよ」
 人目が無ければケーキに飛び付きそうな息子へ、文恵さんからたしなめるような一言。義春くんは一気に気勢を削がれ、若干しょげたようにさえなってしまう。
「ありがとうございます、月見さん」
 それでもお礼の言葉を口にするまでには気持ちを切り替え、その口調から嫌々感がまるで感じられないのには、相当にしっかりしているという印象を受けざるを得ない。栞さんに言わせれば「興奮すると変になる」僕なんかは、もしかしたらこういう点では義春くん以下なのかもしれない。
 料理長がパンを作らない家だとは言っても、パンを切る事ぐらいはあるんだろう。僕だってパンは作らないけど、パン切り包丁くらいは持っている。という事で、
「いやいや、どういたしまして。――それじゃあ早速、切り分けましょうか」
 ケーキが乗っている皿の縁に添えられていたパン切り包丁をひょいと手に取り、と言っても広いテーブルの中央にあるもんだからやや身を乗り出してだけど、とにかく孝治さんが包丁を手に取った。サマになると思ってしまうのは、この人がパン職人だと知っているからだろうか。見た目は僕とまるで同じなのに。
 こういう時によくある「どの角度で切れば上手く等分になるだろうか」なんて躊躇は一切見せず、すっすすっすと次々に切れ込みを入れていく孝治さん。やはり、プロの仕事は格好がいい。
 で、あっと言う間に小皿へ分けられたケーキですが。
「いいのですか?」
 一番初めに言ったのは、定平さんだった。「ええ」と頷くのは切り分けた孝治さん。
「さすがに全員で分けると小さ過ぎましたんで。と言って全員分もある物となると、こちらのオーブンでも無理がある大きさでしたから」
 切り分けられたケーキが手元にあるのは、四方院親子三人とあまくに荘二階メンバー四人だけ。合計は七人となります。……奇数人で等分するって、かなり高難度なような。しかも三人とかならともかく、七人って。
「まあねえ、ウェディングケーキ並になっちゃうよねえ。十人以上が満足できる量となると」
 ついつい正七角形の内角の和は、なんて考え始めてしまったところへ椛さんの苦笑。このケーキは孝治さん一人が作ったものではなく、椛さんも厨房に入って二人で作ったものなのです。いやあ夫婦での共同作業ってなんだか憧れてしまいそうな――ああいえいえ、自分に当て嵌めてとかじゃなくて。

「今回は有り合わせの材料に有り合わせの器具で作ったけど、直接うちの店に注文入れてもらえたら拘り素材と専用器具を駆使したもっと美味しいケーキをご馳走しちゃうよー」
 しっかりと味わった後になって椛さんが義春くん向けにそんな事を言い出し、孝治さんが慌てて「あの、宅配はやってませんので」とその両親向けに付け加える。月見家のパン屋さんがどこにあるのかは知らないけど、だからといってやっぱりここから近いという事でもないんだろう。
 食べる直前の憧れもあって楽しいだろうなあと思う反面、そこで出てきた「宅配」という単語に、仕事としてやってるんだから苦労もあるんだろうなあ、と何となく思ってしまったりしつつ――
「あ? 向こうにも風呂あんのか?」
 食後暫らくの間を置いて、男子部屋。旅館においてお楽しみと言えば食事とあともう一つ。それは入浴なのです。いや、その二つだけってわけじゃないでしょうけど。
「うん。栞さんとぶらぶらしてた時に見付けて、大門さん――えー、ここの料理長さんに訊いてみたら、客が入っても構わないって。どっちに行く?」
「そりゃオマエ、両方行くだろこういう時は」
「あれ。大吾なら面倒臭がってどっちか片方にしか行かなさそうだと思ってたんだけど。しかもその『どっちに行くか』まで僕に決めさせるくらい」
「……オマエ、オレの風呂の世話なんかした事あんのかよ」
 そういう話なんだろうかと突っ込みを入れかけたけど、まあ大吾の話に時々ズレが生じるのはこれまで見てきた通りなので、ここは放置。それより今は、これからどうするかだ。
「じゃあまあどっちにも行くのは決定ね。で、どっちから先に行く?」
「どっちからったってなあ……判断材料がねえし。オマエは何か聞いたか? どっちの風呂がどんなだとか」
「ううん、僕も何も知らない」
 男二人、向かい合って暫し沈黙。どっちでもいいじゃんなんて言われそうだし自分でもそう思うけど、やっぱりそれじゃあ何となくスッキリしない。はて、どうしたものか。
「うし」
 大吾が何かを思い付いたようだ。
「ジャンケン。オレが勝ったらこっちの風呂で、オマエが勝ったら向こうにあったっつう風呂な。別にオレとオマエ逆でもいいけど」
 それは結局、「どっちでもいいじゃん」とほぼ同義な決定方法だった。
 逆にはしないでおいた。

「ねえ」
「何だ?」
 僕がジャンケンに勝ち、そういうわけで栞さんとの散策中に見つけた風呂場の脱衣所。上半身まで裸になった辺りでふと頭をよぎった疑問を、大吾に向けてみる。
「こういう時、前って隠すほう?」
「いや、オレはそうでもねえな。オマエは?」
「うーん……。始めは隠すけど、暫らくしたら気にならなくなるって感じかなあ」
「何だそれ。じゃあ最初からでもいいだろ別に」
 まあそうなんだけどね、と気楽に返事をするものの、さて実際はどうしたものか。後から気にならなくなると分かっていても、今は気になるっていうのもやっぱり本当だし。
 待ってくれているという事だろうか、全裸のまま動きを止める大吾。もちろん言葉通り堂々としたものだ。何がとは言いませんが。
「……じゃあ、先行ってるぞ」
「あ、待って待って」
 二人同時に入る必要があるわけじゃないけど、そう言われるとどうしてだか急がなければならないような気がする。結局僕はいつも通り腰にタオルを巻き付け、堂々とした大吾に続いて浴場へ。
「うお、誰もいねえ」
 大吾が引き戸をガラガラ開け放つと、ひんやりした空気が脱衣所側へ流れてくる。人がいるならその空気も幾分か温まっているんだろうけど、しかし眼前に広がる浴場は、現状大吾の言う通り。
「そりゃあ僕達以外だと清さんと孝治さんしか男の客いないんだし」
「あ、そっか」
 言ってから「どうせだったらあの二人にも声掛けたらよかったかな」と思うものの、それは今更な話。
 ぱっと見銭湯を彷彿とさせる造りの浴場で僕達二人はまず、隣接したシャワーの前に陣取って、二人同時に体を洗い始める。
「でも、もしかしたらここで働いてる人達もここを使ってるのかもね。他にはもう風呂っぽい部屋はなかったし」
「そうなのか? じゃあ、そうなのかもな」
「入っちゃいけない居住区っていうのがあるらしいから、その先にまた別の風呂場があったりするのかもしれないけど」
「ふーん。……オレも行きゃあ良かったかな。こんなとこまで来て寝て過ごすってのも、今から考えるとなんかなあ」
「え、本当にずっと寝てたの? そう見せ掛けてこっそり成美さんに会ってたとかじゃなくて?」
「なんで今更こっそりしなきゃなんねえんだよアホ」
 そりゃあただ会うだけならこっそりする必要なんかないだろうけど、こっそりしたらしたで、ねえ? もうちょっとこう、何て言うか。――とは、言わなかった。いや、言わなかったと言うか自分が何を言いたいのかハッキリしなかったから言えなかったと言うか。
 ともあれ体も頭も洗い終わり、ならばあとは湯船に使ってのんびりするのみ。ちなみにどうでもいい事ですが、その頃にはもう大吾と同じく堂々としている僕なのでした。どうでもいい事ですが。
「ああ、やっぱ広い風呂って気持ちいいよなあ。なんでか分かんねえけど」
「そうだねえ」
 かぽーん。
 という音はしない。なんせ風呂場には僕達二人しかおらず、その二人が揃って湯船に浸かってますんで。「あれって洗面器とかの立てた音が響いてるって意味だよね?」なんて、真っ白い天井を見上げながら考えてみる。これもまたどうでもいい事ですが。
「成美達も風呂入ってんのかね、今頃」
「あー、どうだろうねえ。そうかもしれないねえ」
 やや熱いめな湯加減に、ついつい声が間延びしてしまう。そして間延びした声が浴場全体に響き、なんだか余計に間抜けた装いに。でも、気持ち良いのでやっぱりどうでもいい。
「……なあ孝一、オレちょっと思うんだけどよ」
 改まった風な間と声色で、大吾がこちらに呼び掛けてくる。なんでもかんでも「どうでもいい」で済ましてしまって天井を見上げたままだった首を大吾のほうへ向けると、あっちは結構真面目な顔でこちらを見ていた。いつものつんつんヘアーは水に濡れて垂れ下がり、そのせいか、真面目っぽさに拍車が掛かっている。まあ、見た目の話でしかないですが。
「オレは成美が好きで、オマエは喜坂が好きだろ?」
「そうだねえ。そうだけど今更だね。で、何?」
「いやあ、まあなんつーか、よく分かんねえなって」
 と言われても、多分僕はそれ以上によく分からないんだけど。一体何を尋ねられてるんだろう? いやそもそも、何か尋ねられてるんだろうか?
「成美の事、オマエはどう思う?」
「え? どうって……何について『どう』なの?」
 それによって答え方も随分変わってくるような。
「んー、ぶっちゃけ女として」
 なんとなく説明不足な気もするけど、いきなり好きな人がどうとか言い出したんだし、それも合わせて考えたらなんとなく問われている事の把握はできた。
「今現在栞さんと付き合ってるってのは考えない方向でいいの?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、うーん……まあ、小さかろうが大きかろうが、基本綺麗な人だよね。それに大吾に対してはちょっとアレだけど、僕からすれば良い人だし」
「オレも喜坂は良いヤツだと思う」
 初めからこちらの答えも自分が何を返すのかも決めていたかのように、さっくりと言ってくる大吾。現在の彼女を考慮しないにしても、あまり深く踏み込み過ぎないようにちょっとだけ文章を考えてから返した僕は何なのさ。良いヤツって、それだけかい。
「でも、そこが分かんねえんだよなあ」
「そこって、何が?」
「オレさ、喜坂の事を好きだとか思った事ねえんだよ。良いヤツなのは良いヤツだと思うし、正直言って見てくれも結構いいのに」
「そりゃあ、成美さんがいたからじゃないの? 二人同時に好きになるって事は――」
 すると全部言い切る前に、大吾が上から被せてきた。曰く「いや、成美が引っ越してきたのってオレより一年遅いし」との事。そう言えばそうなんだったっけ。
「アイツが引っ越してくるまでのその一年間、二階に住んでたのってオレと喜坂だけだったんだよな」
 そこまで言うと、大吾は腕を組んだ。その腕の動きに近辺のお湯が揺られ、ざぶ、と音を立てる。その短い音が余計に周囲の静けさを引き立たせ、そんな中で腕を組んでいる大吾は、どうにも普段のイメージとは違って見えた。……なんて言ったら怒られそうだけど。
「オマエはどうだ? もしオレも喜坂もウチにいなくて成美と二人だけだったら、惚れてたと思うか?」
 どうだろう。僕は割と真剣に、その状況をシミュレートしてみる。買い物の時に一緒に来るかもしれない成美さんや、もしかしたらご飯を一緒に食べる機会があったりするかもしれない成美さん。はて僕は、あの人とのご近所付き合いからその先へ踏み入ろうとするだろうか?
「……多分、ないと思う。いやもちろん、実際にどうなるかは分からないけど」
「そっか」
 どうしてそういう結論に達したかはよく分からない。さっきも言った通り僕自身、成美さんを綺麗だと思ってるし、良い人だとも思ってる。だけど、それでも。
「なんでなんだろうな?」
「なんでなんだろうね」
 投げやりだというわけではなく、本当に分からない。もちろん「相性が良かった」と言ってのける事はできるけど、「じゃあその相性って言葉は一体何を指してるの?」というふうに考えれば考えるだけ分からなくなっていくので、結局はそれから暫らく黙ったままになってしまった。
 十数秒くらいの間を置いて、先に口を開くのは大吾。
「こんな金持ちの家に泊めてもらってまで、しかも風呂に浸かりながら、何話してんだろうなオレ等」
「まったくまったく」
 話を切り出したのが大吾だという突っ込みは入れず、同意だけしておく。思うに、大吾が切り出さなかったら僕が切り出していただろう。今日、珍しく二人だけでいる時間が出来た僕と大吾は、そんな雰囲気なのです。


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