goo blog サービス終了のお知らせ 

映画メモbox

ビデオで観た映画のメモ。直感的感想メモです。

ビフォア・サンセット

2005-07-21 10:33:10 | いろんな「愛」のかたち
BEFORE SUNSET 2004年 アメリカ
監督 リチャード・リンレイター 原案 キム・クリザン 
脚本 リチャード・リンレイター/イーサン・ホーク
ジュリー・デルビー
制作 アン・ウォーカー=マクベイ
撮影 リー・ダニエル 編集サンドラ・エイデアー
出演 イーサン・ホーク/ジュリー・デルビー


『恋人たちの距離』から9年が経って
実際にも同じくらい年月が流れて
続編が作られるなんてすごくいいと思う。

あのとき2人は出会えなかったんだな~。
(再会の約束のこと。)
ジェシー(イーサン)もセリーヌ(ジュリー)も
9年分歳をとって大人になっていた。
2人が9年前に出会ったときと
同じ部分と違う部分を
お互いに持ち合わせている。


    


最初は
「いま何をしてるの?」というような
ありきたりな会話をしていたけど
「もし明日死んでしまうとしたら
私たちはどんな話をするんだろう?」
とセリーヌが言って、
2人は本当の会話をし始める。
それはジェシーが言うところの
“今を生きる”ということだと思った。
9年前に再会の約束が果たせなくて
そのせいで2人の人生が
狂ってしまっているのだとしたら
今、覚醒していなければ
2度と本当の人生を取り戻すことは
できないから。

でも、ジェシーは結婚しているし、子供もいる。
セリーヌにも恋人がいる。
住んでいるところも違う国。
だから2人の距離を縮めていいのかどうかも
お互いにわからないまま
もどかしいまま相手を求めてる。
だけど、お互いに2回しか会ったことがない相手だし。
というようないろんな感情を散らばせながらも
何かを探すみたいにして
2人が一緒にいていい確信を
お互いの中や自分の中に
必死に見つけあおうとしているみたい。
たった85分間の時間の中で。


    


車の中での会話は、なんだか俗っぽい。
イーサンが結婚生活を守りながらも
セリーヌと不倫をしたいみたいにも
感じられないこともないし、
セリーヌの恋愛話も
ふつうの映画に出てくる女みたいだ。
でも、2人は9年間
本当にこんなふうに生きていたのかもしれない。
俗っぽく。
2人が一緒のときだけスペシャルになれるのかも。
“今を生きる”ことができるのかもしれない。


    


映画はすごくいいところで終わる。
名シーンだと思う。
映画の中から何かをフワッと
投げかけられたみたいにやさしい感じ。
この後2人がどうするのかは知らないけど、
でも毎日を過ごしていくんだな~
見ている私と同じく、
と思わせてくれるところがさびしくなくて
好きだった。


今回は、どんなアクシデントがあったとしても
2人は一緒になるだろうなと思う。
そのための9年間があったのだ。
この離ればなれの9年間は
絶対に必要なものだったと思う。
2人がずっと一緒にいるために。



    

『恋人までの距離』のときは、2人が一緒にいられる時間が長かった。
(と言っても14時間くらいだけど)
でも今回はたった85分間!!
その中で2人が9年間の距離をどう縮めるのか、
それ以前に、距離を縮めるつもりはあるのか
2人の行き先にすごくハラハラしました。

セリーヌが、せっかくジェシーのことを歌にして
ギターで弾き語りをしてくれたのに
彼は「もう1曲!」とかヤボなことを言っちゃう。
そういうとこは変わってなくて、ナイーブなとこもそのまま。
セリーヌがこんなにジェシーのことを
愛していたなんて知らなかったけど
でもきっとこんなところもぜんぶ含めて
好きなんだろうなと思います。

ふつう、映画からは得ることができないような、
すごいマジックをリンクレイター監督は与えてくれました。
ほんとうに、スピリチュアルで素晴らしい監督だと思います。




befounddeadさんの『ビフォア・サンセット』の記事
ビフォア・サンセット@映画生活





ジャスト・マリッジ

2005-06-25 08:11:51 | いろんな「愛」のかたち

JUST MARRIED  
2003年 アメリカ/ドイツ
監督 ショーン・レヴィ 制作ロバート・シモンズ 他
脚本 サム・ハーパー 撮影 ジョナサン・ブラウン
編集 スコット・ヒル/ドン・ジマーマン
出演 アシュトン・カッチャー/ブリタニー・マーフィ
クリスチャン・ケイン/デヴィッド・モスコー他




結婚てなんだろう?
相手のバックボーンごと受け入れること?
お互いの家族や
いままでの生い立ちが
相手の背後から、なぜか一気に
見えてくることかな。
結婚したことがないからよくわからないけど。

2人の価値観が
ズレていると感じたとき、
孤独なのは
相手の持つその価値観が
バックボーンによって支えられているように
感じられるからだ。
今いちばん身近にいるのは自分なのに。
いくら大声で言い合いをしても
その価値観はピクリとも動かないように
感じられるから。



それを乗り越えて長くつき合うためには
古いバックボーンから
自分の心と身体を
切り離すことが必要だと思う。
そして、2人だけの新しいバックボーンを
つくっていかなくちゃダメだ。
新しいバックボーンが強くなればなるほど
2人は親密になることができるはず。
それは成長すること
どんどん2人が
新しく変化していくことだと思う。
そうすればお互いの存在を
いつまでも新鮮に感じることが
できるんじゃないだろうか…

などと、この映画をみて考えた。




『12人のパパ』のときもそうだったけど、
ショーン・レヴィ監督は、コメディなのに
考えさせてくれる作品を撮る。
ショーン・レヴィ監督の人柄が感じられて
暖かい気持ちになる映画だった。
登場人物がきちんと描かれているところも好き。



 
関係ないけど、『12人のパパ』のときのアシュトン・カッチャー、
最高でした。

ジャスト・マリッジ@映画生活




マイ・ハート,マイ・ラブ

2005-06-15 07:17:10 | いろんな「愛」のかたち
PLAYING MY HEART アメリカ 1999年
監督・脚本 ウィラード・キャロル
撮影 ヴィルモス・ジグモンド 編集 ピエトロ・スカラ
出演 アンジェリーナ・ジョリー/ライアン・フィリップ
ショーン・コネリー/ジーナ・ローランズ
デニス・クエイド/エレン・バーンスティン
マデリーン・ストウ/ジリアン・アンダーソン
アンソニー・エドワーズ/ジョン・スチュワート
ジェイ・モーア 他



なんてすてきな作品なんだろう!

    

いつでもそこから(関係)逃げ出せることは
わかっていつつも
でも逃げ出したくはなくて
その場所にとどまって迷っている人たち。
逃げ出したいのは
逃げ出したくないのは
“愛の力”の強さを知っているから。


みんなが素直に自分の光を
一生懸命求めている。
それが景色や空気にまでにじんでいて
すべてのカットが
登場人物の感情のマクに覆われて
フルフル揺れてる。
ゼリーみたいに密度が濃い。
この、空気がトロリとたれ落ちそうな
みんなの切実さを秘めた映像が
すごくよかった。
静かなのに激しいかんじ。

    

この作品の中にはたくさん
死の存在が漂っている。
なのにちっともそれが怖く感じないのは
それよりももっと愛の力が大きいからだ。
“恐れることより愛しなさい”
とこの作品は言っているのだと思う。

恐れるなって言っているのは、
死の存在についてだけではなくて
愛の存在についても同ように。



    

ゴージャスなキャストです。

私はこデニス・クエイド(が演じる役)のところのエピソードがすきでした。
デニス・クエイドってアメフトのキャプテンみたいなルックスだけど
最近、とてもすきになりました。
デリケートな役をやっている時、その違和感に引き込まれるから。

「恋のすばらしいところは、相手の目で自分を見るようになること。
つまり恋をするっていうのは自分を愛するのと同じことなのだ」
というようなことをショーンコネリー(が演じる役)が
言っていたのが印象的でした。
自分を愛したいから恋をしたいって。



やかまし村の子どもたち

2005-06-06 07:15:12 | いろんな「愛」のかたち


Alla vi bam I Bullerbyn 1986年 スウェーデン
監督 ラッセ・ハルストレム
原作・脚本 アストリッド・リンドグレーン
制作 ヴァルマル・ベルイェンダール
出演 リンダ・ベリーストレム/アンナ・サリーン
エレン・デメリュース/ハーランド・レンブルー
ヘンリク・ラーション/クリストピン・ディクソン・ヴェンデニウス


数年前に見たときは、あ~おもしろいなあ
と思っただけだったけど
今回はこの作品の中の豊かな自然に
あこがれを持って自分が見ていることに気づいた。
何もないけどすべてがあるような暮らし。
何もないからこそ
あらゆることが自然に創作されて
大切にされているんだなと思った。





子供たちの遊びもイマジネーション豊か。
自然と戯れて一体化して遊んでいる。
でも、私が小さいときもそうだった。
私は小学生の頃
すごい山の中に住んでいたので
台所の窓からリスが木にかけ登る姿も何度も見たし、
寒い冬の朝はお母さんと
カタ雪を渡って猫柳をとりに行ったり
一面の草原の中で花の冠を作ったり、昼寝をしたり、
王女さまになったつもりで自転車(馬に乗っているつもり)
に乗って砂利道で転んだりしていた。


でもこれから先は、たぶん一生
どろんこの中で裸足になって遊ぶことは
ないような気がする。
自然を自然と意識しないで
その中で戯れることはないだろう。
これからはちょっとでも自然を感じることがあったなら
「気持ちいいね」だとか
「こういうところにたまにくると安らぐね」
とか言って暮らすことになりそう。


これは私だけじゃなくて、
私がいつか子供を産んだとしたら
その子は日常的に
自然と一体化して遊ぶことができないのだ。
(田舎に引っ越さないかぎり。)
それはすごくさびしいことのような気がする。





前に見たときは、いつでもこんな自然の中に
また戻ることができるような気がしていた。
そして、そんなこと望んでもいなかったのだと思う。
今も実際そんなところで暮らすのはイヤだけど
自分が自然から遠く離れてしまったことに
気づき始めたのかも。
だから憧れるようになったのかもしれない。




 
ラッセ・ハルストレム監督は、ゆったりと情感あふれる映像の中にも
激しさを秘めて作り上げるところがすごいと思います。




50回目のファースト・キス

2005-05-18 08:37:38 | いろんな「愛」のかたち
50First Dates 
2004年 アメリカ
監督 ピーター・シーガル 脚本 ジョージ・ウィング
撮影 ジャック・N・グリーン 編集 ジェフ・ガーソン
出演 アダム・サンドラー/ドリュー・バリモア
ロブ・シュナイダー/ショーン・アスティン/ルシア・ストラス/
ブレイク・クラーク/ダン・エクロイド/エイミー・ヒル 他


試写会帰りに。のbakabrosちゃんに
『50回目のファースト・キス』の試写会に連れて行ってもらいました。Thanks! bakabrosちゃん!


大好きなアダム・サンドラーの作品を
劇場で観るのはなんと初めて。
ビデオではいっぱい観ている。
いつも、なんでこんなにスベったギャグをいっぱいやるのかな~と
心配になるほどのギャグを連発する中、
1発、本命の死ぬほど笑えるギャグがある。
それですべてが許せちゃう。
そしてその本命の1回のギャグが観たくて観ていくうちに
アダム・サンドラーの作品が大好きになってしまった。


今回試写会場で、初めてたくさんの人と一緒に
アダムの映画を観てわかったことがある。
スベったギャグ(とふだん私が思っていたギャグ)で
けっこうみんなが笑っていたのだ。
これって映画館で観ているたくさんの人たちの心を
リラックスさせて1つにするために必要なものだったんだ!
そして、これぞアダムの本命!と思われるギャグは
あまりにも突拍子がなさすぎて会場は静まり返っていた。
もしかして私が今まで1人で観ていて
笑っていた箇所はまちがっていたのかもしれない…。





(ラストについて触れているので、これから観る予定のある方はご注意


今回のはアダム・サンドラー作品にしては
かなりまじめ(マトモ)なストーリー。


交通事故で、1日だけしか
記憶がもたなくなってしまったルーシー(ドリュー・バリモア)と、
ヘンリー(アダム・サンドラー)が毎日恋をし続ける話だ。
終わってから話をしていて、bakabrosちゃんが
「幸せなんだけど、観ている方としては悲しい」
というようなことを言っていて
そう!そう!そう!と思った。
そう、幸せなんだけど、悲しい。





何が悲しいんだろう?
毎日新鮮に恋をすることが幸せで、
1日の終わりには2人のその恋が
完璧に消えてしまうことが悲しいのかな。

彼女が毎朝起きるたび、
自分が事故にあったことを知らされて
ショックを受けるところも悲しい。

最後まで彼女の短期記憶喪失障害が治らずに、
でもハッピーエンドなところ。
これもまた幸せで、悲しい。

ヘンリーの記憶も彼女と同じように
1日分しかもたなかったら
どうなるんだろう?
こう考えると、あんまり悲しくないのはなぜなんだろう?


ヘンリーだけが2人の思い出の記憶を持っていて、
それなのに彼女には、それがないことが
観ていて悲しいのかもしれない。

人の記憶って、その場にその人を
つなぎとめておくためにあるのかな、などと思った。




アダム・サンドラーなのに泣ける映画でした。
この悲しさはなんて説明したらいいんだろう?!
「明日はユリの話からスタートしてね」って、ルーシーが
自分の心をつかみやすいようにヒントをくれたりするところとか、
ラスト、ルーシーが朝、カーテンを開けたら
なぜか一面の海で「うわああ!」って驚くところとか。



試写会に連れて行ってくれたbakabrosちゃんの「50回目のファースト・キス」の記事。





アダム・サンドラー主演の映画について前に書いた感想
         ↓
N.Y.式ハッピー・セラピー
リトル★ニッキー



エターナル・サンシャイン

2005-03-09 05:02:02 | いろんな「愛」のかたち
Eternal Sunshine of the Spotless Mind
2004年 アメリカ
監督 ミシェル・ゴンドリー 脚本 チャーリー・カウフマン
原案 ミシェル・ゴンドリー/チャーリー・カウフマン/ピエール・ビスマス
撮影 エレン・クラス 美術 ダン・リー
編集 ヴァルディス・オスカードゥティル
出演 ジム・キャリー/ケイト・ウィンスレット
キルスティン・ダンスト/イライジャ・ウッド
マーク・ラファオ/トム・ウィルキンソン

 (ストーリーの行方が書いてあるので、これから観る予定のある方はご注意!!)


『試写会帰りに。』の bakabrosちゃんが
『エターナル・サンシャイン』の試写に連れて行ってくれました。
映画館で映画を観るのは久しぶり。
最後に映画を観たときも、bakabrosちゃんが
『BIG FISH』の試写会に連れて行ってくれたのだった。




試写会場から出て、カレーを食べながら
bakabrosちゃんが「よかった?」と聞いてきた。

私は『エターナル・サンシャイン』のことを思い出そうとしたけど
それは記憶の奥の奥に隠れてしまったように
思いだそうとすればするほど
手からすり抜けていくみたい。
……この感覚は、朝起きて
さっきまで見ていた夢を
思いだそうとしているときに似てる!

私にとって『エターナル・サンシャイン』は
眠っているときに見る夢みたいな映画だったのだ。
ファンタジックなパラレルワールドの中に
痛いくらいリアルな感情があって。



そして観ていたときに感じていたのは
もしかしたらその逆もアリで、
現実は夢みたいに
ファンタジックなものになり得るだろう
ってこと。

恋人と、行き止まりと思えるところまで
行き着いてしまって、
相手の記憶を消してしまっても
また同じひとに恋をしてしまう。
これって、ほんとにそうだと思う。
映画の中の人物だけじゃなくて、
きっとお互いが本質の部分で恋をしていたら、
現実でもそうなってしまうにちがいない。

そしてまたウンザリなケンカを
くりかえすのかもしれないけど
記憶を消してしまっても
また同じひとを選ぶのだから
2人で変化しあって、
いろんな局面を乗り越えていけば
すごいファンタジックな世界に入っていけるんだ
と、自分が信じてることに気づいた。





隅々にまで「恋」の感情が宿っている映像だった。
それはあやうく波打っていて
でもやさしくて
悪いところへは連れて行かれないことを
知りながら観てた気がする。





チャーリー・カウフマン氏は、ほんとうに夢からアイディアを得ているのかも?
…なんて思いました。いままでの作品群も、思い出すと…。


いっしょに観たbakabrosちゃんの『エターナル・サンシャイン』の記事


エターナル・サンシャイン@映画生活


ロスト・イン・トランスレーション

2005-02-03 23:16:15 | いろんな「愛」のかたち
Lost In Translation
2003年 アメリカ
監督・脚本 ソフィア・コッポラ (アカデミー賞オリジナル脚本賞受賞)
製作 ソフィア・コッポラ/ロス・カッツ
製作総指揮 フランシス・フォード・コッポラ/フレッド・ルース
撮影 ランス・アコード  衣装デザイン ナンシー・スタイナー
編集 サラ・フラック  美術 K.K.バーレット/アン・ロス
音楽プロデューサー ブライアン・レイツェル
出演 ビル・マーレイ/スカーレット・ヨハンソン
ジョヴァンニ・リビシ/アンナ・ファリス/林文浩 他



現実から落っこちそうになっている2人が
出会った話だった。
みのむしみたいに現実の端に
ぶら下がっている2人が出会うことによって
彼らのまわりには暖かいマユがつくられたみたい。
そのマユはホテル(パークハイアット東京)だった。
私の持つ「ホテル」のイメージは
"一時だけ守ってくれる場所”だから
ぴったりだと思った。

これが公開されたとき、
この映画は日本をバカにしてる
というような記事を読んだことがあったけど、
この主人公2人にとっては
日本や日本人だけじゃなくて
2人以外、他のすべてのものが
異物に見えていたんだと思う。
それくらい現実から落っこちそうになっていた
2人の話だと思う。

「恋」のようで「恋」ではなく、
でも現実世界にはよくある「恋」という形もちょっと借りて
2人は暖かいマユをつくってたましいを暖め合った、
という感じがした。



フランス人が監督をした「TOKYO EYES」を観たときは
東京はこんなふうに撮ることができるんだなあと
いつも目にしていたものがすごく新鮮に映った。

今回のこの作品は、
いかにも「日本」ぽいものが映されているけど
それは、スカーレット・ヨハンソンの役から見える「日本」であって、
ソフィア・コッポラ監督はじつは日本人のように
日本が見えている人なんじゃないかと思った。
出てくる役者が外国人だから
日本の背景に違和感を覚えるけど
それを撮っている元の目は、私たち日本人と同じように
日本を見ているような気がした。
見慣れているか見慣れていないかだけの違いで。




ソフィア・コッポラ監督はいつも女の子の気持ちをつかむ題材を
あつかっていて、そこがほんとにすごいと思います。

ステキなチャーリーの役は林文浩さんでした!



天つばCINE TALKさんのロスト・イン・トランスレーションの記事
ロスト・イン・トランスレーション@映画生活






女はみんな生きている

2005-01-23 22:39:41 | いろんな「愛」のかたち
Chaos
2000年 フランス
監督・脚本 コリーヌ・セロー
撮影 ジャン=フランソワ・ロパン(ベティ・ブルー)(今回はデジタル撮影)
音楽 リュドヴィク・ナヴァール 編集 カトリーヌ・ルノー
カトリーヌ・フロ/ラシダ・ブラクニ/ヴァンサン・ランドン
リーヌ・ルノー/オレリアン・ウイイク 他




愛情っていうのは、
そのひとを知ろうとする気持ちから
派生していくものなのかもしれない。
そしてそういう気持ちを持って、初めて
「生きてる」と言えるのかもしれない、
とこの映画をみて思った。

こんなことを描こうとして
描けてしまうフランス映画って
ほんとにすごい!




フランス映画っておもしろいなと
いつも思うのは人物がかわいいところ。
プライド(どうでもいい部分の)を
低く設定されてるひとたちが出てくるところ。

息子のつき合っていた女の子たち2人が(二股かけてた)
それぞれの新しい恋人と
自分のアパートに住み着いちゃっても
彼もそこに混じって眠っちゃうような。
ふつうは追い出すと思うけど。
とりあえず、なんでも受け入れちゃうところが
おかしくてかわいい。

そして、本当に大切な意味でのプライドは
高く高くあって、みんながそれを大切にしようとしてて
でもどうしたらいいのかもわからなくて
混沌とした世界が生まれているような気がする。
好き勝手にもがいているその空間は
みている私にとってすごく居心地がいい。


自分の親に対して無関心で
居留守を使う中年の息子夫婦。
そのまたティーン・エイジャーの息子も同じく。
親に無関心で居留守をつかったり、
みんなみんな忙しく
自分中心で生きている。

そんな彼らの日常をグネグネねじれさせて
目を覚まさせ、しかも売春組織のことや
大金がからむ事件まであって…などの
ドラマのすべてが2時間弱におさまっているなんて!
6時間の映画をみたような充実感だった。






あんまりにもすばらしい映画って
感想があんまり出ません。

始まってすぐに事件が起きるので
(ほんとうにビックリするほどすぐ。タイトルより前!)
フランス映画ってかったるいと思うひとでも
入りやすいと思います。
コリーヌ・セロー監督の『赤ちゃんに乾杯!』は
1985年にセザール賞最優秀作品賞・脚本賞を受賞し、
アメリカでリメイク版『スリー・メン&ベイビー』(87)
が作られたのだそうです。
この監督のほかの映画もみたいと思いました。

(あと、どうでもいいことですが、
主人公の家に飾ってあった「福」の書が
さかさまになっていたのが気になりました。)



女はみんな生きている@映画生活








ギャングスター・ナンバー1

2004-12-06 20:58:21 | いろんな「愛」のかたち

GANGSTAR NUMBER1

監督ポール・マクギガン 撮影 ピーター・ソーヴァ
製作ノーマ・ヘイマン/ジョナサン・カヴェンディッシュ
音楽 サイモン・フィッシャー・ターナー/ジョン・ダンクワース
プロダクションデザイン リチャード・ブリッジランド
ヘアメイクデザイン ジェニー・シャーコア 
コスチュームデザイン ジェイニー・テミメ
出演 ポール・ベタニー/マルコム・マクダウェル
デヴィッド・シューリス/サフロン・バロウズ

(映画のストーリーについて書いてあるので、これから観る予定の方はご注意!!)
 


途中で、思ってた以上の主人公(ポール・ベタニーの役)
のサイコぶりに気づいてから
私は彼のキャラクターが大好きになった。
パトリシア・ハイスミスやジム・トンプソンの作品に
出てくるキャラクターみたいに
自分を追いつめることになったとしても
本能を隠すことのできない
独自の美意識で突っ走るひとたち。
主人公が殺人をするのをみると
なぜだかスッキリする。
おもいきり残酷でどこかクリエイティブで
彼が殺人をするたびに笑った。
この映画のそういう平気な過剰さが気に入った。

だけど、
この映画はそういうことじゃないみたいだった。



憧れていたギャングスターのフレディが刑務所に入ってから30年、
主人公ははギャングスターの地位を手に入れた。
だけど、スーツの着こなしも昔みたいにはかっこよくない。
おしゃれの先生がいなくなったから。

刑務所から出てきたフレディは昔のとおりダンディだった。
でも、もう彼はギャングスターでもなく、
ギャングスターナンバー1の地位にも興味がない。
「ギャングスター・フレディ」の存在がなくなったと知った時、
主人公はすごくむなしかったと思う。
フレディが持っていたすべてのものを手に入れた自分に
今度はあこがれてほしかったのに。

主人公はフレディになりたかったんじゃなくて、
ギャングスターナンバー1になりたかったわけでもなくて
フレディを愛していたんだと思う。
男が女を愛するみたいに。
女が男を愛するみたいに。
自分でも気づかずに。
殺人も含め、彼がやってきたことはすべて
フレディへの本気の愛のかたちだったんだと思う。




『時計じかけのオレンジ』のマルコム・マクダウェルへの
オマージュみたいな表情をポール・ベタニーがしてた。





これを見ている真夜中、外は大嵐だった。
そんな中ぬくぬく羊の毛の上に転がって
ギャングスター?1をみるなんて
最高にしあわせだ! なんとなくぴったり。

イギリスの俳優は個性があっておもしろいなと思う。
個性があるというより、個性が許されているという感じ。

ポール・ベタニーは服を脱ぐとプヨプヨしてる。
アメリカの俳優みたいに筋肉ムキムキじゃなくて。
そういう怠け者のところが親近感を抱かせてくれていい。
服を着たときのスレンダーなルックスは
奇跡的で一時的なもので、だからまぶしくて
でもそれを目に焼きつけておかなくちゃいけない
っていう感じ。


男のひとがみたら、おしゃれ心に火がつくかも?
カフスとか、時計とかスーツとか買いに行きたくなりそう。

『ギャングスター・ナンバー1』について
     ↓
NO MOVIE, NO LIFE…大好きなkomexさんのBLOG
ギャングスター・ナンバー1@映画生活




橋の上の娘

2004-10-31 10:50:37 | いろんな「愛」のかたち
LA FILLE SUR LE PONT
1999年 フランス
監督 パトリス・ルコント
脚本 セルジュ・フリードマン
撮影 ジャン=マリー・ドルージュ
編集 ジョエル・アッシュ
出演 ダニエル・オートゥイユ/
   ヴァネッサ・パラディ 他



ナイフ投げ師の男は女を橋の上で拾った。
女は自殺をしようとしていたところだった。

「殺してみたい(愛しいから)」
「殺したくない(愛しいから」
このふたつの感情が同じくらいに混ざり合ったとき、
「ナイフ投げ」の技は成功するようだ。
男は女に的(マト)としての才能があるというが、
それは女に対してふたつの感情を
同時に抱ける可能性を感じたっていうことだと思う。


男がナイフを投げるシーンで
殺してみたい
殺したくない
そして
絶対に殺さない
という意志が伝わってくる。
そのナイフが身体のすぐそばで突き刺さるたび、
刺してほしい
と女が強く思っていることもわかる。
男の意志により、絶対に守られた空間の中にいる
ということも知っていて。
女はこの男に殺されてみたいと思っているだろう。
いつか本当に。

男のナイフがいつも女の身体にかすり傷をつけるのも
殺してみたい欲求の小さなあらわれなのかもしれない。

でも、この映画では
「殺してみたい」と「殺したくない」の感情が
真ん中の位置からズレることはなかった。
もしこれをクローネンバーグが撮っていたら
刺したり刺されたりしながら究極まで行っていたと思うけど。
(そのふたつの感情の割合が5:5ではなくて、
7:3とか8:2とかにズレているものが
「アブノーマル」とか「過剰」とか言われるのかも。)

「殺してみたい」「殺したくない」の感情は
ナイフ投げだけに限らず、他の芸術にもいえることだと思う。
例えば、絵を描いていて上手くできそうなとき
「あ~、メチャクチャにやってみたい」という気持ちと
「絶対にすばらしく仕上げる」の気持ちが混ざり合って
そのエクスタシー感が集中力を生み出すんだ。

パトリス・ルコントもこの作品を作りながら
そういう感情に翻弄されていたのかな? 
でも彼はいつものように
この映画に出てくるナイフ投げの男のように
5:5の感情の割合でこの作品を完成させた。


 


私はちょっとズレているほうが好き。

フランスの女優はアメリカの女優にくらべて
芸術に体と精神を投げ出す度のパーセンテージが高いように感じる。
ナイフ投げの的(マト)みたいに。
アメリカの女優はもっと自分を守っているっていうかんじ。
もし、ナイフ投げの的(マト)になったら
刺されてしまいそうだ。

ビールを飲みながら考えてみた… …読みごたえのあるbeerさんのページ。

橋の上の娘@映画生活



ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール

2004-09-10 00:11:26 | いろんな「愛」のかたち
MA FEMME EST UNE ACTRICE 
2001年 フランス
監督・脚本 イヴァン・アタル
撮影 レミ・シェブラン
出演 シャルロット・ゲンズブール/イヴァン・アタル/
テレンス・スタンプ 他


   


真っ暗な空の中の黄金の光       

やさしくてなつかしい ゆりかごのような光
                 
いつでもそこで待っていてくれる光       

大切な美しいものだけを輝かせる光




              

パリの友人、ポーリーからもらった絵葉書と同じパリだった。


パリの大人のあり方が本当にステキ。
少年少女の面影を、誰もがもっているところが。
大人らしい大人でいなくても良いところが。
なのに大人の時間を過ごしているところが。

この映画を見たら、きっとみんな
シャルロットとパリのファンになっちゃうんじゃないかな。

シャルロット・ゲンズブールが
史上最高に魅力的(に撮られてる)。 
彼女と並んでパリが美しく撮られているのは、
監督の中で、パリとシャルロットは
切り離せないものだからなのかもしれない。
イヴァン・アタル(シャルロットの実際の夫・監督)の愛を感じる。 



パリは世界中で一番美しい街なんだって。


           


ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール@映画生活