賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

救われることと、完全な救いを獲得することの違い

2019-06-30 22:41:44 | 天国への道

   救われることと、完全な救いを獲得することの違いに触れるとき、兄弟姉妹の中にはこのように言う人がいるかもしれません。「救われることと、完全な救いを獲得することの間に、何か違いがあるのでしょうか。救われることは、完全な救いを獲得することを意味するのではないでしょうか。私たちは主イエスへの信仰を通じて救われてきたのですから、完全な救いを獲得してはいないのでしょうか。主が来られるとき、私たちはすぐに天国へと引き上げられます」しかし本当に話はそれほど単純でしょうか?この件を探求し、一緒に考えましょう。

1.救われるとは何を意味するのか?私たちは救われたあと、罪を持たないのか?

   最初に神様の御言葉を読みましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである」神様の御言葉から、私たちが主への信仰を通じて救われるのは、主イエスが贖いの働きをなさったからだということがわかります。主は罪の生け贄としてご自身を捧げ、十字架にかけられ、それによって私たちを罪から贖われました。ゆえに、主を信じることで私たちはもはや罪人ではなく、律法に縛られることもありません。私たちは罪を犯したとき、神の御前に直接出向いて祈り、私たちをお赦しになるよう主に求めることができます。これが救われることの意味なのです。

   では、私たちは救われたあと、罪を持たないでしょうか。たとえ大いに苦労し働いたとしても、また外面的なよい行いをしたとしても、それでもなお頻繁に罪を犯し得ること、そして罪の絆を断ち切れないことを、私たちは自分自身の経験から知ることができます。私たちのいのちの性質は以前と変わることがなく、自分の観念と一致しないこと、または自分の利益を害することに遭遇した瞬間、多くの堕落した性質をあらわにし、結果として神様に背き反抗します。例を挙げると、自分よりも優れた才能の持ち主であることを示す説教を他の人が教会でしたとき、その人に嫉妬するか、密かに貶めようとする。他の誰かが自分の利益を害したとき、その人を憎み、深刻な場合には腹を立ててその人に復讐する。主の働きの中で何かを捨てるとき、あるいはいくばくかを費やすとき、自分の成果を見せびらかしたり、神様に条件を突きつけたり、または他人を見下してけなしたりする。働きや説教において聖霊の啓きを得、その成果を刈り取るとき、自分自身に満足しきって神様の栄光を奪う。苦しみ、代価を支払ったにもかかわらず、代わりに何も得られず個人的な利益が満たされないとき、神様が自分を守らず祝福なさっていないと信じ込み、神様を責めたり誤解したりする。神様の戒めを犯すことをするとき、他人に見つかるのを恐れ、他人と神様を騙すために嘘をつく。長年にわたって神様を信じながら、神様はまだ自分に十分なお恵みをお授けになっていないと考えるとき、この世のやり方に従い神様を裏切る、などなど。こうした行動や態度は、私たちがいまだ罪の中で暮らし、サタンの支配下で生きていることを証明するのに十分です。私たちの本性がいまだサタン的であること、私たちの考えや物の見方がこの世界に付随していること、そして自分の考えと一致しない状況のせいで、私たちが勝手気ままに神様を裏切り、世俗的な生活に戻り得ることを、それらは証明しているのです。

2.完全な救いを獲得するとは何を意味するのか?完全な救いを獲得する人はどのような行動をとるのか?

   最初に神様の御言葉の一節を読みましょう。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。…サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」

   神様の御言葉から、完全な救いを獲得することは、罪を振り払い、清められることを意味しているのがわかります。つまり、完全な救いを獲得する人は外面的なよい行いをするだけでなく、傲慢で、自分勝手で、嘘と悪意に満ちた内なる本性が変化を遂げており、神様の御言葉によって生き、神様の指揮と采配に完全に従えるだけでなく、差し迫る死の脅威に直面したときも神様を畏れ悪を避けることができます。そうした人達はサタンの支配下で生きる状態に戻るよりも、むしろ死ぬことを選び、決して神様に背いたり反抗したりしません。そうした人たちだけが、神様によって完全に得られた人々です。神様の完全な救いを獲得するのは、真理を理解し、神様を知り、神様に従うことができる人たちです。完全な救いを獲得するのは、サタンのいかなる誘惑にあっても証しをし、真理によって生きることができ、神様を畏れ悪を避ける人たちです。完全な救いを獲得するのは、神様の御心に理解があり、正直かつ誠実に話し、温かい心を持ち、神様を愛し満足させることができ、神様の御言葉を自分の活動や行為の規範とし、真の人間らしさを生き、自分が行なうあらゆることにおいて神様を讃え現すことができる人たちです。

3.救われることと、完全な救いを獲得することの違い

   ここまで、救われることは何を意味しているのか、私たちは救われたあと罪を持っているかどうかを話し合い、また完全な救いを獲得することは何を意味しているのか、完全な救いを獲得する人たちによって表現される行動はどのようなものかも話し合いました。救われることと完全な救いを獲得することの違いについて、誰もが何らかの区別をするようになると私は信じています。救われるということは、私たちがこれ以上律法によって罰せられないこと、もはや罪人でないこと、神様によって贖われたこと、そして神様の御前に出向く資格があることを意味しますが、たとえ外面的なよい行いをしたとしても、罪深い本性が私たちに深く根ざしたままであることも意味します。一方、完全な救いを獲得することは、私たちのいのちの性質が変化を遂げたこと、真理を実践に移せること、これ以上何の罪も犯さないこと、心から神様の御言葉に注意を払い神様に服従できること、神様の御言葉の現実を生きられること、そしてサタンの影響から完全に逃れて自由な人間になったことを意味します。

   対照的に、主のうちにいる兄弟姉妹としての私たちは、いまだに様々な堕落した性質の中で生き、日中に罪を犯して夜に罪を告白する生活を送っているのが現状です。私たちはサタンのそそのかしや誘惑にまったく耐えることができず、いまだに神様に背き、反抗し、非難し、誤解する可能性をはらんでいます。私たちが生きている人生は、神様を讃え現すことがまったくできません。それで、私たちはどうして完全な救いを獲得したと言えるでしょうか。神は言われます「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペテロの第一の手紙1:16)「サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」神様の本質は聖にして義です。神様は私たちの内側にある、あらゆる種類の罪を憎み、あらゆる種類の汚れをお嫌いになります。私たちのような汚らしい堕落した人間は、神の国へ入るに値しません。主への信仰の中で、こうした汚らしい堕落した物事を残らず振り払い、清められることでのみ、私たちは神様のお褒めを得て、神様によって美しい終着点へと導かれるのです。ゆえに、救われることは完全な救いを獲得することを意味しておらず、主がお戻りになるとき、私たちがすぐに天国へと引き上げられることはありません。

4.完全な救いを獲得する道を探す

   では、完全な救いを獲得する道はどこにあるでしょうか。実を言うと、主イエスははるか昔、完全な救いを獲得する道について私たちにお話しになりました。聖書の聖句をいくつか見ましょう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2-17)「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(ヨハネの黙示録21:6)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12-48)主は私たちに、完全な救いを獲得して天国に入る方法をお示しになりました。つまり、主イエスはすべての真理を表わすため、終わりの日に再び戻ってこられます。そして神様の出現を切望し、探し求めるすべての人に、いのちの水の泉から価なしに飲ませ、それによって私たちは新しいいのちの生ける水を神様から得られ、私たちの霊のいのちは食糧を得られます。その後、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験することで、堕落した性質が清められ、罪の足かせを振り払い、サタン的な悪しき影響を残らず取り除き、神様の御言葉によって生きるようになります。神様の試練が降りかかるときも、証しをする中でしっかり立ち、神様に服従し讃える人、自分が行なうすべてのことにおいて神様を現す人になれます。このようにして、私たちは真に完全な救いを獲得し、神の国に入る資格を得るのです。

   兄弟姉妹よ、救われることと完全な救いを獲得することの違いがはっきりわかるように、そして私たちが自分の観念や想像にとらわれ、天国に入るという偉大な出来事を決して遅らせることのないように、主が私たちをお啓きにならんことを。私たちは賢い乙女となり、開かれた心で真理を追い求めなければなりません。そうしてはじめて、私たちは花婿の出現を喜んで迎え、子羊の婚宴に出席し、いのちの水に浴することができるからです。終わりの日の神様の裁きと刑罰の働きを経験し、自分の堕落した性質を一掃したうえで、神様の御言葉の現実を生きているならば、私たちは最後に完全な救いを獲得して天国に入るでしょう。

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勝利者であるための基準とは

2019-06-29 22:41:40 | 天国への道

   【編集者メモ】主イエスの御名を守り続け、一生懸命働き、主のためにすべてを捨てて自分自身を費やし、迫害や苦難のさなかに退くことがなければ、勝利者になれると多くのクリスチャンは信じています。しかし、この視点は正しいでしょうか。聖書に記された勝利者とは何を指しているのでしょうか。勝利者であるための基準とは何でしょうか。

   勝利者という言葉を聞くと、私たちはヨハネの黙示録に記された預言を思い浮かべます。

   「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(黙示録14:1)

   「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14)

   この聖書で預言された十四万四千という数字は、神様が作ろうと望まれる勝利者を示しています。彼らは大きな患難のさなかに証しを行ない、神様に認められて天の国へ入る資格がある人たちです。勝利者になることは、主を信じる人全員が切望することであり、私たちが探し求める目標でもあります。多くの兄弟姉妹はこのように信じています。「私たちは何年も主に従い、そのあいだに苦労して働き、いろいろなことをあきらめて、自分自身を費やし、福音を説き、教会を牧してきた。そしてそのあいだずっと、世間の人々による嘲りや中傷、それに親族からの誤解に苦しんできた。また自国の政府に迫害され逮捕されても、私たちは決して退かない。このようにして最後まで主に従う限り、私たちは勝利者になるだろう」。



   事実、苦難を甘受する私たちの信仰と意志は素晴らしいものですが、「主の御名を守り続け、すべてを捨て、自分自身を費やし、主のために一生懸命働けば、私たちは最後には勝利者になる」という視点は、私たちの理解に照らして本当に正しいでしょうか。この疑問に答えるには、神様の御言葉が述べていることに目を向けなければなりません。黙示録にはこう預言されています。

   「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(黙示録14:4-5)

   「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14-5)

   神様の御言葉はこう述べています。

   「神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と献身を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである。……災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生き、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

   これらの預言と神様の御言葉から、真の勝利者は嘘をつかず、心に裏切りを抱かず、堕落した性質が清められた人だということがわかります。さらに、彼らは子羊の足跡をぴったりと追い、真理を理解し神様を知る人でもあります。キリストが何とおっしゃろうと、またどのように働かれようと、彼らはキリストを追いキリストに従い、神様を讃えてあらゆることにおいて神様への証しをします。また彼らの神様への忠実は絶対にして完全です。サタンが人々を容赦なく迫害し、捕らえるという恐るべき状況に直面しても、彼らは真理を実践に移し、神様の被造物として本分を尽くし、死に至るまで神様に従い続けることができ、美しく完壁な神様への証しをします。これらの基準を満たすことでのみ、言葉の真の意味での勝利者になれます。それは単に、苦労して働き、主のためにいろいろなことをあきらめて自分自身を費やす人、迫害や患難においても退かない人を指しているだけではありません。

   ここで私たち自身に目を向けてみましょう。私たちは何年も主に従い、そのあいだに多くのことをあきらめて自分自身を費やし、主のために苦しみ代価を払ってきましたが、いまだに自分自身の堕落した性質から逃れておらず、清められてもいないことは否定できません。例えば、主のために骨を折って働きながら、しばしば罪を犯し、神様に従わず抵抗することがあります。主の御言葉を実践することに注意を払わず、自分自身の思いつきや欲望に従って物事を行ないます。名声や富や地位をむやみに欲しがり、兄弟姉妹が自分を尊敬して見上げてくれるようにと自分自身を讃えて証しを行ない、信者たちを自分の前に連れてくることもあります。また他人と交わるとき、自分の個人的な利益を守るために嘘をついたり騙したりすることを止められず、自分の名声や富や地位が関わるときには、兄弟姉妹を妬んだりたくらみを仕掛けたりすることさえできてしまいます。私たちが働いたり苦しんだりするのは神様を愛し満足していただくためではなく、栄誉と報いを得るためなので、いくらかの働きを行ない、いくらかの苦難を耐えたあと、自分が先輩であることを誇示し、自分勝手にもその見返りとして天の国での分け前を神様に求めます。神様の試練が降りかかるとき、私たちは神様を誤解して責め、裏切りさえします。また誰かが終わりの日における私たちのための神様の働きを証しするとき、自分の中に観念が生じ、神様の働きを軽率に評価して非難することがあります。私たちは今なお頻繁に罪を犯し、自分の罪深い本性に操られ支配されることがあり、神様に抵抗して裏切ることもあります。変化しておらず、また清められてもいないこのような人間が、どうして勝利者と呼ばれることがありえるのでしょうか。

   すると、「自分の振る舞いを考えると、私たちが勝利者になる基準を満たしていないのは本当だ。では勝利者になるためには一体何をするべきなのか」と尋ねる人がいるかもしれません。聖書には、こう記されています。

   「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する」(ゼカリヤ書13:9)

   またペテロの第一の手紙四章十七節はこう述べています。

   「さばきが神の家から始められる時がきた」

   さらに神様の御言葉はこう述べています。

   「わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉の意味は何だろうか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順だったということを意味する。そのような人々の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。」

   神様の御言葉から、真の勝利者は神様の裁きと刑罰に加え、あらゆる種類の試練や精錬に耐えた人、そして神様についていくらかの認識を有している人であることがわかります。そうした人はまた自分自身の堕落した本性についてもいくらかの認識があり、真の服従に到達し、いかなる試練や患難が降りかかろうとも、神様に従いその御言葉による裁きと刑罰を受け入れることができ、最終的に彼らのサタン的な堕落した性質は変化し清められます。サタンの誘惑に遭ったとき、彼らは神様の証しをし、サタンの包囲に打ち勝ち、その影響から自由になることができます。もはや自分の堕落した性質によって生きるのではなく、その行動と振る舞いはすべて神様の御言葉に基づいており、神様の御言葉の現実を生きます。このような人だけが真の勝利者です。彼らが神様の働きを経験すると、傲慢、自惚れ、利己心、下劣さ、嘘や欺瞞といった自分のサタン的な堕落した本性について徐々に認識を得て、サタンによって自分が芯まで堕落させられてきたこと、いつでも神様に抵抗し神様を裏切ってしまう可能性があることの真理を認識します。また自分が完全にサタンの姿で生きていること、神様の御前で生きる価値がないことを認識します。それと同時に、神様の性質はいかなる背きも許さないことをよく理解し、そのため神様を畏れる心を育み、神様に従いその御言葉によって生きることができるようになります。さらに、彼らは真理を理解し神様を知っているので、悪しき物事についての識別力を持つようになり、サタンの計略を見破れると同時に、サタンのいかなる誘惑に遭遇しても、神様の証しをします。彼らは神様を真に愛し、従い、畏れる人になり、そのサタン的な堕落した性質はすっかり清められ、変化し、彼らは完全に神様のものになります。そうした人たちだけが、勝利者になる基準を満たす人です。それはまさに、聖書に記録されたヨブと同じです。多数の羊と牛だけでなく巨大な富をも失わせる、全身を腫れ物で覆わせる、友人に嫌がらせをさせる、あるいは妻を通じてその高潔さを攻撃させるなど、サタンがヨブを苦しめるためにいかなる残酷な手段を用いようと、ヨブはサタンに屈服することも、また神様に対する不満を一言たりとも漏らすこともなく、代わりにこう言いました。

   「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

   「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)

   ヨブはこれらの試練に直面しても神様の証しをし、神様を畏れ悪を避けるという神様の道に従うことができました。よって、苦難と試練から立ち上がった勝利者だったのです。もう一つの例としてペテロが挙げられます。彼は生涯を通じて主イエスに従い、イエスを自分の模範とし、神様の至上の愛を追い求め、神様のために逆さ十字架にかけられながらも、死ぬまで神様に従順であり、かくして完全かつ美しい証しをしました。ペテロはまた、苦難を生き抜いた真の勝利者でもあり、神様によって完全にされた最初の果実、神様の国に入って永遠の命を得た人でもあるのです。

   黙示録ではこうも預言されています。

   「わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(黙示録3:11-12)

   「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」(黙示録2:17)

   「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(黙示録7:17)

   これらの聖句から、勝利者の集団を完全にすることは、主イエスがそれを行なうために再び来られた働きだということが簡単にわかります。よって、私たちがこれらの勝利者の一人になりたければ、主の第二の到来を受け入れ、神様の足跡に従い、神様の御言葉による裁きと刑罰の働きを経験しなければなりません。私たちを清め救う働きをなさるために、神様はその御言葉を自らお語りになるからです。神様のお声に耳を傾ける賢い乙女となることができれば、私たちは子羊の婚姻の宴に出席して、神様から真理といのちを得られます。そして最後には、終わりの日の神様の働きを経験することになるので、神様についての真の認識を持つだけでなく、自分の堕落した性質も、度合いは異なるものの、清められます。その時はじめて、私たちは本当の意味で、大いなる苦難を乗り越えた勝利者の集団となるのです。

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救われる=天の国に入る?

2019-06-28 22:07:12 | 天国への道

   今日、わたしは道を説く時、大災難がもうすぐ起こると言い、兄弟姉妹たちに積極的に集会に参加し、もっと多く聖書を読み、現実生活の中で主の道を行い、目を覚まして主の到来を待つように要求しました。わたしは一部の兄弟姉妹が依然として力を持たず、自分が天の国の中に携え上げられることができるかどうかを疑うのを見て、こう言いました。「兄弟姉妹たち、聖書にこう書かれています。『実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです』(ロマ10:10)。主イエスを信じたわたしたちは心で信じ、口で公に言い表したため、永遠に救われました。主が再来される時、わたしたちはきっと天の国の中に携え上げられることができます!」。兄弟姉妹たちはこの言葉を聞いた後、うれしくなり、また力を持つようになりました。この時、同労者山田さんは立ち上がって言いました。「わたしはそうとは限らないと思います。主イエスは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』(マタ7:21)と言われました。これはわたしたちに、神の御心を行う者だけが天の国に入ることができるとはっきり教えています。今わたしたちは救われましたが、依然として昼間に罪を犯し、夜に罪を告白します。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではありません。わたしはわたしたちが天の国に入ることができないと思います!」。

   兄弟姉妹はさっき少しうれしくなったが、同労者山田さんの一言で彼らの顔から笑顔が消えました。わたしはみなさんを見回して少し考えた後、その言葉を引き取って言いました。「兄弟姉妹たち、パウロ兄弟はガラテヤの信徒への手紙第3章26節で『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』と言いました。これは、わたしたちはイエスを信じることによって神の子となったことを証明します。わたしたちは神の子ですから、必ず神の国に入ることができます!」。

   同労者山田さんはわたしの言葉を引き取って話しました。「佐藤兄弟、わたしはあなたの言葉に賛成しません! ペテロの手紙一第1章16節で『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあります。へブライ人への手紙第12章14節で『聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』と書いてあります。聖書のこの二箇所の言葉から、わたしたちは神のきよい性質をはっきり見られます。わたしたちは救われましたけれど、いつも罪を犯し、罪を告白し、まだきよくなっていません。このようなわたしたちは全然主に会う資格がありません。これではどうして天の国に入ることができるでしょうか」。

   この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

   同労者山田さんは断固として言いました。「兄弟姉妹たち、聖書には、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないと書かれているし、主イエスも天の父の御心を行う人だけが天の国に入ることができると言われました。これは、わたしたちがきよくなってこそ神の国に入ることができることを証明します。わたしたちは主の言葉を守らなければなりません!」。

   すると、わたしは大声で言いました。「同労者のみなさん、救われるという問題については、パウロはこう言いました。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です』(エフェ2:8)。『もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります』(ロマ11:6)。パウロの言葉はどんなにはっきりしているのだろう。主の救いは価なしにわたしたちに与えられました。彼は人の行いを問題にしません。もし彼が人の行いを問題にすれば、それは主の恵みだと言えるでしょうか。今日、わたしたちが主の恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます!」。

   佐々木兄弟は手を揚げて言いました。「佐藤兄弟の言うとおりです! パウロはまたテモテへの手紙二でこう言いました。『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ』(二テサ1:9)。主イエスを信じるわたしたちは恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます。行いによって救われることができる者はだれもいません!」。

   同労者山田さんは感情が少し高ぶって立ち上がって言いました。「兄弟姉妹たち、神を信じるわたしたちが天の国に入ることができるかどうかを決めるのは主イエスですか、それともパウロですか。主イエスの言葉に権威がありますか、それともパウロの言葉に権威がありますか。わたしたちは主イエスが真理、道、命であることを認めますか」。この言葉を聞いた後、みんなは互いに顔を見合せて、「もちろん認めます!」と言いました。

   同労者山田さんのこの言葉はわたしを悟らせました。「そうですね。わたしたちは神を信じる上で主の言葉を基準とすべきです。なぜわたしはいつもパウロの言葉に言及するのですか」とわたしは考えていました。ここまで考えた時、わたしは心を落ち着かせて、続けて山田兄弟の言葉を聞きました。



   同労者山田さんは続けて言いました。「わたしたちは主イエスが真理、道、命だと認めますが、でも今パウロの言葉は主イエスの言葉と矛盾し、対立しています。これは、パウロの言葉が混じり気のあるもの、人の意志によって出たものであって、真理ではないことを証明します。わたしは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』という主イエスの言葉を信じます。これこそ、天の国に入るための唯一の基準です!」。

   この時、高橋兄弟も興奮して立ち上がって言いました。「わたしたちは神を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。なぜなら、主イエスだけが天の国の主であり、彼の言葉にこそ真理、権威があります。主イエスの言葉に権威があるということは、主イエスが決定権を持っているということです! パウロが天の国の主ではないから、彼の言葉に権威がなく、彼の言葉が有効ではありません! パウロはただの使徒であり、しかも腐敗した人です。彼自身も神の救いを必要としていました。人が天の国に入ることができるかどうかは、主イエスによって決められるのです。彼はほかの人が天の国に入ることができるかどうかを決める資格があるでしょうか」。

   皆さんがうなずいて賛成するのを見て、わたしは「山田兄弟、あなたの言うとおりです。わたしたちは主を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。しかし、わたしは救われることと天の国に入ることについてよく分かりません。この面についてあなたはどう考えていますか」と言いました。

   この時、同労者山田さんは落ち着いて言いました。「この面については、ここ数日わたしは聖書を繰り返して調べました。わたしはこの面についてこう思っています。救われるとは、律法の罪定めから解放されること、罪の赦しを得ることです。しかし救われる人は常に罪を犯し、神に逆らい、神に背き、まだきよくなっておらず、まだサタンの権威の下に生きています。天の国に入ることのできる人は天の父の御心を行い、神の言葉を実行する人、神を知り、神に従い、神に味方する人でなければなりません。だから、救われることと天の国に入ることは異なります。主イエスが言われたように、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』(マタ22:14)。これは、主を信じて救われる人が多いが、最終的に天の国に入る人が少ないことを証明します。これも神の義なる性質を明らかにしました」。

   この言葉を聞いて、高橋兄弟はこう言いました。「わたしは山田兄弟の観点に賛成します! 主イエスは『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている』(マタ11:12)と言われました。主の言葉から分かるように、天の国に入るのには基準があるのです。それはわたしたちが想像しているように簡単ではありません。恵みに頼って救われるとしたら天の国に入ることができる、というのではありません。わたしたちは努めて主の道を行わなければなりません。それでこそ天の国に入ることができます」。

   彼らの言っていることはもっともですが、わたしの心の中にやはり疑問があります。そこで、わたしはこう聞きました。「天の国に入るのに、天の父の御心を行わなければなりません。これは間違いのないことです。だが、わたしたちはずっとパウロに倣ってすべてを捨てて主のために働くのではありませんか。多くの兄弟姉妹は自分の一生を主にささげ、一生娶ったり嫁いたりせず、主のために山々を越えて福音を宣べ伝えます。すべてのクリスチャンが天の国に入るために少なからぬ苦しみを受け、多くの代価を払ったと言ってもいい。これは天の父の御心を行うのではありませんか。わたしはわたしたちがずっとこのように実行すれば、きっと天の国に入ることができると信じています!」。

   同労者山田さんは手の中の聖書を下に置いて言いました。「兄弟姉妹たち、わたしたちはまじめに聖書を調べましょう。主イエスは、人がすべてを捨てて、主のために労苦し、働くなら天の国に入ることができると言ったことがありません! 主イエスはただ『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』と言われました。わたしはこう思います。本当に天の父の御心を行う人たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する人です。彼らが働き、苦しみを受けるのは、自分の利益と前途のためではなく、完全に神を愛し、神の愛に報いるためです。彼らは何事にも神の願いを顧みることができ、どんなことがあっても罪を犯したり神に逆らったりしません。彼らが神を信じるのは、完全に罪悪を逃れ、自分をきよくするためです。このような、主のために働く人こそが天の国に入る資格があります!」。

   この時、沈思している高橋兄弟はこう言いました。「山田兄弟の言うとおりです! 聖書に『義を行う者は、御子と同じように、正しい人です』と書かれています。ここの『正しい人』は信仰によって義と『された』人ではなく、義を行う人、もはや罪を犯さない人を指します。わたしたちは今、すべてを捨てて主のために働きますが、やはりいつも罪を犯します。わたしたちは真の義人ではなく、神の国に入る資格がありません!」。

   わたしは異議があって反駁しました。「パウロはこう言ったのではなりませんか。『わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。……』(二テモ4:7-8)と。わたしたちが主のために福音を宣べ伝え、労苦し、働き、主の道を守るのは、天の父の御心を行うのではありませんか」。

   同労者山田さんは冷静に言いました。「佐藤兄弟、あなたの観点によれば、海と陸を行き巡って至る所で福音を宣べ伝え、多くの苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っているパリサイ人も天の父の御心を行ったのではありませんか。わたしたちが知っているように、パリサイ人は外側で神のために苦しみを受け、代価を払いましたが、神に逆らい、主イエスを十字架につけました。これで分かりますが、人が外側で苦しみを受け、代価を払い、外側のよい行為を持つことは、人が天の父の御心を行い、神を認識し、神に従うことの証明ではありません! 同様に、わたしたちは今日主のために働き、苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っていますが、やはりいつも罪を犯し、神に逆らいます。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではなく、天の国に入る資格がありません!」。

   これらの言葉を聞いた後、わたしは言うべき言葉がなくなりました。考えてみれば、わたしたちが罪の中に生きていることは事実であり、わたしたちが主のために費やす時、主と取引するという意図、観点、祝福を得ようという欲望があることも事実です。

   この話題について、皆さんはそれぞれ自分の見方と認識を積極的に話しました。集会がもうすぐ終わる時、わたしは皆さんに喜んで言いました。「兄弟姉妹たち、神に感謝します。今日の弁論会によって、わたしたちは救われることは天の国に入れることを意味しないと分かりました。しかも、このような弁論によって、恵みに頼れば救われることができるというわたしの間違った観点も是正されました。以上から分かるように、わたしたちが外側でどのように神を信じても、どのように主のために労苦し、働いても、わたしたちの中の罪が解決されず、わたしたちが本当に神の御心を行うことができないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、神の国に入ることもできません。この点から、神がきよくて正しい神であるのを知ることができます。だから、わたしたちはいつも自分の観念と想像によって神を信じるわけにはいかず、神がわたしたちに要求する、天の国に入るための基準によって追い求めるべきです。そうしてこそ、神の心を満足させ、神の称賛を得ることができます」。これらの言葉を聞いて、兄弟姉妹たちはみなうなずいて賛成しました……。

 

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病気にかかっている時、クリスチャンは四つの実行を持つべきである

2019-06-27 23:17:05 | 礼拝説教

   以前、母は体が弱くて病気にかかりやすいのでした。わたしが物心ついた時も、家には、もっぱらさまざまな薬を保存している引き出しがあり、しかも引き出しの中に、いつも薬がいっぱい詰めてあったのです。このような環境の中で育つわたしは病気になると、むやみに病気を治療します。病気にかかっている時、わたしは病気が早く治ることを切に望み、他人の言っているよい薬は何でも買います。母が主を信じた後、引き出しの中の薬はだんだん少なくなります。ある時、わたしが風邪薬さえ見つけられません。実は、わたしが言いたいのは、神を信じたら、病気にかかることがなくなり、薬を飲む必要がなくなり、医者に診てもらう必要もなくなるということではありません。では、病気にかかっている時、わたしたちはどんな態度をとるべきですか、どのような実行が正しくて主の心にかなうのですか。経験し、祈り、真理を求めることによって、わたしはわたしたちが次のいくつかの実行を持つべきだと認識しました。




第一に、わたしたちがサタンに腐敗させられた後、罪を持つようになったから、わたしたちが病気にかかるのは正常です。そのため、わたしたちはそれを正確に扱うべきで、不平を言ってはなりません。

   わたしたちは罪の起源を知ったら、病気がどのように生じたかを知りました。わたしたち人類の祖先は神に創造された後、つらさがなく、生老病死苦もありませんでした。サタンがアダム、イブを誘惑して罪を犯させた後、わたしたち人類は生老病死の苦しみを受けるようになりました。今、わたしたちの病気がますます多くなります。しかも、さまざまな病気はますます多くの若者に起こります。幼い子供が胃病を患い、若者が癌にかかることすらあります。さまざまな変な病気がますます多くなり、ますます治しにくくなります。病気の種類、病因が増えることは、この世界がますます邪悪になり、サタンが人類を腐敗させた程度がますますひどくなることを証明しています。この邪悪な暗やみの世界で生きているわたしたちは腐敗していて、罪を持っているので、きっと病気にかかります。だから、わたしたちが神を信じたら、神がきっとわたしたちの病気をいやしてくださるという過分の望みを抱いてはなりません。それは、わたしたちが理知を持たないことの表れです。

   また、わたしたちが分からなければならないもう一つのことは、人が病気にかかるのが正常だということです。わたしたちが五穀を食べた後、さまざまな病気にかかることは、自然の法則です。わたしたち自身が不規則な生活をしたり、汚いものを食べたりしたら、もっと容易に病気を患います。だから、病気にかかっている時、わたしたちは真理の追求をやめてはならず、神に対する不平不満を持ってはならず、もっぱら祈って、神がわたしたちをいやさなければならないと要求するべきではなく、今までどおりに祈り、集会に参加し、神に仕え、心の中で神に近づくべきであり、本当に神に従うクリスチャンになるべきです。

第二に、わたしたちが病気にかかるということに、神のみこころがありますから、真理を求め、神に従うことが非常に重要です。

   病気がサタンから来たものですが、神の許しがなければ、サタンは何もできません。では、なぜ神はわたしたちが病気にかかることを許されるのですか、神のみこころが何ですか。

   わたしたちは被造物であって、見識が狭く、霊界のことを見透かせません。その上、神のみこころはいつも物事の背後に隠されています。そういうわけで、わたしたちは神のみこころを理解しない時、いつも神を誤解し、神の働きを主観的に判断します。今、わたしたちは次のことが分かりました、病気にかかっていて、神のみこころを理解しない時、絶対に主観的に判断してはならず、それは神のわたしたちに対する顧み、守りであり、わたしたちを災難から逃れさせる方法の一つであるかもしれないということが。だから、病気にかかっている時、わたしたちは待つこと、真理を求めることを学ぶべきであり、神がどのようにしても、わたしたちに対する神の愛と救いが変わらないと信じるべきです。神以外に、わたしたちを救うために受肉し、しかも息を引き取るまで十字架につけられた者がいるだろうか。それゆえに、神に従い、神のみこころを求めることが本当に重要です。

第三に、病気にかかったら、神の前で心を落ち着けて、自分にどんな罪過があるかを反省し、そして神に罪を告白し、悔い改めるべきです。

   わたしはある兄弟の次のような経験、証しを見たことがあります。その兄弟は風邪をひいた時に喘息を患いました。そこで、彼は主に彼をいやしてくださるようにと懇願し、また、主から与えられた病気の試練を甘んじて受けると、主に祈りました。でも、彼の喘息はなかなか治りません。病気の苦しみは主に従っていく上での彼の信仰に影響を及ぼさなかったのですが、彼はずっとこの病気に苦しめられていました。一年後のある大集会の中で、一人の兄弟は彼がこんなに若いから、このような病気を患うはずではなかった、彼が自分の言動を反省すべきだ、と言いました。しかも、あの兄弟は二回彼に指導を与えました。それで、彼は自分の言動を反省し始めました。ある日、彼は福音を宣べ伝えた時、聖霊の啓きと導きを得ました。それによって、彼は自分はおおげさな言葉を言い、尾ひれをつけて話す人で、誠実な心がなく、彼のこれらの腐敗した性質は神に嫌われるものだと認識しました。彼が自分の腐敗を認識し、悔い改めたので、その日の夜に彼の喘息が治りました。その時から、彼の喘息が二度と発作を起こさなくなりました。この兄弟の経験した事は、あなたも経験したことがあるかもしれません。病気にかかっている時、確かに学ぶべき学課があります。それは、わたしたちの霊的な命が成長するのを助け、わたしたちを変え、きよめる手段です。

   神はわたしたちをきよめ、救って、わたしたちを腐敗から抜け出させるために、ただ積極的な面でわたしたちを導く、というのではありません。ある時、神はまた病気、苦しみによってわたしたちを精錬し、懲らしめ、このような方法でわたしたちをきよめ、変え、守られます。それは、わたしたちがもっと大きな、神を怒らせる事をするがゆえに、神に見捨てられて、サタンから害を受けることがないためです。だから、病気にかかっている時、わたしたちは神に祈り、神のみこころを探り、自分のどんな腐敗がまだきよめられていないかを反省すべきです。もし、自分は確かに自分の腐敗のゆえに神に懲らしめられたと認識したなら、わたしたちは神の前に出て、本当に悔い改めようとする態度を持つべきです。わたしたちが真心をもって神に立ち返る時こそ、神はわたしたちの祈りを聞き入れます。

第四に、融通のきかない規定を守って、病気を治療しないのはいけません。

   病気にかかっている時、医者に診てもらってもいいし、薬を飲んでもいいです。それは正当なことです。融通のきかない規定を固く守って、治療を遅らせてはなりません。それは間違ったやり方です。もし治療を遅らせて悪い結果をもたらしたのなら、わたしたちは愚かなことをしたことになります。だが、わたしたちは自分がクリスチャンだということを忘れてはなりません。だから、医者に診てもらい、薬を飲む時、自分が神の支配に従うべきだということも忘れてはなりません。わたしたちはこのように祈るべきです。「神よ! 今、わたしが薬を飲み、病気を治療するのは、ただあなたに協力するのです。わたしの病気がいつ治るかは、あなたの手によってコントロールされているのです。わたしはあなたの支配を信じ、あなたの按配に従います」。

   さらに、わたしたちは病気にかかったからといって、真理の追求や、神に対する奉仕、礼拝をおろそかにしたり、祈り、集会に参加するのをやめたり、神に対する信仰を失ったりしてはなりません。病気を治療している時、わたしたちは神のみこころを求め、神のなみなみならぬ苦心を理解すべきです。そうすれば、わたしたちはサタンの試みに打ち勝って、自分が勝利を得たという証しをすることができます。

 

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クリスチャンが神を信じる上での四つの実行は、あなたが持っているのか

2019-06-26 21:17:05 | 礼拝説教

   わたしたちすべてのクリスチャンは神に良しとされ、祝福されようとします。では、わたしたちがどうすれば、神に良しとされることができますか。実は、これは少しも難しくありません。わたしたちが神を信じる上での四つの実行を持ちさえすれば、神に祝福され、良しとされることができます。



第一に、神を信じるのに、神の言葉を経験しなければなりません。

   では、神の言葉を経験するとは、どういうことですか。神の言葉を経験するには、どのように実行すべきですか。実は、神を信じるのは、神の言葉を信じるのです。神の言葉は真理であり、神から来たものです。だから、わたしたちはまず神の言葉をよく読み、神の言葉に精を出し、真剣に神の言葉を読み、噛み締めるべきです。そうすれば、聖霊の啓き、照らしを得られるし、また神の言葉を通して神のみこころを理解し、神の性質と働きを認識し、神がわたしたちにどんな要求を出したか、わたしたちがどんな人になるべきか、神がわたしたちのどんな欠点や腐敗をさらけ出したかを知ることができます。こうして、わたしたちは神の言葉を自分に結びつけて、自分の腐敗を認識することができます。例えば、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)と、主はわたしたちに要求を出されました。主のこの言葉によって、わたしたちはわたしたちが誠実な人になることを追い求め、うそを言わず、尾ひれをつけて話さず、ありのままを言うことが神のみこころだと分かりました。神は誠実な人が好きで、狡猾な人を嫌います。誠実な人こそが神に良しとされます。だから、神の言葉を読む過程も神の言葉を経験する過程です。神の言葉を読むことは、神を信じ、神の言葉を経験する上での第一歩です。こういうわけで、わたしたちは毎日神の言葉を読み、経験しなければなりません。

第二に、神を信じるのに、神の働きを経験しなければなりません。

   では、神の働きを経験するとは、どういうことですか。神の働きを経験することの内容は何ですか。神を信じる上では、わたしたちは神の言葉を読むだけでなく、神から来た試練、精錬、対処、手入れ、懲らしめを経験することも必要です。それゆえ、神はさまざまな人や事、物、環境がわたしたちに臨むようにされます。それは、わたしたちがさまざまな環境の中で真理を求めて、真理の実際に入るためであり、わたしたちの命が次第に成長することができるためです。例えば、わたしたちが真理にかなわないことをすれば、神はわたしたちの身の回りの人、事、物を利用してわたしたちを対処し、懲らしめられます。恵みの時代、神は同じようにペテロを扱うのでした。主イエスが十字架につけられる前に、ペテロは親切心から主イエスを阻みました。すると、彼はすぐ主イエスに厳しく対処されました。主は彼がサタンだと言い、彼に引き下がれと命令されました。神を信じる上では、わたしたちはまたあざ笑われ、誹謗されるはずです。しかも、邪悪な霊や偽キリストはデマを飛ばしたり、人を惑わします。これらのことを、わたしたちは経験しなければなりません。だから、わたしたちに臨むさまざまな試練、精錬は、神のわたしたちに対するテストであり、わたしたちには、神に対する本当の信仰、忠誠心があるかどうか、わたしたちが神の言葉によって生きることができるかどうかを明らかにします。だから、これらの環境、人、事、物がわたしたちに臨むのは、神の働きがわたしたちに臨むのです。わたしたちが神の言葉によって生き、これらの環境の中で学課を学び、暗やみの権威の束縛に打ち勝つとしたら、わたしたちは神の働きを経験したことになります。

第三に、神を信じるのに、自分の腐敗した性質を変えなければなりません。

   わたしたちはサタンに腐敗させられた後、腐敗した性質によって生きるようになりました。だから、わたしたちが神に救われたいなら、わたしたちの腐敗した性質、例えば、傲慢さ、エゴイズム、狡猾さなどを捨て去らなければなりません。わたしたちが自分の腐敗した性質を解決するために神を信じるのでなければ、わたしたちは神の真の信者ではなく、たとえわたしたちが神の多くの言葉を読んだとしても、わたしたちが文字の中の教理を理解しているとしか言えません。なぜなら、わたしたちが真理を実行しておらず、しかも真理がわたしたち自身の問題を解決しなかったからです。こういうわけで、わたしたちが他人に教理を説くことができても、わたしたちは真理の実際を持つ人だと言えません。あの時の律法学者、パリサイ人もそうです。彼らは聖書の知識をたくさん身につけ、また神の多くの言葉を読みましたが、神の言葉の中の真理を理解せず、また自分の腐敗を認識せず、解決しませんでした。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは自分たちの腐敗したサタン的性質のゆえに、傲慢にも神の働きに対して断定的判断を下し、神の働きを批判し、ただ主イエスが旧約聖書の範囲内で働くことを許すだけで、主が旧約聖書の範囲外で働き、神殿の外で働くことを許しませんでした。自分たちの地位、生活の道を守るためには、彼は主を冒涜し、誹謗する言葉をたくさん言い、最終的に主を十字架につけました。主イエスが三日目に復活した後、彼らは偽りの証しをし、うそを言い、人を欺き、人心を買収しました。彼らは神を信じるが、真理を実行しませんでした。だから、主イエスは七重の災いをもってパリサイ人を呪った時、彼らの堕落した行為と、彼らのあくどいサタン的本性をすべて暴露されました。このことから分かるように、何年神を信じても、真理を得なければ、自分がひどく堕落しているという真相を悟ることができず、自分が神を十字架につける可能性が依然としてあります。今、わたしたちの言動を見てみましょう。わたしたちが文字の中の教理を少し理解したら、それを他人に説きます。そのため、わたしたちは働く時、いつも自分をひけらかして、他人が自分を重要視し、崇拝するようにさせます。それは神を高く揚げ、神を証しすることでは決してなく、名誉、地位のために働くこと、自分の経営を行うことです。わたしたちのこのような働きが神の心にかなうことは可能だろうか。だから、もしわたしたちが神を信じる上で正しい道を歩まず、何を追い求めるべきかを知らず、神の言葉を通して自分の腐敗と欠点を認識することを重んじず、全然自分自身の腐敗を解決せず、自分の本当の経験によって他人を助け、支えることはせず、文字の中の教理によって他人を教えるとすれば、わたしたちは現代のパリサイ人になったのではありませんか。そのように神を信じるなら、最終的に成功を収めることができません。だから、神を信じるのに、正確な追求目標を持つべきです。わたしたちが真理に基づいて実行してこそ、神を信じることで成功を収めることができます。

第四に、神を信じるのに神を認識しなければなりません。

   神を信じるが神を認識しないなら、わたしたちが神を信じる人だと言えるでしょうか。だから、神を認識したいなら、神の言葉を経験し、神の働きを経験し、自分の腐敗した性質を本当に認識しなければなりません。そうしてこそ、わたしたちの古い性質を変え、わたしたちの天然の個性を捨て去ることができます。そうなれば、わたしたちは傲慢さやエゴイズムなどの腐敗したサタン的性質の中に生きなくなり、どんなことがあっても真理に基づいて物事を判断し、自分の想像、観念の中に生きません。神の言葉がわたしたちの生活の指針となり、わたしたちの人生観、価値観が変わるとしたら、わたしたちは神に味方することができ、神を愛し、満足させるために生きることもでき、もはや自分を満足させるために生きなくなります。人が神に対する認識を持ったら、神に味方することができます。そうなったら、人は神に救われました。例えば、ヨブ、ペテロ、アブラハムたちは神に対していくらかの認識を持つから、試練の中で神の側に立って物事を判断することができ、全然神に不平を言わず、また自分の利益や得失を考えず、終始一貫神に忠誠を尽くし、神を愛し、満足させました。彼らは神を信じる上で正しい道を歩むから、最終的に神に良しとされました。それゆえ、彼らこそが神の真の信者です。

   だから、わたしたちが本当に神を礼拝する、神の心にかなう人になりたいなら、神を信じる上でのこの四つの実行を行うべきです。そうすれば、わたしたちは神を信じることで成功を収めることができ、最終的にきっと神の真の信者、適格なクリスチャンになって神に良しとされ、祝福されます!

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