唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

王武俊/沒諾干伝

2019-06-19 12:03:36 | Weblog
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王武俊/沒諾干伝
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武俊、字は元英。蕃族の契丹怒皆の出身。

祖父可訥干、父路俱は開元中に饒樂府都督李詩に率いられ帰順し薊州に居た。

武俊は初名沒諾干、騎射に通じ、范陽節度使に仕えて安禄山に従う。

上元中.僞恆州刺史李寶臣の將となる。

寶應元年.寶臣に勧めて唐朝に帰順させ、恆定深趙易軍先鋒兵馬使。

大暦十年.田承嗣が乱し、將盧子期を唐朝軍とともに清水で大破する。

建中二年.晩年は猜疑が増し、諸将を殺していた寶臣が卒し、子惟岳が自立する。

二年.成徳將易州刺史張孝忠や趙州刺史康日知は唐朝に附き、

三年正月.幽州朱滔、張孝忠に束鹿で敗北。

閏正月.形勢不利を悟り、疑われた武俊は反し、惟岳を誅して帰順した。

二月.檢校秘書少監兼御史大夫恆州刺史恆冀都團練觀察使實封五百戶
唐朝は成徳軍を分割し易定滄を孝忠に、深趙を日知に、恒冀を武俊に、徳棣を朱滔に与えたが、他より功績があるのに節度使になれない武俊と、遠隔地を与えられた朱滔は極めて不満であった。
淄青李正己が卒し、子の納が自立したが唐朝は認めなかった。
朱滔は魏博田悅、恒冀王武俊とともに反し、納や淮西李希烈とも連携した。

七月.滔・悅とともに唐朝軍を連愜山に大破した。

十一月.將張鍾葵に趙州を襲わせたが敗死した。
武俊は朱滔等とともに趙王と称し、恆州を真定府とし官属を置いた。

四年六月.武俊は疲弊した魏博・成徳に比べて幽州朱滔の勢力が増大するの畏れ、昭義李抱真と密かに通じた。

十月.京師で朱泚が乱し、德宗皇帝は奉天に逃走し、それと連携した滔が回紇軍を引き入れて南下した。武俊は併呑される危機を感じていた。

興元元年正月.形勢の不利を痛感した德宗皇帝は自責し、大赦を宣言。
恒冀深趙徳棣六州を保証された武俊、疲弊して休戦を求める悅、継承を認められた納は直ちに帰順した。
檢校兵部尚書、成德軍節度使。

二/三月.加検校司空同中書門下平章事兼幽州盧龍兩道節度使、琅邪郡王となり滔を伐つ立場になった。

五月.背信に激怒した滔は大軍を率いて魏博を攻めたが、武俊・抱眞軍に大敗して幽州に逃げ帰った。
武俊は滔を追い詰めず幽州盧龍節度使の兼任を辞した。

八月.滔は帰順し、河北の戦乱は終了した。

九月.恆州を大都督府とし武俊は長史となり、檢校司徒,實封七百戶。

丁母憂,起復加左金吾上將軍同正

免喪,加開府儀同三司。

六年三月~十二月.棣州刺史趙鎬が淄青李納に付き、魏博田悅も同じたため戦闘が起こった。

八年.淄青李師古を攻め棣州・德州に戦った。

九年.義武張茂昭と争い、定州義豐を取り、安喜・無極を荒らした。

十年六月.昭義李抱眞が卒し、子緘が自立しようとしたが支援を拒否した。

十二年正月.檢校太尉兼中書令。

十七年六月卒,六十七歳.贈太師.謚曰威烈/忠烈