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三遊亭円楽の噺、「大師の杵」

2015年02月11日 | 落語・民話

三遊亭円楽の噺、「大師の杵」によると。
 

 空海上人、空白の約7年間と言われた23~29歳のこの時期空海の足跡が解っていない。しかし、落語家だけがその事実を知っていた。

 空海上人23歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教した。美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていった。宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人であった。最近、そのおもよさんが痩せてきた。婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けた。ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまった。この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけた。

 おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻であった。布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思った。一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解らなかった。しかし惚れた弱み、上人を追いかけた。

 六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞いた。今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ない。悲観のあまり多摩川に身を投げてしまった。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面した。その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔った。近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になった。
 伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う。

 円楽がその真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。

 

 

 

  

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