賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンの結婚 – 神様の御言葉が夫をお戻しくださった

2020-12-03 16:13:44 | 信仰生活

 私の夫は見た目がよいだけではなく、高学歴で、よい仕事に就いています。さらに、かつては兵士で、戦場に行った経験もあります。夫は外見、教育、知識の面で私を上回っています。息子が生まれてからは、夫は仕事から帰宅すると、いつも、洗濯物を手伝ってくれたり、食事を作ってくれたり、息子の世話をしてくれたりしました。夫は息子と私をとても愛しており、本当によき夫で、よき父でした。当時、私は自分のことを世界で最も幸せな女性だと思っていました。私は幸せで、こんなに素晴らしい夫を持っていることを自慢に感じていました。しかし、幸せな一方で、いつか、夫が悪い風潮に従い、別の女性に心を奪われ、私を裏切る日が来るのではないかと、やや不安と危機感を持っていました。

 当時、夫は政府機関のある部門の部門長から、商業グループの副社長に突然昇進しました。夫がこの知らせを伝えてくれたとき、私は嬉しさと同時に心配になりました。嬉しくなったのは、夫の昇進により、名声と社会的地位、そしてお金が手に入るからでした。また、さらによい生活をすることができ、他人が私達を崇めると考えたからでした。一方、不安になったのは、夫が部門長であったとき、仕事のために夜中に帰宅することが時々あり、副社長に昇進すると、接待が多くなり、息子や私の面倒を見ることができなくなること、そして社会には愛人を持つ人が多く、特に、裕福で、有名で、社会的地位がある人々はこの悪い風潮に従う傾向にあること、さらには夫の地位が高くなるほど、よりさまざまな人と出会うこととなり、この悪い風潮に一層従いやすくなってしまことを考えたためでした。これについて考えると、幸福感が突然消失し、その代わりに、不安と恐れで胸が一杯になり、不吉な予感がしました。

 夫が新しい幹部職に就いてから、社会的地位は高まり、より多くの権力を手にするようになりました。目標を達成するために、中間管理職の女性が、一緒に食事したり、お酒を飲んだり、踊ったり、歌ったりして夫を喜ばせるようになりました。最初のうちは、夫もこの退廃的な生活と社会現象に抵抗、憤慨し、それについて強い絶望感を覚えると私に幾度となく言っていました。しかし、徐々に、夫は度重なる誘惑のため、この生活に堕ちないでいることはできず、ご馳走や快楽を求める人生を送り、飲んだり、快楽に浸ったりし始めました。ときには、夜、帰宅しないことすらありました。私は精神的なトラウマとなり、精神崩壊の危機に瀕しました。夫が私にもたらした幸福感はなくなっていました。ある日、息子が「ママ、どうして僕はお父さんに一週間も会っていないの?」と尋ねました。息子の心を傷つけないよう、私は嘘を付き、「お父さんはお仕事で忙しくて、あまりの忙しさに、夜遅くなってから帰宅することがあります。あなたは朝早くに学校に行くからお父さんに会わないのです」と言いました。こう言った後、私は言いようのない悲しみと痛みを胸に感じました。今、私達はお金、名声、社会的地位を手にしましたが、夫は私達から益々遠ざかっていました。これを考えると、かつて感じたことのない孤独と痛みを感じました。私は残りの人生をこのような痛みの強い人生の中で生きていかなければならないのでしょうか?かつて夫が私にもたらしてくれた幸せを思うと、この結婚を諦めたくはありませんでした。離婚の危機に瀕したこの結婚を救うため、次の3原則について夫に交渉しました。1つ目は、夜に接待があるときは、午後9時までに帰宅すること。2つ目は、週に3回は息子と私と一緒に夕食を取ること。3つ目は、浮気をしたら、家の敷居をまたいではならないこと。夫はすぐに同意したものの、夜遅くに帰宅する回数は全く減らず、以前と同じ生活を続けていました。夫が時間までに帰宅しないと、夫と口論になることがあり、そのため、私達の家族から平和な暮らしがなくなりました。夫と私の心は益々離れていきました。かつて、友人や親戚から羨望の的であった私達の家族がこのように壊れてしまったことを目の当たりにし、私は胸が張り裂けるように感じ、失望しました。私は心の中で、「この辛い人生はいつ終わるのだろうか?」と考えました。2012年、私が絶望しているとき、ある人が私に福音を伝道し、私は神様を信じるようになりました。その後、私は、これらの言葉を読みました:ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。 

 これらの言葉を読み、夫がひどく堕落してしまった理由は、サタンが人々を腐敗させるために使う邪悪な社会的な風潮のためであることを明確に悟りました。現在、「人生は短いのだから快楽を求めてその日を生きろ」「女性は悪くなると富を手にし、男性は富を手にすると悪くなる」「家庭での赤旗は下がることはないが、家の外のさまざまな色の旗はそよ風の中ではためいている」などの言葉が社会全体でよく使われています。これらの邪悪な悪魔のような考えは社会的な風潮になりました。この社会的な風潮の影響を受け、人類全体が益々邪悪で、堕落したものになっています。当初、夫は家族の面倒を見て、私のことを気にかけることができました。しかし、昇進に伴い、誘惑に耐えかねて、邪悪な社会的な風潮に従い、徐々に自分を見失い、豪勢で贅沢な生活にふけり、完全に私達を顧みなくなりました。夫だけではなく、腐敗した人類全体が、がっしりとサタンにコントロールされ、それに抗うことも、そこから自由になることもできずにいます。この邪悪な社会的な風潮により、人々は、正常な人間性が持つ平凡でシンプルな生活を送ろうとしません。その代りに、邪悪なものを支持し、高い社会的地位や莫大な富を楽しみ、肉の欲望にふけり、欲を満たすために興奮できるものを追い求め始めています。その結果、彼らは人間性もなく、堕落の一途を辿っています。さらに悪いことには、家族関係は崩壊し、彼らの霊は一層空虚で痛み多いものになり、平和や幸せを感じず、益々疲労を感じるようになっています。かつて、最高の夫、賢く従順な子供、名声、富を持つ私は世界で最も幸せな存在であると常々思っていました。事実に直面し、名声や富、物質的な快楽を得たとしても、私達は不幸で、傷付いていることに気が付きました。しかし、どうしたら幸せを取り戻すことができるでしょうか?私は、「かつては夫と口論や喧嘩をしたが、それでは彼を取り戻すことはできない。夫を取り戻し、ひいては結婚生活を取り戻すために私な何をすべきか?」と自問しました。

 その後、 また別の言葉を読みました:「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。…これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営「救いの」計画が完了する。これらの言葉から、神様は最初に、御言葉により世界をお造りになり、今日、神様は御言葉により私達をお導きくださっていることを理解しました。神様の御言葉のお導きを離れたとき、私達は何が義で、何が邪悪であるかを明確に区別することができなくなりました。そのため、私達は邪悪な風潮に従い、それによる苦しみを味わっているのです。かつては、さまざまな努力やあらゆる手段により、夫を取り戻そうと努力しましたが、どれも失敗に終わりました。この事実に直面し、私のやり方に頼って夫を取り戻し、私達の結婚を救うことは不可能であることが分かりました。同時に、神様によるお救いを受けるために、神様の御前に来ることによってのみ、夫はすべてを見透かし、邪悪な風潮の欺瞞や苦しみを取り除くことができ、神様の御言葉だけが夫の失われた心を目覚めさせ、サタンによる邪悪な風潮から彼を救うことができることが分かりました。私の結婚生活が今後どうなろうと、神様に委ねることにしました。それ以降、私は自分のやり方で夫をコントロールしなくなりました。家族内の口論は徐々になくなっていきました。私はかつて感じたことのない安堵感と解放感を覚えました。神様にお祈りし、神様の御言葉に頼り夫との間の問題を解決しようとすると、神様は私の祈りをお聞き届けになり、環境を実際に整えてくださり、私に道をお開きになってくださいました。

 2013年になり、私は夫に神様の御言葉の証を立て、神様の御言葉を夫に見せました。神様の御言葉を私と一緒に読むことにより、堕落した放蕩生活を送った理由は、サタンによる邪悪な風潮によるものであることを夫は理解しました。夫は自身の楽しみのためだけに生きており、私達を完全に無視することさえあり、そのため、家族関係がもろくなりました。夫はこれまで彼がしてきたすべてを後悔し、神様の御前に来て、祈り、悔い改めました。徐々に、夫は徹夜で家を空けることがなくなってきました。夫に時間があるときは、自宅で息子や私と過ごし、あらゆることについて共に話し合いました。他人が夫を豪華で高級な場所に招待したときは、神様の御言葉に頼り、それらの誘いを丁寧に断りました。夫が誘惑され、惑わされるときは、神様の御言葉から、これらのことを神様が忌み嫌われることを知っていたため、邪悪な性情を裏切れるよう、神様に祈ることによりこの試練に耐えました。夫が変わったのを目の当たりにし、私は心の中でとても喜びました。神様の御言葉が真理であり、道であり、いのちであり、また、神様の御言葉は人々の心、霊、かつての考え、かつての性情を変えられることが本当に分かりました。今、私達は神様の御言葉を読み、意見を交わし、共に経験し、互いに助け合っています。また、神様が私達にもたらしてくださったお救いをより多くの人に証言するため、私達は教会で互いの本分を尽くしています。

 夫を元にお戻しくださり、私達の結婚をお救いくださったのは神様の御言葉でした。私はとても多くのことを経験したため、神様の御前に来て、神様に頼り、真理を求め、神様の御言葉に従い生きることによってのみ、多くのことを見透かし、いのちの正しい道を歩むことができることが分かりました。心の中で本物の平安と喜びを味わい、真実の幸せを得ています!


キリスト教音楽「失われた救いをどうやって取り戻せばいいのでしょうか」歌詞付き

2020-12-02 23:37:08 | 讃美歌

キリスト教音楽「失われた救いをどうやって取り戻せばいいのでしょうか」歌詞付き

あなたはいつまでついてゆくのかと尋ねた
私は青春を捧げ付き添うと言った
心の底の呟きは
地を震わせ山を揺るがした
涙に濡れた顔で誓ったが
自らの偽善を知らなかった
時は過ぎ変化で 感情は薄れ
あなたへの誓いは嘘となった
私は少ししか捧げていないと知った
あなたに報いようとする空しい言葉
夢から覚め 自らを心配する
失われた救いをどう取り戻せばいいのか

出会った時 私はあなたに逆らった
私はそんな昔を思い出したくない
忠誠のない献身は
あなたを更に苦しめた
若い頃働いてくれたあなたに
私は何の感謝もしなかった
時は過ぎ 私は何も得なかった
この後悔を誰に話せるか
私は少ししか捧げていないと知った
あなたに報いようとする空しい言葉
夢から覚め 自らを心配する
失われた救いをどう取り戻せばいいのか

あちこちへと急ぎ
あなたの心とつながれなかった
一度偶然出会っているのに
私はあなたに気づけず
更に後悔が残った
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


なぜ新しいいのちを得るために神を信じる人たちは祈り、集まり、神の言葉を読まなければならないのか。

2020-12-01 23:07:05 | 勝利者の証し

なぜ新しいいのちを得るために神を信じる人たちは祈り、集まり、神の言葉を読まなければならないのか。

神の御言葉による答え:


    祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。「祈りの実践について」より

 

    わたしは言葉を話し終えたというのに、人々はまだ充分理解していない。これは彼らが資質に欠けているからである。この問題は教会生活とお互いの交わりによって解決することができる。「実践(1)」より

    神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、言葉を読んでも読まなくても結果は同じだと考える人がいる。それは正常な状態ではない。そうした人の心は現実に入ることを渇望しておらず、そうした人は完全にされることを渇望せず、重要視もしない。自分が神の言葉に渇いていないことに気づくときはいつでも、あなたの状態が正常でないことを表している。…だから、どのような状態でも、忙しかろうと、そうでなかろうと、困難な状況にあろうと、そうでなかろうと、試練を受けていようといまいと、神の言葉を飲み食いしなければならない。結局のところ、神の言葉が人間存在の基なのだ。誰一人、神の言葉から離れることはできない。神の言葉を一日三度の食事のようにとらなければいけない。神に完全にしてもらい、神のものとされることは、そんなに単純なことなのだろうか。今あなたが理解しているか、あるいは、神の働きについて悟っているかどうかにかかわらず、神の言葉をもっと飲み食いしなければいけない。これが積極的に成長するということだ。神の言葉を読んだ後で、成長できることを急いで実践しなさい。そして、できないことはそのままにしておきなさい。…神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。そうした人たちは、ただなりゆきにまかせているだけで、荘子の寓話に登場する南郭氏のように、本物の資格もないのに、そのふりをしているだけだ。

 

    ……

 

    神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。

 

    言葉の時代、つまり、千年神の国の時代に入ることが、今達成されつつある働きである。今からは、神の言葉についての交流を行いなさい。神の言葉を飲み食いし、実践することによってのみ、あなたは神の言葉を示すことができる。経験からくる言葉によってだけ、他の人々はあなたの言うことを信じるようになる。神の言葉をもたないのなら、誰も信じさせることはできない。神に用いられる者は、神の言葉を語れる。できないのなら、それは、聖霊があなたの内に働いておらず、あなたはまだ完全にされていないということだ。これが神の言葉の重要性である。あなたの心には、神の言葉への渇きがあるだろうか。神の言葉への渇きを覚える者は、真理に渇き、そうした人々だけが、神の祝福を受ける。将来、神はあらゆる宗派・教派にもっと多くを語るだろう。神はまず、あなたがたの間で言葉を述べて、あなたがたを完全にする。その後で、異邦人たちに語り、彼らを征服する。言葉により、すべての人は心から完全に確信する。神の言葉と啓示とにより、人間の堕落した性質は消えていく。みな人間の姿になり、人間の反抗的な性質もまた減じる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神がこの時代になす働きは、神の働きの転機同様、すべて神の言葉の中にある。神の言葉を読まないなら、あなたは何も理解しない。自ら神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わり、実際の体験を通じて、神の言葉についての認識は包括的なものとなる。そのようにしてはじめて、実際に神の言葉を生きることができる。「神の国の時代は言葉の時代」より

 

    人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。…したがって、あなたは、真理を携えてどこへでも行けるが、自分の内に一つの真理もないなら、宗教的人間はおろか、あなたの家族を説得しようなどと思ってはならない。真理無しでは、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば、幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。理論がいかに強力でも、それは真理に打ち勝つことができない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かすことができるが、一方真理の無いところには、うじ虫による腐敗がもたらされる。それは事実にほかならない。「真理を理解したらそれを実行せよ」より


クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-11-30 21:58:02 | 天の国の福音

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

 1つの投稿記事をここで転送します:

 こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

 今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

 投稿者:松本愛

 回答:

 姉妹岡田:

 松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

 ムイ:

 こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

 松本愛:

 さて、回答がありますか?

 ムイ:

 主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

 佐藤恵和:

 ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

 松本愛:

 ようこそ。

 ムイ:

 まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

 佐藤恵和:

 少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

 ムイ:

 そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

 佐藤恵和:

 少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

 松本愛:

 はい。その通りです。

 ムイ:

 これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

 松本愛:

 皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

 主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

 佐藤恵和:

 そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

 ムイ:

 その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

 松本愛:

 もっと教えてください。

 ムイ:

 分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

 松本愛:

 主よ、ありがとうございます!ようやく、思慮深い乙女となる道が理解できました。つまり、誰かが外で「花婿がやって来た」と叫んでいたら、私達はその人を迎え入れ、調査するために外へ出る必要があります。これこそ主の御声であると確信を持ったら、その人を受け入れ、ついていく必要があります。

 ムイ:

 その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

2020-11-29 19:52:06 | 讃美歌

賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

神は人々を創った
全ての人を創った
人が神に従っても
逆に人が堕落したとしても
神は人々を見守る
全ての人を見守る
かけがえのない存在として
かけがえのない 我が子のように
人々は神にとって おもちゃではない
神は創造主であり
人は神の被造物である
そう言うと
神と人との階級が 異なるように聞こえるが
神が人々のために 行う全てのことは
お互いの関係を 遥かに超えたものである
神はいつでも 人々を愛し思いやり
どんな時でも 心を配っているのだ
神は人々に与える
絶えることなく与える
余計なことと思うことなく
賞賛さえも必要とはしない
神は人々を救い
その必要を満たして
全てのものを与えることを
大きな貢献だとは思わない
神はただ神自身のやり方で
神の本質と性質と 神の存在そのもので
静かな沈黙の内に 人々の必要を満たしてくれる
人が神から多くのものを 授かっても
神は決して 報酬を求めたりしない
それは神の本質によって 定められ
神のその性質に 確かに叶っているのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より