唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

楊元卿伝

2019-03-05 10:47:10 | Weblog
軍人ではなく、幕僚型の地方官僚であるが、方鎭を歴任し開発に功績をあげた。

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楊元卿伝
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元卿、字は正臣、弘農の人。

祖父は德州安陵縣丞子華。父は申州鍾山縣令寓。

若くして親を亡くし、江南嶺南を巡り説客となった。

反唐朝を標榜する淮西吳少誠に仕えて從事となり、試大理評事を帯びた。
また少誠のあとを襲った呉少陽にも仕えて監察御史裏行を帯びた。
奏事の為に入朝し、宰相李吉甫の知遇を得て、少陽に親唐朝路線を説くようになった。
そのため淮西内の反唐朝派からは憎まれることになった。
少陽が卒し、子の元濟が自立すると、元卿は唐朝への歸順をすすめ、入朝し内情を唐朝に密告した。
しかし元濟は元卿の背信を知り反唐朝派に転じて、元卿の妻子を殺し、その同調者を一掃した。

入朝した元卿は岳王府司馬、ついで太子僕となった。
元和十三年.蔡州刺史兼御史中丞に任じ歸順した淮西民の管理を担当させることにしたが、
行われず光祿少卿に転じた。

李愬が淮西を平定すると、その宝貨を回収すると提案し、憲宗皇帝からたしなめられた。

左金吾衛將軍となり、すぐ汾州刺史、また左金吾衛將軍。

長慶初,貧しくて食糧を自給できなかった涇原節度に檢校左散騎常侍涇州刺史四鎮北庭行軍涇原渭節度觀察等使として赴任し、大いに屯田を開く功績をあげた。銀靑光禄大夫檢校工部尚書を加えられる。
その後検校右僕射に進む。

検校左僕射懷州刺史充河陽三城節度觀察等使に転じて、こちらも大いに屯田を開いた。

太和五年.何進滔の乱時の供軍により光祿大夫檢校司空に進む。

また檢校司空宣武軍節度汴宋亳觀察等使に転じて功績があった。

七年七月.七十/五十七歳で疾辭し、太子太保分司。

八月卒,贈司徒。

性は險巧で、開発に励むと共に私益も計り、宦臣と深く結託した。
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