その時、私は4歳と7ヶ月と3日でした。
爆心地から3km離れた自宅のちっちゃな防空壕で被爆しました。
4歳ですから、多くの事は覚えていません。
原爆が落ちた瞬間は、ちっちゃな防空壕の入口にいたそうです。
警戒警報が解除になり、防空壕に一緒に逃げ込んでいたお祖母さんに、
壕のそばのイチジクを「取って」とお願いして、
お祖母さんが手を伸ばした瞬間に、
原爆が爆発し、
お祖母さんの後頭部の髪の毛が焼けました。
しかし、お祖母さんは髪の毛が焼けただけで済みました。
私はお祖母さんの影で無事でした。
私とお祖母さんは爆風で再び防空壕に転げ込んだのでしょうが、
思い出せません。
爆風が母屋を突き抜け、
縁側のガラス障子や部屋のふすまなどの建具はすっ飛び、
床の畳はすべて落ち、
天井もすべて落ち、
屋根の瓦は半分ずれ落ちて、
土壁も崩れていました。
この記憶は残っています。
他に、この日の記憶は、
真っ黒な太陽と、現在まで見た事がない真っ赤に燃える大きな大きな太陽です。
真っ黒な太陽は、
黒い雨を降らした雲の向こうの太陽だったのかもしれません。
真っ赤な大きな大きな太陽は、
広島を焼き尽くした炎が太陽を真っ赤にしたのかも知れません。
この、真っ黒な太陽と真っ赤な大きな大きな太陽は目に焼き付き、
頭の中には浮かびますが、
その色を描く事はできません。
6日の記憶はこれだけです。
その日の夜は何処に寝たのか、何を食べたのか、
後にお祖母さんから聞いていていたのに忘れてしまったのか、
全く記憶に有りません。
その後の事で忘れていない事があります。
忘れる事が出来ないのは、
歩いて5分ぐらいに所にある公園で、
市内から逃げてきた人達が力尽きて死んだ人を焼く匂いです。
大きな穴を掘り、壊れた家の木などを積んだその上に、
死体をめざしの様に並べ、積み重ねて焼いたそうです。
何日も何日も続きました。
その匂いは今でもすぐに判ります。
人を焼いている臭いだと…。
以上の事以外は、いくら思い出そうとしても、
今はもう出てきません。
若い時は、
あの時の事など思い出そうと想った事も有りませんでしたし、
体験を話そうと思った事も有りませんし、
書き残そうとも思った事も有りません。
反核運動、平和活動などにも、
背を向けてきました。
何故かと問われると、説明できません。
しかし、今この歳になって、
この平和は続けなければならないと、強烈に思うようになって来ました。
私の小さな記憶でも伝えなければ、
少しの人にでも伝えなければ、
と言う思いが募っています。
記憶が歪んで薄れて行く前に・・・
と言う事で書きました。