
新「日本一の悪党」の座を争う参政党の強みは元自民党の神谷宗幣代表が自民党を真似て全国支部300・党員8万人の政党に育てた組織力。国民民主党の強さは玉木雄一郎代表がバカになれる大衆性だ。決して侮れない。
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兵庫県の斎藤元彦知事が2024年11月の知事選で再選されたときに、新聞・テレビが選挙の公正にとらわれて斎藤候補や立花孝志候補陣営のデマや誹謗中傷をチェックできなかった。
その反省もあって、今回の参院選ではマスコミやさまざまな機関がファクトチェックと称して、政治家の言動の真偽を確かめる記事を出すようになりました。
いいことなんでしょう。
その中で出色だったのは、2025年7月5日付けの琉球新報の
【ファクトチェック】「総理は天皇の臣下」→誤情報 「天皇の気持ちくんで減税を」→根拠不明 天皇に政治的権能なし 沖縄選挙区・参政候補の発言
さて、続いて琉球新報による参政党に対するファクトチェックは、参政党代表の神谷宗幣氏のデマ・妄言に対するものですからこれは価値が高い。
自民党の西田昌司氏がひめゆりの塔の展示について大嘘をついたのを神谷代表だけが擁護した件を、7月8日の青森市内での街頭演説でまた正当化したという話です。
自民党安倍派の極右西田昌司参院議員がまたひめゆりの塔展示に「『日本軍は悪、米軍は善』という東京裁判史観そのものだ」「政治家としてこうした現状を問い直し修正を試みることが責務だ」と歴史修正主義を主張。
神谷代表はこの演説の中で
『沖縄戦に関しては、別に①日本軍の人たちが沖縄県民を、それこそ殺害しに行ったんだというふうな表記があるわけです。そんなことは絶対にありません。守りに行ったんです。
沖縄県民の多くが亡くなったのはアメリカの攻撃によってです、あたりまえです。
②例外的に悲しい事件があった、と。でも大筋の、本論曲げないでくださいという話をここでしたんです。
そしたら、いろんなマスコミにあげられました。特に沖縄のマスコミ2紙には1面にとりあげていただきましてですね、謝罪と訂正を求められましたが、私は「一切、謝罪も訂正もしません」と今日まで言い続けています。
なぜか?③間違っていないからです。』
と言ったというのです。
この神谷演説をファクトチェックする中で、沖縄戦での日本軍の残酷な市民虐殺が取り上げられており、二重の意味で良い記事になりました。
架空の話を持ち出し、誤りを正当化する参政党・神谷代表の発言をファクトチェックしました。
— 南 彰 MINAMI Akira / 「歩く民主主義 100の声」 (@MINAMIAKIRA55) July 10, 2025
多くの命が奪われた事実を「例外」と切り捨て、拍手喝采を浴びる先にどんな未来があるのでしょうか。
地道に「事実を大切にする人」の陣地を広げていきたいと思います。https://t.co/ZeIIs6ImBG
「不正確」という判定にとどまらない、多くの住民の命が奪われた事実を記事には盛り込みました。過去に国が犯した過ちに真摯に向き合えない政治家(+国民)は、いずれ同じことを繰り返すでしょう。戦後80年の今回の参院選は、その根本が問われていると思います。 pic.twitter.com/vEE1eEzZSX
— 南 彰 MINAMI Akira / 「歩く民主主義 100の声」 (@MINAMIAKIRA55) July 10, 2025
参政党が少数者を切り捨て、弱者を見捨てる姿勢は実に一貫している。
【#参政党に殺される】参政党が参院選の公約に「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」を明記。神谷宗幣代表は「みとられる時に蓄えもしないと大変だと啓発する思いで入れた」と大嘘【#参政党に騙されるな】
まず、琉球新報は神谷代表の
「①日本軍の人たちが沖縄県民を、それこそ殺害しに行ったんだというふうな表記があるわけです。」
という意味不明の表現について
『神谷氏は「日本軍が沖縄県民を殺害しに行ったんだという表記がある」(①)と発言したが、沖縄戦研究や沖縄メディアの報道が指摘しているのは、日本軍が「住民を守りに来た」のではなく国体護持のために住民を巻き込む戦略的持久戦を展開し、虐殺などで住民を死に追いやった事実だ。
沖縄戦研究などで「殺害しに行った」という説明は確認できない。
神谷氏の発言は、自身の「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけではない」という先の問題発言をすり替える架空の偽情報だ。』
と弾劾しています。
今回京都選挙区で立候補している西田氏もひめゆりの塔の展示に書いてもいないことを書いていたとでっち上げてそれを批判して見せたんですが、この架空の偽情報を自分でねつ造して自分で叩くというのは右翼の常とう手段なんですなあ。
戦前の亡霊、参政党の神谷宗幣代表が「高齢の女性は子どもは産めない。若い女性が子どもを産みたいという社会状況を作らないといけないのに、働け働けとやり過ぎた」とまた女性を産む機械扱いするアナクロニズム。
それにしても、
「国体護持のために住民を巻き込む戦略的持久戦を展開し、虐殺などで住民を死に追いやった事実」
は限りなく重く、学校で沖縄戦を詳しく教えてもらってこなかったわたくしたちには衝撃の事実のはずです。
国体=天皇制護持のために無駄に死ぬことになったのは沖縄の方々だけではなく、東京大空襲や広島・長崎など第二次世界大戦末期の死者はみんなそうです。
そして、琉球新報は
『続いて神谷氏は、日本軍による住民殺害を念頭に「例外的に悲しい事件があった」(②)と発言したが、日本軍にスパイ視されて殺害された事例や、軍により「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた事例は県内各地で起きている。
日本軍が米軍の捕虜になることを許さず、「沖縄語をもって談話する者は間諜(スパイ)とみなし処分す」(日本軍の命令文)と組織的に動いていたからだ。
被害の全容はわかっていないが、1988年に大田昌秀琉球大教授(当時)が公表した沖縄戦の住民被害の実態調査では、日本軍に直接殺害された住民だけで298人いた。
このほか軍の命令によって自決を強いられたり、強制的に壕を追い出されて死亡したりするなど、間接殺害も含めて計4766人が死に追いやられたとしている。
神谷氏は「例外的」と矮小(わいしょう)化しているが、不正確で誤解を招く発言だ。』
と、神谷代表発言を糾弾しています。
沖縄戦において、日本軍や住民が降伏や捕虜になることを厳しく禁じられたのは、国体すなわち「絶対的天皇制国家」を守ることが最優先とされていたためです。
そのため、沖縄の人達は捕虜になることは「恥」とされ、死を選ぶよう強いられました。
さらに沖縄戦で日本軍は、住民や兵士が米軍の捕虜となることで軍の機密が漏れることを極度に恐れていました。
特に住民が捕虜になれば、陣地や兵力配置などの情報が米軍に伝わる可能性があると考えられました。
要は自分たちが虐げてきた沖縄の人達のことを日本軍は信用せず恐れていたのです。
そのため、日本軍は沖縄の人達が米軍の捕虜になって自分たちの陣地のハイチなどを教えるのではないかと恐れて
「捕虜になれば、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」
といった米軍への恐怖心を意図的に住民に植え付け、投降を防ぐ心理的圧力を加えたのです。
日本軍が「沖縄語をもって談話する者は間諜(スパイ)とみなし処分す」とした理由は、沖縄の住民を信用せず、沖縄の人々が米軍に機密情報を漏らすことを極度に警戒していたからです。
そして沖縄語(方言)は本土出身の日本兵には理解できないため、住民同士が何を話しているのか把握できないので何を画策しているかわからないと
「沖縄語で話す者はスパイと見なす」
という命令が出したわけです。
この沖縄御禁止は明治維新後の「標準語励行」や皇民化政策の流れ、つまり沖縄独自の言語や文化を排除し、日本本土と同じ価値観・言語を強制する沖縄差別の表れでもありました。
これにより、沖縄語を話すこと自体が「非国民」や「反逆者」とみなされやすい状況が沖縄戦よりずっと前から作られていたのです。
国民民主党と参政党が今受けている理由は「社会から見捨てられている?」と危惧する人たちに、この世を「現役世代重視」「日本人ファースト」にしたら逆転してまるで勝ち組になれるかのような幻想を抱かせるからだ。
そういう現代にも通じる沖縄差別・沖縄住民蔑視の思想が、日本軍による数百人の沖縄住民殺害と、数千人の自死強要につながりました。
その日本軍=「皇軍」による残虐行為と沖縄の方々の犠牲に対して、たった一言、
「例外的な悲しい事件」
で済ませてしまう神谷代表と参政党の残虐性は、彼らの新憲法案が絶対的天皇制復活を前面に押し出して天皇教カルトが直接の理由です。
そして何より、日本人ファーストと吹聴する日本人の中に、日本軍により壕から外に追い出された沖縄の人のように、実は「日本人」に入れてもらえない人がたくさんいることを示しています。
日本人ファーストは参政党の自分ファースト。
参政党が権力を握ったら、多くの市民が「例外的」に殺されてしまうでしょう。
大日本帝国憲法よりはるかにひどい参政党の「新日本憲法(構想案)」はそもそも憲法になっていない。基本的人権に似た「権理」規定がたった4つで、国民主権原理が吹っ飛んでいて、天皇中心の神の国へ。
参考記事
村野瀬玲奈の秘書課広報室さんより
編集後記
市民に圧制を敷くために神話を根拠とする絶対的天皇制ほど好都合な「装置」はありません。
参政党憲法が天皇を神格化するとともに、基本的人権条項が一つもないのは偶然ではないんです。
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【ファクトチェック】参政・神谷氏、沖縄戦での軍の県民殺害は「例外」→不正確 直接298人、間接含め4766人に

■参政党・神谷宗幣代表の街頭演説での発言
沖縄戦に関しては、別に①日本軍の人たちが沖縄県民を、それこそ殺害しに行ったんだというふうな表記があるわけです。そんなことは絶対にありません。守りに行ったんです。沖縄県民の多くが亡くなったのはアメリカの攻撃によってです、あたりまえです。②例外的に悲しい事件があった、と。でも大筋の、本論曲げないでくださいという話をここでしたんです。そしたら、いろんなマスコミにあげられました。特に沖縄のマスコミ2紙には1面にとりあげていただきましてですね、謝罪と訂正を求められましたが、私は「一切、謝罪も訂正もしません」と今日まで言い続けています。なぜか?③間違っていないからです。
(7月8日、青森市内で)
①「日本軍が沖縄県民を殺害しに行ったという表記がある」→偽情報
②「例外的に悲しい事件があった」→不正確・ミスリーディング
③「間違っていない」→誤情報
この街頭演説は、神谷代表が5月10日、「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけではない」と史実に反する発言をした同じ場所で行われた。参政党のユーチューブで公開されており、7月9日午後5時現在で9万2千回以上再生されている。
神谷氏は「日本軍が沖縄県民を殺害しに行ったんだという表記がある」(①)と発言したが、沖縄戦研究や沖縄メディアの報道が指摘しているのは、日本軍が「住民を守りに来た」のではなく国体護持のために住民を巻き込む戦略的持久戦を展開し、虐殺などで住民を死に追いやった事実だ。沖縄戦研究などで「殺害しに行った」という説明は確認できない。神谷氏の発言は、自身の「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけではない」という先の問題発言をすり替える架空の偽情報だ。

続いて神谷氏は、日本軍による住民殺害を念頭に「例外的に悲しい事件があった」(②)と発言したが、日本軍にスパイ視されて殺害された事例や、軍により「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた事例は県内各地で起きている。日本軍が米軍の捕虜になることを許さず、「沖縄語をもって談話する者は間諜(スパイ)とみなし処分す」(日本軍の命令文)と組織的に動いていたからだ。
被害の全容はわかっていないが、1988年に大田昌秀琉球大教授(当時)が公表した沖縄戦の住民被害の実態調査では、日本軍に直接殺害された住民だけで298人いた。このほか軍の命令によって自決を強いられたり、強制的に壕を追い出されて死亡したりするなど、間接殺害も含めて計4766人が死に追いやられたとしている。
神谷氏は「例外的」と矮小(わいしょう)化しているが、不正確で誤解を招く発言だ。

神谷氏は、謝罪しない理由として「間違っていないから」(③)と発言して聴衆の喝采を浴びた。しかし5月10日の発言が間違っていることは、本紙の取材で「言葉足らずだった。日本軍による住民への加害の事実は認識している」と釈明しているように、神谷氏本人も認識している。「間違っていない」は明確に誤りだ。
(参院選ファクトチェック取材班)

80年前の沖縄戦では、さまざまなかたちで住民の命が奪われました。その中で、あまり語られてこなかったとして改めて伝え残そうという動きが出ているのが、旧日本軍による住民殺害です。遺族や地元の人たちは、なぜいま伝えたいと考えるのか、取材しました。
(NHK沖縄 市川可奈子カメラマン・堀井香菜子記者)
【制作が進むレリーフ】
沖縄本島の西およそ100キロにある久米島です。いま80年前に起きた悲劇を伝えるレリーフの制作が進められています。
久米島では旧日本軍の部隊によって、住民20人が殺害されました。有志の実行委員会では8月の「終戦の日」に追悼集会を開き、レリーフの除幕を行う予定です。
(実行委員会 神里稔会長)
「後世に、将来的に残して、永久平和を願って取り組んでいきたい」
【久米島の住民はなぜ命を奪われたのか】
なぜ住民の命が奪われたのか。地元で30年以上、平和ガイドをしている佐久田勇さんに聞きました。
山を指し示しながら「鉄塔みたいなアンテナが立ってますよね。そのあたりが旧日本軍のいた陣地ですね」と案内してくれた佐久田さん。久米島には、山に潜んでいた「鹿山隊」と呼ばれた30人ほどの部隊がいました。
6月26日、沖縄本島で組織的な戦闘が終結した後、久米島にアメリカ軍が上陸。住民の殺害は、その直後から始まりました。
(佐久田勇さん)
「米軍が上陸したその翌日、安里さんというひとが米軍の捕虜になるんですね。鹿山兵曹長に対して、降伏勧告文書を持っていけといって、ああ分かりましたと、持って行きました。その安里さんはそこでスパイ容疑で銃殺されて殺害されます。その人が最初の犠牲者です」
2日後には9人が命を奪われます。アメリカ軍に事情を聴かれた住民や家族、その地区の区長などでした。
8月になり日本が降伏したあとも悲劇は終わりませんでした。
久米島出身で、兵士だった仲村渠明勇さん。沖縄本島で捕虜になり、故郷の久米島を攻撃しないよう訴えながら、アメリカ軍とともに戻ってきました。
(佐久田勇さん)
「仲村渠明勇さんは、艦砲射撃を撃ち込んで島を傷つけるべきではないということで、だからもし仲村渠明勇さんたちが、勇気ある行動がなければ、久米島はすごい損害・被害受けていたのではなかろうかと思います」
しかし、鹿山隊は、仲村渠さんを妻や子とともに殺害。そして、その2日後にもアメリカ軍のゴミ捨て場から缶詰を拾っていた家族7人が命を奪われました。
鹿山隊は、アメリカ軍と関わりを持った住民をスパイとみなし相次いで殺めていったのです。
慰霊碑には犠牲者たちの名前が刻まれていますが、久米島では、このことについて多くは語られてきませんでした。アメリカ軍との接触を地元の人たちが鹿山隊に伝えたことが殺害につながったケースもあったからです。
佐久田さんは戦後80年となる今、歴史を正しく知ってほしいと考えています。
(佐久田勇さん)
「自分たちの役割としては、ちゃんとした歴史、それを学ぶべき、学んで人に伝えることが一番大事だと思いますね。だから決して誤った歴史を、発信しちゃだめ」
【校長だった父親は】
こうした旧日本軍による住民の殺害は、久米島以外にもさまざまな場所で起きました。80年前、本部町の国民学校で校長をしていた照屋忠英さんも、その被害者の1人です。
娘の与儀毬子さん(95)は、当時、家族とともに、本部町の祖母の家に疎開していました。家族写真で父を示しながら「家族でちゃんと写真を撮っておきましょうと撮ったんだと思うんですよ、一番の宝物」と話します。
アメリカ軍は、4月上旬になると、本部半島にも北上してきました。与儀さんは家族や親せきととともに、さらに北へ避難することになりました。そのとき、父は、山中に潜伏してゲリラ戦を展開していた旧日本軍の「宇土部隊」に協力すると言い出したといいます。
(与儀毬子さん)
「宇土部隊長は今ごろも敵が上陸して困ってると思うからって言ってね。おじは民間人が協力できるような体制ではないんだよって言って、家族と一緒がいいって言うのにね。父は自分はどうしても、宇土部隊に行ってみてくると言ってね」
宇土部隊に校舎を提供したり、天皇の写真・御真影を納める建物を建てたりしていた父は家族たちと別れます。その後、与儀さんたちを砲撃が襲いました。
気が付くと、母の妙子さんが与儀さんに覆いかぶさっていました。砲撃から守ってくれたのです。
(与儀毬子さん)
「かばおうとしたんでしょうね。とっさに私の上にこうやってお母さんがのっかって来たの。起きてよって言ったら『お母さんもう動けないよ』って小さい声で、か細い声で言ってるから『お母さん動けないよ』って言うから」
母の死に続いた悲劇が、旧日本軍の部隊による父の殺害でした。砲撃が続く中を移動していたことが不審な行動とみられたのか、スパイだとして腹を刺されたということです。
父の死によって、家族は戦後も長い間苦しめられることになりました。
(与儀毬子さん)
「もう肩身が狭いわけですよ姉兄たちも、もうほんとにもう打ちひしがれたみたいに、気力を失ってましたね。もう皮肉な事にあんなに一生懸命に、日本のために日本のことを皇民化教育とか頑張っていたお父さんが、同じ日本兵にやられたなんてもう許せないこれはってね」
スパイだとされた汚名をそそぐまで30年以上。1977年、教え子や同僚などが本部町に顕彰碑を建てました。父の照屋さんは「人格高潔で責任感が強かった」と刻まれています。
戦後長い間話してこなかったつらい記憶。与儀さんは、体験者がほとんど語れなくなった今だからこそ伝えたいと考えています。
(与儀毬子さん)
「ことし80年ていうんでね、もう勇気を奮い起こして、あの、みんな、あったことを伝えなきゃと思うからね。みんなも、あの全く、戦争知らない人たちは、話さなければ分からないでしょ。今戦争が再び起こったらねもう大変なことになると思うのよ。平和の世の中しか知らないでしょみんな、大変ですよ」
太平洋戦争末期の沖縄戦で、住民約80人が「集団自決」に追い込まれた自然 壕 「チビチリガマ」(沖縄県 読谷 村)で5日、慰霊祭が営まれた。遺族や関係者ら約100人が参列して犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。当時の状況を語れる生存者がいなくなる中、参列者の中には戦争の悲惨さや愚かさ、平和の尊さを次世代に伝えようと決意を新たにする人たちの姿があった。(島田愛美)
6割は18歳以下
米軍が沖縄本島に上陸した翌日の1945年4月2日、上陸地から約800メートルのガマには住民約140人が身を寄せていた。捕虜になることを恐れた住民は、米軍の投降の求めに応じなかった。ガマ内では、親が我が子を刃物で切りつけるなどして自決を図った。その結果、亡くなったのは約80人に上り、うち6割は18歳以下だった。
遺族や生存者はその心の傷の深さなどから口を閉ざしていたが、戦後40年近くたった頃、地元でスーパーを経営していた知花昌一さん(76)らの聞き取り調査でその詳細が明らかになった。
悲劇の象徴となる像「前に進む力に」
悲劇を伝え残さなければ――。知花さんは、平和をテーマにした芸術活動に大阪で取り組んでいた県出身の彫刻家・金城実さん(86)(読谷村)に伝承していく象徴となる作品の制作を打診した。
「看護師の経験がある姉が住民に毒を注射して死なせ、罪悪感に押し潰されそう」「生き残った後ろめたさで遺族に会うのが怖い」――。遺族や生存者は閉ざしていた心の内を金城さんに語り始めた。金城さんは「心が通っていくのを感じた」と振り返る。ある女性は、集団自決で家族全員を失った夫が米軍車両の前に座り込んで自殺を図ったり、家族の 位牌 を壊したりして苦しんでいると打ち明けた。
この夫をモデルにした像などが制作され、「世代を結ぶ平和の像」と名づけた。金城さんは「つらい記憶と向き合う苦しい作業を強いたかもしれないが、体験を口にすることは、心の負担を軽くし、前に進む力にもなるはずだと考えた。戦争の恐ろしさを伝えていかなければならない」と語る。
背景知って
一方、知花さんは、平和学習の場として知られるようになったガマで長くガイドを務めたが、4年前に引退した。現在は長男の昌太朗さん(37)が民宿経営の傍ら、父から聞き取った遺族や生存者の証言などを修学旅行生ら訪れた人たちに伝えている。
この日の慰霊祭では、祖父母らを亡くした与那覇徳市さん(82)が遺族を代表し、「平和な世の中になるよう力を貸してください」とガマ内にある祭壇に向かって語りかけた。その後、参列者は線香をあげ、読経の声が響いた。
慰霊祭後、昌太朗さんは連れてきた娘3人(4~10歳)に、ガマに残されている遺骨などを見せ、我が子にも手をかける自決があったことなどを改めて伝えた。昌太朗さんは「チビチリガマの記憶を次の世代につないでいきたい」とし、金城さんは「チビチリガマが子々孫々の代まで平和について考え、伝える場となってほしい」と願った。
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