十一月壬申,宰相韋執誼が崖州司馬に左遷された。
叔文の党であったのでいずれ左遷される運命であった。杜黄裳の婿であるので
猶予されていた。前回左遷された叔文党派はさらに辺地へ左遷されていった。
十一月戊寅,新任西川節度使袁滋が吉州刺史に左遷された。
劉闢の討伐に反対で、消極的で攻撃しようとしなかったため罷免された。
回鶻懷信可汗が卒し、その嗣子である騰裡野合俱錄毘伽可汗が立った。
唐と回鶻は同盟関係にあり、この時期は安定した関係になっていた。
十二月己酉,やむなく新任給事中劉闢[不受命]を西川節度副大使知節度事とした。
衆論が一致しないため、德宗時代の姑息な政策にもどり現状を追認した。
しかし強硬派の韋丹を東川節度使として劉闢を牽制することにはした。
十二月,翰林學士鄭絪を宰相とした。
絪は政策がなく、宰相の員数として黄裳の伴食として存在するだけであった。
叔文の党であったのでいずれ左遷される運命であった。杜黄裳の婿であるので
猶予されていた。前回左遷された叔文党派はさらに辺地へ左遷されていった。
十一月戊寅,新任西川節度使袁滋が吉州刺史に左遷された。
劉闢の討伐に反対で、消極的で攻撃しようとしなかったため罷免された。
回鶻懷信可汗が卒し、その嗣子である騰裡野合俱錄毘伽可汗が立った。
唐と回鶻は同盟関係にあり、この時期は安定した関係になっていた。
十二月己酉,やむなく新任給事中劉闢[不受命]を西川節度副大使知節度事とした。
衆論が一致しないため、德宗時代の姑息な政策にもどり現状を追認した。
しかし強硬派の韋丹を東川節度使として劉闢を牽制することにはした。
十二月,翰林學士鄭絪を宰相とした。
絪は政策がなく、宰相の員数として黄裳の伴食として存在するだけであった。