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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高屋俊夫

2017-11-08 20:57:14 | 日記
1956年 高校時代

深谷は前日にまさる高屋投手のノビのある速球、ドロップに二安打、三塁をふむ者一人に押さえられ、好投する清水投手を見殺しにした。

高屋も立上り悪く得意のドロップが決まらず、カーブと速球だけに頼り、ボール数が多かったこのような高屋から、不動岡は一回トップの高山が四球を選んだが西沢のバントが投飛となりダブルプレーを喫した。

高屋最優秀選手の話 緒戦から五回連投して大分へばりましたがこの疲れも優勝の喜びで吹っ飛んでしまいました。私が最優秀選手に選ばれましたが、これは私を助けてくれた全ナインの賜物です。南関予選でもきっと県民のみなさまの期待にそうよう健闘します。

南関予選出場がきまった大宮高は、この試合で全員が伸び伸びしたプレイをみせ、打っては岸の大会第一号ホーマーをはじめ二塁打四本また打っては前日鴻巣を打ち破った余勢で一挙に優勝をものにしようとする本庄高打線をノーヒット・ノーランこそ逃したが、1安打1四球におさえた高屋の活躍で文句なしに圧勝した。大宮は三回高野の右翼戦二塁打をフイにしたのち、四回小林が敵失で出塁、続く高屋がワンバンドで右翼スタンドに入る二塁打、亀田も左中間を破る二塁打を放ち二点を先取した。さらに六回小林が二塁強襲安打ののち高屋が再び中超の二塁打で一点、さらに岸が2-0から右翼スタンド中断三百三十フィートに本大会一号二点本塁打を放ち、この回三点を使いして試合をきめた。この味方打線の活躍に気をよくした高屋は、きれのよいドロップと伸びのある快速球をアウトコース低目にきめて三回二死後高屋に四球を与えた以外八回までノーヒットノーランを記録したが、九回一死後高橋に晩と失敗後直球を投じて左中間を破られ、おしくも好記録を逸した。

高屋選手の話 残念なことをしました。自分ではカーブを投げようと思ったが直球のサインが出ていたので投げたとたんにやられました。自分では六回ごろからこの記録を意識していました。

岸選手の話 まさかあれが本塁打になろうとは思いませんでした。インコースからややベルトやや低目に入ってくるいい球でした。私が野球をはじめてから本塁打を打ったのはこれがはじめてだけにうれしかった。
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矢崎健治

2017-11-08 20:28:04 | 日記
1964年 高校時代

巨摩高

打線がよく全般にシェアーだ。大久保、矢崎、塩谷のクリーンアップ・トリオは力があり、安打のうち5割が長打だ。一番の小沢は三割五分の出塁率を示しており、小沢、沢登が出塁すれば、中心打者でかならず得点できる。投手が三点以内に押さえてくれればぜったい四、五点に打ち返すだけの自信がある。投手はストレート、カーブを決め球とする左腕大久保が主戦、ひかえには沢登、塩谷、斎藤とそれぞれ形の違った投手がいる。あくまで大久保でゆく予定だが、万一の場合にもこと欠かない。守備では第一人者の遊撃矢崎がおり、名取との三遊間コンビは堅実だ。

遊撃は矢崎(巨摩)平野(甲商)深沢(甲工)小野(甲一)竹村(機山)遠藤(都留)らでいずれも甲乙つけがたい選手だ。とくに矢崎の守備は光っている。広い守備範囲のうえ、強肩、カンがいい。
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細田正彦

2017-11-08 20:07:49 | 日記
1964年

細田はサイドスローで、外角へホップする球が武器だ。これに落ちるシュートボールも効果的だ。長身で制球力があり四球をめったに出さないことが大きな強味。
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西垣一

2017-11-08 19:21:17 | 日記
1956年

阪神は投打に巨人を圧倒した。大試合に初登板の西垣(城南高出)を先発させたのは奇策だったが、これが見事に成功した。西垣は一見なんの変哲もないピッチングだが、巨人打者のツボを心得ているかのようにドロップとシュートで巧みにいなし、五回のピンチ(二走者を出して降板)で大崎にバトンを渡すまで、わずか2本の安打を許しただけ。
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入谷正典

2017-11-07 21:16:10 | 日記
1970年

入谷正典が明大からプロ野球入りしたのは昭和二十六年の暮れである。彼のもとへ多くのプロのスカウトたちが交渉にやってきた。どのスカウトも、彼が平凡なサラリーマンになれば、とても手にすることもできないような契約金を提示した。そして、彼が選んだのが巨人だった。彼がプロに目をつけられはじめたのは、明大の学部にあがってからであった。旧制大学の最後の卒業生であった彼は、予科時代にはそれほど目立った存在ではなかった。杉下がプロ入りしてから、彼はにわかに脚光を浴びはじめた。おそろしく長い指先から、きゃしゃな体からは想像もつかぬほど速い球を投げた。彼が下手投げという変則投法を身につけたのは、学部の三年になってからである。その年の春、練習中に右ヒザに強い打球を受けた彼は、ひと月あまり入院しなければならなかった。退院したとき、彼は左右の足の太さが十センチほどちがうことを知ってガク然とした。軸になる右足が細くては、投球の際に必要な蹴りがじゅうぶんでなくなる。かつての速球は彼の右腕から消えてしまった。肩の肉も入院生活ですっかり落ちている。やむなく、彼は下手からの速球に活路を見出そうとした。やってみると、思ったより球が走った。(まだ野球がつづけられる)そう思うと、涙の出るほどうれしかった。試合にさえ出られれば、どんなフォームでもいいのだ。彼は懸命に下手投の投法を工夫した。かなりスピードもついてきたし、キレのいいスライダーも出るようになった。なによりの強味は、落ちる球が投げられることであった。長い人さし指と中指の腹をじゅうぶんボールに密着させ、上からきりつけるようにしてはなすと、打者の手もと近くへいって急に沈んだ。たいていの打者は空振りか凡ゴロを打たされるのだった。右ヒザの負傷から一時は採用を断念しかけた巨人も、みごとなカムバックぶりを見て、ふたたび彼に誘いの手をのばした。当時の巨人の投手陣といえば、別所、大友が強力な軸になっていた。別所は本格派だが、大友は下手からの速球と変化球を身上としていた。巨人は第二の大友を狙って、入谷に目をつけたのである。巨人にとって、彼は期待の新人投手であった。しかしナインのすべてが彼を歓迎してくれたわけではなかった。理由の第一は、彼が大学出であることだった。チームの主力選手の中で、大学卒といえば数えるほどしかいなかった。旧制中学を出て、汗と涙でようやくレギュラーの座にたどりついた、文字どおり叩きあげの古強者ばかりだった。そんな中へ、東京六大学出身という花やかなうたい文句をひっさげて入団してきたルーキーに、彼らが暖かい目を向けるはずもなかったのである。ただひとり、大学の先輩だった藤本英雄だけが、なにかと言葉をかけてくれるのが唯一の救いだった。「おまえ、いつの間にそんな投げ方になったのだ」負傷から投法を変えたことを知らなかった藤本は、はじめて入谷のピッチングを見たとき、驚いてそう言ったが、チームになじめずに戸惑っているこの後輩にたえず気を配ってくれるのだった。
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長南恒夫

2017-11-07 20:25:15 | 日記
1957年

長南投手は五尺八寸、十八貫、その左腕から繰り出す内角低目をつく変化球は既に県下高校野球界には定評がある、一年生の時から主戦投手として活躍している名実ともに本チームのエースたる貫禄は十分、過去数試合を通じ必ず相手チームから十五個以上の三振を奪っている、三宅捕手は一昨年度長南投手のリリーフとして大いに活躍したがその球質と強肩を買われ捕手に起用されたもので、豊富な経験を生かし長南投手とよく呼吸を合わせ名バッテリーを組んでいる。


対木更津一戦で延長十八回の投げ合いをやった。匝瑳越川は好投したが、やはり疲労からボールにのびがなかった、これを安房水剣持を中心としたクリーン・アップ・トリオがチャンスによく打ち、よく走って匝瑳を降した、安房水は二回強打者剣持が1-2のあと外角高めの速球を左翼線スタンドぎりぎりにホーマーしてリード、しかし匝瑳もよく食い下り、六回には二死後遊ゴロに出た最上を一塁におき、越川が長南の初球を左翼スタンドに叩き込み逆転、ホーマーの応しゅうにファンを喜ばせた。安房水もこの裏四球と敵失で反撃の糸口をつかみ二死後、剣持、島田の連続二安打で二点を加えてリードを奪った、続く七回にも網代の内野安打と遊撃大木(滋)のトンネルでダメ押しの一点を加え、長南の好投で守り切った、匝瑳も善戦したが長南のシュート、ドロップに手を焼き、越川のホーマーを除いては散発の四安打に押えられ万事休した。
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吉野晃司

2017-11-07 19:48:06 | 日記
1959年

銚子市立高

本年はいままでにないチーム力の充実で張り切っており、大宮大会出場を目指し猛練習を積んでいる。練習試合も活発で銚子商、成田高とは互角の試合を惜しくも失策で失って敗れたほかは多古、旭農、小見川、市原一と対戦して撃破好成績をあげている。投手吉野はアウトコース低目をつく直球とシュートボールを武器に落ちる球とゆるいカーブを使い分けて好調のときは県内Aクラスのチームでも打ちくずすことはちょっと無理、しかもインサイドワークでは県下一と豊田監督自慢の捕手野口の好リードを受け、バッテリー陣は県内でも一級もの、内野陣は主将の寺井を一塁に、二塁工藤、三塁沢田、遊原田の布陣であるが、まだもろさがある。外野陣は何れも俊足強肩ぞろいだ。一方攻撃面では、選球よくネバリのある野口をトップに石毛が二番、これに樫井、寺井、吉野のクリーンアップに、チャンスに強い沢田が続きいままでの練習試合でもここらあたりが得点源となっているが、下位にハリがないのがキズで、この点切れ目のない打線形成に全力をあげている。
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西沢道夫

2017-11-07 19:25:37 | 日記
名古屋軍の養成選手としてプロで生まれた選手。六尺弱の長身を物にして投手としては素直な投球フォームで、投げ下ろしの低目をつく直球とブレーキは小さいが鋭いカーブをもって名軍に相富貢献したのである。全成績五十九勝六十五敗、防御率は二・二二であり、かつては名軍投手三羽烏といわれた一人であった。打力も豊富で金星に転じてからは一塁菊矢の退いたあとを埋めたのが定位置となって今度は打力を生かしている。天分もあるし何時も若さに満ち輝いているのはよい。
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川崎義通

2017-11-07 19:00:46 | 日記
1965年

長崎から船で四時間かかる離島で、地理的に恵まれず、練習相手がいない。従って新チーム結成後の試合数も九州大会予選とNHK杯予選の二試合だけ。しかも昨年から残っているのは川崎、河内の二人だけであり、経験不足が心配。そういったチームだけに昨年につづいてマウンドをふむ川崎が頼り。川崎は昨年にくらべるとスピードは出てきているが、ストライクとボールがはっきりしているのが難点、カーブやシュートも投げるがこのところ直球のコントロールをつける点に重点をおいて練習した結果、だいぶよくなってきた。この川崎はバッティングの面でも中心選手で三割を打ち、長打力もあるところから四番を打つ。このほかシェアーなバッティングをする河内、ファイター三番井川らがいるが、チーム平均打率七厘弱であり、二試合とも得点1点に止まっている。川崎がよくなっているとはいえ、3、4点の失点は覚悟せねばなるまいから、それをはねかえせるかどうか。最近、全般的に上昇しているということだが・・・。
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小川善治

2017-11-07 18:50:40 | 日記
1956年

大映投手陣の中で林とともに最も安定している投手。純粋のオーバースローで、コントロールがよい。最近、横から投げることを覚えたが、まだその必要もなかろう。

千葉商ー明大ー小口工作ー大映、五尺八寸 十七貫 三十一才
右投右打 千葉県 千葉市道場南町三七
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吉江英四郎

2017-11-06 21:33:34 | 日記
1949年

東急の吉江は素晴らしいイン・シュートを持っているがピポットが悪く、アウト・ドロップに威力がない、勢いピッチングが単調になって、後半に力がガクンとおちる。
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井上慎一

2017-11-05 21:57:36 | 日記
1952年

球質の重さでは新人中抜きんでている。球は真直ぐにくるより殆どシュートしている場合の方が多い。球筋だけからいうと、別所投手に近い方かもしれない。だから気を入れて投げると、そんなに飛ばない。これで球速を加えてくれば、もっともっと打ち難くなる。シュートがきいてくればまたドロップも効力を発揮する。相反したコースの球だからである。井上の最も得意とするのはアウト・コースの低目に落ちる球であるが、この球はだれでも投げられるという性質の球ではなく井上のようにサイドハンドを得手とする投手の方が効果も大きいのである。それもストライクとボールの判断のつきにくい個所を狙うと、打者の方でネをあげてしまう。この風変りな投手が成功する所以である。
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吉沢勝

2017-11-03 08:01:08 | 日記
1963年

巨人は七日午後零時三十分、東京銀座西の読売新聞社五階会議室で、北海高のエース吉沢勝投手(18)=1㍍80、76㌔、左投げ左打ち=の入団発表を行った。阪急との二重契約問題で話題を投げた同投手だけに報道陣も多数つめかけたが、高橋球団社長、佐々木代表、内堀スカウトの巨人関係者、吉沢選手側から母親よしよさん(54)はじめオジ内堀賢郎氏夫妻、同阿部実氏、実兄常美氏らが立ち会った。同投手は発表後多摩川の合宿で川上監督、中尾コーチにあいさつを行った。なお吉沢投手はきょう八日午前十一時からの練習に参加、五、六日東京に滞在したあと、再び北海道に帰り、来春の卒業まで学業に専念する。背番号は仮番号で77。

球界を騒がせた阪急との二十契約問題の間は北海道にひきこもっていた吉沢選手が、初めて報道陣の前へ現れた。カメラマンもふくめて約三十人ほどが待つ読売本社の五階特別会議室。 学生服をきちんと着込んだ吉沢は、さらりとした表情で席についた。まだ童顔が残る1㍍80という上背は、いかにも投打に評判となった力量をしのばせる。前後左右からたかれるフラッシュにもさほど驚いた顔もみせない。野球選手には欠かせない強い心臓も備えているようだ。「前からはいりたいと思っていた巨人に入団できてうれしいです。一生懸命がんばります。巨人のチームカラーがとにかく好きだった。北海道はテレビも野球中継もあまりはいらない。だからプロ野球はほとんど見てないですが、この間の日本シリーズはテレビで見ていて、僕も早く投げたくてたまらなかった。これまでは直球、カーブ、シュートしか投げたことがない。その中で自信があるのはやはり直球です。伊藤さん、藤田さんのような投手になりたいです。トレーニングは毎日ランニングをやっています」問われるままに巨人入りの感想をとぎれとぎれに話した。札幌は一年のうち半分しか野球ができないそうだが、甲子園出場4回(3738年春、3637年夏)しかも彼の投打にわたった活躍は輝かしい高校生活の思い出となっている。とくに打者としての実績も忘れられないが「プロへはいれば、ずっと投手としてやっていきたいです」とはっきりいっている。また打撃もきく左投手ということは巨人投手陣に貴重な存在だが、生まれながらの左ききにも、小学校四年のとき、オジさんにいわれて字など左右で書くようになおされたという。学校でのあだ名はテク「よくわかんないのですが、テクテク歩くということかららしいんです」とちょっとてれくさそいうに笑っていた。ところで阪急との二十契約問題にふれると「世間を騒がせて迷惑をかけたと思っています。もし巨人じゃなくて阪急に裁定がくだされれば、阪急にも迷惑をかけているので、いけないのじゃないかと思っていました」と下を向いた。横からオジの阿部氏が「その話はかんべんしてやってください」と報道陣を制していたが、この試練を乗り越えて、吉沢がどのように大成していくかも、一つのみどころといえるだろう。吉沢投手が多摩川の合宿を訪れたのは三時ちょっと前。この日巨人は一時からトレーニングを行ったが、早めに切り上げたので柴田、船田 、高橋ら宿舎組以外レギュラーは見あたらず、静かなもの。出迎えた武宮、中尾両コーチが「北海道はもう寒いだろう。向こうでは走っていたか」「北海道は冬の間が困るな」と話しかけると、吉沢は「向こうでは毎日軽いキャッチボールとランニングを二時間ほどしていました」と顔を紅潮させた。そこへ川上監督が顔をみせ、ニコニコ顔で手を差しだした。「やあ、おめでとう。自分の思うところへはいれてよかったな。一度君を北海道で見たことがあるが、こんなに大きかったかな。ウチの渡辺とどっこいどっこいだ。まったくたのもしい」真ん中に吉沢をはさんで、中尾コーチと川上監督が交互に背伸びをして周囲を笑わせた。吉沢は「もう、ほんとうに胸いっぱいでものがいえないくらいです。ただ力いっぱいがんばるだけです」と感激していた。

川上監督の話 一週間ほど東京にいるので、今晩は合宿に泊まってもらって、あすから練習してもらう。吉沢はバネがいいし、体力もあるので、二、三年したら左のエースになってくれるだろう。素質も図抜けたものをもっているから、きっとやってくれると信じている。

母親よしよさんの話 いろいろ世間を騒がせましたが、これで本当にほっとしました。勝は小さいときから勝ち気な子でしたが、プロへはいってもくじけることなく、がんばってもらいたいと思うだけです。

佐々木代表の話 私は吉沢君は二十契約じゃないかとはじめから思っていた。しかしなにかと本人も苦しんだことと思うが、これからは巨人軍で一生懸命やるだろう。卒業までは学業に専念させるが、その間のトレーニングの方法などは中尾コーチから指示があるはずだ。

吉沢投手の横顔

甲子園出場のベテラン飛沢監督の秘蔵っ子のひとりとして、道内では一年生のときから注目された大型投手。一年生のときはエース松谷(現東映)の控えで登板の機会に恵まれなかったが、一部では松谷より高く評価されていた二年生の夏の大会でベスト8に残ったとき、松谷が足を痛めたので初めて甲子園のマウンドを踏み、一躍頭角を現した。今春の選抜大会では決勝戦で下関商池永と投げ合って敗れはしたが、チームを準優勝に導く原動力となった。今夏の大会は予選で函館工に敗退している。バッティングもよく、道産子特有の負けずきらいな性格は人一倍。
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押田令三

2017-11-02 22:16:08 | 日記
1960年

高校時代

篠山鳳鳴は投手力と守備力がいい。二年生ながら去年もエースとして大会に登板した押田投手は長身から投げ下ろす速球、シュート、カーブに威力をもっている。昨秋の県大会でも県尼崎を八回まで2安打に押える快投を示している。控えの左腕大林もかなりの威力をもっている。だが打線がちょっと力不足。山本、富田、栗野、木村、小島の上位はいいが、下位が弱く、上位打者も変化球にモロい。打線の奮起で押田を盛り立てれば、一昨年準々決勝まで進出した当時のような快進撃も夢ではない。

鳳鳴が一回三点とったとき早くも試合のメドがついた。この回鳳鳴は一死後大林が一、二塁間を抜きつづく富田が左翼ラッキーゾーンへワンバウンドではいる大二塁打、二死後松本の三遊間内野安打で二人がなだれ込み木村の左前安打で三点目。さらに四回は一死後押田、山本が町田と大林の二塁打で、また三点を加えた。それに押田が好調で速球、シュートで有馬を完封、好打力と合わせて二回戦の対滝川がおもしろくなりそうだ。
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