牡丹に蝶のブログ

政治・経営・宗教的な話に興味があります。過去から現在までの出来事とかを綴ってみたいなと思います。

1928年に不戦条約に署名した大日本帝国!!(その3)

2014-07-28 22:26:40 | 政治

第一次世界大戦から100年 どんな戦争だった?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140325-00000012-wordleaf-int&p=3



第一次大戦から新しい「世界史」が始まった?
 大戦中は、両グループとも中立国を味方につけようと躍起でした。植民地に対しては、戦後の独立・自治という「利」をほのめかし、自陣営への協力を求めたのです。なかでもイギリスは、アラブ人に対しては「フサイン・マクマホン書簡」でトルコからの独立を約束する一方、ユダヤ人に対しては「バルフォア宣言」でユダヤ国家建設の支援を約束するという「二枚舌」で、双方から協力を取りつけようとしました。この後、中東のパレスチナは、アラブ人とユダヤ人の争いの舞台となります。今日までつづく新しい「世界史」の始まりです。

 もう一つの大きな影響。大戦末期、ドイツは皇帝が退位し、共和制に移行しました。戦勝国のロシアも、大戦中の17年に皇帝が追い出され、帝政が崩壊しています。レーニン主導によるロシア革命で、5年後には史上初の社会主義国ソビエト連邦が誕生しました。「あと出しじゃんけん」で戦勝国となったアメリカも、体力を消耗することなく、日本以上の経済的な「利」と、国際社会での強い「影響力」を獲得しました。大戦後の世界は、この米ソ両大国の「利」と「害」を軸に回るようになります。これも、第二次大戦後の冷戦につながる新しい「世界史」の始まりです。

 なお、ある歴史学者によると、第一次大戦をはじめて「世界戦争」「世界大戦」と名づけたのは日本人とのことです。この戦争の向かう先や本質を見抜いていたのかもしれません。ただし一般には、30年代まで「欧州戦争」「欧州大乱」などと呼ばれていたようです。どちらにしても、まだ「第一次」はついていませんでした。

(教材編集者・大迫秀樹)(動画制作:TOMOニュース)(http://jp.tomonews.net/116582)



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1928年 不戦条約に署名した大日本帝国!!(その2)

2014-07-28 22:25:29 | 政治

第一次世界大戦から100年 どんな戦争だった?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140325-00000012-wordleaf-int&p=2



「三国同盟」と「三国協商」
 同盟国は、「三国同盟」を結んだドイツ、オーストリア、イタリアが中心。北アフリカの植民地争奪戦で、フランスに対抗するという「利」で一致していました。ドイツは皇帝が新航路開拓・軍備拡張に積極的で、他国の脅威になりつつあり、現在は小国のオーストリアも中央~東ヨーロッパ一帯を支配する強国でした。このうちイタリアは、オーストリアと領土問題の対立で「害」が表面化したため、たもとを分かちます。後にこの空席に加わるのがトルコです。かつて栄華を誇ったトルコ(オスマン帝国)は国力の低下がいちじるしく、南下してきたロシアに対抗する「利」から、ドイツに接近したのでした。

 連合国は、「三国協商」を結んだイギリス、フランス、ロシアが中心。植民地の再配分を求めるドイツを包囲する、という「利」で一致していました。イギリスはどの国とも同盟を結ばない「光栄ある孤立」の道を歩んでいましたが、日英同盟を皮切りに、フランスと協商を成立させ、日露戦争後はロシアとも手を結びました。露仏も同盟関係にあったことから、「三国協商」へと発展していったのです。

 この2グループの対立に火をつけたのが、前述の「サラエボ事件」です。バルカン半島は、スラブ系を主とする多民族、イスラム・正教系・カトリックという多宗教が入り混ざり、争いが絶えなかったことから、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。ここにゲルマンの親玉ドイツとオーストリアが進出してきたため、セルビア民族主義の青年がその「害」の象徴であるオーストリアの皇位継承者を襲撃したのです。セルビア人は、ロシアと同じく正教系のスラブ民族です。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、ロシアものろしを上げたのでした。

予想以上に長引いた戦争
 日本も日英同盟を口実に、ドイツに宣戦しています。中国や南洋諸島にあったドイツ権益がねらいでした。しかし、いっぱんの国民には切迫感が欠けていたようです。反露感情の高まりで起こった日露戦争とちがい、ドイツに対する悪感情は希薄で、「害」も「大義」も見出せなかったのでしょう。結果的には戦争特需という「利」に浴したものの、主戦場はヨーロッパであり、「遠い海の向こうの戦争」でした。

 日本の特需の背景には、大戦が予想をうわまわる物量戦・長期戦になったことがあります。徴兵制によって数千万の兵士が戦場にかり出され、戦車・航空機・潜水艦(Uボートが代表)や毒ガスまで使われました。大量の兵器・物資を供給できる工業力が問われたことから、史上初の「経済戦争」という見方もあります。その舞台裏で「利」を得た日本は、世界3位の海運国へと躍進し、大戦前にあった約11億円の債務も完済しました。

 戦況は、短期決戦を想定していたドイツのもくろみが外れ、フランスとの西部戦線、ロシアとの東部戦線とも持久戦に入りました。海上戦でも一進一退の攻防がつづきましたが、17年4月にアメリカがドイツに宣戦すると、連合国が圧倒するようになります。18年になると、総力戦で疲弊したトルコ、オーストリアが降伏し、11月にはドイツも連合国と休戦協定を結びました。そして翌19年6月、講和条約(ベルサイユ条約)の締結によって、犠牲者1500万人以上ともいわれる 未曾有の大戦が終わったのです。


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1928年 不戦条約に署名した 大日本帝国!!

2014-07-28 22:24:50 | 政治


第一次大戦が終わった
5年後の1928年 日本は
不戦条約・ケロッグ=ブリアン協定に署名をしました


現在 不戦条約に署名している国は 世界 何ヵ国に
達したのでしょうか?


戦争は残酷なものでしかありません…
もう…戦争はやめてほしいです!!
世界の平和を祈ります!!

以下 ヤフーニュース
THE PAGE


第一次世界大戦から100年 どんな戦争だった?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140325-00000012-wordleaf-int&p=1


 第一次世界大戦の開戦から、今年は100年にあたります。史上初の世界大戦なのに、日本人の関心はあまり高いとはいえず、日露戦争や太平洋戦争のように声高に論じられることはありません。「忘れ得ぬ戦争」である第二次大戦に対して、第一次大戦は「忘れられた戦争」ともいわれます。他方、こう述べる歴史家もいます。第一次大戦が現代に至る国際社会の枠組みをつくった、大戦中の1917年から新しい「世界史」が始まった、と。いずれにせよこの大戦の後、日本も「世界史」の主要アクターとして躍り出ることになります。

【動画】第一次世界大戦はどんな戦争だった?

動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=C2fyKLRMJpw


何がきっかけで開戦したのか?


 中学の歴史教科書は、開戦の経緯を次のように説明しています。「1914(大正3)年、オーストリアの皇太子夫妻が、サラエボでセルビア人の青年に暗殺されました。オーストリアはセルビアに宣戦布告し、まもなく各国も参戦して、ドイツ、オーストリア、トルコを中心とする同盟国側と、イギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国側に分かれて、第一次世界大戦が始まりました。」(東京書籍「新しい社会・歴史」)

 暗殺事件は「サラエボ事件」で記憶されている方も多いでしょう。しかし、バルカン半島のサラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)という辺境地で起こった、「ささいな」という修飾語がつきそうな事件が、どうして世界大戦の引き金になったのでしょうか? 少し時代をさかのぼりましょう。

 日本が明治維新という大変革期にあった19世紀後半、ヨーロッパは平和な「良き時代(ベルエポック)」でした。ヨーロッパ列強はひと足先に重工業化を成し遂げ、帝国主義の眼と刃(やいば)をアフリカから中東、アジア、太平洋へと向けていました。この海外航路・植民地争奪戦のなかで、利害の一致する国どうしが手を結び、世界は「同盟国」と「連合国」という2つのブロックに分かれていったのです。1902年の「日英同盟」も、たがいの「利」のもとで結ばれた同盟でした。ロシアの中国進出を牽制するという日英共通の「利」です。



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