心のふるさと「伊勢の神宮」と神道のあれこれ@れーじん

日本人の心のふるさとといわれる伊勢の神宮。
伊勢国のれーじんが伊勢の神宮や神道、それに関連することをお伝えします。

豊受大神宮(外宮)34 ~下御井神社<しものみいじんじゃ>~

2016-05-21 23:45:00 | 神宮
土宮<つちのみや>の手前左手、多賀宮<たかのみや>へ向かう石段の右手に小道があります。


つき当たりに、板垣に囲まれた場所があります。


下御井神社<しものみいじんじゃ>です。


ご祭神は井戸の神様である下御井鎮守神<しものみいのまもりのかみ>です。
この覆屋<おおいや>の下には井戸があります。

伊勢の神宮では、神様にお供えする水である御料水<ごりょうすい>は、定められた井戸から毎日汲み上げられます。
通常は、外宮域内にある上御井神社<かみのみいのじんじゃ>で御料水を汲みます。
上御井神社に不都合があった時、この下御井神社で御料水が汲まれます。
しかし、千年以上の歴史の中で、そのような事態はほとんど起こっていないようです。

このあたりは、うっそうとした木々に囲まれた静かな場所です。
夜明けの頃、空が徐々に白んでいく中、鳥のさえずりを聞きながらこの辺りを歩くのは、とても気持ちが良いものです。

豊受大神宮(外宮)33 ~風宮<かぜのみや>2~

2016-05-11 23:35:37 | 神宮
風宮のご祭神は、風の神様である級長津彦命<しなつひこのみこと>と級長戸辺命<しなとべのみこと>です。


古事記では志那都比古神<しなつひこのかみ>、志那都比売神<しなつひめのかみ>と表記されているようです。
この2柱の神様は、夫婦とも兄妹または姉弟ともいわれています。

日本史の授業で「神仏習合」という言葉を習いますが、古来神宮では仏教を忌避していたようです。
お坊さんや尼さん専用の施設「僧尼遙拝所<そうにようはいしょ>」というものを設け、神前でお経を読むのを許可していなかったのです。
西行法師が内宮を参拝した際に歌を詠みましたが、西行は内宮の神域に入らず、五十鈴川の対岸でお詣りしました。

このような仏教忌避の風潮が変化したきっかけが元寇だったようです。
文永11年(西暦1274年)1度目の元寇の際、神職さんたちが内宮・外宮両方の風社(現在の風日祈宮、風宮)で祈祷しました。
すると、紅い雲が現れて周辺の岩や大木を巻き上げ、西の彼方へ飛んでいって元の船団の上に落ちたことから、風日祈宮・風宮の2社が神風を起こしたといわれています。
このご神威を受け、宇多天皇は翌年の建治元年(西暦1275年)、宇治法楽舎<ほうがくしゃ>という仏教の祈祷所をつくりました。
これが神宮が僧侶や仏教を受け入れるきっかけとなったようです。
宇治法楽舎の跡地である某店の脇には、石碑が建てられています。
2度目の元寇では、神宮と宇治法楽舎で蒙古撃退の祈祷が行われました。

それ以降、伊勢の神宮においても神仏習合は行われていきましたが、明治5年以降、明治天皇の御治定<ごじじょう>(=天皇がお定めになること)により、平安以前の古来の形に戻されていきました。

豊受大神宮32 ~風宮<かぜのみや>1~

2016-05-01 23:50:52 | 神宮
土宮<つちのみや>の次は、風宮<かぜのみや>にお詣りしましょう。


風宮も土宮同様、豊受大神宮の別宮です。
ご祭神<さいじん>(=お祀りされている神様)は、風の神である級長津彦命<しなつひこのみこと>と級長戸辺命<しなとべのみこと>です。
農作物の生育に重要な風雨(天候)をつかさどる神様です。
なお、この2柱の神様は、皇大神宮(内宮)域内にある別宮、風日祈宮<かざひのみのみや>でもお祀りされています。
 ※ 「柱<はしら>」は神様を数えるときの単位。
   1柱<ひとはしら>、2柱<ふたはしら>……と数えます。

風宮は、昔は「風社<かぜやしろ>」とよばれた小さなお社で、社格は末社でした。
鎌倉時代の弘安<こうあん>4年(西暦1281年)、蒙古襲来(元寇)のときに祈祷を行ったところ、暴風雨が起こり元軍は撤退しました。
このことから、神風を起こし国難を救った神様として、正応<しょうおう>6年(西暦1293年)、別宮に昇格しました。
内宮の風日祈宮も同様に、「風神社」とよばれる摂社から別宮に昇格しています。
黒船来航など再び国難に襲われた幕末の文久<ぶんきゅう>3年(西暦1863年)には、朝廷の主導で英国軍艦を追い払うための攘夷祈願が15日間行われました。
 ※ 社格、別宮、摂社、末社、についてはこちら