心のふるさと「伊勢の神宮」と神道のあれこれ@れーじん

日本人の心のふるさとといわれる伊勢の神宮。
伊勢国のれーじんが伊勢の神宮や神道、それに関連することをお伝えします。

神宮の建築 ~唯一神明造<ゆいいつしんめいづくり>2~

2016-07-05 22:35:00 | 神宮
伊勢の神宮の社殿は、釘が使われていません。
全て木を組み合わせて建てられています。
釘は風雨によりさび、そこから材木が腐食したり隙間ができたりします。
前回記事でも説明したとおり、神明造の建物は元々穀物倉庫です。
建物が腐食したり機密性が損なわれると、中に保管されている米などの品質が保たれません。

社殿を真横から見てみましょう。


こちらは内宮神域にある別宮、風日祈宮<かざひのみのみや>です。
柱の上部(〇で囲んだ部分)に隙間があります。
柱は壁板を組み立てるためのものであり、屋根を支えていません。
屋根を支えているのは壁板です。
経年により壁板が乾燥して縮んでも、重たい屋根が上から押さえつけることにより、気密性が保たれるのです。


屋根は時の経過とともに少しずつ下に沈んでいきます。
こちら↓は、風日祈宮の遷御<せんぎょ>直後の建物の様子です。


右が20年前に建てられた古殿、左が新宮です。
屋根の高さが違います。

最後には柱の上部の隙間がなくなります。
隙間がなくなると屋根の重みが柱にかかり、壁板が押さえつけられなくなることから、気密性が保たれません。
そうなると、建物としての体を成さなくなります。
柱の上部の隙間がなくなったら、社殿の建て替えの時期なのです。

柱の上部の隙間は、20年でなくなるように造られています。
伊勢の神宮の社殿は、20年に一度、新しく建て替えられるからです。

神宮の建築 ~唯一神明造<ゆいいつしんめいづくり>1~

2016-06-11 23:50:00 | 神宮
豊受大神宮(外宮)宮域内にある5つのお宮全てを紹介しました。
今回は神宮の社殿の建築様式について説明します。

神社の社殿の建築様式は、細かいところまで見ると違いはたくさんありますが、大きく分けて2種類です。

1 神明造<しんめいづくり>
  伊勢の神宮に代表される建築様式
  高床式の穀物倉庫の形から発達したもの
  
2 大社造<たいしゃづくり>
  出雲大社に代表される建築様式
  古代の住居の形から発達したもの

この2つの様式から派生して、様々な様式ができました。
なかでも、伊勢の神宮のものは、「唯一神明造<ゆいいつしんめいづくり>」と呼ばれています。

神明造の社殿の特徴は、次のとおりです。
1 屋根が「切妻造<きりづまづくり>」
  屋根が、本を開いてふせたように両側に流れている

2 入口が平<ひら>側にある「平入<ひらいり>」
  平側とは、屋根の棟と平行な面の事

3 屋根の上には鰹木<かつおぎ>、千木<ちぎ>がある


上記の特徴に加え、伊勢の神宮の建築様式である唯一神明造の特徴が4つあります。
1 材木は国産ヒノキの素木<しらき>

2 茅葺き屋根
  茅は全て神宮が専用の土地で育て、調製する
  神宮で用いられる茅はススキ

3 掘立柱<ほったてばしら>
  柱は土を深く掘り、そこに立てる
  柱の下に礎石<そせき>(=柱を支える石)は置かない
  柱は、材木の約1/3の長さを地中に埋めている

4 棟持柱<むなもちばしら>
  部屋の外に、棟を支える棟持柱がある

社殿を正面から見ると、下図のような形です。

神宮のほとんどの社殿は板垣などで囲われており、建物を間近に見ることはできません。
しかし、皇大神宮(内宮)宮域内の御稲御倉<みしねのみくら>、外幣殿<げへいでん>は板垣などの囲いがなく、建物をじっくり見ることができます。


棟持柱は、社殿のなかで一番太くて長い材木です。
部屋の外に立てられた柱は、とても珍しいものだと思います。
この棟持柱は、内側に2.8度傾いています。
また、扉はヒノキの一枚板で作られた、とても立派なものです。

豊受大神宮(外宮)34 ~下御井神社<しものみいじんじゃ>~

2016-05-21 23:45:00 | 神宮
土宮<つちのみや>の手前左手、多賀宮<たかのみや>へ向かう石段の右手に小道があります。


つき当たりに、板垣に囲まれた場所があります。


下御井神社<しものみいじんじゃ>です。


ご祭神は井戸の神様である下御井鎮守神<しものみいのまもりのかみ>です。
この覆屋<おおいや>の下には井戸があります。

伊勢の神宮では、神様にお供えする水である御料水<ごりょうすい>は、定められた井戸から毎日汲み上げられます。
通常は、外宮域内にある上御井神社<かみのみいのじんじゃ>で御料水を汲みます。
上御井神社に不都合があった時、この下御井神社で御料水が汲まれます。
しかし、千年以上の歴史の中で、そのような事態はほとんど起こっていないようです。

このあたりは、うっそうとした木々に囲まれた静かな場所です。
夜明けの頃、空が徐々に白んでいく中、鳥のさえずりを聞きながらこの辺りを歩くのは、とても気持ちが良いものです。

豊受大神宮(外宮)33 ~風宮<かぜのみや>2~

2016-05-11 23:35:37 | 神宮
風宮のご祭神は、風の神様である級長津彦命<しなつひこのみこと>と級長戸辺命<しなとべのみこと>です。


古事記では志那都比古神<しなつひこのかみ>、志那都比売神<しなつひめのかみ>と表記されているようです。
この2柱の神様は、夫婦とも兄妹または姉弟ともいわれています。

日本史の授業で「神仏習合」という言葉を習いますが、古来神宮では仏教を忌避していたようです。
お坊さんや尼さん専用の施設「僧尼遙拝所<そうにようはいしょ>」というものを設け、神前でお経を読むのを許可していなかったのです。
西行法師が内宮を参拝した際に歌を詠みましたが、西行は内宮の神域に入らず、五十鈴川の対岸でお詣りしました。

このような仏教忌避の風潮が変化したきっかけが元寇だったようです。
文永11年(西暦1274年)1度目の元寇の際、神職さんたちが内宮・外宮両方の風社(現在の風日祈宮、風宮)で祈祷しました。
すると、紅い雲が現れて周辺の岩や大木を巻き上げ、西の彼方へ飛んでいって元の船団の上に落ちたことから、風日祈宮・風宮の2社が神風を起こしたといわれています。
このご神威を受け、宇多天皇は翌年の建治元年(西暦1275年)、宇治法楽舎<ほうがくしゃ>という仏教の祈祷所をつくりました。
これが神宮が僧侶や仏教を受け入れるきっかけとなったようです。
宇治法楽舎の跡地である某店の脇には、石碑が建てられています。
2度目の元寇では、神宮と宇治法楽舎で蒙古撃退の祈祷が行われました。

それ以降、伊勢の神宮においても神仏習合は行われていきましたが、明治5年以降、明治天皇の御治定<ごじじょう>(=天皇がお定めになること)により、平安以前の古来の形に戻されていきました。

豊受大神宮32 ~風宮<かぜのみや>1~

2016-05-01 23:50:52 | 神宮
土宮<つちのみや>の次は、風宮<かぜのみや>にお詣りしましょう。


風宮も土宮同様、豊受大神宮の別宮です。
ご祭神<さいじん>(=お祀りされている神様)は、風の神である級長津彦命<しなつひこのみこと>と級長戸辺命<しなとべのみこと>です。
農作物の生育に重要な風雨(天候)をつかさどる神様です。
なお、この2柱の神様は、皇大神宮(内宮)域内にある別宮、風日祈宮<かざひのみのみや>でもお祀りされています。
 ※ 「柱<はしら>」は神様を数えるときの単位。
   1柱<ひとはしら>、2柱<ふたはしら>……と数えます。

風宮は、昔は「風社<かぜやしろ>」とよばれた小さなお社で、社格は末社でした。
鎌倉時代の弘安<こうあん>4年(西暦1281年)、蒙古襲来(元寇)のときに祈祷を行ったところ、暴風雨が起こり元軍は撤退しました。
このことから、神風を起こし国難を救った神様として、正応<しょうおう>6年(西暦1293年)、別宮に昇格しました。
内宮の風日祈宮も同様に、「風神社」とよばれる摂社から別宮に昇格しています。
黒船来航など再び国難に襲われた幕末の文久<ぶんきゅう>3年(西暦1863年)には、朝廷の主導で英国軍艦を追い払うための攘夷祈願が15日間行われました。
 ※ 社格、別宮、摂社、末社、についてはこちら