帰省中、たまたま本棚にあった『桜田門外ノ変』(吉村昭/新潮文庫)の<上>をすっ飛ばして、<下>を読みました。二階に上がってから梯子をはずされた者の無残な末路を。
なぎらが『天地人』の上杉に期待したのは、
- 容易には抜かず、ひとたび抜けば狙い定めた敵を必ず斬る“伝家の宝刀”
というアクションだったんですよ。戦国の世に生まれ、いっそ戦国を極めてやろうじゃないか、と駆け抜けた『風林火山』(2007年)の武田との対比で。
しかし、抜けなかったらしい。なぜ。
それが直江状から関ヶ原までの流れだと思うのですが・・・石田三成(小栗旬)を二階に上げておいて、梯子をはずした直江兼続(妻夫木聡)の友情ってなんですか。
慶長3(1598)年3月。
会津へ移った上杉は、
- 伊達の抑えとする白石城:甘糟景継(パパイヤ鈴木)。
- 徳川に対する南山城:大国実頼(与七)(小泉孝太郎)
- 出羽の最上、越後の堀を制する米沢城:樋口惚右衛門(高嶋政伸)
と、仮想敵に対して「国境の守りを固める」ことに着手。「軍道、新しき城の普請」には泉沢久秀(東幹久)があたることになりました。
そうこうするうちに太閤殿下が亡くなり、前田利家が亡くなり、いよいよ徳川家康(松方弘樹)との“手切れ”の時が来ます。
(家康)「この場で糺さねばならぬことが、もうひとつござった。石田治部少も拙者の闇討ちを企てておった。しかも上杉の家老、直江山城守は主君を差し置き、治部少と相語らって天下の政(まつりごと)を私せんとしたと聞き及ぶ。かような輩がこの場に連なっておることの方が由々しき不埒ではござらんか?」(第36回『史上最大の密約』)
はは、これ、当たってる。
でも、んなこたぁしとらん、ふざけんなよコブ、と上杉景勝(北村一輝)は猛反発。まあ、当然です。ボールをストライクと判定されて激怒したバッターの代わりに監督が主審に抗議するようなもので、そうしなければ選手の信頼を失い、采配を振れなくなりますから。ボールがボールだったとしても、ここは出るところ。
(景勝)「今後は上杉の仕切りはすべて、そちに委ねる。儂の指図は仰がずともよい。越後でも上方でも、それがやり易かろう」(第33回『五人の兼続』、以下同)
(兼続)「殿・・・」
(景勝)「そなたの思うがまま働くがよい。儂は、その盾となろう。どうじゃ」
(兼続)「さほどまでのご信義、この兼続、申す言葉とてございませぬ!」
これが上杉家の事情なので「主君を差し置き」はよけいなお世話。ところが、
- 治部少の“専制”が事実であろうとなかろうと、上杉になんのかかわりがあるのか
というスタンスで景勝が兼続を庇ったところを見ると・・・兼続、伝えてないんだな、闇討ち寸止めの件を、景勝に。効率的な決裁と事実の省略は違うのに。
(兼続)「今、われらが為すべきは、その(関東管領として越後のみならず関八州をも安らかに保とうとお心を砕かれた謙信公の)お志を継ぎ、さらなる高みを目指すことかと」(第34回『さらば、越後』、以下同)
(景勝)「ではそなた、越後より日本国の安泰を期せと申すか」
(兼続)「それこそが、義の道ではございませぬか」
(兼続)「あのあからさまな、石田殿への敵意。やはり徳川殿は天下を奪うつもりかと」(第35回『家康の陰謀』、以下同)
(景勝)「儂も徳川殿にはちと驚いた」
(兼続)「石田殿1人では太刀打ちできぬ。石田殿を助けてやる者が、豊臣の家臣におらぬとは・・・」
(景勝)「兼続。治部少に肩入れしすぎてはおらぬか。儂らが今一番やるべきことは、(領)国を整えることじゃ」
「豊臣」兼続と「上杉」景勝の対立は、この頃からあったと思います。兼続は、闇討ちプランはでっちあげだ!とはさすがに云えず、
(兼続)「天下は、唯一人のものにあらず!」(第36回『史上最大の密約』、以下同)
とかわしましたが、うーん・・・そもそも家康は「天下は、唯二人のものにあらず!」と告発しているので、苦しい。
そして、引越し直後で忙しいだろうから会津へ帰れば、おお帰ったるわ、と大喧嘩して伏見城をおん出、帰国の途上、俺が身を引けば万事、円く収まるんじゃないか・・・と考えたらしい三成と、彼が蟄居する近江佐和山城に立ち寄った兼続が密約を交わしました。
目的はただひとつ。家康を殺る。
- 家康が豊臣秀頼を奉じることで「逆賊=上杉」となり、会津討伐軍が東下
- その隙に、三成が「真(まこと)の秀頼さまの天下の軍勢」を京、大坂で挙兵
- 上杉が持久戦に持ち込むことで、疲弊し、「秀頼=錦の御旗」を失った豊臣恩顧の大名(福島、加藤、藤堂、池田など)が「逆賊=徳川」から離反
- そうなれば西国大名(毛利、小早川、島津など)の力が上、毛利輝元を総大将として結束し、どちらの云い分(言葉)が正当(真)なのかを天下万民に示す
ここで、『天地人』の思想の根幹を成すせりふが飛び出します。
(兼続)「われらは地の利を盾に、会津にやって来た家康を必ず緒戦にて打ち破る。その時こそ、天の時」
慶長5(1600)年。
上杉は会津に神指城を普請、白河の革籠原に東西5キロの「正義の砦」を築いて討伐軍を待ち受ける。
7月17日。三成が家康討伐軍(総大将は毛利輝元、副将は宇喜多秀家)を挙兵。
7月21日。家康が江戸を発ち、下野の小山へ。呼応した伊達が白石城を攻略。甘糟はどうした。
最上(出羽)→←伊達(陸奥)
↓
上杉(会津)
↑
徳川(関東)
ヤバいけど、ここまではがんばる、と決めたので上杉はがんばる。
三成挙兵の報せが革籠原の上杉陣に届く。それでも会津討伐軍は割れない。やがて反転し、西上。
- 豊臣恩顧の大名が家康を見限ること
- 上杉が家康を討つこと(なので、家康が手の届くところまで来なければならない)
が密約の肝だったのに、1.も2.もダメでした。
新白河-小山(JR東北新幹線)間の営業キロってどのくらいだっけ。刻々と広がる家康との距離。首級を上げられる可能性は低い。
(景勝)「いずれは天が見限ろう」
でも、天は家康を見限らなかった。見限られたのはどちらの「正義」か。だから、景勝は追わなかったのでしょう。
(兼続)「われらの望みは、家康を倒す! 清き国を造ることのみ! それだけを願って・・・それだけを願ってここまで来たのでございまするぞ! 今討てば、それが叶いまする!」(第37回『家康への挑戦状』、以下同)
云わないんだなあ・・・どれほどの犠牲を払っても家康を討つべき理由を。
会津のいくさは、上方の大いくさの一局であり、自分が三成に承知させた「陰謀」であることを。直江状はその仕掛けだったことを。ここで家康を生かして返せば、三成との約束を破ることになる、と。
云えなかったんだなあ・・・肩入れするな、と釘を刺されて。
でも、それじゃ子供だ。家康の告発どおりになってしまった。主従にコンセンサスがないんじゃ・・・そういうこともひっくるめて、密約の外に差し置かれた主君として不徳の致すところ、が、
(景勝)「まこと、叶うと思うか。義に背いてまで敵を討てば、天はいずれわれらを見放すであろう。それでも追いたくば!・・・わしを斬ってからにせよ」
なんでしょうけど。「人の和」に生じた隙が上杉の「天の時」を失わせたような気がするよ。皮肉なもんです。
9月15日。関ヶ原の勝敗は歴史のとおり。
西軍(三成方)にも東軍(家康方)にも思い入れはありませんが、西軍の無念は伝わりますね。数100年経っても忘れられない無念は。
でも、『葵 徳川三代』(2000年)を観たくなったぞ。いいのか『天地人』。
(景勝)「家康。往生せよ」
(家康)「い、い、い、命ばかりはお助けくだされ」
↑は兼続の楽しい一人称の世界でしたが、形勢が逆転した今、せりふも逆転します。
三成どころか、景勝をも二階に上げてしまった兼続の一階への下ろし方に注目。日本を「東西」に分けた内乱の首謀者らしく、頼むよ。よし、これから第39回『三成の遺言』を観る。