賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

罪の赦しについて、私は新しい解読がある

2019-12-31 12:11:39 | 天国への道

2018年8月5日(日)曇り

   今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

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2018年8月7日 (火) 曇り

   今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

   最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

 

 

2018年8月12日 (日)本曇り

   今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ

   今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

   今、心は少し明るくなった。私たちの罪が許されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。

2018年8月15日 (水) 晴天

  神の愛のおかげで、この数日間とても良い気分だった。ヂェン兄弟からもらった本で、以前は理解していなかった真理をたくさん理解することができた上に、長年抱いていた困惑と当惑を解消してくれた。この書籍にはこう書いてある。「というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。」(「受肉の奥義(4)」より)「あなたは終わりの日にイエスが降って来るとだけ知っているが、イエスは具体的にどのように降ってくるのだろうか。あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)

   この言葉を読み、そしてヂェン兄弟が話してくれた内容について考えると、突然全てが明らかになった。主イエス様は人類の罪を贖う働きをして、信仰によって私たちの罪が許され、私たちが救われるようにしてくださったが、人間を完全に清めて変えるという働きはなさらなかった。主は私たちの罪を許してくださったものの、私たちをサタンのような本性から救い出してくださったのではなく、傲慢さ、身勝手さ、欺き、邪悪さといった私たちの内にある堕落した性質は存在し続けている。これらは罪よりも深刻かつ頑固な性質で、この神に逆らうサタン的な本質とこれら堕落した性質を解消できなければ、私たちは無意識のうちに罪を犯し続け、神に逆らい続けてしまう。これには、いかに私たちがいつも罪の中を生きてきたかについて考えさせられた。例えば、人との関わりの中で、いつも相手を利用して、自分は何も失わずにいることを望む。自分よりも優れた人を見ると、妬みや不従順といった堕落の性質をよく表す。誰かに不快な思いをさせられると、口では何も言わなくても、心の中はその人に対する嫌悪感で満たされる。神から恵みを授かる時は幸せだが、恵みを頂けないと神を責めてしまう。それは非常に深刻で、自然災害や人為災害が起こると、私たちの心には神についての観念が芽生え、ひどい場合だと、神を否定したり神に背くことすらある。私たちは毎日罪を犯しては、それを告白し、また罪を犯すという悪循環に生きており、それは使徒パウロが言ったとおりだ。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ人への手紙7:18)神が自ら人間を清め、変える働きをしに来られていなければ、誰も罪の束縛と抑制を脱却することができず、罪に負け、世の邪悪な風潮を追いかけ、罪の快楽をむさぼり、私たちの生きる姿勢には普通の人間性を僅かでも有するものは何一つとしてなかっただろう。生涯を通して神を信仰してきた人々や、聖書に精通しこのような聖句に関して博識な宗教指導者ですら、罪の束縛を捨てることはできない。だから、私たちは罪を千回、一万回許していただけたとしても、やっぱり天国に入るにはふさわしくないだろう。

   主に感謝!これらは非常に貴重な御言葉だ。長い間頭を悩ませてきた疑問を解決してくれた。では、実際どのようにすれば罪を払拭することができるのか?この本がその方法を教えてくれるのだろうか?読み続けたいと。

2018年8月16日 (木) 曇りのち晴れ

   午後になって、太陽がやっと密雲の隙間から照り始め。書斎に座り、あの本を読み続けた。

   神の啓示と導きに感謝。この本に罪の束縛を脱却する方法を発見した。「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)

   この二節を読んだ時、突然光明を見出した。サタンのような堕落した性質の束縛と拘束を脱却したければ、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならない。そうすれば、堕落した性質は変わり、清められ、そうして初めて神の御顔を見て、神の完全なる救いにあずかり、神の御国で永遠と暮らす資格を得ることができる。かつて主イエス様が仰せられたこの御言葉を考えずにはいられない。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ福音書16:12―13)また、聖書のこの預言も頭に浮かんだ。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」(ペテロの第一の手紙1:5)主イエス様は、私たちの堕落した性質を完全に清め変えるために、そして私たちが全ての真理を得て神の完全なる救いを受けることができるように、終わりの日にもう一度降臨して裁きの働きをなさることをかなり昔に預言されていた。でも私はとても無知で、盲目だった。神の御言葉に込められた御心を熟慮したり、探求する努力をする代わりに、主イエス様は私たちの罪を自ら背負ってくださり、私たちの罪は既に許されている、そして主に従うために全てを捨ててさえいれば天国に入れるなどと信じながら、自分の観念と想像に固執していた。今では、罪を犯してしまう問題を解決できなければ、体が汚れ、堕落しきっている私たちは結局天国には入れなくなってしまうように思える。それについてこの本にはこう記されている。「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人が神の国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

   この御言葉には権威と御力がある。神は憐れみ深く、愛に満ちておられ、さらに神は義であり、聖なる神自身であると私は理解している。神は汚れて、堕落した人間が神の御国に入ることを許可されず、もし私たちの罪深い本性が清められ変えられなければ、たとえ罪が許されて、表面的には何らかの善行を行ない、主のために全てを捨てて、労力を費やし、働いているように見えたとしても、天国に入るという夢は永遠に単なる夢で終わってしまう。

   雲が本当に消えて、やっと日光が見える!主の救いを受けた私たちは、罪を許され、罪を贖っていただいただけで、依然として自分たちの罪を一掃したわけではないということを今では少なくとも知っている。私たちはまだ終わりの日の神の裁きの働きを受け入れて清められなければならず、そうして初めて天国に入って永遠のいのちを預かる資格を手にすることができる。これは、ヨハネの黙示録で預言されたことを的確に成就している。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネの黙示録21:27)自分の罪を一掃する方法がやっとわかった。主に感謝!


人類に対する神の経営(救い)の働きの三段階の目的

2019-12-30 08:57:33 | 神の三段階の働き

   わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営(救いの)計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそがすべてを治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。わたしの六千年の経営(救いの)計画は三段階に分けられており、わたしがそのように働くのは被造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であることを知らしめるという成果を達成するためである。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

 

   

   三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   ここでは、神が人間を創った時点以降における神の旨と考え、そして行動についてまとめ、天地創造から恵みの時代の開始時点までに神が行った行為について検討する。その後、神の考えのうち、人間に知られていないものがどれかを知ることが出来るようになり、そうした未知の考えから、神の経営計画の秩序を明確化して神が経営の業を作った背景やその起源と展開過程を完全に理解し、そして神の経営の業により神が望んでいる結果、すなわち神の経営の業の核心と目的について完全に理解することが可能となる。これらの事柄を理解するためには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要がある。

   神が目覚めた時、神が最初に考えたことは、常に神とともに生きる人、すなわち命ある人間を創ることであった。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話すことのできる者であった。次に、神はまずひと握りの土を取り上げ、神が考えていた最初の人間を創り、その人間をアダムと名付けた。命を持ち、息をする人間を創った後、神は何を感じたであろうか。神は、ともに過ごす愛すべき人間が居ることの喜びを、初めて感じたのである。また神は、父としての責任と、それに伴う憂いを初めて感じた。この生ける人間という存在は、神に幸福と喜びを与えたので、神は初めて慰めを感じた。これが、神が自身の考えや言葉だけでなく、自身のふたつの手によって実現した最初の業であった。こうした命を持ち、息をして、肉と血で創られた身体を持ち、神と話ができる人間の存在が神の前に現れた時、神は嘗てない喜びを感じた。神は責任を真剣に感じ、人間という生き物に心惹かれるだけでなく、人間の行動すべてが神を感動させ、神の心を和ませた。こうして、この人間という生き物が神の前に現れたときに初めて、神は、更なる人間を得たいという考えを持った。こうした一連の出来事は、こうした神の当初の考えから始まったことである。神にとって、こうした出来事は初めてのことであったが、その当初の出来事においては、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、憂いであれ、神が感じたことを分かち合う相手が、神には存在しなかったのである。この時以降、神は、それまで感じることのなかった、真の寂しさと悲しさを感じた。神は、人間が神の愛と憂いや、神の人間に対する意志を受け容れることも理解することも出来ないと感じたので、神は引き続き悲しみと心の痛みを感じていた。神は人間に対してこのようなことを行ったにもかかわらず、人間はそれに気付くことがなく、理解することもなかった。人間が神に与えた喜びと慰めは、幸福のほか、ほどなくして悲しみと寂しさも神に与えたのであった。以上が、この時点で神が考え、感じていたことである。そうした事を行っている間、神の心には憂いが入り交じり、それは喜びから悲しみへ、そして悲しみから痛みへと変化していった。神が望んだのは、人間に神の心にある事柄を早急に知らせて、神の旨を理解させることのみであった。そうすれば、人間が神に従うようになり、神と調和するようになる。人間は神の言葉を聞いてなお黙していることがなくなり、神の業をどのように支援するかを知らずにいることはなくなり、そしてなによりも、人間が神の要望に無関心でいることはなくなるであろう。こうした神が最初に完了した事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに有意義であった。

   神は万物と人間を創った後、休むことはなかった。神は自身の経営を実施するのを待ちきれず、また自身が愛する人間を得るのも待ちきれなかった。

   …………

   …神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく丹念な努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。神がそうした方法によって、人間を経営し救う大規模な計画に対して甚大な犠牲を払ったのは初めてである。神がこうした業を行っているうちに、神は、神の甚大な努力、神の中にある物事、神の存在、神の英知と全能たる存在、そして神の様々な性質について、人間に対し、少しずつ、かつ率直に示す。神は、従前行われたことがなかった啓示を、そうした事柄のすべてについて、少しずつ、かつ率直に行う。したがって、全宇宙において、神が経営し、救おうとする人間を除いては、神にそれほど近づき、緊密な関係を持つ生命体は存在しない。神の心において、神が経営し、救うことを望む人間が最も重要であり、したがって神はこうした人間を最も重要視する。たとえ神がこうした人間のために甚大な犠牲を払ったとしても、またこうした人間により神がひたすら傷つけられ、背かれたとしても、神はこうした人間を見捨てることは決してなく、不平不満を言うことも後悔することもなく、神の業をひたすら続行する。これは、遅かれ早かれ人間は神の呼び声で目覚め、神の言葉により動かされ、神が創造主であることを認め、神のもとへ戻ることを、神が知っているからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、悪であるものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの非難、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの非難に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、そしてサタンに自分たちへの攻撃を諦めさせるのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

   これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し─神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を──サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々がこれを神話的な物語のように感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、この宇宙の広がりにおいてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人々を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人々だからである。これが神による人類経営の意義である。…

   …………

   神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

   神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

   三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   現在まで六千年に渡る神の働きの実行の後、神は自らの行為の多くをすでに示しているが、それは主にサタンを倒し、すべての人間を救うためだった。神は、その機会を通して、天のすべてのもの、地上のすべてのもの、海の中のすべてのもの、および、神が創造した地上のあらゆるものがひとつ残らず、神の全能を知り、神のすべての行為を知るようにする。神はサタンを倒すための機会を捕らえ、人間に自らのすべての行為を示し、人々が神を褒めたたえ、サタンを倒す神の英知を賛美できるようにする。地に、天に、そして海の中にあるすべてのものは、神に栄光をもたらし、神の全能性を褒めたたえ、神のすべての行為を褒めたたえ、神の聖なる名前を叫ぶ。それは神がサタンを倒した証である。神がサタンを征服した証である。さらに重要なこととして、神が人間を救った証である。神の創造したすべては、神に栄光をもたらし、敵の打倒と勝利の帰還において神を褒めたたえ、偉大な勝利の王として神を褒めたたえる。神の目的はサタンの打倒だけではないため、神の働きは六千年間続いている。神はサタンの打倒を通して人間を救う。神はサタンの打倒を通して自らのすべての行為を現わし、自らの栄光のすべてを現わす。神は栄光を手にするだろうし、天使たちすべては神のすべての栄光を見るだろう。天の使者たち、地上の人間たち、そして地上のすべての創造物は、創造主の栄光を見るだろう。これが神の行う業である。天と地における神の創造物は、すべて神の栄光を目の当たりにし、神はサタンを完全に倒した後、意気揚々と帰還し、人間に神を褒めたたえさせる。こうして神は、これらふたつの側面を勝利の中に成し遂げる。最後にすべての人間は神によって征服され、拒否したり反抗したりする者、つまり、サタンに属する者すべてを、神は一掃する。あなたは今、神のそれらの行為をすべて見ているが、依然として拒否し、反抗的になり、服従しない。あなたは自分の心の中に多くの考えを抱いており、自分が望むことは何でも行う。あなたは自分自身の欲望と好みに従っている。それは反抗であり、抵抗である。肉のため、自分の欲望のため、および自分自身の好みのため、俗世間のため、そしてサタンのために神を信仰することは、不浄である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

   わたしは地上において何千年もこのように働いてきたのであり、今日もこのように働いている。わたしの働きには格別に多くの項目が含まれているものの、この働きの目的は変わらないままである。それは、例えば、わたしが人間に対する裁きと刑罰で満ちていても、ひとたび人間が完全にされれば、わたしの行なうことはやはり人間を救うためであり、わたしの福音をよりよく広め、わたしの働きをあらゆる異邦人の国においてさらに展開するためであるのと同じである。…それは、この最後の時代において、わたしの名が異邦人の民族のあいだで賛美され、わたしの業が異邦人たちに見られ、わたしの業ゆえに彼らがわたしを全能者と呼び、わたしの言葉がまもなく実現するためである。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含む異邦人のすべての民族の神であることをわたしはあらゆる人々に知らしめる。わたしはすべての被造物の神であることをあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日のための働きの計画の目的、終わりの日に成就される唯一の働きである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より


真キリストと偽キリストを見極める方法の真理を理解した後、むやみに警戒することを止めた (II)

2019-12-29 08:16:46 | 真のキリストと偽キリスト

   ヂャン兄弟は続けて交流しました、「神は真理、道、そしていのちです。なので、真キリストと偽キリストを見極めるには、神の働きの原則を知ることに加えて、その見極めを彼らの本質に基づける必要もあります。」そして、ヂャン兄弟は神の御言葉のこの節を掲示しました。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)。

 

 

   ヂャン兄弟は言いました。「神の御言葉から、キリストは神の御霊が受肉された御姿であること、キリストは神性の性質を持っておられること、キリストがなさる働きは神の働きであること、キリストがお見せになる性質は神の性質であること、そしてキリストはいつどこに居ても真理を表して、人間を備え、導くことがおできになるということが分かります。人類を救う働きができるのは、キリストだけです。例えば、主イエス様はキリストであります。主の来臨と働きは律法の時代を終え、恵みの時代を始められました。主は御言葉を仰せられ、人類に悔い改めの道をお与えになり、人類が神の御心と要求を明確に知り、苦難の中でも実践する道を持てるようにしてくださりました。人々は主の御言葉を通じて、主に祈りを捧げる方法、他人と触れ合う方法、他人を許す方法等を理解しました。さらに、主は神の恵みと慈しみの性質を見せてくださりました。主は病人を癒し、悪霊を追い出し、人々に無限の恵みを与えてくださりました。最後に、主は人類の罪を贖うために十字架に釘付けにされ、全人類の罪の贖いを全うされました。その結果、人類は律法の制約と束縛から救い出され、律法違反により有罪とされて死刑に処される危険を免れたのです。この働きは、他のいずれの者でも行うことはできません。なので、主の御言葉から、主イエス様は真理、道、そしていのちであるということが分かります。同様に、神は終わりの日に、もう一度受肉されて、恵みの時代を完結され、神の国の時代を始められました。神は何百万にも及ぶ御言葉を仰せられ、裁きと清めの段階の働きを実行され、神の義なる、威厳と怒りに満ちた、害することのできない性質をお見せになりました。全能神の御言葉は神の経営計画全体の奥義、人類の最後および将来の終着点を明らかにされました。さらに、人間の欠乏に焦点を当てたこれらの御言葉は、人間が清められ、救われるために必要な真理の全てを人間に対して明快に与えておられます。例として、それは、「サタンがどのように人類を堕落させるか、人間がサタンから受けた堕落の本質と真理、神がどのように人間の堕落した性質を裁き、清められるか、神を信仰する方法、神に従う方法、神はどのような人を好まれ、どのような人を嫌われ、排除されるのか、そして神に完全にしていただくことを追求する方法」等が含まれます。私たちは神の御言葉による裁きと刑罰を受けて、私たちがサタンから受けた堕落の本質と根源を理解し、神の義なる、聖なる、そして害することができない性質を認識しました。私たちは神の御前にひれ伏して、純粋な自責の念を感じずにはいられなくなります。そして、私たちは神に対してより畏敬、かつ従順になり、そして神の救いを得ようと自分の堕落した性質を少しずつ払拭し、罪の束縛を一掃し始めるのです。全能神の御言葉と働きは人間に真理、道、そしていのちをもたらした。全能神は神御自身であり、肉となられたキリストなのです。しかし、偽キリストは神の本質を持っていないため、真理を表すことはできませんし、まして人類を救う働きなどはもちろんできません。彼らは人々を惑わし、傷つけるために虚しい言葉を発することしかできないのです。人々は彼らの言葉を聞いても、いのちの糧が全く得られないし、進む道も全く見い出せません。また、彼らの魂は増々暗くなり、落胆していきます。最終的に、彼らはサタンにのみ尽くされてしまうのです。従い、受肉された神の御言葉、働き、そして性質から、真理、道、そしていのちを持つ御方のみがキリストであるということが分かります。」

   全能神の御言葉とヂャン兄弟の交流を読んだ後、私は真キリストと偽キリストの見極め方に関する真理を完全に理解しました。私はこう思いました。「その通りだわ。キリストのみが真理で、道で、いのちなのよ。真理を表して神御自身の働きをする御方のみがキリストなんだわ。キリストを名乗りながら真理を表せないし、人類を救う働きができない人は偽キリストなのよ。今日、私は正しい道を見い出したわ。これでもう、偽キリストに惑わされることを怖がってむやにみ警戒する必要はなくなったわ。神に感謝します。」

   それからしばらくの間、ヂャン兄弟は受肉の奥義、神の働きと人間の働きの違い、聖書の知られざる奥義など、真理のその他の側面について私と交流してくれました。私は彼の交流を聞けば聞くほど、増々その内容に納得していきました。私は全能神教会の兄弟姉妹と集まることが毎日楽しみになり、毎回集会の後には自分が学んだ光を母に話しました。私は次第に、終わりの日の神の働きが少しは分かるようになりました。しばらく探求して、調査した後、私は全能神が主イエス様の再臨であることを確信しました。その後、私は、主が再臨されていることを神の来臨を切望する人たちにどんどん伝えていくために、福音を宣教し始めました。

私は悪い僕の本性を目撃しました

   2018年5月のある金曜日、母と私は元々通っていた教会に行きました。しかし、礼拝式の最後になると、何人かの人が全能神教会を罪に陥れる様子を映した動画を牧師が再生し始めたのです。彼らが口にした噂と中傷を聞いて、私はとても憤慨しました。私は思いました。「全能神教会は全く彼らが説明するようなものではないわ。彼らはこの教会と連絡を取ってもいないし、終わりの日の神の働きを調査してもいない。なのに、彼らは一体何を根拠に神の働きを好き勝手に非難しているっていうの?」

   動画が終わった後、牧師と2人の助祭、そして理事が母と私に残るように言ってきました。そして、牧師は私たちに言いました、「あなた方2人は全能神への信仰を始めたのですか?」私たちは「はい」、と答えました。

   意外にも、私たちがこう言ったとたんに、助祭が勢いよく立上り、私の母を指さしながら激しく口調でこう言いました、「まさか本当に全能神を信じているとは。ならば、明日からはもう日曜学校を教えるのは止めてもらいます。明日の午後、お宅まで教会資金を取りに行きますからね。」

   私の母は言いました、「いつ取りに来て頂いても構いませんよ。」

   そして、牧師は不機嫌そうに言いました、「宗教界全体が全能神教会に抵抗して、それを非難しているというのに。どうして彼らと関わりを持つ必要があるんですか?」

   私の母は言い返しました、「牧師、宗教界には真理がありますか?宗教界の言う通りにしていれば主の再臨をお迎えできると、主イエス様が仰せられたことはありますか?イエスが働きをしに来られた時のことを振り返ってみてください。ユダヤ教の指導者たちはイエスの働きの探求と調査をしなかっただけでなく、ユダヤ人がそれを受け入れる邪魔もしました。彼らは噂を捏造して、狂信的にイエスに抵抗し、イエスを裁いて冒涜すらしました。最終的に、彼らは神を怒らせて、神の呪いと罰を被りました。あなたの言い分だと、宗教界が抵抗して非難しているのは真の道ではないということですが、それはあなたがイエスの働きを否定しているということではありませんか?宗教界が全能神教会に抵抗し、それを非難しているからと言って、あなたは終わりの日の神の働きを探求することも、調査することも拒否しています。これは真理に適っているのでしょうか?牧師や助祭であるあなた方が、どうして終わりの日の全能神の働きを調査せずに、それを恣意的に非難し、裁いているのですか?私たちは全能神の御言葉をたくさん読み、それらが全て真理であり、神の御声であることを知りました。だからこそ、私たちは全能神が再臨された主イエス様であると確信しているのです。」しかし、意外にも、彼らは私の母の言い分を聞いた後ですら、それを軽視して、全く受け入れてくれませんでした。

   そして、私の母は全能神教会のモバイルアプリを開いて、彼らに全能神の御言葉を読みました。それを聞いた後、理事が傲慢な態度で神を冒涜する発言をしました。そして、私の母はこれに憤慨して言いました、「あなたが高慢すぎます!この御言葉は真理です。あなたはそれが分からないのですか?あなたは神の御声が分からないのですか?あなたはそれでも本当に神の羊なんですか?」

   彼らは傲慢に蔑視する態度で悪意に満ちた笑みを浮かべました。牧師は言いました、「私たちが待つ主イエス様はユダヤ人の御姿で、御手に釘の跡がついたまま来られます。私たちは、その主イエス様以外は誰も受け入れません、全能神の言葉が真理であったとしてもです。」彼らのとても頑固な様子を見た母と私は、もう何も言いたくなくなってしまいました。私は、彼らの振る舞いは、主イエス様に抵抗したパリサイ人のと全く同じであったことを目の当たりにしたのです。彼らは神を信仰していながらも、真理を求めず、神の御声を聞くことに注意してもいませんでした。代わりに、彼らは傲慢な態度で自分たちの観念と想像を固持し、恣意に神の働きを非難し、それに抵抗し続けたのです。彼らは神に仕えながら、神に抵抗していたのです。

   その後、牧師は母と私を脅してきました、「1か月、考える時間をあげましょう。それでも全能神を信仰すると言うなら、あなた方を教会から追放します。」

   私は頭にきて言いました、「考える時間なんて要りません。今すぐ追放していただいて構いませんよ。私たちは最近終わりの日の神の働きを求め、検索した結果、全能神が再臨された主イエス様であると既に確信していますから。私たちはやっと神の御声を聞くができたのです。追放されなくても、この教会に戻って集会に参加することはもう二度とありません。」

   牧師は小声で悪賢そうに言いました、「いえいえ、今あなた方を追放したら、私たちは兄弟姉妹にどう思われてしまうことか。インターネットの集会に参加していただけであなた方を追放したと言われてしまう。そうしたら、無情な人たちだと思われてしまうでしょう?私たちは最善を尽くしてあなた方にここに残るよう説得しようとした上に、じっくり考える時間も設けてあげたのに、それでもあなた方は全能神を信仰すると言い張ってこの教会を去る決意をしたから、私たちはあなた方を追放したと、1か月後に彼らに伝えます。」

   私は彼の言葉を聞いて、とても不愉快になり、彼らにはもう何も言いたくなくなりました。こうして、私は母を掴んでそこを去ろうとしました。私たちがそこを出る前、牧師は私たちにこう釘を刺してきました、「全能神を信仰するのはあなた方の勝手です。しかし、私たちの教会の兄弟姉妹と連絡を取ることは許しませんからね。」

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   私たちが教会を出た時、時間は既に夜中の1時を回っていました。私は、今起こったことを振り返り、私たちが高潔な人格の持ち主だと思い、心の中で深く尊敬していた牧師と宣教師たちが、実際はこんな人たちであったとは思ってもいませんでした。その時、神のこの御言葉が頭に浮かびました。「 荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(『神を知らない者はすべて神に反対する人々である』より)。

   以前、私は、牧師と長老たちは主に仕える人たちで、彼らは聖書を最も深く理解し、神の御心に最も適っているべきであり、主が再臨される時は間違いなく主をお迎えになると常に思っていました。しかし、驚いたことに、牧師と宣教師は主の再臨の知らせを聞いた時、それを探求しなければ、調査もしなかったどころか、彼らはとても傲慢で、独善的で、自分たちの観念と想像に固執し、神と終わりの日の神の働きを裁き、非難し、神を恐れる心を持ってすらいなかったのです。更に酷いことに、彼らは自分たちの地位と生活を維持するため、「信者を守る」という名の下で信者たちが終わりの日の神の働きを調査することを妨げ、制限していたのです。そして、彼らは終わりの日の神の働きを受け入れた信者たちに圧力をかけるために彼らを脅迫し、彼らが全能神への信仰を諦め、真の道に背き、最終的には救われる機会を逃すよう仕向けていたのです。使用可能な手段を全て使ってもこの信者たちを妨害できない場合、彼らは他の兄弟姉妹たちがこの信者たちを拒絶するようにこの信者たちを教会から追放する手段を使いました。それは、この信者たちが他の兄弟姉妹たちに福音を伝導するのを防ぐことが目的だったのです。牧師と宣教師たちは本当に陰険で、悪意に満ちていたのです。パリサイ人は当時、自分たちの地位と生活を守るために狂信的に主イエス様に抵抗し、非難を向け、そして主を十字架に磔にしました。彼らを現代の牧師と長老に照らし合わせてみると、私は現代の牧師と長老の本質は当時のパリサイ人のと同じであり、彼らは終わりの日の神の働きが暴露した反キリストであり、霊をのみ尽くす悪魔であることに気が付きました。私はその時まで、信者は神もしくは神の働きを知らないと、表面的にはどれだけ働き、どれだけ苦難に耐えていようとも、自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に頼って神に抵抗し、神を怒らせてしまうということを完全には認識していませんでした。

   それと同時に、私は神を讃え、神に感謝せずにはいられませんでした。私は自分が牧師と長老の偽善的な装いに惑わされていたこと、いつも彼らを崇拝し、彼らの言うことを聞いていたこと、そして、主の再臨をお迎えすることについて、彼らに従いながら神に抵抗すらしていたことを思い起こしました。神の啓示は、私が彼らの罠から抜け出して主の再臨をお迎えできるよう、私が真理と神を嫌う牧師と長老の邪悪な性質を見抜けるようにしてくださったのです。私は神の救いに心から感謝しました。私は、将来の信仰生活において、一生懸命に真理を追い求めて神の愛に報いたいと思います。


神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2019-12-28 11:24:54 | 礼拝説教

   兄弟姉妹の皆さん:

   主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

   実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです

   主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

 

 

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです

   私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです

   恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

   今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

   これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです

   私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

   加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

   祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです

   律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

   今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

   主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

   すべての栄光が神様にありますように。


神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2019-12-28 11:24:54 | 礼拝説教

   兄弟姉妹の皆さん:

   主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

   実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです

   主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

 

 

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです

   私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです

   恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

   今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

   これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです

   私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

   加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

   祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです

   律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

   今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

   主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

   すべての栄光が神様にありますように。