正月,韋皐は吐蕃を維州で大破した。雲南蠻との連携も強化され、西川方面からの侵攻はできなくなった。
十月己酉,鄜坊節度使王棲曜薨。將何朝宗謀作亂,裴玢が鎮定。
德宗の姑息策により、軍士は横暴となり、京師近郊の小鎭鄜坊でさえ順当な継承が困難となった。
貞元十九年 西暦803年
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二月己亥,安南牙將王季元逐其觀察使裴泰。
安南[北ベトナム]でも無能な統帥になるとすぐ軍乱が起きた[前帥趙昌は有能で長期留任していた]
三月壬子朔,淮南節度使杜佑が相となる。
行政官としてはそれなりに有能だが、経綸はない。
七月己未,宰相齊抗が疾辭した。
九月丁巳,宰相崔損薨。
十二月庚申,高郢,鄭珣瑜が宰相となった。
德宗末期はすべてが停滞し、姑息な政治が続き、改革を望む少壮官僚達は切歯扼腕し、皇太子[順宗]の時代が来るのを期待していた。
登用された新宰相達は德宗ごのみの凡庸な人材であった。
貞元二十年 西暦804年
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九月太子始得風疾,不能言。
期待されていた皇太子[順宗]が重病となってしまった。父の德宗は当時としては高齢の63歳であり、やはり体調は悪かった。
貞元二十一年 西暦805年
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正月癸巳,德宗皇帝崩于會寧殿,年六十四。
皇太子の病を心配しながら德宗は崩御した。本来は問題の無い継承だが、太子は起き上がることもできず宦官・百官は動揺した。
[德宗とは]
・即位当初は改革・権力の強化をめざしていたが、奉天の乱以降は意欲を失い、ただ表面をごまかす治政に終始した。
・教養は高く、文雅の才のない臣下を軽んじた。
・プライドは極めて高く、執念深い性格で恨みはわすれない。
・信用した臣下は問題があろうと、佞臣とわかってもとことん信用する。
・奉天の乱以降、武臣を信用せず、宦官にのみ信を置き、その専権を招いた。
・極めて吝嗇で、皇帝個人の財産を貯め込む[地方官より進奉という寄付を受ける]
・後半は河北藩鎭は互いに抗争して反唐朝の姿勢はなかった。
・回鶻・雲南蠻と同盟し、吐蕃の侵攻をくい止めた。
・藩鎭は自立傾向が強くなり、唐朝が実質支配する領域は狭いものであった。
自立[幽州.成徳.魏博.義武.横海.淄青.徐州.宣武.西川]
全体として非常な暗君だが、暴虐ではないため位を維持できた。また姑息な政治により後半は
戦乱が少なく唐朝の国力は回復傾向になったと言える。
十月己酉,鄜坊節度使王棲曜薨。將何朝宗謀作亂,裴玢が鎮定。
德宗の姑息策により、軍士は横暴となり、京師近郊の小鎭鄜坊でさえ順当な継承が困難となった。
貞元十九年 西暦803年
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二月己亥,安南牙將王季元逐其觀察使裴泰。
安南[北ベトナム]でも無能な統帥になるとすぐ軍乱が起きた[前帥趙昌は有能で長期留任していた]
三月壬子朔,淮南節度使杜佑が相となる。
行政官としてはそれなりに有能だが、経綸はない。
七月己未,宰相齊抗が疾辭した。
九月丁巳,宰相崔損薨。
十二月庚申,高郢,鄭珣瑜が宰相となった。
德宗末期はすべてが停滞し、姑息な政治が続き、改革を望む少壮官僚達は切歯扼腕し、皇太子[順宗]の時代が来るのを期待していた。
登用された新宰相達は德宗ごのみの凡庸な人材であった。
貞元二十年 西暦804年
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九月太子始得風疾,不能言。
期待されていた皇太子[順宗]が重病となってしまった。父の德宗は当時としては高齢の63歳であり、やはり体調は悪かった。
貞元二十一年 西暦805年
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正月癸巳,德宗皇帝崩于會寧殿,年六十四。
皇太子の病を心配しながら德宗は崩御した。本来は問題の無い継承だが、太子は起き上がることもできず宦官・百官は動揺した。
[德宗とは]
・即位当初は改革・権力の強化をめざしていたが、奉天の乱以降は意欲を失い、ただ表面をごまかす治政に終始した。
・教養は高く、文雅の才のない臣下を軽んじた。
・プライドは極めて高く、執念深い性格で恨みはわすれない。
・信用した臣下は問題があろうと、佞臣とわかってもとことん信用する。
・奉天の乱以降、武臣を信用せず、宦官にのみ信を置き、その専権を招いた。
・極めて吝嗇で、皇帝個人の財産を貯め込む[地方官より進奉という寄付を受ける]
・後半は河北藩鎭は互いに抗争して反唐朝の姿勢はなかった。
・回鶻・雲南蠻と同盟し、吐蕃の侵攻をくい止めた。
・藩鎭は自立傾向が強くなり、唐朝が実質支配する領域は狭いものであった。
自立[幽州.成徳.魏博.義武.横海.淄青.徐州.宣武.西川]
全体として非常な暗君だが、暴虐ではないため位を維持できた。また姑息な政治により後半は
戦乱が少なく唐朝の国力は回復傾向になったと言える。
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