賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

2019-04-30 23:25:26 | 霊的戦い

   【編集者注記】今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

   高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

   2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

   2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、刘さんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。

   アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。

   その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ネジみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。刘さんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時期、刘さんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「刘さん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

   このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。そこで、昔通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

   その後、ネット上で刘さんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「刘さん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

 

 

   それを聞いた刘さんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹のシャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

   「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

   全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。


霊的戦い:子供が病気にかかったが、私は神様の特別な恵みを見ました(II)

2019-04-29 21:44:37 | 霊的戦い

娘が又しても病に陥り、祝福を求める私の動機が明らかにされました

   その数日後、私は次女の太ももの内側にしこりのような物を発見しました。私が彼女を病院に連れて行くと、それはリンパ節だと医者は言いましたが、血液検査をしても原因は分かりませんでした。娘が声をからすほどに泣くのを見て私の心臓は引き裂かれそうになりました。切羽詰まった私の夫は地元で古くから伝わる治療法を見つけてきて、塩を熱し、それを毎日彼女の腫れ上がったリンパ節に塗りました。その数日後、しこりは少し小さくなったものの、無数の赤い斑点が彼女の体中に出てきたのです。私はもう一度彼女を急いで病院に連れて行きました。すると、医者は彼女を検査して、それはウイルスが引き起こしているもので、リンパ節内のウイルスを抑制することができれば、彼女は直ぐに良くなるけれど、発疹の上に水疱が出始めたら問題である、と言ったのです。これを聞いていると私の心はとても痛み、神を非難する心が又しても頭をもたげてきたのです:「彼女が病気になってからもう相当時間が経つわ。どうして彼女は良くならないの?私は祈って、悔い改めているのに。サタンはどうしてまだ娘をこんな風に痛めつけるの?神はどうして私の子供を助けてくれないのよ?」

霊的戦い,子供が病気にかかったが,私は神様の特別な恵みを見ました(II)

   集会の場で、私は自分の状態について話しました。ジン・ヤン姉妹は心配そうな口調で私にこう言ってくれました。「姉妹、母親として自分の子供が苦しむのを見ることはさぞ負担になることでしょう。でも私たちは信仰による人々です。私たちは、全てが神の御手の中にあると信じなければなりません。私たちは神の全能なる支配を認めなければならないのです。神のお許しがなければ、サタンはどれだけ暴れても私たちには何もできません。神の御言葉を一緒に読みましょう。」

   私は読みました、「神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」

   ジン・ヤン姉妹はこのように交流してくれました。「全能神の御言葉から、全能神の権威と御力が読み取れます。また、サタンの無力さ、卑劣さ、そして害悪も理解できます。私たちの考えとして、サタンは私たちを傷つけ、病気にし、不幸にさらすことができます。サタンは私たちを苦しめ、困らせ、人間にはできないことが出来るように思えます。しかし、神からしたら、サタンは地上の蛆にすら及びません。それは単に奉仕する物であり、引き立て役に過ぎないのです。それは神の働きを妨害し、邪魔することしかできず、全く何の能力も持っていません。神のお許しがなければ、サタンは私たちに何もしようとしません。ヨブ聖書に記述されている試練を受けた時も同じでした。サタンはヨブが神を恐れ、悪を避けていたことを嫌い、ヨブを滅ぼして神が栄光を手にできないようにしようとうずうずしていたのですが、サタンはいかに獰猛であろうとも、神のお許しなしにはヨブの頭の毛1本すら傷つけようとしなかったのです。これは神の権威が定められたことだったのです。あなたの子供も神の御手の中にあります。なので、神がお許しにならない限り、サタンは彼女を傷つけようとはしません。だからこそ、私たちはこのような状況に直面する時、神への信仰を持たなければならないのです。」

   私は彼女の交流を聞いた後、心の中でこう思いました:「正にその通りだわ!神のお許しがなければ、サタンは私の娘に何もできないのよ。それは事実なんだわ!以前、神のこの御言葉を読んだことがあったのに、どうしてこの状況に直面したとたんに忘れてしまったのかしら?私の神への信仰はなんて薄いのかしら!」

   ジン・ヤン姉妹は続けてこう交流してくれました:「神は意味の無い働きは一切されません。神の優しい御旨はこのような状況が私たちに降りかかることを許すということに込められており、それによって私たちが霊的にどれだけ未熟であるのか、そして私たちが神に対して真の信仰を大して持てていないということを示す事実を明らかにしてくださるのです。それはまた、私たちの信仰に対する考え方が間違っていることも明らかにしてくださりました。私たちは信仰する中で、常に祝福を求めること、取引をすることを考えており、不純な心を持ち過ぎているのです。姉妹、神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」

   私は熱心に読みました。「あなたがたは、神を信じる人々は神を愛すべきであり、祝福のためでなく、神の旨を満たすためだけに努力すべきであると言うが、あなたがたの生活の中に現れているものは、それとは程遠く、ひどく汚れている。ほとんどの人々が、平穏やその他の利益のために、神を信じている。あなたは、自分の利益にならなければ、神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。これがどうしてあなたのほんとうの背丈でありえようか。家族の中で避けられない出来事(子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の者たちからの迫害等)については、あなたは、日常生活で度々起こるこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。このような事が起きると、あなたは当惑してどうして良いか分からなくなる――そして殆どの場合、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙された。神の業が自分を混乱させたのだと、不平を言う。あなたがたは、そのような思いを抱いたことはないだろうか。このようなことが自分に起こるのは希であると思っているだろうか。あなたがたは、こうした出来事のただ中で生活し日々過ごしている。あなたがたは、神への信仰を成功させることや、神の旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の背丈は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。」(「実践(3)」より)

   ジン・ヤン姉妹はこのように交流してくれました:「神は私たちの信仰の誤った観念と動機を明かしてくださりました。私たちは、神を信仰しているのだから、神は私たちを守るべきで、家庭でも不幸が起るはずがない、私たちと私たちが愛する人たちは病気に罹らなくてよいはずだと思っています。物事がそうなれば、私たちは生気をもって信仰するのですが、そうでなければ否定的な姿勢の中を生きて神を非難してしまいます。時に、私たちは神に祈り、自分たちの堕落を省みて、神を頼り、このような不幸な出来事を神の御旨に委ねることもありますが、心の中では神が自分たちの要求を満たし、平安と祝福を与えてくださることを期待し続けています。神が私たちの要求を満たしてくれないと、私たちは神を非難し、状況がひどく悪化すると神を見捨ててしまう場合すらあります。これは、私たちは信仰する中でただ単に神と取引をしているだけで、それは恵みと平安を手にするためだけのものであるということを示しているのです。これはあまりにも不純過ぎます。神は創造の主であり、私たちは創造物です。神が私たちに平安と祝福を与えてくださっても、与えてくださらなくても、私たちが神を信仰し、礼拝すべきであるというのは、変わることのない天地の原則です。それは私たちの本分なのです。ならば、私たちは期待に反する状況に遭遇すると、どうして神を非難するのでしょうか?サタンは人類が堕落する全体的な原因です。サタンは常に人々を傷つけ、苦しめ、私たちの苦しみは全てそこから生まれています。神を信仰し始める前、私たちはよくサタンから傷つけられ、ありとあらゆる種の病に罹っていませんでしたか?ならば、どうしてサタンを嫌わないのでしょうか?それは良心と理知を顕著に欠いていると思いませんか?考えてみてください、信仰を持たない中で子供が病気になったら、私たちはただパニックに陥るだけです。私たちはどうしていいのか分からず、増々辛い思いをします。しかし、私たちは神を信仰しているので、私たちには拠り所があるのです。私たちは自分たちの信仰がその状況を乗り越えさせてくれると信頼できると同時に、それによって真理を理解し、人類を傷つけるサタンの邪悪な本質を見抜くこともできるのです。私たちは神の全能なる支配をもっと理解することができ、私たちの神への信仰も厚くなり、私たちの霊的背丈も次第に成長することができます。これは神から私たちへの特別な恵みと祝福であると同時に、私たちが教訓を学び、真理を得るための貴重な機会でもあるのです。」

   私は神の御言葉と姉妹の交流を受けて恥かしくなり、動揺しました。私は頷いて、自分が本当に良心、理知、そして人間性を欠いていたことを知りました。私の神への信仰は自分が恵みと祝福を得るためだけのものだったのです。神の祝福を受けた時、私の心は喜びで満ち溢れました。しかし、試練が降りかかり、自分の子供が病気になり、素早く回復しないとなると、私は神を非難し、誤解していました。サタンは私が神の救いを受けるのを妨げるために、私の子供が連続的に病気に罹るようにしていました。私はサタンを嫌うかわりに、神を非難していたのです。これは極めて理不尽なことです。当時のことを振り返ってみると、私は集会に参加したり、神の御言葉を読んでいても、自分の娘の病気のことが気掛かりでそれに情熱を傾けることができていませんでした。私はサタンの妨害を受けて取り乱していました。私は本当に霊的に未熟なのです!

   ジン・ヤン姉妹は考え込むように言いました:「姉妹、私たちは神の御言葉を読んで、神の御心を理解したじゃありませんか。まだ子供の病気のことが心配なんですか?」

   私は照れながら笑みをこぼし、首を振ってこう言いました:「もう心配はしていません。私の娘が神の御手の中にあることはもう理解できましたから。ただ、私の信仰が弱すぎるだけです。私は今回の試練を通じて神に文句を言ってしまったにもかかわらず、神は私に御慈悲を差し伸べてくださり、変わらず私を導いて、私が真理を理解できるようにしてくださりました。神に感謝です!私は真理を追い求めることに更なる努力を注ぎ、神の試練を受け入れられるよう霊的に成長する必要があります。私はもう神を非難して、サタンの餌食になるわけにはいかないのです。」

   ジン・ヤン姉妹は笑顔で頷いてこう言いました。「私たちの信仰が弱いのはまだ神の全能なる支配を正しく理解できていないからです。私たちは神の唯一なる権威と御力を認識していると口では言うことができても、実体験を欠いているのです。」彼女はそう言いながらコンピュータの電源を入れてこう言いました。「ドキュメンタリー 『万物の主権を握るお方』 を見ましょう。」

   私は嬉々として頷き、コンピュータを見つめました。私はジン・ヤン姉妹がYouTubeでそのタイトルを検索して、それを軽くタップするのを見ました。すると、音楽が鳴り始め、壮大なイメージが目の前にぱっと映った瞬間、私は強く感動しました。

後記

   太陽が沈み、夕日は空の半分に柔らかみのある真っ赤な夕焼けを残しました。公園で散歩をしている人たちがいれば、ボールで遊んでいる人たちもいました。子供たちは芝生の上でお互いを追いかけ回して遊んでいました。私は神の御言葉の讃美歌を聞きながら芝生の上に座り、よろよろと進みながら、歩こうと頑張っては、転がり、またはい上がる娘の明るい笑顔と活気にあふれる愛らしい姿を眺めてました。私は嬉しさのあまり、笑みをこぼしました。


神がヨブをサタンに渡したことは神の業の目的とどう関連するか

2019-04-26 21:18:50 | 聖書の奥義を開く

   大半の人々がヨブは完全で正しい人で、神を畏れ悪を避けたと知っているが、だからと言って神の意図をより深く理解できる訳ではない。人々はヨブの人間性とヨブが追い求めた姿勢を羨む一方で、次のような疑問を持つ。「ヨブは完全で正しく、人々にそれほど愛されたのなら、何故神はヨブをサタンの手に渡し、そのような苦しみを経験させたのだろうか」そのような疑問を大勢の人達が感じるのも当然で、実際そのような疑問を持つ人は多い。この点に悩む人は多いので、このことを改めて取り上げてきちんと説明する必要がある。

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   神の成すことは全て必要なことであり、特別な意味を持っている。なぜならば、神が人に対してすることは全て神の経営と人の救いに関連するからである。当然、ヨブに対してしたことも同じである。ヨブが神の目に完全で正しい人であったとしても、である。言い換えれば、神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、悪であるものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの非難、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの非難に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、そしてサタンに自分たちへの攻撃を諦めさせるのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。彼らが救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従う全ての人は誘惑とサタンからの大小の攻撃に直面しなければならない。このような誘惑や攻撃から抜け出た者が、サタンに完全勝利することができる。このような者が、神に救われた者である。つまり、神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。ヨブは正にそのような自由な人であり、神が彼をサタンの手に渡したのは、彼がこのように自由な人になるためだったのである。

   ヨブはサタンに虐待されたが、永遠の自由を得ることができ、二度とサタンの堕落、虐待、そして中傷の対象とならないという特権を得ることができ、神を見上げて自由に、束縛されずに光りの中を歩み、神から与えられた祝福の中を生きる特権を得た。誰もこの特権を剥奪したり、廃止したり、自分のものとするために取り上げたりすることはできない。それはヨブの信仰、決心、神に対する畏れと従順に対して与えられたものである。ヨブは自らの命という代価を払って、地上での喜びと幸せを勝ち取り、地にある真の被造物として創造主を誰にも妨げられることなく礼拝する権利と資格を勝ち取り、誰にも妨げられることなく礼拝することを天に任命され、地に認められた。これもまた、ヨブが誘惑を耐えぬいたことによる素晴らしい結果のひとつである。

   まだ救われていない人々の人生はしばしばサタンに介入され、支配されてさえいる。言い換えれば、救われていない人はサタンの虜であり、彼らには自由がない。そのような人はサタンに解放されておらず、神を礼拝する資質も資格もない。そのような人々はサタンが近くで狙っており、激しく攻撃される。彼らには幸せがなく、普通の存在でいる資格もなく、更には尊厳もない。もしあなたが立ち上がり、神への信仰と従順、神に対する畏れを武器として用い、命がけでサタンと戦うのであれば、そしてサタンを完全に打ち負かし、サタンがあなたを見たのならしっぽを巻いて逃げるようになり、そうしてサタンの攻撃とあなたに対する非難から完全に離れることができるのであれば、その時あなたは救われて自由になれるのである。もしあなたがサタンとの関係を完全に断ち切ろうと決意していても、サタンを打ち負かす武器を身に付けていないのであれば、あなたにとってまだ危険な状態である。時が経ち、サタンにひどく苦しめられ、一握りの力もあなたの中に残されておらず、それでもまだ証しとなることができず、サタンの非難と攻撃から完全に解放されていないのであれば、救われる望みはほとんどない。最後に神の業の完了が告げられる時、あなたはまだサタンの手の中におり、自らを解放することができず、従って救われる機会も望みもない。これが意味するのは、そのような人々は完全にサタンの虜となってしまうということである。

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神の試みを受け入れ、サタンの誘惑に勝利し、あなたの存在全てを神のものとされる

   人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの「協力」が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を「試す」ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。

『言葉は肉において現れる(続編)』より


見知らぬ人を受け入れて得た意外なもの

2019-04-25 21:40:47 | 神に帰す証

  私は以前、家庭教会で説教師をしていました。ある日、兄弟姉妹たちと会議を開いている最中、チェン牧師は聖書から次の説を読みました、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。」(ガラテヤ人への手紙1:6-7)。そして、彼はこう言いました、「兄弟姉妹の皆さん、東方閃電の信徒たちは、主イエス様が裁きの働きをしに再臨されたと言っています。そして、他の教会では善良な子羊たちの多くが彼らに奪われています。主の信者たちをしっかりと守れていないとなると、将来、主に説明がつきません。そこで、私は信者たちを守るため、見知らぬ人を受け入れることを全面的に禁止する決断をしました。そして、東方閃電を受け入れる人がいれば、その人は教会から追放されることになります。」私は彼の言葉にとても驚いてこう思いました、「どうして主を信仰する真の信者たちの多くが東方閃電を受け入れているんだ。どうしてそんなことが起っているんだ?これからは絶対に見知らぬ人を受け入れないように気をつけよう。」

   その後、私はチェン牧師の言葉を伝えるために各集会場に足を運び、それに従うようにと信者たちに伝えました。その後、私は、こうすることが主に対する強い献身であると信じながら、安堵の溜息をつきました。ある日、年配の姉妹が慌てて私の家にやってきてこう言いました、「フェンギン、知らない女性が東方閃電を説き勧めやってきて、主イエス様は既に真理を話すために再臨されていると言ってるわ。。」私はすかさず割って入り、「その女性はどこですか?」と聞いて、「これからそちらに向かいます」、と言いました。私は年配の姉妹の自宅に到着すると、福音を説きにやって来た姉妹の所へ足早に行ってこう言いました、「東方閃電を説き勧めているのはあなたですか?」彼女は、「そうですよ、叔母さま 」と笑顔で答えました。「東方閃電はヤ―ウェ神、主イエス様の再臨です」と言ったのです。私は、「東方閃電がヤ―ウェ神だなんて、聖書のどの節に記録されているのですか?」と尋ねました。「どうぞお引き取りください。あなたが何を説教されようと、私たちは信じません」と言うと、彼女は穏やかにこう応えました、「叔母さま、聖書にこう記されているのをお忘れではありませんか、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。」(ゼカリヤ書 10:1). 主はいなずまを造られる神なのではありませんか?」私は彼女の言葉を聞き、面と向って攻撃されたかのように唖然としてしまいました。私は自分の面目のためにこう言い返しました、「未信者たちに説教したければすればよろしい。それに、私たちはあなたがどなたか知りません。さらに、私たちは牧師と長老たちから見知らぬ人を受け入れることを禁じられています。お引き取りください!」しかし、彼女は落ち着いた口調でこう言いました、「しかし、私たち主の信者は主の御言葉を聞くべきだと思います。主イエス様は誰も見知らぬ人を受け入れてはならないとは決して仰っておられません。むしろ、主はこう仰りました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。主は、誰でも福音を説く使者を受け入れる者は主を受け入れると仰りました。しかし、あなたの牧師と長老たちはあなたが見知らぬ人を受け入れることを禁じています、彼らは主の教えに背いているのではありませんか?」他の人が急にこう言いました、「出て行かないなら、警察を呼ぶぞ。」そこにいた人たち全員が彼女を非難して脅し、そして彼女を追いやりました。

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   この姉妹が去った後、私は思わずこう考えました:「この人の言葉は聖書の内容から逸れていない。しかも、彼女はとても献身的だし、悪い女性のようには見えない。」夜になると、私の心臓は激しく鼓動し、私は強い違和感を覚えました。こうして、私は主の御気持を害したのではないかと内省しました。そして、私は以前、東方閃電を説き勧めていた人々を排斥していたことを思い出しました。そうしたことは主の御心に背いていたのでしょうか?私はこう考えると落ち着けませんでした。主イエス様が隣人を自身のように愛せよと教えてくださったことを考えると、私は増々困惑しました。これ故に、私は祈りを捧げました、「ああ、主よ、私はあなたのために働き、祈り、そして信者たちを守ってきました。なのに、どうして私の心臓は痛むのですか?見知らぬ人を受け入れないのは間違っているのでしょうか?ああ、主よ、私はとても困惑しています、あなたの御気持に沿うには何をすべきなのでしょう。ああ、主よ、どうか私を御導きください。」こう祈りを捧げた後、若い姉妹が口にした聖書の御言葉が私の頭に浮かびました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。私はじっくりと考えました:「そうだ!主イエス様は幼き子供すら受け入れるように仰りましたが、見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられません。とういうことは、あの姉妹を拒絶することは間違っているのでしょうか?」そして、私は牧師と長老たちが言ったことを思い出してこう考えました:「彼らは子羊たちのいのちを守るために、私たちが見知らぬ人を受け入れるのを禁止しておられるのだ。彼らは何も悪いことはしていない。」私はこの時、とても困惑しました。こうして、私は何度も祈りを捧げ、この事態を主に託し、主の御心を理解できるよう、主の御導きを請いました。

   その数日後、あの若い姉妹がまた私の家にやってきました。私はこう言いました、「近頃、東方閃電を説き勧める人たちが大勢いますが、私たちの牧師と長老たちは見知らぬ人とは関わりを持つなと繰り返し言われています。あなたは見知らぬ人ですし、私はあなたのことを知りません。」そして、彼女は静かにこう言いました、「叔母さま、あなたは説教師として、見知らぬ人を受け入れて知らぬ内に予想外の祝福を得た人たちが大勢いたことを知っておられるはずです。聖書にはこう記されています:「ロトも見知らぬ者たちを受け入れ、ソドムの街が破滅させられた時、2人の娘と共に生き残りました。遊女ラハブもまた見知らぬ者たちを受け入れて、彼女と家にいた他3人は共に滅びることを免れました。ザレパテの未亡人は預言者であったエリヤを受け入れると、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えませんでした。そして、未亡人の息子が重い病気になり、息が絶えた時、エリヤは神に祈りを捧げ、彼を蘇られました。見知らぬ人を受け入れた者たちは全員が知らぬ内に神の御恵みを授かっているのです。主イエス様はこれについてこう仰りました、『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイによる福音書 10:41)。これらは主から私たちへの教えであり、私たちはこれらを実践すべきなのです。叔母さま、私の言っていることは正しいですか?」私は、「はい、これは私たちも集会で説教していることです。」そして彼女は言いました、「叔母さま、これらについて話しているだけで、実践していなければ真理を得ることはありませんよ。主イエス様こう仰りました、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』(マタイによる福音書 7:24)。聖書に記されたこれらの例を読むと、見知らぬ人を受け入れれば、私たちは騙されないだけでなく、むしろ神の御加護と祝福を得られることが分かります。聖書にはこの記述もあります、『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。⋯』(ヘブル人への手紙 13:2). 牧師と長老の言うことを聞いて見知らぬ人を受け入れる人がいなければ、イエス・キリストの福音が西洋の国々から我々の国に広まることはあり得ません。私たちは西から来られる伝道者たちが誰だか知っているわけではありません。主イエス様はこう仰っておられます、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。』(マルコによる福音書16:15)。この人たちは全ての国々に行って福音を説いたわけですから、彼らのことを知らなかった人たちが大勢いたはずです。主イエス様の弟子たちとパウロがあちこちで主の福音を説いていた時と同じように、今も伝道者のことを知る人々が大勢いるはずがないのです。ならば、牧師と長老たちが見知らぬ人を受け入れるなと言うのは、主の教えに適っているでしょうか?宗教指導者の言うことをむやみに聞いて、見知らぬ人を受け入れることを拒否していたら、私たちは主の御言葉に背く愚か者だということにになりませんか?主を信仰していても、主の御言葉に従っていなければ天国に入れるはずなどありません。そうだと思いませんか、叔母さま?」

   彼女の言葉を聞いて、私はこう思いました:「その通りだ。主を信仰する人は主の御言葉に従うべきだ。主イエス様は見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられない、牧師と長老の言っていることは間違っているのか?」そして私はこう思いました:「いいや、違う!牧師と長老たちは、他の福音に従うことがあっても見知らぬ人を受け入れてはいけないと言われました。それは私たちのためを思って言われたことです。こう考えて、私は言いました、「聖書にはこう書かれています、『あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。』(ガラテヤ人への手紙 1:6-7)。従って、私たちが見知らぬ人を受け入れない理由は、他の福音に落ちてしまうことを恐れているからです。」彼女は笑顔でこう言いました、「叔母さま、宗教界にいる人々の多くは、あなたが口にされた聖書の節を全く理解できていません。それは、使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた書簡に書かれているものです。しかし、それは世の終わりの主を信仰する人々への教えであると、多くの人々は思っています。なので、彼らは決してこの言葉に対する適切な姿勢を持てていないのです。当時、パウロは別の地で福音を説いており、ガラテヤの教会にいた兄弟姉妹の多くが主イエス・キリストの道を離れ、神殿に戻り、続けてヤ―ウェ神を崇拝し、律法に従っていたことを知りました。パウロは教会のことが気掛かりでしたが、直ぐにガラテヤの教会に戻ることはできませんでした。それ故に、彼は教会にいる兄弟姉妹たちに呼び掛けて、注意を促すためにこの書簡を書いたのです。彼はこう言いました、『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。』(ガラテヤ人への手紙 3:1)。ユダヤ教の指導者、祭司長、律法学者、そしてパリサイ人たちはガラテヤの民を妨害し、イエス・キリストの御言葉を拒否するように言ったのです。これ故に、パウロは書簡を書いてこう伝えました、’あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、私には不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。’ その当時には、福音を説く人々のグループが2種類ありました。 1つは神の古い有り方、すなわち、ヤ―ウェ神を信仰して律法を守るという福音を説き、もう1つはイエス・キリストの福音を説きました。従い、キリストの福音を曲げようとしてガラテヤの民をかき乱し、彼らにまた律法に従わせようとした者たちが存在したのです。これ故に、パウロは書簡にこう書きました、『… わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。』」 (ガラテヤ人への手紙 1:8)。

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   彼女の交流を聞いた後、私は心が晴れた気がしてこう思いました:「そんなことが起っていたのか。牧師と長老たちはどうしてこれを知らないのかしら?私たちは皆主を信仰しているのに、どうして彼女はこんなに沢山知っているのかしら?それに、彼女はどこからこの情報を得ているのかしら?」こうして、私はいぶかしげに聞きました、「ヂャン姉妹、あなたの言う通りです。しかし、どうしてそのようなことを知っているのですか?あなたがお持ちの書籍は⋯」「叔母さま、どうして人間がこのような事柄を知り得るのか。私はこの全てをこの書籍から学びました。この書籍は他のどの書籍とも異なります、なぜならこれに記された御言葉は2回目に受肉された神御自身が表されたものだからです。それは人間の理解できないこと全て、そしてあなたが理解できないことを含め、聖書に記された奥義の全てを説明しています。」彼女の言葉を聞いて、私は他の教会で主を愛していた信者たちのことを思い出しました。彼らは長年に渡って主を信仰してきているのに、いとも簡単に東方閃電を受け入れてしまい、誰も彼らを呼び戻すことができないのです。東方閃電は本当に真理を理解しているように思えます。従って、私はこの書籍を受け入れました。

   そして、彼女は神の3段階の働きの真理や、’東方閃電’ に関する預言等、多くについて私と交流してくれました。私はこう思いました:「この若い姉妹の言ったことは十分な根拠に基づいていて、啓発的だし、私はそれを楽しめた上に沢山のことを学んだわ。私も説教師だというのに、どうして私はこれを理解できないのかしら?」彼女は帰る前に神の御言葉を朗読したテープを幾つか私に残してくれました。私がこれを再生してみると、心地の良い声が聞こえてきました、「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。 … キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神が用意する道を受け入れなくてはならない。真理を受け取ったり、いのちの供給を受け入れることなく、祝福だけを得ようと考えたりすべきではない。キリストは、彼を真に信じる者がいのちを与えるために終わりの日にくる。神の働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。」これを聞いた私は涙しながら喜びと悲しみを同時に感じてこう思いました:「権威のあるこの御言葉は神御自身のみが表すことのできるものだわ。」主イエス様はこう仰ってもおられます、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』(ヨハネによる福音書 14:6)。これは紛れもなく神の御声なのです。その時、幾度となく福音を説きにやって来た兄弟姉妹たちを退ける自分の姿が目に浮かびました。私はとても悲しくなりました。私はなんて愚かで、無知だったのでしょう!私は今まで主を信仰してきた間、主の御言葉よりも牧師と長老の言葉に耳を傾けていたので、東方閃電を説き勧める見知らぬ者を受け入れようとはしなかったのです。しかも、私は真の道を求めず、調べもせず、むしろ自分の兄弟姉妹がそうするのを妨げ、それが主への献身であると勘違いしていたのです。自分が神に背いていたとは、思ってもいませんでした。しかし、だからといって神は私を見捨てず、むしろあの姉妹が私の所にもう一度福音を説きに来るように仕向け、私が悔い改める機会をもう一度与えてくださったのです。私がこの見知らぬ姉妹を受け入れた時、神は私を祝福してくださり、そして、それ故に、私は知らぬ内に主を受け入れて主の再臨をお迎えしていたのです。私は神の御救いに感謝します、そして私は神の御心を和ませられるよう、神と協力し合って兄弟姉妹を神の前に導きたいと思います。

   その後すぐ、私は教会生活を開始しました。兄弟姉妹たちと集会を開き、自分の本分を尽くしていると、私は喜びでいっぱいになりました。神のお導きに感謝します。その後、私は兄弟姉妹たちと協力し合って、私が以前通っていた教会で主を心から信じている人たちを神の前に導きました。全ての栄光、全能神にあれ!


福音短編動画「十字架の愛」主イエスの救い

2019-04-24 09:19:54 | 讃美歌

十字架の愛

従順という愛があります

奉献という愛があります

悔いがないという愛があります

これらの愛は私たちのイエスから来ています

  主イエスは言われた。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 」ヨハネによる福音書3:16-17

  神は言われた。「主イエスは、心のなかで、自らを人類に進んで捧げ、自らを進んで犠牲にした、と言えるであろう。またイエスは進んで罪のためのいけにえとなり、十字架にはり付けになり、この業を完遂することを望んでいた。イエスが人間生活の悲惨な状態を見た時、一分一秒も遅れることなく、早急に自身の使命を成し遂げることを、一層強く求めた。神がこうした喫緊の必要性を認識した時、神は自身の受ける痛みがどれほど酷いものか、どれほどの恥辱に耐えなければならないかなどとは考えていなかった。イエスの心にあったのは、自らを捧げ、罪のためのいけにえとして十字架にはり付けられる限りにおいて、神の旨が実行されて新たな業を始めることが出来る、罪の中にある人間生活、罪の中に存在する人間の状態が全く別のものに一変する、という確信のみであった。イエスの確信と、実行を決意した業は、人間の救いに関連するものであり、イエスの唯一の目的は、神の旨を遂行して業の次の段階を開始出来るようにすることであった。」

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