本川橋から平和記念公園内の道を東に向かって行くと途中に、
この地の謂れが描かれた説明板が有ります。
2021年4月20日撮影
旧中島地区 中島本町
現在、平和記念公園になっている場所は、被爆前は中島地区と呼ばれ、幕末から、明治・大正にかけて、広島市の中心的繁華街としてにぎわった歴史ある街でした。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が投下され、この地区の住民はもとより、付近で建物疎開作業に従事していた多くの人々が非業の死をとげ、街並みも一瞬のうちに消え去ってしまいました。
2019年10月18日撮影
説明板の中国新聞社が復元した地図(被爆前)を拡大しました。
昭和14年の戦時下の廣島地図の復刻版での現平和記念公園周辺
元安橋から西へ
第一生命支店→第一生命広島支社
穂下写眞館→穂下写真館
梅園→梅圓製菓(吉沢)
高千穂館→高千穂館(映画館)
マトヤ洋服店→マトヤ洋服店(香浦)3月疎開▽滝宮
昭和14年の復刻版の地図のお店の名前も、
中国新聞社が復元した地図にも変わらず載っています。
公園の原っぱの中に原爆は落とされたのでは有りません。
日々の生活が行われていた場所、中島本町でした。
被爆前の「街の地図」は有ったとしたら、
どんなのだろう?
中島本町町民慰霊碑の復元図は被爆時点での町の状況で、私が紹介した復元図は被爆までに中島本町の時代の変化も含めた復元図ではないかと思います。
私が持っている復刻版の「大日本職業別明細圖・大廣島市・第三版」は昭和十四年三月十八日陸軍運輸部検閲済と赤字の検印が押されていますので、昭和十四年以前の当時の状況でしょう。
平和記念公園内建立の中島本町町民慰霊碑の根際に復元図があります。
http://masuda901.web.fc2.com/page2ax19tz.html
紹介の説明板以前に設置されたものですから違いもあるようです。
説明板には慈仙寺に国民学校分教場とありますが
復元図にはありません。
時代的なものの違いとは思いますが、他にもあるかは調べていませんが。