唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

咸通十一~十四年 西暦870~73

2020-05-06 10:00:51 | Weblog
咸通十一年 西暦870
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正月雲南蠻寇黎、雅二州,及成都。
歴代の節度使の怠慢と、雲南蠻への依存の為、西川の防衛は破綻していた。中央軍の派遣により撃退はできたが損害は大きかった。

四月丙午,韋保衡、宰相に。
保衡は公主との結婚より1年ほどで宰相に登りつめた。才学に優れぬ保衡だが、権力欲は強く、信任を利用して誣告に励んだ。

八月,乙未,同昌公主薨。殺醫待詔韓宗紹。
九月丙辰,劉瞻罷。
懿宗皇帝と郭妃の愛娘同昌公主[保衡の妻]が病死した。懿宗は激怒して治療に当たった医師20人を殺し、その親族300人を投獄した。宰相劉瞻はそのやり過ぎを諫めたが、かえって罷免された。保衡は瞻の与党も連座させ各地に左遷した。

九月、魏博軍亂,殺其節度使何全皞,將韓君雄自稱留後。
全皞は年少で驕暴好殺、將士の衣糧を減らしたため、牙軍の怒りをかって殺された。

咸通十二年 西暦871
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四月癸卯,以路巖同平章事,充西川節度使。
腐敗官僚の筆頭巖も保衡の讒言により逐われた。

咸通十三年 西暦872
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正月、幽州節度使張允伸薨、子簡會が継ぐ。
三月癸酉,平州刺史張公素逐簡會,自稱留後。
允伸は23年にわたり幽州をよく統治していた。それでも実力主義の幽州節度では、幼少の簡會への世襲は困難であった。

五月、韋殷裕詣閣門告郭妃陰事。
懿宗の寵愛が厚い郭妃一族を弾劾する事件が起こり、懿宗は保衡の誣告を受けて、前宰相于琮の与党を排除した。

咸通十四年 西暦873
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七月戊寅,上疾大漸,中尉劉行深、韓文約立少子普王儼[僖宗]。辛巳,上崩于鹹寧殿。
怠慢・愛妻・我が儘の懿宗が崩御し、幼少・魯鈍の僖宗が擁立された。懿宗時代の宦官達は腐敗していたが政権を牛耳ろうというほどの者はいず、同じく腐敗した官僚とともに私利を貪るだけであった。