goo blog サービス終了のお知らせ 

森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

商いの日々----スタ-ト時点

2021-01-15 12:55:24 | 思うまま




       商いの日々-----スタ-ト時点

  商いを札幌市で始めたのは、29歳と10カ月ですが、30歳からとしておこう。
退職することが決まってから、勤務の休日に自動車教習所に通った。退職する時には、
まだ、運転免許は途中でとれていなく、大阪の教習所から札幌の教習所に転校しても
らうことができ、札幌での教習所で3か月かかって、免許証が得られた。その間、免
許がとれるまで、自転車で営業活動をするこにして、つまり午前中は教習所に通い、
午後から営業活動である。

  どんな商いかというと、レンタル業(D業)で一般家庭と、事務所、商店に対する
商品のお勧めで、札幌は4月はまだ寒さが身に染みて言葉もはっきりと言いにくい感
じがしておりました。私は、小学生のころより、少し緊張するとどもるところがあっ
て、ますます軒並み訪問に困難を要した。
  D業では何屋さんなのか分からないと思うので、具体的にいいますと、清掃用具
(貸しぞうきん屋)のレンタルであります。商品の説明はそう難しいことはなく、
 「こんにちは、私、貸し雑巾屋です。一度お試しいただけませんか」という言い方
に徹して、所謂バカの一つ覚えで、あまりいろいろと説明はしません。もちろん、こ
んな言い方ですから、「結構です」と断られます。断られるのが当たり前で、私はテ
クニック的なことは考えなく、しつこくせずに件数を回ることだと。

  しかし、ただ件数を回るのも、なかなか難しいもので、たとえば、犬に吠えられ
るとか、こんな立派な御殿のような家ではダメではないかと、また逆に古く手入れの
しておられない雰囲気の家では、ダメだろうと言うような気持が出て来るものでした。
それでも、勇気を振り絞ってというと大げさですが、決して、一軒の家も飛ばさずに
まわることに心掛けたと思う。

  おかしなもので、何日かすると一人二人と商品を試してみようかという方が得ら
れてきた。これならこの調子で行けば、時間・日数は掛かるが、お客様が増えて行く
ことができるような気持ちにだんだんなってきた。その結果というか、回り乍ら危惧
していた、豪華な家とか、古い家の人達もそのなかにいたように思い、やはり、回る
前から、間違った先入観を持ってはいけないと強く感じ乍ら、自らを叱咤しつつ日々
の活動に勤しんでいた。

  そして、6月に入って、やっと自動車の運転免許が取れたので、これからは遠く
にも活動範囲を広げられると、早速中古車を購入した。たしか当時の金額で20万円
だったと思う。
  ところが、張り切って車に乗っていると、軒並み訪問をしなくなってしまった。
運転しながら、どこがいいだろうかと、運転しながら街並みを眺めつつ車をはしらせ
ていたら、結局、歩いて訪問していた時よりも5分に1に回る件数が激減するように
なってしまったのです。もちろん悪いことばかりではなく、事務所の玄関マットやモ
ップを車に積めることになったので、商店や会社事務所への営業活動にも重きをおく
ようになってきた。事務所用の商品は価格も高く、それだけ売上金額も上がって来て
はいたのです。

  でも、私自身は自らの判断で商いについたのですが、どうも営業活動が苦手とい
うか積極的に商品をお勧めできない性格が徐々に浮き彫りになってきてしまった。
過日、商いをしながら、他の頼まれごともやっていたと述べたが、実は、私がM社と
P所に所属していたことが、幸いして、人との縁が出来るようになってきたのです。

  たとえば、アパ-トを借りてその自宅の一室を事務所にしていたのですが、私が
いる時に他社の若い営業マンが訪問にこられることがあります。その時には、玄関先
で断らずに、まあ、お上がりくださいと言って、事務所で一応来られた方からお話し
(営業)を聞きます。その会話のなかで、私が、過去にM社とP所にいたというと大変興
味を持たれて、その自分の話を聞きたいというので、30分も私から過去の所属して
いたところの話しをするこという機会があったのです。

  ある日、その営業に来ていた人が再度来られて、また、営業の話だろうと思って
対応仕掛けたら、
 「実は今日は御願いがあってお伺いしました」
 「なんでしようか?」
 「私の会社の社長にあなた様のことを話したら、社長が是非お会いしたいという
のですが、会ってもらえないでしようか? いかがでしようか」
 「私は何ほどのものではありませんが、私でよければ、営業の合間に貴方の会社に
お伺いしますよ」
  ということで或日、その会社の社長様にお会いしたのです。すると、社長が、
 「内の会社は札幌に5店舗の店があります。そこには店長がそれぞれいるのですが、
貴方ににその店長5人に教育をしてほしいのです」というではありませんか。
 「とんでもないことです、私は若輩で何の実績も残しておらないし、他人様を教育
するなど、とてもできることではありまぜん」と申し上げた。それに対して社長は、
 「教育というと堅苦しいと思われるけれども、あなたが、勤めていた会社の創業者
は我が国では大変有名な名経営者のとしての名高い方であり、そこに述べ11年も在席
していたのだから、あなたが学んだこと、創業者の言葉などを話して頂ければそれでい
いのです。だから是非お願いします。」と、こいう事を言われる社長も世の中におられる
のだと感心しつつ、それほど言われるのであれば、御引き受けしましよう。ということ
で月に一度2時間程度夜に話をすることになったのです。そして帰り際に。
 「それは有難い、ついては講師料をお支払いいたしますが、幾らならいいでしようか?」
と社長が言われる。
 「とんでもないことです、私の様な者が話をすること自体が僭越すぎるのに、お金を
いただくことはできませんし、私の勉強の思いでさせて頂きます」
 「そうですか、それではその件は私が決めることにします」

  実を言えば、一回目が終ったあとで、謝礼ですと渡されたお金が何と10万円あり
ました。10万といえば、当時親子4人が生活できる金額でありました。まだ、商いを
初めて2年程度しか営業をしていなかったので、まだ、生活費を稼げるまでには、いっ
ていなく、ほんとうのところ大変助かったというのが、正直なことでした。

  その話をして6回が終ったところで、私から社長に、
 「もう6回もやらせて頂き、毎月大枚のお金まで頂きました。しかし、これ以上続け
ると前に話した内容を繰り返す部分が多くなってきますので、これで終わりして頂けな
いでか」と申し上げたら、
 「なるほど、あなたがそうおっしゃるのであれば一応これにて終わりにします。つい
ては、お聞きしますが、あなたは何の商売をされているのですか?」と聞かれた。
 「はい、私は、2年半前より、D業のレンタルをしています。」
 「それなら、うちの店が5店舗ありますので、総ての店長に指示しておきますから、あ
なたの商品を収めて下さい」

  商いを始めて10年経ったころには、店長に話をさせていただいた、その社長の会社
が発展して、私の商いの半分にもなる程のお客様となっていたのです。

  このことは、私が勤めていた会社の創業者がいかに有名で全国に創業者のフアンがお
られたかということと、P所でに7年間勤務していたことが、大きく影響していることを
つくづく感じるとともに、人のご縁の不思議さに感激するばかりです。 0




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

29歳で転職・・・サラリ-マンから自営へ

2021-01-14 14:03:56 | 思うまま



      29歳で転職・・・サラリ-マンから自営へ

  22歳の3月に、P所を退職して自営の道に進んだ。その1年前に最初の子供長女が
誕生してその半年後であった。P所での業務は、京都、札幌、東京、そして本社の京都に
戻って一年後に退職した。これまで約10年間に十数回引っ越しをしたことになっていた
のです。まあ、独身時代ですから、転勤しやすい身の上であったわけですが、それにし
て地域とのふれ合いが全く築くことが出来なかったのです。

  結婚して子供が出来て考えて見る時、このような転勤が繰り返されることになれば、
子供もさぞかし大変な境遇に置くことになるかもしれないという思いが強くなってきて
いた。それに合わせて、私のような我儘な人間はサラリ-マンに適しないのではないか、
能力、実力も学歴もないものが、定年まで勤めることが家族とも含めて果たして幸せに
なるんだろうかと思ったのです。

  そして、余り悩まずに今の商売に転職、所謂脱サラをした。その当時は京都にいた
のですが、転勤で経験のあった札幌で商いをすることにして、家族とも昭和49年3月末
に札幌に引越てきたのです。この決断は今までの中でも一番決断を要したことでありま
したが、それほど悩まずその年の正月には決断をしていました。この時もほとんど妻に
も事前に相談せずにほぼ決定的になってから、話をしたところです。幸い強い反対をさ
れることなく、一応理解してもらったと比較的スム-ズに運びました。

  一般的な見方からすれば、結婚して子供が誕生すれば、今まで以上に亭主として
また親として家族を安定的に養っていかなければならない立場としては、誠に正反対の
行動であったと人はいうことでしよう。さらに、退職した年は、オイル危機の真っただ
中であったのですが、その時分は、世間知らずと言うか、それほど大変な不景気だとい
う意識は全くといって無かったのです。退職する時に上司から、
「今はどんな時代なのか解っているのか」呑気な私は、どんな時代ですか?と聞く有り
様でした。
「今はオイル(石油)危機で、世の中大変な苦境であり、不景気なんだよ」と
「ああ、そうですか・・・・」と、とぼけた返事しかできなかったのです。
これは内心で思ったことですが、今が大変な不景気であると言うことは、景気の底だろ
う。そうしたら、これからは、徐々に景気はよくなるはずだと何の根拠もなく一瞬のそ
う思いました。これが、バブル経済で、世の中が湧きたっている時に商売を始めたとす
れば、その後の商いの内容は、必ずしも良い方向に行かなかったのではないかと、思う。

  多くの人は、出来るのであれば、脱サラして事業をしてみたいと思っている人々が
かなり多くおられると思う。しかし、いろいろ考えすぎると、無理なことだと結論を出
してしまうのではないだろうか。自分がやってみたいことが明確になったらならば、思
い切った覚悟と決断が必要です。でも、あまり考えすぎるとダメな理由しか思いつかな
くなってしまう。たとえ旨く運ばなくとも何とかやれるだろうという楽観的な判断も必
要になってくるものと思う。 

 今、人さまに偉そうなことはとても言えるほど、私の商いが大成功している訳でもな
く、現在、社員3人、パ-ト10人という誠に小規模な商いにすぎません。でも、大きく
なれなくとも、もうあれから、創業して以来47年目を今年迎えることになります。継
続しているこそ、一つの成功であるものと思っています。そして、その47年間の間に
本職とは別のところで、社員研修とか、経営アドバイズとか、ホテルの相談役的な頼ま
れることを夜とか、土日とか、あるいは終末に、頼まれることをいいことに多種類の業
務を体験することができました。

  こんな人生が良かったのかどうか、総てが中途半端では無かったかと思うこともあ
りますが、概ね満足できる日々であったと、この我儘な男を許していただいた世間とい
うものに深い感謝の思いがいたします。これから残り少なくなってきた日々をどのよう
に生き抜いていくがが、一つの楽しみであります。 0



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20代の我儘----出向社員になる

2021-01-11 12:52:08 | 思うまま



    20代の我儘----出向社員になる

  前回のタイトルで60前の我儘としていたけれども、入社してから3年経過するので
実際は56~57年前ということになりますので訂正します。
  大手電器会社で自ら希望して資材関係の業務に移動したことは、前の投稿でした。
  新たな資材関係の仕事は、協力関係会社、所謂協力会社(世間では下請け会社といわ
れていた)から、組み立て工場の生産計画に基づいて、それらに必要な部品を発注するの
である。私も5社から仕入れする協力会社を担当して、部品によっては、1日前か2日
前に工場に納品されるように発注書を作成し、上司のチエックの上で、協力会社に発注
するのです。

  この仕事は、ただ生産計画に基づいて発注するのであれば、簡単な仕事になるのだ
が、中には必ず部品の不良品が発生することがありますから、その分を考慮に入れた発
注数量でなければ、いけない。そして納入されている協力工場が品質管理も生産体制も
しっかりした会社ならほとんど問題は発生しないけれども、規模が小さいとか、工場の
生産管理が充分でなかったとか、新しい部品製造なので、経験の積み重ねがない会社も
あって、それらを把握した上で発注数量や値段の交渉をしなければなりません。

  そのためには、担当している協力会社の工場を拝見して問題点はないかどうか、お
困りの点はないかということなどを頭の中にいれておかなければならない。それには、
ある程度の経験年数が必要になってくる業務といえよう。もちろん、どの職種にも経験
と知識、技能、交渉力が必要なことは申すまでもないでしよう。

  その資材関係の業務を2年程経ったある日、社内新聞にある記事が目に留まった。
それは、創業者が会長になったのを機会に、個人的にやっていたP研究所への所員募集の
内容でした。入社5年以内の社員でP研究所に興味のある者は、本社まで直接応募せよ、と
いうものでした。私はその時に担当していた資材関係の業務を遣り甲斐のあるもので、
日々忙しく頑張っていたと思っていた。会社から毎月無料で配布されていたP誌には日頃
から感心が強かった。そして何故かP所の理念つまり創業者の目指しているP所の内容に
感動していたと、50数年経った現在でも変わらぬ思いである。ある意味、私は衝動的に
その応募にハガキを出していた。誰にも相談することなしにである。

  それから10日ほど経って、本社から面接の連絡があり、指定されて日時に本社に
行って面接を受けた。面接官はあなたはなぜP所に応募しましたか? と質問があった。
 「私は、P所の理念つまり、物心両面の繁栄を通して人々の平和で幸福な社会を目指す
というところに共感を覚えていたので、応募しました」
  質問はそれくらいで簡単なものでせいぜい10分程度であったので、この程度なのか
と思い、今回は駄目だろうという気がしていた。

  面接の後も変わらず、資材関係の業務に勤しんでいたところ、面接から1週間程度の
或日、工場長から呼び出しがあって、工場長の部屋に入ったところ、いきなり、工場長が
怒った顔でこれはなんじゃ?と、ある書類を突き付けられた。なにがなにやら分からず、
それは何でしようかと、お聞きしたところ、本社から1週間後にP所に出向辞令だと言われ
た。そして、工場長が、「なぜ君は勝手に申し込んだのか」と詰問された。
 「社内新聞にあったように直接本人が本社に応募せよという内容だったので応募しまし
た」
 「それでも工場の上司とか、人事課に一応打診してからすべきではないか、とこれまた
きつい御叱りを受けた」
  そして、工場長は勝手に行け、一言し行って、もういい・・・と。
  私は失礼しましたと一応の挨拶をして引き上げた。

  これが、電器会社から文系(出版関係)に出向することになった経緯です。その時は、
何という工場長の態度だろう、創業者が主催している研究所にいくのだから、「がんばっ
てしっかりやって来い」という励ましをしてくれてもいいのにと、自分勝手な思いをしつ
つ京都のP所に行きました。

  50数年も経ったて振り返って見ると、あまりにも自分が我儘であったと思う。自ら
職種の移動を依頼し、それに報いてくれたにも関わらず、また、自分勝手に誰に相談もな
く出向してしまったことを、ただ若気のいたりだとは言え、日本社会においては、不適切
な行為であったかもしれないと思っている。高校時代に文芸部という詩集作品を発行して
いたことが頭のどこかにあったことは間違いのないことだろう。

 50数年経って、そのことが自分自身のこれまでの人生にとって、結果的に良かったか、
それともと悪い目が出てしまうことなったかを静かに考えて見る時、自分としては、大変
にその後恵まれた環境があり、自分の意志を貫いたことを良かったととも思っている自分
がいます。0


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60数年前の我儘-----会社員になっての職種変更

2021-01-09 11:35:51 | 思うまま




     60数年前の我儘-----会社員になっての職種変更



   大手電器メ-カ-に入社して、3か月の実習後、新設工場の品質管理課に配属され
その工場では、厨房器類を製造する工場で私の流し台を作る部門の品質管理の業務を担当
することになった。流し台という製品は、木の箱にステンレスのシンク(水を流すところ)
を乗せるという比較的、簡単なつくりである。その木の箱の部分を協力会社から納入され
ものを正規の状態であるかを検査する仕事でありました。

  何せ新設の工場でありますから、社員も責任者も手探りの状態であったと思う。だか
ら検査器具もなければ、その基準も明確でなく、視覚にて判断する検査の比重が高かった。
  その品質管理業務をしつつも2年も経つ頃には、何か物足りなさを感じてくる。それ
は、上司や先輩(といっても経験が少ない人たち)から厳しく教えられるとか、叱られるとか
ということが一度もなかったのです。これは、私の仕事遂行が適切であったからではなく、
誰も経験が少なかったからだ。

  工場には、職種として、品質管理、設計、資材(部品を仕入れる)、シンクのプレス等が
あった。有る時ふと思いついて、職種を変えてほしい思いが強くなって、人事課の課長に
直接、職種替えの御願いに行った。
 「課長、今日は御願いがありお時間を頂きました」
 「なにかね?」
 「はい、私は、今品質管理の業務を担当しておりますが、資材の調達部門の仕事をした
いと強く思っています。是非、私をそり部門に変えて頂きたいのです。
 「変えてほしいと言われてもすぐにはできない」
 「おっしゃる通りです。そこで、この工場は年々発展し社員も増えてくるでしよう。そ
の時資材業務にも人でを増やす必要があると思いますので、その時に私を指名して頂きた
いのです」
 「解ったそのような状況になれば、考えてみよう。ただし、君が今の業務において、手
を抜いたり、いやいやしたりする、態度をみせたり、他からのそのような噂であっても、
そのようなことであったなら、一切君の希望を叶えることはしない」
 「ありがとうございます。決してそのような怠惰が微塵もなきよう今の業務に励みます」

  そして丁度一年後に、人事課長から呼び出しがあった。
 「君が一年前に、資材部門に尽きたいと言って来たが、その時と現在の気持ちに変わり
はないか」
 「全く、一年前と同じ思いです。今の仕事も私なりに一所懸命努めているつもりです」 
 「解った、それなら来週から君を資材部に配属替えをするよう手配しよう」
 「誠に勝手な御願いをお聞きいただき誠にありがとうございます。これからも新しい
業務を懸命に努める覚悟です」

  こんな経緯で、入社3年目で職種替えをさせていただいた。よく所属の責任者にも誰
一人このことわ相談もしていなかったので、2年間勤めていた品質管理の皆さん、特に責
任者の方に悪いことをしたことを内心では詫びていた。このような60数年経った現在に
思うことはね組織に居ながら、自分勝手な我儘を通してきたことをつくづく反省も込めて
おもっています。しかも、こうして職種替えをしてもらったにも関わらず、その2年後に
また、私の我儘で進路が大きく変わっていくのである。それは、またの機会にすることと
します。 0
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60年前の奇跡---社会人としてのスタ-ト(入社と記念日)

2021-01-03 13:28:01 | 思うまま



   60年前の奇跡---社会人としてのスタ-ト(入社と記念日)

  昭和37年8月、夏休みにテニスの猛練習をしていた。高校生三年生として大望の10月の国民
体育大会(全国大会)への予選(兵庫県で3位まで)を通過し、国体への出場資格を得ていた。その猛練
習中であつた。
  そういう時、機械科担任の先生が練習場に来られ、私が呼ばれた。
  何かと思い先生に挨拶をしたところ、就職活動をしていた、関西の大手電器メ-カ-へ学校から
7名が応募していた。私もその7名の中の一人で、その会社は創業者が有名で度々マスコミに登場し
ており、急速な成長をしている会社であったし、関西ということでもあったので応募した。
  担任の先生曰く、応募していた会社から内定の連絡が入った。ところがあなたの名前だけ無かった
ということを告げられた。そして、先生は念のためにもう一つ別の会社に応募したらどうだ。と言われ
た。
  私は残念に思いながらも、テニスの国体への出場のために猛練習している最中でもあったので、
すぐには他の会社には応募しない、採用しないという連絡が入ってからにしたいことを先生に告げた。
先生は心配顔でしかたがないなという雰囲気で去って行った。
  それから1週間後に、再度先生がテニスの練習中に笑顔で来られて、私に、追加内定として君の内
定が決まったことを教えていただいた。これでひと安心だと先生に御礼を言うと、先生が次のようなこ
とを言った。君が最初の内定から外れたのは、君の父親が亡くなった原因について、頭の件で亡くなっ
たと履歴書に書いてあったために、会社は、精神的な問題があるのではないかということで実質的に不
採用ということであったらしい。ところが、その会社の部長職の方が、君をよろしくといっていたので、
君の父親の亡くなった原因を専門家に依頼して調査されたところ、船大工の作業中に頭を強く打つ怪我
が原因であることが分かったので、追加採用となったということが、会社から説明があったとのことで
した。
  それに関して、私の兄が知り合いの人に、ギリギリの場合はよろしくとお願いをしていたことが後
から分かったのです。首の皮一枚繋がっていたわけです。

  卒業した4月に大望の入社できた。高校生が全国で800名ほどの入社されたようだ。そして、会
社の寮生活が始った。私が入った寮は、会社で一番古く小さい寮で、そこの寮監督は、軍人あがりの厳
しい60歳近い人だった。
  ある日、寮監に呼ばれた。
  毎年、この寮生から、5月5日の会社の創業記念日に高校入社の800名を代表して、社長に答辞
を述べてもらうことになっている、ついては、この寮から二人の寮生を本社に推薦することになってい
る。君ともう一人二人で一緒に3日後に本社の人事部に行きなさい。と。
  その日に本社の言われたところに行った。本社の小さな会議室に二人が待たされた。数分後人事部
の人が入ってきて、寮監が言われた同じことを言った。お二人のどちらかに創業記念式典に答辞を読ん
でもらいたい、どうですか。と言われた。どうですかと言われても二人いて、質問もなく、どうします
かと言われても一瞬どういえばいいのか、分からず沈黙があったが、私は、もう一人の人に「あなたは
答辞をやりたいですか?」と聞いた。その人は間髪を入れずに「ぼくは結構です」つまりやらなくても
いいと言うことであったので、厚かましいと思ったけれども、私は人事部の人に、彼がそういわれたの
で、私でよろしければやらせて頂ます。と申し上げた。それで決まってしまった。

  5月5日は、晴天の良い天気であった。「この良き日に創業記念日を心よりお祝いし、これからの
発展に資する人材になれるよう、精進に努めます・・・・・・・」こんな答辞を体育館の壇上に上がり
自ら作成した答辞文を読みました。

  運命というのは、何と不思議な事だろうと思う。本来であれば、この会社に入社できなかった人間
である。それにも拘わらず、800名の新入社員を代表して答辞を読むなどということはこれは奇跡で
はなかろうかと思っている。私はそのために何にも努力していないし、学校の成績も常に中程度のもの
であるのにかかわらずです。このような思い出を投稿しているのは、決して自慢をしたいためではあり
ません。人生の奇跡があることを述べたかったからです。

  60年前の高校生時代には、先に投稿した内容とともに、10年も20年もの経験を一年間にした
ような劇的なことが起った日々でありました。私自身として、最もその後の人生に今日まで良い影響を
与えてくれた、出来事が実はもう一つあります。でも、このことは今は控えておくことにします。
今しばらく、自分の胸の底に静かに抱いておきたいのです。 0

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする