プロ野球 OB投手資料ブログ

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永利勇吉

2021-01-23 12:48:51 | 日記

永利は、ろくにものもいわず、メシをかき込んだ。もう五杯目、まったくよく食う男だ。わたしも若いころから食べるほうでは人後に落ちなかった。五十五歳のいまでも、朝食は米のメシがいいし、かるく三杯はお代わりして若手スカウト諸君にちょいちょいひやかされたりする。いや、実のところ、よく食べるくらいでなければ、日本中を走り回るスカウト家業はつとまらないのだ。そのわたしも、永利にはドギモを抜かれた。どこへはいってしまうのか、五杯、六杯のうちはまだよかったが、十杯をこえるころから、料亭の女中がプリプリしはじめた。無理もない。こんな大食漢に出会ったのは女中もはじめてだろう。こっちだって、しまいにはハラハラものだ。わたしのおかずをすすめたり、野球の選手はみんなよく食べるんだと、それとなく女中の耳に入れて、きげんをなおしてもらおうと試みたりした。お代わりは、十八杯でと決まった。永利勇吉君ー、記憶している方もあるかと思う。昭和三十七年、失恋のすえ四十一歳で鉄道自殺をとげた元西鉄捕手の永利君である。立大時代から強肩、打力のパンチもある好捕手で、立大卒業後、ノンプロ別府星野組をへて阪急入りした。昭和二十四年の暮れ、職業野球がセ、パの二リーグに分裂した直後、当時セ会長の故安田庄司さんから依頼をうけて、引き抜き工作に走り回っていたわたしは、宝塚駅に近い料亭「宝蘭」で永利を勧誘、諾否の返事を聞く前に、まず、その食いっぷりに驚かされたのである。永利は、無口な男だった。マスクをかぶり、投手をリードしているときは、むろん声も出し、テキパキと動いたが、ユニホームをぬぐと、とたんにむっつり屋になった。お世辞をいうでもなく、喜怒哀楽をはっきりあらわすでもなく、はたから見ていると、永利のヤツ、なにを楽しみに暮らしているんだろうと人ごとながら気になるほどだった。わたしはこの交渉にかかる前、同じ阪急の速球投手天保義夫を取りそこねたので、永利はぜびものにしたかった。食事が終わり、さっそく勧誘の話し合いにはいったが、無口な永利は、こういう改まった席へ出ると、よけい口が重くなるらしい。こちらがああだこうだと話しかけても、とにかくうつ向いたままだ。話をする。相手がのってくる。じゃ、これでどうだと契約金を示す。こうした勧誘交渉には、すべてタイミングというものがある。ところが、相手がしゃべってくれないことには、タイミングのつかみようがない。おかげで、むっつりうつ向いた男を相手に、わたしは一人芝居を演じているようなかっこうだった。永利に口をかけてから、彼の気持ちがどう変わっていったのか、よくわからなかったが、どうやら、はじめからパイレーツ入りはいやではなかったらしい。間もタイミングも無視したあげく、契約金を示すと、簡単にコックリうなずいた。永利は大食漢だったばかりにいろいろなエピソードを残した。人知れぬ苦労もしたはずである。二十四年といえばまだまだ食糧不足、たらふく食べるにはヤミ米を手に入れるほかなかった時代だ。グラウンドで張り切る前に、まず食事の満足を得るため、永利がどんな苦労したかと思うと、いまでも心が痛む。二十五年、パイレーツの一員となった永利は、かなりの活躍だった。前年、阪急での成績は78試合に出ただけで打率も2割2分9厘と低かったが、二十五年は132試合に出場して打率3割(十四位)、ホームラン21本、打点80、捕手としては堂々たる成績だった。パイレーツはパの西鉄グリッパースと合併、新チーム西鉄ライオンズが生まれるが、この合併のごたごたにつけ込んだかっこうで、二リーグ分裂時を再現するような引き抜き合戦が演じられた。セ・リーグの攻勢は激しく、日比野武捕手、南村不可止内野手(現巨人ヘッドコーチ、南村侑広氏)平井正明遊撃手、関口清治外野手を巨人がねらっていた。やがて永利にも手がのび、わたしは神戸の二つ手前、三ノ宮駅のプラットホームで、セの使者と永利をめぐって力ずくの対決をすることになる。


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