唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 3

2020-01-22 10:00:53 | Weblog
四月壬寅、弟二人や子十九人を王に封じた。
 唐では皇子[親王]は玄宗初期以降、正規の官職にはつかず、地方
 赴任もなく、封地もなく[これは唐初より]、税金に頼る京城の遊
 民と化した。王府の属官も単なる名誉職となり満足に充足されなか
 った。宦官が日常の世話をし、系図上でも孫以降はろくに記載も無
 い。そのため唐末の一例を除き、擁立されることもなく王朝の消滅
 ととも に簡単に消え去ることになった。
 但し、初期の親王の後継である嗣王は例外的に正官に任用されること
 もあった。[嗣虢王.嗣薛王.嗣覃王など]

五月辛未,右金吾大將軍范希朝を左右神策京西諸城鎮行營節度使に任じ
た。
 王叔文らは、親衛軍である神策軍を支配する宦官の兵権を奪をうと画
 策した。そこで当時の名将と呼ばれた希朝に副官として同派の韓泰
 を附け諸軍を奉天城に招集した。しかし幹部宦官はその計画を察し
 て、諸軍に招集に応じないように命じた。結果として奉天には軍は
 集まらず、宦官達の反感をかうだけになった。

五月辛卯,王叔文は戸部侍郎となり、判度支、鹽鐵轉運副使を兼任して財政権を握った。
 しかし宦官俱文珍等は画策し、順宗皇帝との連携手段である翰林学
 士を削った。狼狽した叔文派は強請して「三五日一入翰林」の名を
 得た。
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