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朱蒙(チュモン) ~建国神話~

2016-11-29 | 韓国史劇・ドラマ・映画
韓国史劇「朱蒙(チュモン」を観て、建国神話について読んでいくととても面白いと思いました。
Wikipediaより抜粋

■東明聖王(とうめいせいおう)
高句麗の初代(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)とされる指導者であり、東明王とも呼ばれる。
姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、추모、チュモ)、
衆解(しゅうかい、중해、チュンヘ)とされる。




■天光受胎
朱蒙の母である河伯(かはく、黄河の水神)の娘を自称する柳花(ユファ)は、
太白山の南を流れる優渤水に居た所、扶余王の金蛙と出会ったが、柳花の「遊びに出た先で、
天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、ヘモス)に誘われ付いて行くと帰して貰えず、
両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」という話を疑った金蛙によって
部屋へ閉じ込められていた所、日光が柳花を照らし身を引いて避けても日光は追ってきて
柳花を身篭らせ、やがて大きな卵を産んだ。



金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。
路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。
自ら割ろうとしても割れず、遂に母親へ返した。
母が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。
7歳になると自ら弓を作り、矢を射ると百発百中だった、それが朱蒙である。

※ドラマの中でも朱蒙が弓を射ると百発百中で面白かったです。



朱蒙の名の由来は扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。
朱蒙は名の如く弓の達人であり将来必ず異心を抱くとして夫余国の人々は排除を
望んだが、王は朱蒙を庇い馬の世話を命じる。

しかし、朱蒙が駄馬を良く世話して肥し駿馬には餌を与えず痩せ細らせることで
王を駄馬に乗せ自らへ駿馬を賜らせることに成功し、また狩りへ出ると少ない射撃で多くの獣を
傷付けたため、夫余国の人々は再び朱蒙の暗殺を企てた。

陰謀を察知した朱蒙の母が逃亡を促すと、友である烏引・烏違(ヲヱン、ヲイ)の2人
(三国史記では、烏伊・摩離・陝父(ヲイ、マレ、センピョ)の3人)と共に逃亡した。

※この辺りがドラマでいうとオイ・マリ・ヒョッポの3人と言うことになります。


朱蒙は友と共に夫余を捨て東南へ逃走した。
淹水(鴨緑江の東北)まで来ると橋がなく、追手を恐れ川に向かって
「私は太陽の子で河伯(黄河の水神)の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、
どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈(スッポン)が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。
朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。

更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、鹘昇骨城(現遼寧省桓仁県五女山城)を築き都とした。
漢孝元帝の建昭2年(西暦紀元前37年)に国を建て高句麗と号した。

即位直後から隣接する濊貊(三国史記中の靺鞨は濊貊を指す)のに対して略奪や破壊を繰り返すと、
濊貊は恐れて服属した。
しかし、夫余の圧迫を受け紀元3年になると丸都城へ遷都する。


紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。
朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。
同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。

※史劇はこうした歴史と照らし合わせながら観るととても面白い。
私が史劇を好むことも、こうした理由からだけど・・・。


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